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第36話 幕間・簿外

 わたしの最初の記憶は、寒さだ。


 炉の収容棟。冬の床。毛布は一枚。それを隣の子と分け合った。名前は知らない。番号だけ知っていた。


 わたしにも番号しかなかった。


 いつから炉にいたのか、覚えていない。物心ついたときには、もうそこにいた。主なしの添えそえご。誰かの財産だったはずだが、その誰かも死んでいた。だから、国有財産になった。


 搾られて搾られて、器が空になりかけていた。


 *


 わたしを逃がしてくれたのは、結社だった。


 「消耗」と書かれた。書類の上で、わたしは死んだ。そして、生きたまま炉の外へ運び出された。底の抜けた樽に入れられて。


 外の光を、初めて見た。


 ルーカスという老人が、わたしに名前をくれた。


「イグナ、というのはどうかね」


 老人は言った。


「炎、という意味の古い言葉だ。……お前は、炉で搾られながら、消えなかった。まだ燃えている。だから、イグナ」


 わたしは泣いた。


 名前をもらって、泣いた。


 番号ではなく、名前を持つというのが、こんなに温かいことだと、知らなかった。


 *


 わたしは、恩を返したかった。


 だから、炉に戻った。


 書記として。名前を持ち、身分を持ち、堂々と炉の門をくぐった。かつて番号だった場所へ。


 そして、人を逃がした。


 自分が逃がしてもらったように。「消耗」と書いて、書類の上で殺して、生きたまま外へ運び出す。名前を与える。ルーカス翁が、わたしにしてくれたように。


 二十七人を逃がした。一年で。


 一人ずつ、名前を書いた。壁の名簿に。番号を名前に書き換えて。


 それが、わたしの宝物だった。


 *


 ザーラが来たとき、わたしは驚いた。


 室長代理。国の中枢にいる、覆面の女。


 でも、彼女は壁側を歩いた。


 番号を持っていた者だけが、抜けない癖。彼女も簿外ぼがいだったのだ。わたしと同じ。


 結社の仲間になってから、彼女は、わたしにだけ本当の名を教えてくれた。番号でも、役職でも、覆面でもない、本当の名を。ザーラ、と。……名前をもらうというのが、どんなに温かいことか。わたしは知っている。だから、その名を大事に胸にしまった。


 彼女は、わたしの逃がし方のほころびを直してくれた。二重に殺せば、数が合う、と。……わたしが独りで、気づけなかったことを。


 彼女は、この国を変える、と言った。


 炉をなくす、と。孕み呪い《はらみのろい》をなくす、と。


 逃げる者がいなくなる国に、する、と。


 *


 わたしは、それを信じた。


 信じたかった。


 わたしが逃がしてきた二十七人。彼らは生きている。でも、名前を隠して、身を潜めて生きている。いつ見つかるか、分からない。追われながら生きている。


 そんな生き方をしなくて済む国。


 名前を堂々と名乗れる国。


 ザーラが、それを作ると言うなら。わたしは命を賭ける。


 *


 防諜が来たとき、わたしは覚悟を決めた。


 帳簿の偽装が露見した。逃げ道はなかった。


 でも、名簿だけは、守らねばならなかった。


 壁の名簿。逃がした二十七人の名前。あれが、防諜の手に渡れば、二十七人が辿られる。捕らえられる。せっかく逃がしたのに。せっかく名前を与えたのに。


 わたしは名簿を燃やした。


 防諜が踏み込む、その前に。


 燃える名簿を見ながら、わたしは、二十七人の名前を心の中で唱えた。一人ずつ。忘れないように。わたしが覚えていれば、彼らは消えない。


 *


 牢で尋問された。


 結社の仲間は、どこにいる。首謀者は誰だ。逃がした者は、どこにいる。


 わたしは何も言わなかった。


 言えば、みんなが捕まる。ザーラも。ルーカス翁も。ヨナも。この国を変える、最後の機会が失われる。


 だから、黙っていた。


 殴られても。焼かれても。


 わたしは、炉で、もっとひどいことに耐えてきた。番号として生きてきた二十年に比べれば、この痛みはなんでもない。


 わたしには、名前がある。イグナ、という。


 名前を持つ者は、強い。


 *


 処刑の日程表に、わたしの番号が載ったと、聞いた。


 名前ではない。番号だ。


 わたしは書記だったから、宮廷に番号で登録されていた。処刑の記録も、番号で書かれる。イグナ、ではなく、書記の番号で。


 ……いいのだ。


 わたしの名前は、記録には残らない。でも、覚えていてくれる人がいる。


 ザーラが。ヨナが。ルーカス翁が。わたしが逃がした、二十七人が。


 番号として死んでも。誰かが、わたしを名前で覚えていてくれるなら。


 わたしは消えない。


 *


 台の上で、わたしは空を見た。


 冬の青い空だった。


 あと少しで、冬至だ。いちばん夜の長い日。その日に、ザーラが、この国を変える。わたしが命がけで守ろうとした、その未来を。


 わたしは、それを見られない。


 でも、いい。


 わたしは燃えた。炉で搾られながら、消えなかった。名前をもらって、人を逃がして、最後まで燃えた。


 イグナ。炎。


 斧が上がった。


 わたしは目を閉じなかった。


 最後に、心の中で唱えたのは、二十七人の名前だった。


 一人ずつ。番号ではなく。


 名前で。

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