第37話 式典前夜
イグナが処刑された。
私は、その台の下に駆け込むことは、しなかった。半年前、私が生き延びたように、彼女を生かすことはできなかった。彼女は防諜の手にあり、皇帝直属の牢から直接、台へ送られた。手の出しようが、なかった。
私は、人垣の後ろで、それを見ていた。
群衆が湧いていた。屋台の豆。笑い声。誰もが楽しそうだった。
その中で、私だけが笑わなかった。
*
台の上のイグナは、最後まで目を閉じなかった。
彼女の唇が動いていた。何かを唱えていた。声は聞こえなかった。だが、私には分かった。
二十七人の名前だ。
彼女が逃がした人間の名前を、一人ずつ唱えていた。番号ではなく。名前で。
斧が落ちた。
群衆が沸いた。
私は目を逸らさなかった。
*
イグナは死んだ。
だが、彼女は名簿を燃やした。逃がした二十七人を守った。そして、尋問で何も言わなかった。結社は露見しなかった。計画は生きている。
彼女は、命がけで未来を守った。
私は、その未来を無駄にはしない。
*
式典の前夜。
私は、結社の隠れ家で、ルーカス翁とヨナと向き合った。
イグナがいない。運び役を失った。当日、劇団の楽屋へ台本を運ぶ者がいなくなった。
「わたしが運びます」
声がした。
振り返ると、ミレナが立っていた。
*
「ミレナ」
私は驚いた。
妹は、この二月ですっかり回復していた。頬に赤みが戻り、目に光が戻っていた。名前を取り戻した子は、驚くほど早く人に戻った。
「あなたは、まだ体が」
「もう大丈夫です」
ミレナは言った。
「ねえさま。わたし、聞きました。イグナさんのこと。……逃がした人を守って、死んだって」
彼女の目に、涙が光った。
「わたしも番号でした。七六二。……ねえさまが、名前を返してくれた。イグナさんが命がけで守ろうとしたのは、わたしみたいな人が、もう生まれない国なんですよね」
*
「だから、わたし、やります」
ミレナは言った。
「当日、劇団の楽屋に台本を運びます。……わたし、炉にいました。炉の書類の扱い方を知っています。イグナさんに教わりました。怪しまれずに運べます」
「危険です」
私は言った。
「露見すれば、あなたも、イグナのように」
「知っています」
ミレナは微笑んだ。イグナと同じ微笑みだった。
「でも、わたし、番号じゃないので」
私は、その言葉に言葉を失った。
わたし、番号じゃないので。
名前を持つ者は、強い。イグナが、そうだったように。ミレナも名前を取り戻して、強くなった。
*
私は、ミレナを抱きしめた。
「……ありがとう」
「ねえさま」
妹が、私の腕の中で言った。
「兄さまは、わたしたちを守ろうとして、死んだんですよね。心を喰われながら。……最後まで」
私は頷いた。
「わたしたちがいなくならない世界に、しましょう」
妹は言った。
「番号で呼ばれない世界に。名前を取り上げられない世界に。……イグナさんが守ろうとした、その世界に」
*
その夜、私はカシアンに会った。
石段ではなかった。結社の隠れ家で。
彼は鉄の面を外していた。もう、私の前では素顔だ。
「明日、上演する」
私は言った。
「式典の劇を、皇帝の断罪劇にすり替える。証拠を、帝国じゅうの重臣の前で開く。……皇帝が握り潰せない場所で」
「危険だ」
カシアンが言った。
「露見すれば、お前も俺も、終わる」
「はい」
私は言った。
「でも、これが最後の機会です。冬至の儀。帝国じゅうが集まる。皇帝の、いちばん油断する日。……この日を逃せば、次はありません」
*
「ザーラ」
カシアンが、私の名を呼んだ。
「明日、俺はどうすればいい」
「あなたは、待っていてください」
私は言った。
「上演が進んで、皇帝が断罪されたとき。その瞬間に、あなたが現れる。……死んだはずの第六皇子が。生きて。儀に敗れていない、正統な血として」
私は彼を見た。
「皇帝が倒れ、玉座が空になる。その空いた玉座に、あなたが立つ。……そして、宣言する。この国を変える、と」
カシアンは、長いこと私を見ていた。
それから、言った。
「お前は、その時どこにいる」
私は少し黙った。
「三歩、後ろに」
私は言った。
「道具は、主人の三歩後ろに立ちます。……私は、あなたの影として、その場にいます」
カシアンは首を振った。
「違う」
彼は、私の手を取った。手袋越しに、簿外の刻印に触れた。
「お前は、影じゃない。……隣だ。俺の隣に立て」




