第35話 露見
式典まで、あと十日。
その日、皇帝の防諜が動いた。
私はそれを、遅れて知った。
皇帝は、皇族の相次ぐ死を疑っていた。誰かが裏で糸を引いている。その糸を辿ろうとして、防諜を放った。戦略室ではなく、その周辺を。戦略室の書き手が、誰と接触しているかを。
そして、防諜は結社の末端に辿り着いた。
*
きっかけは、炉だった。
「消耗」の数が合わない。かつて、私が気づいた、あの綻び。私はそれを直した。だが、直したのは過去の分だ。結社は、その後も人を逃がし続けていた。
新しい「消耗」の偽装が、皇帝の防諜の目に留まった。
防諜は、炉の帳簿を洗った。そして、書記の一人に行き着いた。
イグナだった。
*
私は、結社の隠れ家で、その報せを受けた。
ヨナが駆け込んできた。息を切らして。
「イグナが捕まった」
私の心臓が止まりかけた。
「炉で、防諜に。……帳簿の偽装が露見した。イグナは、その場で捕らえられた」
「他の者は」
「逃げた。イグナが時間を稼いだ。……脱出簿を燃やして。名簿を、全部燃やして」
*
名簿を燃やした。
結社の壁に貼られていた、あの名簿。番号を、名前に書き換えた、一覧。逃がした人間の名前が記された。
イグナは、それを燃やした。
捕らえられる前に。防諜に押収される前に。逃がした人間の名前が、皇帝の手に渡らないように。
名簿が燃えれば、逃がした人間は辿れない。彼らは、死んだことになっている。名簿だけが、彼らの生を記録していた。その名簿を燃やせば、彼らは完全に、記録から消える。
自由になる。
イグナは、最後に、自分が逃がした全員を守った。
*
私は立ち上がった。
「助けに行きます」
「無理だ」
ヨナが私の腕を掴んだ。
「イグナは、皇帝の直属の牢にいる。防諜が尋問している。……助けに行けば、あんたも捕まる。そうなれば、全部終わりだ。式典も、計画も」
私は動けなかった。
ヨナの言う通りだった。ここで、イグナを助けに行けば、私も捕まる。計画は崩れる。この国を変える、最後の機会が失われる。
だが。
イグナを見捨てるのか。
*
私は椅子に座り込んだ。
頭の中で、あらゆる道を計算した。
イグナを助ける道。牢を破る。だが、皇帝の直属の牢を破るには、力が要る。私は、力では勝たない。移りの力を使えば、露見する。露見すれば、全部崩れる。
イグナを書類で救う道。「消耗」の偽装。だが、彼女はもう、防諜の手にある。書類の上で殺しても、実物が防諜の手にある限り、意味がない。
どの道も塞がっていた。
*
イグナを見捨てて、計画を進めるか。
イグナを助けて、計画を捨てるか。
私は選ばねばならなかった。
――大事なものから、順番に。
いつか、どこかで聞いた言葉が蘇った。
この国を変えれば、イグナのような者は、もう生まれない。炉はなくなる。人を逃がす必要もなくなる。イグナが命がけで守ろうとしたのは、その未来だ。
彼女を助けて、計画を捨てれば、その未来は、来ない。
彼女が命がけで守ろうとしたものが、失われる。
*
私はヨナに聞いた。
「イグナは、脱出簿を燃やした。……逃がした人間を守った。なぜ、そこまで」
ヨナは俯いた。
「イグナは、昔、簿外だった。炉にいた。……搾られて、死にかけた。そのとき、結社が逃がしてくれた。名前をくれた。イグナ、って」
彼は声を震わせた。
「イグナは、恩を返してた。自分が逃がしてもらったように、他の人を逃がすことで。……あいつにとって、名簿は命より大事だった。逃がした人の名前だから」
*
私は目を閉じた。
イグナが燃やした名簿。逃がした人の名前。彼女は、自分の命よりそれを守った。
私が彼女を助けに行けば。牢を破り、彼女を連れ出せば。その騒ぎで、計画は露見し、この国を変える機会は失われる。
そうなれば、イグナが命がけで守ろうとした未来は来ない。
彼女を助けることが、彼女のいちばん大事なものを裏切ることになる。
私は動かなかった。
動けなかった。
*
その夜、私はひとりで石段へ行った。
カシアンはいなかった。処刑人は忙しい。皇帝が防諜を動かしている、この時期は。
私は、ひとりで処刑広場を見下ろした。
掲示板の日程表。
その三段目に、番号があった。
私は目を凝らした。
新しく貼られた番号。明日の処刑。
その番号を、私は知っていた。
イグナが炉で割り振られていた、書記の番号だった。




