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エピローグ 縛り

 一年後の春。


 ザイデルン帝国は、少しずつ変わっていた。


 玉座のぎょくざのぎは廃止された。孕み呪い《はらみのろい》は禁じられた。炉は閉じられ、いまは、解放された者たちの住まいになっている。握り潰された鑑定の再鑑定は続いていて、毎日のように、簿外ぼがいの民が名前を取り戻していた。


 一夜にして、国が変わったわけではない。抵抗もあった。混乱もあった。だが、流れは止まらなかった。


 記録が、現実に勝つ、この国で。その記録が、正しく書き直され始めていた。


 *


 ミレナは、王都の学問所に通っていた。


 番号だった子が、いまは、机に向かって字を学んでいる。名前を取り戻し、身分を取り戻し、そして、未来を手にした。


「ねえさま」


 ある日、ミレナが私に言った。


「わたし、いつか、学校を作りたいんです。番号だった子たちの学校を。……名前をなくした子が、名前を取り戻せる場所を」


 私は頷いた。


 カシアンは、その夢を、治世の柱のひとつに据えると言っている。ミレナの見てきた炉の裏側は、この国の宿題そのものだ。


 *


 ルーカス翁は、初代の鑑定長官に任じられた。


 五十年、握り潰された鑑定を記録し続けた男。いまは、それを正しく書き直す、いちばん上の立場にいる。


 彼は、イグナの名前を、国の記録に刻んだ。


 処刑記録には、書記の番号しか残っていなかった。だが、ルーカス翁は、その番号の隣に、名前を書き足した。


 イグナ、と。


 番号ではなく、名前で。彼女が逃がした二十七人の名前も、正式な記録に刻まれた。彼女が燃やした名簿は消えた。だが、名前は消えなかった。


 *


 ルーカス翁が、最後に書き直した記録が、ひとつある。


 皇帝の姉、イレーナの鑑定だ。


 三十年前、本当は宝子たからごだったのに、次点とされ、修道院へ送られた女。三年後、病死と記録され、遺体は確認されなかった。


 翁は、修道院の、古い記録を辿った。イレーナが、どこで、どう最期を迎えたのか。だが、どれだけ辿っても、遺体は見つからなかった。彼女が密かに殺されたのか、名を捨てて、どこかで生き延びたのか。それは、とうとう分からなかった。


 分からないまま、翁は、鑑定簿に一行を書いた。


『宝子・イレーナ。三十年前、鑑定の書き換えにより、その座を奪わる。ここに、本来の身分を回復す』


 奪われた玉座の、本当の主の名を、この国は初めて、正しく記録に刻んだ。


「見つけられなかった」


 翁は、私にそう言った。


「あの方が、いま、どこにいるのか。生きているのか、いないのか。……それは、儂には分からん。だが、名前だけは返せた。せめて、名前だけは」


 私は頷いた。


 遺体は返らない。三十年は取り戻せない。それでも、名前を返す。この国が、いちばん取り上げてきたものを。


 *


 ヨナは、カシアンの側近になった。


 かつて、「影」として盾にされるはずだった少年。名もない者。いまは、名前を持ち、皇帝の、いちばん近くで、この国の変革を支えている。


「兄貴が玉座に座るなんてな」


 ヨナは笑った。ぎこちない、兄と同じ笑い方で。


「六年前は、二人で逃げてただけなのに。……あんたが来てから、全部変わった」


 私は答えた。


「変えたのは、あなたたちです。……私は、道を作っただけ」


 *


 私は、皇帝の相談役に任じられた。


 役職の名はない。私が望まなかったからだ。名前のある役職に就けば、また、記録に縛られる。私は、記録を書く側でいたかった。記録に書かれる側ではなく。


 カシアンは、それを許した。


「お前は、影じゃない」


 彼は、そう言った。


「隣だ。役職なんて、要らない。……お前は、俺の隣にいろ」


 *


 その夜。


 皇宮の、いちばん高い場所。かつて、玉座の間があった、その上の露台。


 カシアンと私は、並んで立っていた。


 眼下に、帝都が広がっている。処刑広場の掲示板は、もう空白の日が多い。命が少しずつ重くなっていく、この国の夜景。


「ザーラ」


 カシアンが、私の名を呼んだ。


 彼だけが、ずっと私を名前で呼んできた。石段の、あの夜から。いまは、国じゅうが私を名前で呼ぶ。だが、彼の呼び方は特別だった。


「聞きたいことがある」


「なんですか」


 *


「この国の縛りのことだ」


 カシアンは言った。


「魔力の高い者が、低い者を縛る。命を握る。……支配の呪いだ。だが、お前は言ったな。実際の力が逆なら、縛りは反転して、守護になる、と」


「はい」


「なら」


 彼は、私を見た。


「実力が拮抗した者どうしが、互いに縛りをかけ合ったら、どうなる」


 私は、その問いを聞いた。


 考えたことが、なかった。縛りは、いつも上下の関係だ。強い者が、弱い者を縛る。互いに対等な者が縛り合うことなど、この国では、ありえなかった。


 *


「……たぶん」


 私は言った。


「双方の縛りが、反転します。互いに、相手を封じるはずの鎖が、互いを守る鎧に変わる」


「支配の呪いが」


「守り合いになります」


 カシアンは頷いた。


「この国は、縛りでできていた。強い者が、弱い者を支配する。……その呪いを、ふたりだけは守り合いに変えられる」


 彼は、私に手を差し出した。


「ザーラ。……俺に、縛りをかけてくれ」


 *


 私は、彼を見た。


「私が、あなたを縛る?」


「ああ。そして、俺もお前を縛る」


 カシアンは言った。


「俺たちは、対等だ。皇帝と相談役、じゃない。……六年前、俺を生かした女と、その女に生かされた男。互いの命の作者どうしだ。……お前は、皇帝の縛りすら跳ね返した。俺も、儀に出ていれば玉座を懸けて戦えるだけの血を持っている。力も、たぶん拮抗している」


 彼は微笑んだ。


「なら、互いの縛りは、互いの守護になる。……この国で、いちばん重い支配の呪いを、俺たちだけは、いちばん深い守り合いに変えられる」


 *


 私は、彼の手を取った。


 掌を合わせた。かつて、簿外の刻印があった掌。いまは、消えかけている、その掌を。


 私は、彼に縛りをかけた。


 同時に、彼も、私に縛りをかけた。


 ふたつの縛りが、放たれた。互いに、相手を封じるはずの、支配の呪いが。


 だが、私たちの力は拮抗していた。


 だから、ふたつの縛りは、どちらも反転した。


 *


 銀色の光が、ふたつ重なった。


 私を封じるはずの、彼の縛りが、私を守る鎧になった。彼を封じるはずの、私の縛りが、彼を守る鎧になった。


 支配の呪いが、守り合いに変わった。


 この国で、いちばん重い、命を握る呪いを、私たちは、いちばん深い、命を守る誓いに変えた。


 温かかった。


 彼の力が私を包み、私の力が彼を包んだ。どちらが、どちらのものか分からなくなるほど。


 *


 ――半分は、おまえのだった。


 兄の言葉が蘇った。


 兄は、私に力を返してくれた。奪ったものではなく、贈り物として。だから、その力は、私の心をわなかった。


 いま、私は、その力を剣にはせず、守り合いに使っている。


 兄が、私に遺してくれたものの、いちばん正しい使い方だ。


「ザーラ」


 カシアンが、私の名を呼んだ。


「はい」


「この国を変えるのは、まだ始まったばかりだ。……やることは、山ほどある」


「知っています」


 私は言った。


「忙しくなりますね。これから」


 *


 彼は笑った。目元まで届く、笑い方で。六年間、名もない男として押し殺していた、その笑いを。


 命の軽いこの国で。


 誰もが、誰かの命に値札をつけて、生きてきた、この国で。


 私が、生涯に一度だけ、値札をつけなかったもの。三十七行目の、三行。あの小さな慈悲が、六年かけてめぐって、処刑台の私を生かして、返した。


 そして、いま、その男の隣に、私は立っている。


 名前を持って。


 露台の下に、帝都の夜が広がっていた。


 まだ、変わりきっていない。命は、まだ完全には重くなっていない。名前を取り戻せていない者もいる。


 だが、変わり始めていた。


 私は、その景色を見ていた。


 もう、記録の外ではない。簿の外でもない。名もなき道具でもない。


 ザーラとして。


 この国を変える戦略を、書き続ける、ひとりの人間として。


 いちばん夜の長い季節は、もう過ぎていた。


                    (完)

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― 新着の感想 ―
物語の前半では普通だったのに、途中から 、 の数が不自然なほど増えていて読みにくい。文章が入ってこない。
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