第40話 跪け、簿外の女
「書いたのは、私です」
その言葉が、大広間に響いた。
皇帝オズヴァルトの顔が歪んだ。老いた顔に、怒りと恐怖が混じった。
「……何者だ、そなたは」
私は、覆面に手をかけた。
そして、外した。
帝国じゅうの重臣の前で。皇帝の前で。初めて、素顔を晒した。
誰も、私の顔を知らない。書き手三号の顔を、書き手七号の顔を、室長代理の顔を。誰も、見たことがない。
だから、私の素顔は、ただの見知らぬ女の顔だった。
*
「私は、名前を持ちません」
私は言った。潰した声をやめて。本当の声で。
「添え子として生まれ、簿外として生きてきました。鑑定簿にも、戸籍にも、私の名はありません。……この国が、簿の外に追いやった女です」
私は、皇帝を見た。
「けれど、私は、本当は宝子でした」
大広間がざわめいた。
「私の鑑定も、書き換えられました。双子の兄と、私。器は、ほとんど同じだった。二度、計器が跳ねた。……でも、教義は、実りをひとつと決める。だから、私は、添え子とされ、搾られ、道具として生きてきました」
*
「陛下と、私は同じです」
私は言った。
「あなたも、鑑定を書き換えられて、玉座に就いた。私も、鑑定を書き換えられて、簿外に落とされた。……同じ教義の嘘が、あなたを玉座に上げ、私を簿の外に突き落とした」
私は、皇帝をまっすぐ見た。
「違うのは、ひとつだけ。……あなたは、その嘘の受益者。私は、その嘘の犠牲者です」
皇帝の顔が、白くなり、そして赤くなった。
「――黙れ」
彼は言った。
「簿外の分際で、名もなき道具の分際で……!」
*
皇帝が、手を上げた。
その指先が、印を結んだ。
縛り。
帝家の、いちばん濃い血。皇帝の縛りは、この国で最強だ。誰も抗えない。魔力の高い者が、低い者を縛る。行動を封じ、命を握る。
「跪け、簿外の女!」
皇帝が叫んだ。
縛りが、私に向かって放たれた。
*
何も起きなかった。
私は跪かなかった。
立ったまま、皇帝を見ていた。息も乱れず。指一本、痺れもせず。
皇帝の顔が、驚愕に歪んだ。
「な……ぜ、だ」
「効いていますよ」
私は言った。
「ずっと、効いています。……でも、あなたの縛りは、私には届かない」
*
縛りは、魔力の高い者が、低い者にかける。
だが、実際の力関係が逆だったら。
縛った側より、縛られた側の魔力が、本当は高かったら。
――呪いは、反転する。
縛りは、守護になる。相手を封じるはずの鎖が、相手を守る鎧に変わる。かけた側は、それに気づかない。自分のほうが強いと、信じているからだ。
皇帝は、私を簿外だと思っている。名もなき道具だと。器の空っぽな、添え子だと。
だが、私は、本当は宝子だった。
そして、二年前、兄が、力を返してくれた。奪われた、私の半分を。愛とともに。
私の器は、いま、皇帝の縛りが届く場所より、ずっと深い。
*
私の掌に、銀色の光が灯った。
皇帝の縛りが反転して、私を守る、その光。
大広間じゅうが、それを見た。
簿外の女が。名もなき道具が。皇帝の最強の縛りを、跳ね返している。
その光景そのものが、証拠だった。
この女は、簿外ではない。添え子でもない。皇帝の縛りが効かないほどの、器を持っている。……宝子だ。教義が握り潰した、本当の宝子だ。
「陛下」
私は、光を掲げて言った。
「私が、あなたの縛りを跳ね返している、この光景こそが。……教義が嘘だという、いちばん確かな証拠です」
*
「呪いの実りは、ひとつ、ではない」
私は言った。
「私は、添え子と記された。でも、本当は宝子だった。だから、皇帝の縛りが効かない。……ここにいる、全員が、それを見ています」
重臣たちが、私を見ていた。銀色の光を。皇帝の縛りを跳ね返す、簿外の女を。
「私だけでは、ありません。国中の添え子の中に、本当は宝子だった者が埋もれています。教義の嘘に握り潰されて。……この束が、その証拠です」
私は、握り潰された鑑定の束を掲げた。
「あなたが、玉座に座り続けるために守ってきた教義。その教義が、あなた自身の簒奪を隠していた。……もう、隠せません」
*
皇帝は、玉座の前に崩れ落ちた。
縛りが跳ね返され、証拠が開かれ、重臣たちの信頼を失った。三十年、この国を支配してきた男が、ひとりの簿外の女の前で、膝をついた。
私は、その皇帝を見下ろした。
力では、勝っていない。私は、剣を抜いていない。移りの力を、剣にはしなかった。ただ、盾と証拠にした。
私は、頭で勝った。
記録が、現実に勝つ、この国で。その記録の嘘を暴くことで。
*
そのとき。
大広間の奥の扉が開いた。
全員が振り返った。
黒い、鉄の面の男が立っていた。
処刑人、黒鉄卿。
彼は、ゆっくりと大広間を歩いてきた。玉座に向かって。崩れ落ちた皇帝の前へ。
そして、鉄の面を外した。
現れた顔を見て、大広間じゅうがざわめきを止めた。
六年前に、病死したはずの第六皇子カシアンが。
生きて、そこに立っていた。




