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第11話 三十七行目

 黒鉄卿は長いこと、私を見ていた。


 仮面越しに視線だけがはっきりと感じられた。処刑人の視線に、こんなに長く晒されたのは初めてだった。台の上でさえ彼はこんなに私を見なかった。


 やがて、彼は言った。


「お前は、なぜ死んでいない皇子がいると思う」


「勘です」


「勘で、そこまで言うか」


「いいえ」


 私は掲示板から目を離さずに言った。


「六年前、私はある皇子の病死の戦略を書きました」


 鉄の面が動きを止めた。


「毒の分量。運ぶ者。医師の買収。埋葬の日程。棺の寸法。……すべて、完璧に組みました。命じられた通りに」


 風が止んだ。


「けれど、三十七行目に、一行だけ命令にないことを書き足しました」


 私は指を三本立てた。


「毒の量を、致死量の半分に。埋葬までの猶予を、二日に。棺の底板の寸法を、ひとまわり大きく」


 黒鉄卿は動かなかった。


「その三つが繋がれば、棺の中で、人がひとり目を覚まします。……二日のうちに、底板を外して、抜け出せるだけの隙間を残した。誰にも気づかれないように、数字の書き間違いのふりをして」


 私はそこで初めて鉄の面を見た。


「私は、その皇子が生きているかどうかを知りません。書き手には、結果が届かないから。……でも、もし生きているなら、いまこの帝国のどこかにいるはずです。死んだことになった、生きた皇子として」


 *


 黒鉄卿は答えなかった。


 答えの代わりに彼は仮面の縁に手をかけた。


 いつもは、位置を直すだけの手だった。今夜は、違った。


 鉄の面がゆっくりと持ち上がった。


 私は息を止めた。


 この国で、顔を見られないことを許された、唯一の公職。その顔を、彼はいま私にだけ見せようとしている。


 月の光の下に素顔が現れた。


 *


 若くはなかった。三十に近い、痩せた男の顔だ。


 だが、その骨格に私は見覚えがあった。


 六年前、報告書に添えられていた一枚の肖像。勝ち目のない皇子。儀で「影」の弟を盾に使うことを拒み、負けて死ぬことを選んだと嗤われた男。私が殺したくないと思った男。


 第六皇子、カシアン。


 死んだはずの皇子が処刑人の仮面の下から私を見ていた。


「……あなたは」


「棺の中で、目を覚ました」


 彼の声はもうかすれていなかった。押し殺していた声を初めて、そのまま出していた。


「底板を外すのに、丸一日かかった。爪が三枚剥がれた。二日目の夜に、墓所の壁を掘って、外に出た。……そこから先は名もない男として生きた」


 彼は仮面を手に持ったまま言った。


「六年、探した。俺を生かした、あの三行を書いた人間を」


「……なぜ」


「礼を言うためだ。最初はそれだけだった」


 彼は少し笑った。笑い方がぎこちなかった。長く笑っていない人間の笑い方だった。


「だが、探すうちに分からなくなった。あの三行を書いた人間は、命令に背いている。露見すれば、死ぬ。……なぜ、見も知らぬ皇子のために、そんな危険を冒したのか。俺は、それが知りたくなった」


 *


 私は答えられなかった。


 なぜ、あの三行を書いたのか。


 六年間、私自身がその答えを持っていなかった。言葉にすれば、あれが何だったのかを自分で決めてしまう気がして、ずっと胸の底に沈めてきた。


「半年前」


 カシアンは、言った。


「処刑広場の日程表に、戦略室の書き手の番号があった。国家過失で斬首。……俺は、その処刑の執行人だった」


 彼の手の中で鉄の面が月の光を鈍く弾いた。


「台に乗せられたお前を見て、俺は思った。この女があの三行を書いた人間かもしれない、と。確証はなかった。だが、戦略室の書き手で、しかも消される。……あの三行を書けるのは、そういう場所にいる人間だけだ」


「それで」


「斧を持たされていた」


 彼の声が低くなった。


「六年探した相手を、自分の手で殺すところだった。……だから、賭けた。血袋の仕掛けを頼まれたとき、俺は、これに乗ったのが、あの三行の書き手であることに、賭けた」


 彼は私を見た。


「賭けは当たった」


 *


 私は石段の上に立ったまま動けなかった。


 六年前、私が命令に背いて書いた三行。あれがこの男を生かした。


 その男が六年かけて私を探した。


 そして、私が処刑される日に斧を持たされて――私を生かした。


 私が生かした人に、生かされた。


 命の軽いこの国で誰もが誰かの命に値札をつけて生きている。母は宝子たからごを産むために死に、兄は兵器として使い潰され、弟は帳簿の一行になった。私は十年あまり、他国の人間の命を紙の上で並べ替えてきた。


 その中で、たった一度だけ、私が値札をつけなかったものがある。


 三十七行目の、三行。


 それがめぐって返ってきた。


「……私は」


 私は口を開いた。声が震えていた。


「あなたを殺したくなかっただけです」


「なぜ」


「あなただけが、弟を盾にすることを拒んだから」


 カシアンの目が揺れた。


「この国で、心を残した人がひとりいる。……そう思ったら、その人を紙の上で殺すことが、できませんでした。それだけです。理由なんて、それだけです」


 言ってから私は少し驚いていた。


 六年間、言葉にできなかったものが口から出た。言葉にすれば、あれが何だったのかを自分で決めてしまう気がして、ずっと沈めてきた。


 なのに、出てみれば、なんということもなかった。


 私はこの人を殺したくなかった。それだけのことだった。上手い理由も、立派な大義も、何もない。ただ、殺したくなかった。


 その、たったひとつの、値札のつかない気持ちが、六年かけて私を生かした。


 風がまた吹いた。


 二人ともしばらく何も言わなかった。


 やがて、カシアンが仮面をゆっくりと下ろした。鉄の面がまた彼の顔を隠した。


 だが、その下にある顔を私はもう知っている。


「――名前を」


 彼は言った。


「お前の名前を聞いていない」


 私は彼を見た。


 添えそえごに名前はない。鑑定簿のどこにも、帳簿のどこにも、私の名は記されていない。


 けれど、たったひとつ。


 母が死の床で一度だけ呼んだ名前がある。

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