第12話 名前
私が生まれた日、母は死んだ。
二度目の出産は母体の死を意味する。父は一腹目で宝子が出なかったから、母に二腹目を産ませた。母はそれを知っていて産んだ。
四人が生まれた。母はその日のうちに逝った。
だが、逝く前に母は一度だけ、生まれた子の一人を胸に抱いたそうだ。産婆から、ずっと後になって聞いた話だ。
母はその子に名前を呼んだ。
添え子に名前はない。だから、それはどの記録にも残っていない。産婆すら正確には覚えていなかった。ただ、母が最後に、確かに、名前らしきものを口にしたと。
その子が私だったのかどうかも分からない。四人のうちの誰だったのか。
だが、私はその名前を持っている。
なぜ持っているのか自分でも分からない。物心つく前の記憶が残るはずがない。それでも、私の中にはずっとその名前があった。夜、厨の隅で膝を抱えているとき。注ぎで指先が痺れているとき。師の背中が台に乗せられるのを見ていたとき。
誰も呼ばない名前が私の中にだけあった。
*
私はカシアンを見た。
鉄の面の下に六年前に私が生かした男の顔がある。その男が私の名前を聞いている。
この国で誰も私を名前で呼んだことはない。
父は「次子」と呼んだ。戦略室は「三号」、いまは「七号」と呼ぶ。炉なら番号で呼ぶだろう。名前で呼ばれるのは、名前を持つ者だけだ。私は名前を持つことを許されていない。
――名を持つな。道具は名を持つと壊れる。
師の最後の言葉だった。
名前を持てば道具は壊れる。人になってしまうから。人になった道具は命じられた通りに死ねなくなる。だから、名を持つなと師は言った。
でも。
私はもう命じられた通りに死んだ。
台の上で一度、死んだ。死んだ女は疑われない。いま、ここに立っているのは、この国のどこにもいない人間だ。鑑定簿の外にいた女が帳簿の外にも出た。
いないはずの人間なら名前を持っても壊れる道具がもうない。
「……ザーラ」
声にすると喉が震えた。
自分の口でその名前を言ったのは生まれて初めてだった。二十一年、胸の底にだけ持っていた名前が初めて外に出た。
「ザーラ、と申します」
カシアンはしばらく黙っていた。
それから静かにその名を繰り返した。
「ザーラ」
*
それだけのことだった。
男が女の名を呼んだ。それだけの小さなことだった。
なのに私は、石段の上で泣きそうになった。
泣いたことなどほとんどない。弟が死んだときも、兄が死んだときも、師が台に乗せられたときも、私は泣かなかった。泣いても何も変わらないと知っていたからだ。涙は記録に残らない。残らないものに意味はない。
でも、いま目の奥が熱かった。
名前を呼ばれる、というのは、こういうことなのか。
誰かが私を、番号ではなく、道具ではなく、ザーラとして、この世に置いてくれる。いてもいい、と言ってくれる。名前を呼ぶというのは、そういうことだったのか。
二十一年、知らなかった。
「泣くのか」
カシアンが少し驚いたように言った。
「泣いていません」
「泣いている」
「……処刑台でも泣かなかった女が、名前ひとつで泣くと思いますか」
「思う」
彼は鉄の面の下でまたぎこちなく笑った。
「名前ひとつが、いちばん重い。……この国では、いちばん取り上げられるものだからだ」
彼は少しのあいだ遠くを見た。鉄の面越しでもそれが分かった。
「俺にも、影の弟がいた」
初めて彼が自分のことを話した。
「同じ腹から生まれて、宝子になれなかった。名前を与えられなかった。……儀のとき、俺の前に立って、刃を受けるはずだった」
「その方は」
「盾にはしなかった」
カシアンの声が低くなった。
「代わりに、俺が退場した。負けて死ぬことを選んだ。……そうすれば、あいつを盾にしなくて済むと思った。馬鹿な考えだと、みんなに嗤われた」
私は黙って聞いていた。
「あいつには、俺が名前をつけた。誰にも言わずに。……お前の母親と同じことをしたんだな。いま、気づいた」
名もない者に、名を与える。
この国でそれはいちばん静かな反逆だ。母がそうしたように。カシアンが弟にそうしたように。
私はこの人と自分が、同じ場所から来たのだと、その時、知った。
生まれた身分は天と地ほど違う。皇子と添え子。けれど、二人とも、名前を奪われた誰かに、名前を返したことがある。
*
その夜、私たちは多くを語らなかった。
語る必要がなかった。
彼は六年前に私が生かした皇子で、私は半年前に彼が生かした書き手だ。互いが互いの命の作者で、それ以上の説明は要らなかった。
別れ際、カシアンは言った。
「玉座を空にする、と言ったな」
「はい」
「本気か」
「本気です」
私は掲示板の日程表を見た。冬至まで、半年。四人の皇族。それぞれの後ろ盾と、それぞれの疑心。
「四人全員が、自分の手で滅ぶ絵を書きます。誰も、私の手では殺さない。……ただ、彼らが動きたい方向に道を作るだけです」
「そして、空いた玉座に」
「あなたを座らせます」
私は鉄の面を見た。
「死んでいない、正統な血。儀に敗れていない皇子。……この国を変えられるのは、玉座に座った者だけです。外から石を投げても、玉座は動かない。座って、内側から壊すしかない」
カシアンは長いこと、黙っていた。
それから、言った。
「俺は玉座を望んだことはない」
「知っています」
「望んだことのない男が、座っていいのか」
「望んだ者ばかりが座ってきたから、この国はこうなったのだと思います」
彼の目が鉄の面の奥で揺れた。
彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
*
翌朝、私は地下室でいつも通り割り振られた断片を書いていた。
だが、頭の中では別の絵を描いていた。
四人の皇族を互いに噛み合わせる絵。誰の注文も裏切らず、誰の注文も成立させ、そして全員が自分の注文で滅ぶ絵。
まだ完成していない。動く駒が多すぎる。順番を一つ間違えれば、狙いが逸れる。
だが、入り口は見えていた。
私は羽根ペンを止めて掌を見た。手袋の下に、簿外の刻印がある。名前を持たない者の、印。
――ザーラ。
昨夜、初めて呼ばれた名前を私は心の中でもう一度呼んでみた。
名前を持った道具は、壊れる。
けれど、私は思った。
壊れて、いい。
いない人間として、この国のどこにもいない女として、私はこの国そのものを書き換える。
道具ではなく、ザーラとして。
*
その日の午後、ドラークスが地下に降りてきた。
彼はいつものように案件を配り、前の案件を回収し、皇帝への献上物に紋章を捺した。
そして、帰り際、私の机の前で足を止めた。
「七号」
「はい」
彼は一枚の書類を私の机に置いた。
表向きの名は「第三皇女殿下・薬園の管理体制について」。
だが、その裏に透けている本当の依頼を私は一目で読み取った。
「第一皇子殿下より、内々のご依頼だ」
ドラークスは声を落とした。
「第三皇女を、儀の前に片付けたい。……事故に見えるように、な」




