第19話 脱出簿の綻び
「……あなたも、番号を持っていた人ですね」
書記の女は、そう言って、私を見ていた。
私は、動かなかった。
覆面の下で、表情は見えない。声も、潰してある。前歴は炉、という経歴は、確かに書類に書いた。だが、それは書類上のことだ。この女は、書類を見て言っているのではない。
私の、立ち方を見ている。
「なぜ、そう思う」
私は、潰した声で、聞いた。
「壁側を、歩くからです」
女は、言った。
「この部屋に入ってきたとき、あなたは、無意識に、壁側を歩いた。役人は、真ん中を歩きます。番号を持っていた者だけが、壁側を歩く癖が抜けない。……わたしも、そうでした」
*
添え子は、廊下の壁側を歩く。
宝子の前では、道の真ん中を、空けておかねばならないからだ。子どもの頃から、そう躾けられる。躾けられた体は、大人になっても、覚えている。
私は、二十一年、壁側を歩いてきた。
室長代理の印を持ち、覆面をつけ、声を変えても、体に染みついた歩き方までは、変えられなかった。この女は、それを、見抜いた。
――同じ、癖を持つ者にしか、見抜けない。
この女も、番号を持っていた。
「あなたも、簿外だったのですね」
私は、言った。
女は、頷いた。
「イグナ、と申します。……いまは、名前があります」
*
名前がある、と、彼女は言った。
簿外に、名前はない。番号があるだけだ。名前があるということは、誰かが、彼女に、名前を与えたということだ。炉を出て、名前を持って、この炉に、書記として戻ってきた。
私は、帳簿のことを、思い出していた。
数の合わない「消耗」。別棟へ届かない、消えた収容者たち。その記録の、細くて右上がりの筆跡。
イグナの、字だ。
「あなたが」
私は、言った。
「帳簿の上で、人を殺して、外へ逃がしている」
イグナの顔が、こわばった。
彼女の手が、机の下へ動いた。何かを、握ったのが分かった。刃物か、それとも、逃げるための何かか。
私は、動かなかった。
「安心してください」
私は、静かに言った。
「私は、あなたを、捕らえに来たのではありません。……あなたのやり方の、綻びを、教えに来ました」
*
イグナの手が、止まった。
「綻び?」
「あなたの逃がし方には、欠陥があります」
私は、帳簿を、指した。
「『消耗』の記録は、別棟の受け入れ記録と、突き合わされます。数が合わなければ、いつか、監査に気づかれる。……あなたは、別棟の記録を、いじっていない。だから、『消耗』の数だけが、別棟より多くなっている」
イグナの顔が、白くなった。
「一年で、二十七人。この差は、注意深い監査官なら、三年以内に、必ず気づきます。気づかれれば、あなたも、あなたが逃がした人も、あなたの仲間も、全部、終わります」
「……なぜ、それを」
「私は、この書式を作った人間の、後任だからです」
私は、言った。
「別棟の記録も、同時に書き換えなければ、数は合わない。別棟へ『受け入れた』ことにして、その別棟からも『消耗』したことにする。二重に殺せば、数は、どこでも合います。……あなたは、一回しか、殺していない」
*
イグナは、長いこと、黙っていた。
それから、机の下の手を、ゆっくりと、上に戻した。何も、握っていなかった。握るのを、やめたのだ。
「……あなたは、何者ですか」
「道具です」
私は、言った。
「記録を書く道具。……あなたと、同じです」
「役人が、そんなことを、教えるはずがない。綻びを見つけたなら、監査に報告して、手柄にするはずです。……なぜ、わたしに、教えるのですか」
私は、少し、黙った。
なぜ、教えるのか。
答えは、単純だった。
「妹が、この炉にいます」
私は、言った。
「番号七六二。あと、四十六日で、監視が終わって、搾り尽くされる。……私は、妹を、帳簿の上で殺して、外へ出したい。あなたと、同じことを、したい」
*
イグナの目が、見開かれた。
「あなたは……室長代理、なのでは」
「室長代理です。そして、簿外です。……この国では、両方であることが、できます。誰も、道具の顔を、見ないから」
私は、覆面に、手をかけた。
外しはしなかった。ただ、手をかけた。
「あなたのやり方に、綻びがある。私は、それを直せる。二重に殺す方法を、書式ごと、教えられる。……その代わりに、妹を、外へ出すのを、手伝ってほしい」
イグナは、私を見ていた。
値踏みするのではなく、確かめるように。この覆面の下に、本当に、同じ痛みを持つ者がいるのか、を。
やがて、彼女は、言った。
「……あなたを、信じていいのか、分かりません」
「当然です」
私は、言った。
「私も、あなたを、信じていいか、分かりません。……でも、あなたは、いままで、二十七人を逃がした。私は、その二十七人分の綻びを、握っている。密告すれば、あなたは終わる。……それでも、私は、密告しない。それが、答えです」
*
イグナは、長い息を、吐いた。
それから、立ち上がって、部屋の扉を、確かめた。誰もいないことを、確かめてから、声を落とした。
「……わたし一人では、決められません」
「仲間が、いるのですね」
イグナは、答えなかった。答えないことが、答えだった。
「あなたのことを、上に、伝えます。会うかどうかは、向こうが決めます。……もし、会うことになったら」
彼女は、私を見た。
「あなたの、綻びを直す腕が、本物かどうか、試されます。覚悟してください」
「望むところです」
私は、言った。
「綻びを直すのは、私の、本職ですから」
*
三日後の夜。
廃屋の裏の戸の下に、包みが置かれていた。いつもの、黒鉄卿の食料ではなかった。
中に、一枚の紙が入っていた。
炉の帳簿の、写しだった。過去五年分の「消耗」の記録。別棟の記録。搾取量の記録。数字が、びっしりと並んでいる。
その一番下に、細い右上がりの字で、一行だけ、書き添えてあった。
『これを、全部、辻褄の合う形に直せますか。三日で』
試験だった。
私は、紙を、机に広げた。
羽根ペンを取って、インクをつけた。
――望むところだ。




