第20話 地下結社《簿外》
三日で、私は、五年分の帳簿を、辻褄の合う形に直した。
「消耗」の数と、別棟の数と、搾取量の総計。そのすべてが、どこから監査が入っても、矛盾しないように。逃がした二十七人は、二重に殺されて、記録の上では、完全に消えた。
私は、それを、包みにして、裏の戸の下に置いた。
二日後、返事が来た。
一行だけだった。
『会う。案内する者が、迎えに行く』
*
迎えに来たのは、少年だった。
十五、六の、痩せた少年。目つきが、鋭い。生き延びるために、常に周囲を警戒している者の目だ。私にも、覚えのある目だった。
少年は、名乗らなかった。ただ、ついてこい、と顎で示した。
夜の下町を、いくつも角を曲がって、進んだ。私は、道を覚えた。癖だった。だが、途中から、覚えるのを、やめた。この少年は、わざと、同じ道を二度通っている。尾行を撒く歩き方だ。覚えても、意味がない。
地下へ、降りた。
古い、酒蔵の跡だった。使われなくなった醸造樽が、いくつも並んでいる。その一番奥の、床下に、隠し扉があった。
*
扉の向こうに、部屋があった。
思ったより、広かった。壁一面に、紙が貼られている。名簿だ。番号と、名前が、並んでいる。番号を、名前に書き換えた、一覧。
部屋には、数人がいた。
イグナが、いた。私を見て、小さく頷いた。
案内の少年は、部屋の隅に立った。
そして、部屋の中央に、老人が、座っていた。
白髪の、痩せた老人だ。指先が、インクで黒く汚れている。その汚れ方に、見覚えがあった。長年、記録を書き続けた者の、指だ。師の指も、そうだった。
「――よく来た」
老人は、言った。
「儂は、ルーカス。かつて、鑑定官だった男だ」
*
鑑定官。
生まれた子の器を測り、宝子と添え子を分け、鑑定簿に記す役人。私の父と、同じ職だ。
「鑑定官が、なぜ、こんな場所に」
私は、聞いた。
ルーカスは、壁の名簿を、見た。
「儂は、五十年、鑑定簿を書いてきた。……そのあいだに、教義に合わない子を、何人も見た」
「教義に、合わない子?」
「呪いの実りは、ひとつ。……そう、決まっている」
老人の声は、静かだった。
「だが、実際には、違う。実りが、ふたつのことがある。双子で、どちらも宝子級の器を持つ子。三つ子で、三人とも、ほとんど同じ器の子。……そういう子が、生まれる」
私の、指が、動いた。
鑑定の日、計器が、二度、同じ高さで跳ねた。父の同僚が、碁の脇で漏らした言葉。
「そういう子を、どう記すか」
ルーカスは、私を見た。
「教義に、合わせる。宝子は、ひとり。残りは、添え子。……計器が、どう跳ねようと、記録は、そう書く。書けと、言われている。書かねば、鑑定官の首が飛ぶ」
*
「儂は、五十年、そう書いてきた」
老人の手が、震えていた。
「本当は宝子だった子を、添え子と記した。何十人も。その子らは、名前を奪われ、注ぎで搾られ、あるいは、炉へ送られた。……本当は、家を興せるだけの器を持っていた子が、だ」
部屋が、静まった。
「儂は、耐えられなくなった」
ルーカスは、言った。
「だが、いまさら、告発はできん。告発すれば、儂が五十年、嘘を書き続けた罪が、暴かれる。それだけではない。この国の鑑定制度そのものが、嘘の上に立っていると、暴くことになる。……そんなことをすれば、儂も、儂が記した子らも、皆殺しにされる」
だから、と、老人は続けた。
「儂は、記録を、取り続けた。握り潰した鑑定の、写しを。……本当は宝子だった子の、本当の記録を。いつか、この国を、変える日のために」
老人は、壁の名簿を、指した。
「そして、逃がすだけでは、なかった。……逃がした子の、幾人かは、名を変え、養子の抜け道で、宝家や、貴族の家の内側に、送り込んである。本当は宝子だった子だ。誰にも、疑われない。何年もかけて、この国の、あちこちに、埋めてきた。いつか、内側から、扉を開ける日のために」
私は、その言葉を、覚えた。
いつか、内側から、扉を開ける。……この結社は、逃がす組織であると同時に、種を蒔く組織でもあった。
*
私は、壁の名簿を、見た。
番号と、名前。番号を、名前に書き換えた、一覧。
この部屋にいる者たちは、みな、教義の嘘が生んだ者たちだ。本当は宝子だったのに、添え子とされ、搾取され、炉へ送られ――そして、逃げてきた者たち。
「あなたたちは」
私は、言った。
「教義の嘘が、生んだ人たちですね」
私は、そう言いながら、ふと、あるものを、思い出していた。
師が、死ぬ前に、私に握らせた、黒い鍵。十一年、どこの鍵とも知らずに、持っている、あの鍵。
師も、戦略室の中から、この国の嘘を、見ていたはずだ。もしかしたら、師も、ルーカス翁と、同じことを――握り潰された記録を、どこかに、集めていたのでは、ないか。
あの鍵は、その、どこかへ、通じているのかもしれない。
いまは、まだ、分からない。だが、その考えは、頭の隅に、小さな火のように、灯り続けた。
「そうだ」
ルーカスは、頷いた。
「国が、我らを、簿の外に、追いやった。……ならば、我らは、その名を、旗にする」
彼は、壁の名簿を、指した。
「儂らは、《簿外》だ。……この国を、内側から、書き換える者たちだ」
*
簿外。
国が、添え子や、炉の収容者を、蔑んで呼ぶ言葉。人ですらない、財産。名を書く欄すら、用意されない者。
その言葉を、彼らは、自分たちの旗にしていた。
私は、この部屋の意味を、理解した。
炉から人を逃がしているのは、イグナ一人ではない。この結社、全体だ。「消耗」の偽装で人を逃がし、名前を与え、匿う。国の掟——記録が現実に勝つ——を、逆手に取って。
帳簿の上で死んだ者は、この国では、自由だ。誰も、探さない。死んだことになっているのだから。
「あなたの綻びを直す腕は、確かだった」
ルーカスは、言った。
「五年分の帳簿を、三日で、辻褄を合わせた。……儂らの誰にも、できなかったことだ。イグナが、あなたを、信じたがるのも、分かる」
彼は、私を、まっすぐ見た。
「だが、儂は、まだ、あなたを信じていない。……あなたは、室長代理だ。国の、中枢にいる。なぜ、我らに、手を貸す」
「妹を、助けたいからです」
「それだけか」
私は、少し、黙った。
それだけでは、なかった。
「……この国を、変えたいからです」
私は、言った。
「歯車を、ひとつ外しても、機械は止まらない。私は、それを、知りました。……止めるには、機械を動かしている、いちばん上の椅子に、手をかけるしかない」
ルーカスの目が、細くなった。
「いちばん上の椅子、とは」
「玉座です」
部屋の空気が、変わった。
結社の者たちが、いっせいに、私を見た。案内の少年も、イグナも、ルーカスも。
「あなたたちは、人を逃がしている。それは、尊いことです。……でも、逃がすだけでは、この国は、変わらない。逃げる者が、いなくなるまで、炉は、回り続ける」
私は、言った。
「私は、炉を、なくしたい。孕み呪いを、なくしたい。玉座の儀を、なくしたい。……そのためには、玉座に、手をかけるしかない」
ルーカスは、長いこと、私を見ていた。
それから、掠れた声で、言った。
「……あなたは、何を、書く気だ」
私は、答えた。
「この帝国を、書き換える戦略を」




