第33話 旗
結社が持っていなかったものが、ふたつある。
ひとつは、設計する頭脳。
結社は人を逃がしてきた。炉の帳簿を偽装し、名前を与え、匿ってきた。だが、それは守りだ。この国を変える力はなかった。逃がすだけでは、炉は回り続ける。逃げる者がいなくなるまで。
もうひとつは、旗だ。
玉座を継げる者。正統な血を持ち、儀に敗れていない者。結社が、いくら証拠を集めても、玉座に座る者がいなければ、この国は変わらない。
私は、そのふたつを埋められる。
頭脳は、私が。
旗は――カシアンが。
*
石段で、私はカシアンに告げた。
「皇族が、ほとんどいなくなりました」
「聞いた」
「残るは、第八皇女と第七皇子。どちらも、玉座を継ぐには弱すぎる。……玉座は、もうすぐ空になります」
カシアンは、鉄の面の下で黙っていた。
「その空いた玉座に」
私は言った。
「あなたが、座ってください」
*
「俺は」
カシアンの声が掠れた。
「死んだことになっている」
「はい」
「六年前に、病死した第六皇子だ。……いまさら生きて、玉座に座れば、この国は混乱する」
「混乱します」
私は認めた。
「でも、あなたには正統性があります。皇帝の実の子。儀に敗れていない。……あなたが生きていたと明かせば、玉座を継ぐ、正統な血はあなただけになる」
私はカシアンを見た。
「あなたは、儀で勝ったのではない。儀に出なかった。だから、あなたの手は、きょうだいの血で汚れていない。……この国で初めて、血を流さずに玉座を継ぐ皇子になれます」
*
カシアンは、長いこと黙っていた。
やがて、彼は言った。
「俺は、玉座を望んだことがない」
「知っています」
「望んだことのない男が、座っていいのか」
半年前と同じ問いだった。私は同じ答えを返した。
「望んだ者ばかりが座ってきたから、この国はこうなったのです」
カシアンは、鉄の面の下で息を吐いた。
「……お前は、俺を生かした。六年前に。今また、俺を玉座に生かそうとしている」
「はい」
「なぜ、そこまでする」
*
私は少し黙った。
なぜ、そこまでするのか。
最初は、妹のためだった。次は、この国を変えるため。だが、それだけではなかった。
「あなたが、心を残した人だからです」
私は言った。
「この国の宝子は、みんな心を喰われています。皇帝も。皇子たちも。強くなるほど、人でなくなる。……でも、あなたは注ぎを拒みました。弱くなることを選んだ。だから、あなたは心を失わなかった」
私はカシアンを見た。
「弱いから、あなたは人のままでいる。……この国を変えられるのは、いちばん強い者ではありません。心を残した者です。人の痛みを想像できる者です」
カシアンの鉄の面が揺れた。
「あなたは、玉座を望まない。だから、玉座にふさわしい。……望む者は、玉座を道具にします。望まない者だけが、玉座を人のために使えます」
*
カシアンは鉄の面に手をかけた。
外した。
月の光の下に、素顔が現れた。六年前、私が生かした皇子の顔。処刑人として六年、名もない者が死ぬのを見てきた顔。
「……ザーラ」
彼は私の名を呼んだ。
「俺は、玉座を望まない。今も。……だが、お前が書く『この国の、その先』を見てみたい」
彼は私を見た。
「お前が生かした命だ。……お前が書く未来のために、使ってくれ。俺は旗になる。お前の旗に」
*
私は彼を見た。
六年前、私はこの人を殺したくなかった。理由なんてなかった。ただ、心を残した人が一人いる、それを殺したくなかった。
その、値札のつかない気持ちがめぐって、いま、この人を玉座へ導こうとしている。
「――今度は」
カシアンが言った。
「逃げ道を、書かないでくれ」
「え?」
「六年前、お前は俺に、逃げ道を書いた。棺の底板を大きく。……あれは、俺を生かすための逃げ道だった」
彼は、私をまっすぐ見た。
「今度は、逃げ道じゃなくて……勝つ道を書いてくれ。俺とお前が、この国を変える道を」
私は彼を見た。
胸の奥が熱くなった。名前を呼ばれたときと同じ、あの熱さだった。
「……はい」
私は言った。声が震えていた。
「あなたの命の作者は、私です。……六年前も、今も。最後まで書き切ります」




