第23話 幕間・黒鉄卿の六年
俺が棺の中で目を覚ましたとき、最初に思ったのは、寒い、ということだった。
次に、暗い、と。
それから、これは棺だ、と気づいた。
毒を盛られたはずだった。玉座の儀の前に、勝ち目のない皇子を消す。よくある手だ。俺は抵抗しなかった。抵抗すれば、弟のヨナが盾にされる。俺が大人しく消えれば、あいつは盾にならずに済む。
だから、飲んだ。医師が差し出した薬を、疑いもせず。
死んだ、と思った。
なのに、目が覚めた。棺の中で。
*
底板が、ひとまわり大きかった。
最初は気づかなかった。ただ、体の下の板が妙に緩いと思った。押すと動いた。棺の枠より底板が小さく作られていて、隙間があった。
そこから、外の空気が入ってきていた。
毒は致死量の半分だった。丸一日昏睡して、目が覚めた。埋葬は二日、猶予があった。まだ土に埋められていなかった。地下墓所の安置室に、置かれていた。
誰かが、そう仕組んでいた。
毒を半分に。猶予を二日に。底板を大きく。
三つが繋がっていた。三つが繋がれば、棺の中で人がひとり、目を覚まして抜け出せる。
誰かが、俺を生かそうとしていた。
*
底板を外すのに、丸一日かかった。
爪が三枚剥がれた。指先が血でぬるついた。それでも掘った。板をこじ開けた。二日目の夜に、墓所の壁の崩れかけた場所を見つけて、外へ這い出た。
月が出ていた。
六年ぶりに見る、自由な月だった。皇子として生きていたときは、月をこんなふうに見たことがなかった。いつも誰かに見られていた。いつも誰かを警戒していた。
死んだことになって、初めて俺は自由になった。
死んだ者は、この国では自由だ。
*
弟のヨナが、俺を見つけてくれた。
あいつは俺の「病死」を信じていなかった。だから、墓所の周りを探っていた。這い出てきた俺を見つけて、匿ってくれた。
ヨナは結社と繋がっていた。
教義の嘘が生んだ、簿外の者たちの結社だ。あいつも、本当は宝子だったのかもしれない。俺と同じ腹から生まれて、鑑定官に「添え子」と記された。記録が、そう決めた。
俺は結社に匿われた。
そして、処刑人になった。
*
黒鉄卿。
この国で、顔を見られないことを許された唯一の職。仮面の下に誰がいるのか、誰も知らない。死んだはずの皇子が身を隠すには、これ以上の場所はなかった。
だが、それだけではなかった。
俺は知りたかったのだ。
この国で、名もない者がどう死ぬのか。俺が、玉座の儀で盾にしようとしなかった弟。あいつのような者たちが、どんなふうに台に乗せられるのか。
処刑人になれば、それをいちばん近くで見られる。
斧を持たされて。
*
六年、俺は探し続けた。
俺を生かした、あの三行を書いた人間を。
毒を半分に。猶予を二日に。底板を大きく。あの三つを書けるのは、戦略室の書き手だけだ。皇子の病死を設計する立場にいて、命令に背いて、逃げ道を書き込む度胸のある人間。
だが、戦略室の書き手は名前を持たない。番号で呼ばれ、顔を隠し、記録に残らない。探しようが、なかった。
六年、俺はその顔のない相手を探した。
礼を言いたかった。最初は、それだけだった。
だが、探すうちに分からなくなった。なぜ、見も知らぬ皇子のために命令に背いたのか。露見すれば、死ぬ。それでも書いた。なぜ。
その理由を知りたくなった。
*
半年前、処刑広場の日程表に、戦略室の書き手の番号があった。
国家過失で、斬首。
俺は、その処刑の執行人だった。
台に乗せられた女を見て、俺は思った。この女が、あの三行を書いた人間かもしれない、と。確証はなかった。だが、戦略室の書き手で、消される。あの三行を書けるのは、そういう場所にいる人間だ。
斧を持たされた。
六年探した相手を、自分の手で殺すところだった。
だから、賭けた。血袋の仕掛けを頼まれたとき、俺は、これに乗ったのがあの三行の書き手だと賭けた。理由の分からない賭けだった。だが、あの女の目を見たとき——台の上で木目を数えていた、あの目を見たとき——賭けずにはいられなかった。
賭けは当たった。
*
女の名は、ザーラといった。
母親が死の床で、一度だけ呼んだ名前。鑑定簿のどこにもない、名前。
俺は、その名を呼んだ。
女は泣いた。処刑台でも泣かなかった女が、名前ひとつで泣いた。
名前は、いちばん重い。この国では、いちばん取り上げられるものだから。
俺には、それが分かる。俺も、皇子という名を捨てた。死んだことになって、名を失って、六年、名もない男として生きてきた。
名を失った者だけが、名の重さを知っている。
*
ザーラは、玉座を空にする、と言った。
四人の皇族を互いに噛み合わせて、自分の手で滅ぼす、と。そして、空いた玉座に俺を座らせる、と。
死んでいない、正統な血。儀に敗れていない皇子。俺のことだ。
俺は、玉座を望んだことがない。
望んだことのない男が、座っていいのか。俺はそう聞いた。
ザーラは答えた。
望んだ者ばかりが座ってきたから、この国はこうなったのだ、と。
……そうかもしれない。
俺はいま、初めて玉座について考えている。あの椅子に座って、この国を変える。ザーラが書いた戦略の、その先を。
俺を生かした女が、俺に生きる理由を書こうとしている。
六年前、俺は生きる理由を持っていなかった。だから、大人しく毒を飲んだ。
いまは、違う。




