第五章 逆さ屏風の密室
村が閉じたという知らせは、龍守村の屋敷の中を静かに渡っていった。
叫び声や悲鳴はなかった。むしろ、誰もがそれを予感していたように、受け止め方は鈍かった。県道が落ちた。橋が通れなくなった。車は出せない。警察は入れない。救急も来られない。
言葉だけを並べれば、十分に異常な事態だった。
だが、龍守村の人間たちは、それを異常として扱わなかった。
江口桜次郎は、それが一番怖かった。
犬神宗久が湯屋で死んだ。忌部多門が死装束を着て毒に倒れた。鴉丸小夜子という、消された名前が枕飯とともに戻ってきた。そして今、村は外から切り離された。
出来事だけを拾えば、もう誰が見ても事件だった。
けれどこの村では、事件という言葉より先に、儀式という言葉が立ち上がる。
湯灌。
死装束。
枕飯。
その後に続く言葉を、江口はもう覚えてしまっていた。
逆さ屏風。
野辺送り。
骨上げ。
名消し。
順番を覚えてしまったこと自体が、罠の中に足を入れたようで気味が悪かった。
龍崎征臣のノートは、まだ控室の机の上に開かれている。
『七葬返しが始まれば、小夜子は戻る』
その一文を見てから、江口は何度も同じことを考えていた。
戻るとは、どういう意味なのか。
死者が戻る。名前が戻る。記録が戻る。罪が戻る。
どれも嫌な意味にしかならない。
二階堂壮也は、控室の隅でスマートフォンを睨んでいた。何度も通信を試みている。画面の上部には、圏外と一本の電波表示が交互に出ては消えた。
「駄目だ」
二階堂は短く言った。
「外へは?」
江口が聞く。
「固定電話はさっきの通話以降、ほとんど繋がらない。回線が不安定だ。警察には二名の死亡と村道崩落は伝えてある。ただ、こっちへ入れるのは早くて朝以降」
「朝までこの村にいろってことか」
「そういうことだ」
「眠れない夜になりそうですね」
五十嵐理人が静かに言った。
彼は机の上で、龍崎の三冊目のノートを見ていた。触れているのではない。ページを開いたまま、視線で文字を追っている。
五十嵐の横顔は、暗い照明の下で少し青白く見えた。彼は江口より二つ下の二十七歳だが、こういう時の落ち着きは年齢にそぐわない。恐怖や動揺を表に出さないのではなく、まず観察へ回す。その静かさが、頼もしくもあり、時々ひどく冷たくも見えた。
「何か分かった?」
江口が聞くと、五十嵐は顔を上げた。
「分かったことより、分からないことが増えました」
「科学者っぽい嫌な返事ですね」
「理科教師です」
「もっと嫌だ」
二階堂がノートの方へ来た。
「小夜子についての記述か」
「はい」
五十嵐はページを示した。
そこには龍崎の字が並んでいる。
『鴉丸小夜子。村外への進学を強く希望。思考力、観察力ともに高い。周囲の大人への不信感が強いが、それは性格ではなく環境によるものと思われる』
『小夜子は、村を出せば生きる。村に残せば壊れる』
『推薦状、準備済み』
そこまでは、先ほど江口たちも読んだ箇所だった。
五十嵐は、さらに下を指した。
『ただし、村は小夜子を出さない』
江口は息を止めた。
その行は、先ほどは見落としていた。あるいは、見落としたかったのかもしれない。文字は小さく、ページの下端に押し込まれるように書かれている。
二階堂が低く読む。
「村は小夜子を出さない」
「続きがあります」
五十嵐がページをめくる。
『犬神は土地を理由にする。忌部は噂を理由にする。神代は村を理由にする。黒御門は祟りを理由にする。理由は違うが、結論は同じだ』
江口は無言でその文字を見つめた。
犬神。忌部。神代。黒御門。
死んだ者と、まだ生きている者の名前が並んでいる。
龍崎は、分かっていたのだ。
小夜子を村から出そうとすれば、誰がどんな理由で阻むのか。彼はそれを見抜いていた。
ではなぜ、止められなかったのか。
いや。
もっと嫌な問いがあった。
龍崎は本当に、止めようとしたのか。
「桜次郎」
二階堂の声で、江口は我に返った。
「今は考えすぎるな」
「無理だよ」
「無理でもだ」
「先生は、分かってた」
江口は呟いた。
「小夜子さんが村から出られないことも、誰が邪魔するかも」
「そうだな」
「それなのに、小夜子さんは消えた」
「まだ消えたと決まっただけだ」
「二階堂」
江口は顔を上げた。
「枕飯って、生きてる人間に出すものじゃないだろ」
二階堂は答えなかった。
その沈黙が、江口には痛かった。
五十嵐がノートの端を見た。
「もう一つ、気になる記述があります」
「まだあるの?」
江口が言うと、五十嵐は頷いた。
「龍崎先生は、小夜子さんの件について、何度か“屏風”という言葉を使っています」
二階堂の目が動いた。
「屏風?」
「はい」
五十嵐は別のページを開いた。
『小夜子は屏風の向こう側に立たされた』
次の行。
『こちら側にいた大人たちは、誰も彼女を見なかった』
江口は背中が冷たくなるのを感じた。
逆さ屏風。
七葬返しの中にある言葉。
死者の枕元に屏風を逆さに立てる風習だと、緋紗子は言っていた。死者と生者の境目を一時的に反転させるもの。そんな説明だった。
だが、龍崎のノートにある屏風は、もっと別の意味を帯びている。
見えないようにするもの。
見ないために立てるもの。
向こう側にいる人間を、こちら側の人間から隠すもの。
「嫌な予感しかしないな」
二階堂が言った。
その時、廊下から足音が近づいた。
今度は神代拓馬ではなかった。
百鬼夜子だった。
彼女は障子の前で立ち止まり、小さく頭を下げた。
「失礼します」
二階堂が警戒したように見る。
「どうしました」
「緋紗子さんが、皆様をお呼びです」
「また儀式か」
声に苛立ちが混じった。
百鬼は目を伏せた。
「逆さ屏風の支度をするそうです」
部屋の空気が、すっと冷えた。
江口はノートから顔を上げる。
「今?」
「はい」
二階堂は立ち上がった。
「冗談じゃない。二人死んでいる。村道も崩れた。この状況で儀式を続ける理由がない」
「理由なら、あちらにはあります」
「何だ」
「止めたら、もっと死ぬと思っているんです」
百鬼の声は低かった。
その言い方に、二階堂が眉を寄せる。
「百鬼さんは、そう思っているんですか」
「私は、止めても続けても死ぬと思っています」
「なぜ」
百鬼は龍崎のノートへ視線を落とした。
「先生が、そういう形にしたからです」
江口は言葉を失った。
「百鬼さん」
「はい」
「あなたは、先生の何を知っているんですか」
百鬼はしばらく黙っていた。
その沈黙は、今までの彼女のものとは少し違った。かわすための沈黙ではない。言ってはいけないことを、どこから言えばいいか探している沈黙だった。
「私は、何も知りません」
「嘘ですね」
「ええ」
百鬼はあっさり認めた。
「でも、今は言えません」
「なぜ」
「言えば、私も死ぬかもしれないからです」
江口は胸の奥が冷えるのを感じた。
二階堂が一歩近づく。
「誰に殺される」
「分かりません」
「分からない?」
「この村では、誰が誰を殺してもおかしくありません」
百鬼はそう言って、障子の向こうへ視線を向けた。
「それくらい、先生は上手に種を蒔きました」
*
逆さ屏風の支度は、龍崎家の奥座敷ではなく、離れの座敷で行われるという。
忌部多門が死んだ離れとは別の建物だった。母屋から見て北側、竹林に面した古い座敷。普段は使われていないらしく、廊下には薄く埃の匂いがした。
江口たちは百鬼に案内され、雨の吹き込む渡り廊下を進んだ。
足元の板は湿っている。外では竹がしなり、風のたびに葉が擦れる音を立てていた。夜の竹林は、暗闇そのものが細く裂けているように見える。
二階堂は歩きながら言った。
「全員を集めているのか」
「主だった方だけです」
百鬼が答える。
「神代征十郎、黒御門緋紗子、犬神家の者、薬師丸先生、鴉丸鏡花さん」
「薬師丸」
江口が反応した。
「村の診療所の先生ですか」
「はい。犬神さんと忌部さんの死亡確認をした方です」
「忌部さんも?」
二階堂が聞く。
「ええ。五十嵐先生の確認のあと、薬師丸先生も見ました」
「所見は」
「毒だろう、と」
「何の毒かは」
「詳しいことは検査しないと分からないそうです」
五十嵐が小さく言った。
「本当に分からないのか、分からないことにしているのか」
江口は五十嵐を見た。
「疑ってます?」
「全員を」
「正しいけど嫌な答えですね」
「江口先生は、疑うのが遅いです」
「よく言われます」
「誰に」
「死んだ先生に」
五十嵐はそれ以上言わなかった。
離れの座敷は、母屋よりさらに古かった。
八畳二間を続きにした広い空間で、奥には床の間がある。壁は薄く煤け、天井は低い。畳は新しいものに替えられているが、部屋そのものの古さは隠せていない。
座敷の中央に、屏風が置かれていた。
金屏風ではない。
古い、黒ずんだ屏風だった。地は焦げ茶色で、ところどころに金泥のような模様が残っている。描かれているのは山と川、そして葬列らしき人影だった。だが、屏風は普通とは逆に置かれている。絵の天地が逆になり、山は下から生え、川は天井へ流れているように見えた。
逆さ屏風。
見ただけで、江口は嫌な圧を感じた。
部屋にはすでに何人かが集まっていた。
黒御門緋紗子は屏風のそばに座っている。神代征十郎は床の間に近い位置で腕を組んでいた。白髪交じりの髪を撫でつけ、眉間に深い皺を寄せている。犬神家の若い男が二人、座敷の端にいる。怒りを押し殺したような顔だった。
そして、白衣の上に黒い羽織を重ねた男がいた。
薬師丸誠一。
四十代後半ほど。痩せた頬に、細い眼鏡。医者というより、古い薬品棚の前に立っている研究者のような雰囲気だった。目の下に疲労があり、指先が落ち着きなく動いている。
もう一人、窓際に女が座っていた。
百鬼夜子より若い。三十代後半。喪服姿だが、髪はきちんとまとめられ、背筋も伸びている。顔立ちは整っているが、そこには硬い影があった。
「鴉丸鏡花さんです」
百鬼が小声で言った。
「小夜子さんのお姉さん」
江口は鏡花を見た。
鏡花は、江口の視線に気づいても目を逸らさなかった。
その目は、悲しみというより、長い時間をかけて固まった怒りに近かった。
緋紗子が口を開く。
「お集まりいただき、ありがとうございます」
二階堂はすぐに言った。
「儀式を続けることには反対です」
「承知しております」
「承知しているなら、止めてください」
「止めれば、誰かが勝手に進めます」
「誰かとは」
「先生の葬儀を終わらせたい者です」
「犯人のことですか」
緋紗子は答えなかった。
神代征十郎が苛立ったように言った。
「二階堂さん。あなたは警察の人間かもしれんが、ここでは村のやり方がある」
「その村のやり方で二人死んでいます」
「村のやり方で死んだのではない。誰かが村のやり方を汚している」
「同じことです」
神代の顔が険しくなる。
「よそ者には分からん」
「分からないから調べています」
二階堂の声は静かだった。
その静けさが、かえって座敷を緊張させる。
江口は屏風を見た。
逆さになった葬列。逆さになった山。上へ流れる川。
その向こうに、人が立っているような気がした。
当然、錯覚だ。屏風の裏には何もない。座敷の照明が弱く、影が濃いせいでそう見えただけだ。
だが、江口はその感覚を拭えなかった。
この屏風は、何かを隠すために立っている。
龍崎のノートの一文が蘇る。
『小夜子は屏風の向こう側に立たされた』
緋紗子が屏風の前に手を置いた。
「逆さ屏風は、生者と死者の位置を反転させるためのものです」
彼女の声は、低く、よく通った。
「死者がこちら側に来るのではありません。生者が、自分たちの立っている場所を疑うためのものです」
「宗教講話なら後にしてくれ」
神代が吐き捨てるように言った。
「時間がない」
その言葉に、江口は引っかかった。
時間がない。
何の時間だ。
二階堂も気づいたようだった。
「神代さん。時間がないとは」
「県道が落ちた。村を立て直す手配が要る」
「夜中に?」
神代は口を閉ざした。
その時、薬師丸誠一が咳払いをした。
「村長、二階堂さんの言うことももっともです。今夜は全員、一か所に集まった方がいい。単独行動は危険です」
「医者らしい意見だな」
神代の声には皮肉があった。
薬師丸は苦笑した。
「医者は生きている人間を減らしたくありませんので」
江口は薬師丸を見た。
言葉は穏やかだ。だが、目が落ち着かない。彼の視線は、何度も屏風へ向いている。忌部が死装束を見ていた時と似ていた。
怖がっている。
薬師丸もまた、何かを怖がっている。
「薬師丸先生」
江口は声をかけた。
「何でしょう」
「犬神さんと忌部さんの死因について、何か気づいたことはありませんか」
薬師丸は一瞬だけ目を細めた。
「検査設備がないので、断定はできません」
「断定ではなく、気づいたことで構いません」
「犬神さんは溺死のように見えた。忌部さんは中毒死の可能性が高い。今言えるのはそれだけです」
「龍崎先生の死因は?」
座敷の空気が硬くなった。
薬師丸の顔から、ほんの少し血の気が引いた。
「龍崎先生は、病死です」
「診たんですか」
「ええ」
「いつ」
「亡くなる前から、何度か」
「病名は」
「個人情報です」
二階堂が低く言った。
「死亡診断書を書いたのはあなたですね」
「そうです」
「警察が来たら確認します」
「もちろん」
薬師丸は頷いた。
だが、その指先は震えていた。
五十嵐がそれを見ている。
江口は、背中に嫌なものが走るのを感じた。
薬師丸は何かを隠している。
それが犬神や忌部の死に関わることなのか、龍崎の死に関わることなのかは分からない。
しかし、この男は嘘をついている。
江口はそう思った。
*
逆さ屏風の儀は、始まる前に中断された。
中断させたのは二階堂だった。
「今夜は全員を母屋に集めます」
彼はそう宣言した。
神代征十郎は反発したが、犬神家の若い男たちが「これ以上死者を出したくない」と言い出したことで、場の流れが変わった。百鬼夜子も、旅館に戻るのは危険だと言った。鴉丸鏡花は黙ったままだったが、席を立つ様子はなかった。
緋紗子は最後まで反対しなかった。
ただ、屏風を見つめていた。
江口はその横顔に、不思議な違和感を覚えた。
緋紗子は儀式を止めたくないはずだった。だが、今は止められることを予想していたようにも見える。あるいは、止められること自体が予定の一部なのか。
この村に来てから、江口は何度も同じ感覚を味わっている。
自分たちは何かを選んでいるつもりで、実はすでに誰かが敷いた道の上を歩かされているのではないか。
龍崎征臣。
その名が、また頭に浮かんだ。
母屋へ戻る前に、二階堂は座敷全体を確認した。
屏風。床の間。雨戸。障子。押し入れ。囲炉裏跡。
五十嵐は囲炉裏跡の前で足を止めた。
「使われていないんですか」
百鬼が答えた。
「今はほとんど。ただ、昔はこの離れで人を泊めることもあったので」
「灰が新しい」
五十嵐が言った。
「え?」
「表面だけ、少し動いています」
二階堂が近づく。
「最近使ったということ?」
「火を入れたか、灰を入れ替えたか。断定はできません」
「またそれか」
江口が言うと、五十嵐は淡々と返した。
「断定できないことを断定する人間の方が危険です」
「それはそう。……九条みたいなことを言うね」
二階堂は囲炉裏跡を覗き込んだ。
「炭の匂いは?」
五十嵐は少し顔を近づけた。
「薄いですが、あります。ただ、古い匂いではないかもしれません」
「覚えておく」
江口は屏風を見ていた。
古い屏風の脚の部分に、小さな傷があった。畳に擦れたような横方向の傷だ。逆さに立てるために動かした時についたのだろうか。
いや、違う。
傷は新しすぎる。
江口はしゃがんだ。
「二階堂」
「触るなよ」
「まだ何も言ってない」
「お前のしゃがみ方は、何か触る前の動きだ」
「信用がない」
「事実だ」
江口は屏風の脚を指した。
「ここ、新しい傷があります」
二階堂と五十嵐が見る。
五十嵐は頷いた。
「横方向に引きずった跡ですね」
「さっき設置した時についたんじゃないの」
二階堂が言うと、百鬼が首を振った。
「緋紗子さんたちは、屏風を持ち上げて運んでいました。畳を傷めないように」
江口は屏風の裏側を見ようとした。
その瞬間、緋紗子が静かに言った。
「屏風の裏には、まだ触れない方がよろしいかと」
江口は振り返った。
「何かあるんですか」
「逆さ屏風の裏側は、死者の側です」
「そういう話じゃなくて」
「ならば、何の話でしょう」
江口は言葉に詰まった。
緋紗子は穏やかに見える。
だが、その穏やかさが壁のようだった。
二階堂が間に入る。
「今は全員、母屋へ戻る。屏風の周辺はこのままにしてください。誰もこの離れに入らないように」
「承知しました」
緋紗子は頷いた。
あっさりしすぎていた。
江口は、屏風をもう一度見た。
逆さになった葬列の絵。
その中に、一人だけこちらを見ているような人物が描かれている。暗くて顔までは見えない。ただ、そう見えた。
江口は嫌な予感を振り払うように、座敷を出た。
*
母屋の大広間に参列者たちが集められた。
夜は深まっていた。
時計は九時を少し過ぎている。だが、誰も眠れそうになかった。灯油ストーブが二台置かれ、湯呑みと握り飯が配られた。葬式の場というより、災害時の避難所に近い。
死者が二人出ている。
それでも、人間は腹が減る。
江口は握り飯を手にしたまま、食べられずにいた。白い飯を見ると、どうしても小夜子の枕飯を思い出す。
五十嵐が隣に座る。
「食べた方がいいです」
「五十嵐先生もそれ言うんですね」
「低血糖になると判断力が落ちます」
「感情じゃなくて血糖値の話か」
「感情で食べられない時は、理屈で食べるしかありません」
江口は握り飯を見た。
「理科教師って、優しいのか冷たいのか分かりませんね」
「必要ならどちらでも」
「便利ですね」
「不便ですよ」
五十嵐はそう言って、自分の握り飯を一口食べた。
二階堂は広間の入口に立ち、全体を見ている。警察官としての癖なのだろう。誰がどこに座っているか、誰が誰と話しているか、誰が目を逸らしているか。すべてを記録しているようだった。
神代征十郎は奥に座っている。
黒御門緋紗子は少し離れた場所で、背筋を伸ばしている。
薬師丸誠一は壁際にいた。湯呑みに口をつけるが、ほとんど飲んでいない。彼のそばには誰も座っていなかった。
鴉丸鏡花は窓際にいる。百鬼夜子が何か声をかけているが、鏡花は返事をしていない。
犬神家の若い男たちは、忌部の死について低い声で話している。怒りはあるが、誰へ向ければいいか分からない怒りだった。
江口は、龍崎のノートを膝の上に置いていた。
小夜子は屏風の向こう側に立たされた。
こちら側にいた大人たちは、誰も彼女を見なかった。
この一文が頭から離れない。
「江口先生」
五十嵐が小さく言った。
「はい」
「薬師丸先生、さっきから何度も時計を見ています」
江口は薬師丸の方を見た。
たしかに、彼は壁の時計へ何度も視線を向けている。落ち着きがない。何かの時間を気にしている。
「診療所に戻りたいとか?」
「戻らせるべきではありません」
「二階堂に言います」
江口が立ち上がろうとした時だった。
薬師丸が席を立った。
彼は周囲を見回し、誰とも目を合わせずに廊下へ向かう。
二階堂がすぐに反応した。
「薬師丸先生。どちらへ」
「厠です」
薬師丸は振り返らずに言った。
「一人では行かないでください」
「子どもじゃありません」
「人が二人死んでいます」
「すぐ戻ります」
二階堂が追おうとした。
その時、犬神家の若い男が怒鳴った。
「おい、神代! うちの親父の件、どうするつもりだ!」
広間の空気が一気に荒れた。
神代征十郎が立ち上がる。犬神家の男たちも立つ。二階堂がそちらを一瞬見る。そのわずかな間に、薬師丸は廊下へ消えた。
「桜次郎、五十嵐先生」
二階堂が短く言った。
「薬師丸さんを追ってくれ」
「了解」
江口と五十嵐は廊下へ出た。
薬師丸の姿はすでにない。
廊下は薄暗く、風で障子がかすかに鳴っている。奥へ進むと、厠への曲がり角がある。だが、そこには誰もいなかった。
「薬師丸先生」
江口が呼んだ。
返事はない。
五十嵐が床を見る。
「足跡が」
「分かるんですか」
「廊下が少し濡れています。外から戻った人が多いので、完全ではありませんが」
彼はしゃがみ、廊下の板を見た。
「厠ではなく、渡り廊下の方へ行っています」
渡り廊下。
江口は嫌な予感を覚えた。
「離れ?」
「おそらく」
二人は走った。
雨音が近づく。
渡り廊下に出ると、風が吹き込んだ。足元が濡れている。薬師丸の姿は見えない。だが、北側の離れへ続く戸が、わずかに開いていた。
逆さ屏風の離れ。
江口の喉が鳴った。
「五十嵐先生」
「はい」
「嫌な予感、します?」
「しています」
「理科的に?」
「人間的に」
二人は離れへ向かった。
座敷の前に着く。
障子は閉まっていた。
中から、灯りが漏れている。
江口はゆっくり息を吸った。
「薬師丸先生」
返事はない。
五十嵐が障子に手を近づけ、触れずに止めた。
「待ってください」
「何ですか」
「匂いが」
江口も気づいた。
焦げた匂い。
濃くはない。だが、確かに炭のような匂いがする。
五十嵐の顔が強張った。
「開けます。低い姿勢で」
「何で」
「一酸化炭素の可能性があります」
江口の背筋に冷たいものが走った。
五十嵐は障子を開けようとした。
だが、開かなかった。
「内側から何かで塞がれています」
「また?」
江口は思わず呟いた。
五十嵐は障子の隙間を見る。
「鍵はありません。でも、重いものが寄せられている」
「薬師丸先生!」
江口は強く呼んだ。
返事はない。
その時、廊下の向こうから二階堂が走ってきた。
「どうした」
「薬師丸先生が中にいるかもしれない。障子が開かない。焦げた匂いがします」
二階堂の顔が変わった。
「窓へ回る」
「雨戸が閉まっていたら」
「壊す」
三人は外へ回った。
雨は相変わらず強い。竹林が風に揺れ、闇の中でざわざわと鳴っている。座敷の外側に回ると、雨戸は閉まっていた。だが、完全には閉まりきっていない。
二階堂が力を込める。
雨戸は軋みながら動いた。
隙間が開く。
五十嵐が顔を背けて言った。
「すぐに中の空気を出してください。吸い込まないように」
二階堂が窓を開けた。
中から、焦げた匂いが流れてくる。
数分待つ余裕はなかった。
二階堂がハンカチで口元を押さえ、中を覗く。
次の瞬間、彼の表情が固まった。
「いた」
江口は窓の隙間から座敷を見た。
薬師丸誠一が倒れていた。
座敷の中央。逆さ屏風の前。
体は横向きに崩れ、片手が畳を掻いたように伸びている。眼鏡は外れ、近くに落ちていた。口元には泡はない。だが顔色は灰色で、明らかに生気がない。
そして、彼の前に逆さ屏風が立っていた。
屏風の裏側には、赤い文字があった。
先生を返せ。
江口は、それを見た瞬間、胸の奥が冷え切るのを感じた。
死者と生者の位置が逆になる。
逆さ屏風。
七葬返しは、また一つ進んだ。
*
座敷に入るまでに、さらに数分を要した。
五十嵐が換気を強く主張したからだ。一酸化炭素の危険がある以上、慌てて飛び込むわけにはいかなかった。二階堂は歯噛みしながらも従った。命を救う可能性と、二次被害を防ぐ必要。その両方を考えなければならないのが現実だった。
ようやく座敷へ入った時、薬師丸誠一はすでに死亡していた。
五十嵐が最低限の確認をし、首を横に振る。
二階堂は低く息を吐いた。
「三人目か」
江口は何も言えなかった。
座敷の様子は異様だった。
障子の内側には、重い座卓が倒れるように寄せられていた。外から開かなかったのはそのせいだ。雨戸は内側から閉められていた。出入口は塞がれ、窓も閉じられていた。
部屋の中央に薬師丸の死体。
その前に逆さ屏風。
屏風の裏には赤い文字。
先生を返せ。
床の間の横にある古い囲炉裏跡には、灰が入っている。その灰の一部から、細い煙がまだ立っていた。火はほとんど消えているが、炭が残っている。
五十嵐が囲炉裏の前でしゃがんだ。
「炭です」
「やはり一酸化炭素か」
二階堂が言う。
「可能性は高いです。換気が悪い状態で炭を燃やせば、短時間でも危険です」
「薬師丸先生は自分で入ったのか?」
「それは分かりません。ただ、部屋の内側から閉じられた形にはなっています」
江口は障子を見た。
「自分で障子の前に座卓を倒した?」
「苦しんで倒れた時に、結果的に塞いだ可能性もあります」
五十嵐が言った。
「でも、それにしては位置が良すぎます」
二階堂は室内を見回した。
「密室に見えるな」
「見えるだけです」
五十嵐の声は冷静だった。
「この部屋は、密室じゃありません」
江口は彼を見た。
五十嵐は囲炉裏の灰を見つめたまま言った。
「実験装置です」
その言葉に、江口はぞっとした。
実験装置。
人間を殺すために、部屋全体が組み立てられていた。
五十嵐は続けた。
「隙間が塞がれています。障子の戸袋、窓枠、換気口。紙や布が詰められている。普通の古い座敷なら、ここまで気密性はありません」
二階堂が確認する。
確かに、窓枠の隙間には白い紙が詰められていた。障子の戸袋にも、畳の縁にも、細く裂いた紙のようなものが押し込まれている。
「誰かが事前に準備した」
「はい」
五十嵐は囲炉裏を見た。
「しかも、さっき逆さ屏風の支度でこの部屋に来た時には、ここまで強い匂いはありませんでした」
「炭はその後に?」
「あるいは、灰の下に仕込まれていて、時間差で燃えるようにされていたか」
二階堂が低く言った。
「薬師丸先生は、なぜここへ来た」
江口は薬師丸の死体の手元を見た。
何かを握っている。
「二階堂」
彼が指すと、二階堂が近づいた。
薬師丸の右手には、小さな鍵が握られていた。古い木箱の鍵のようにも見える。
五十嵐が言った。
「龍崎先生の遺品箱のものでは?」
「いや」
江口は首を振った。
「俺たちが持っている鍵とは違う」
二階堂が布越しに確認する。
「離れの保管箱かもしれない」
江口は室内を見回した。
床の間の脇に、小さな木箱が置かれている。さっき来た時には気づかなかった。いや、あったのかもしれないが、屏風に気を取られて見落としていた。
木箱の蓋は開いている。
中は空だった。
二階堂が目を細める。
「薬師丸先生はこの箱を開けた」
五十嵐が薬師丸の爪を見た。
「爪に埃が入っています。古い箱を触った跡でしょう」
江口は木箱を見つめた。
「中に何があったんだろう」
「それを取りに来たか、見に来たか」
二階堂が言った。
「あるいは、取らせるために呼び出された」
その時、江口は屏風の赤い文字を見た。
先生を返せ。
整いすぎている。
怒りで書いた字ではない。むしろ、見せるために丁寧に書かれている。線の太さも揃っているし、文字の位置も屏風の中央に収まっている。
「これ」
江口は呟いた。
「血じゃないかもしれない」
二階堂が振り返る。
「なぜ」
「怒ってる人の字に見えない。整いすぎてる」
「字の問題か」
「教師は字を見ます」
五十嵐が屏風に近づき、匂いを確かめる。ただし、触れない。
「鉄の匂いは薄いです。血液ではない可能性があります。顔料か、紅殻を溶いたものかもしれません」
「紅殻」
江口は緋紗子の言葉を思い出した。
葬儀に使う赤い顔料。
この村なら、手に入る。
つまり、血文字に見えるものさえ、演出かもしれない。
二階堂は低く言った。
「犯人は、見せ方を知っている」
江口は答えた。
「先生みたいに?」
言ってから、後悔した。
二階堂も五十嵐も、すぐには返事をしなかった。
座敷の外で足音がした。
村人たちが集まってきている。
神代征十郎、黒御門緋紗子、百鬼夜子、鴉丸鏡花、犬神家の若い男たち。
そして彼らは、逆さ屏風の前に倒れた薬師丸の死体を見た。
誰かが呻くように言った。
「逆さ屏風だ」
また、順番が確認された。
江口はその声を聞きながら、目を閉じた。
湯灌。
死装束。
枕飯。
逆さ屏風。
死体が増えるたび、村人たちは驚くのではなく、儀式の名を口にする。
まるで、死者に名前を与えることで、自分たちの恐怖を整理しているようだった。
緋紗子が部屋の入口に立つ。
彼女は薬師丸の死体を見つめ、次に屏風の文字を見た。
「薬師丸先生も、向こう側へ行かれたのですね」
江口は堪えきれずに言った。
「向こう側って何ですか」
緋紗子は江口を見た。
「死者の側です」
「殺されたんです」
「はい」
「それを儀式の言葉で片づけないでください」
「片づけてなどおりません」
緋紗子の声は静かだった。
「儀式の言葉でしか、見えないものもあります」
「人が三人死んでるんですよ」
「ええ」
「あなたは怖くないんですか」
緋紗子は少し黙った。
そして言った。
「怖いですよ」
初めてだった。
彼女の声に、ほんのわずか人間らしい揺れが混じったのは。
「怖いから、見届けるのです」
「何を」
「先生が、最後に何を返そうとしているのかを」
江口は言葉を失った。
龍崎征臣の遺影はここにはない。
だが、この座敷にも確かに彼の目があるようだった。
薬師丸の手に握られた鍵。
空の木箱。
囲炉裏の灰。
塞がれた隙間。
赤い文字。
逆さの屏風。
先生を返せ。
誰が誰に向けて書いた言葉なのか。
小夜子が龍崎に言っているのか。
村が龍崎に言っているのか。
それとも、龍崎自身が、自分をこの村へ返せと言っているのか。
分からない。
だが一つだけ分かった。
この事件は、死体を増やしているだけではない。
龍守村の過去を、死体の形で並べ直している。
その中心に、龍崎征臣がいる。
二階堂が江口の肩に手を置いた。
「戻るぞ。ここも封鎖する」
「うん」
「顔色が悪い」
「さすがにね」
「倒れるなよ」
「努力する」
「努力じゃなくて命令」
江口はかすかに笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
座敷を出る直前、江口はもう一度だけ屏風を見た。
逆さになった葬列。
赤い文字。
先生を返せ。
その文字の下、屏風の端に、小さな紙片が挟まっているのが見えた。
「待って」
二階堂が振り返る。
「どうした」
「屏風の端に何かある」
二階堂が慎重に近づき、布越しに紙片を抜き取った。
そこには、龍崎征臣の字で一行だけ書かれていた。
――薬師丸は、死因を書き換えた。
江口は、その文字を見た瞬間、息が止まった。
死因。
誰の死因か。
犬神か。忌部か。小夜子か。
それとも。
「龍崎先生の死因……」
五十嵐が呟いた。
緋紗子が目を伏せた。
神代征十郎の表情が、初めてはっきりと歪んだ。
百鬼夜子は、唇を噛んでいる。
鴉丸鏡花だけが、静かに笑った。
それは、喜びではない。
ようやくここまで来た、という笑みだった。
江口は紙片を見つめた。
龍崎征臣は病死した。
そう聞かされていた。
だが今、この紙は言っている。
薬師丸は、死因を書き換えた。
つまり、先生の死そのものが嘘かもしれない。
外では雨が降り続いている。
村は閉じている。
警察は来ない。
七葬返しは、また一つ進んだ。
そして江口は、初めてはっきりと感じた。
自分たちは龍崎の葬式に呼ばれたのではない。
龍崎征臣という死者を、もう一度殺すための場所に呼ばれたのだ。




