第四章 枕飯の空席
鴉丸小夜子。
その名が座敷に置かれた瞬間、龍守村の空気は確かに変わった。
犬神宗久が死んだ時、村人たちは恐れた。忌部多門が死装束を着て息絶えた時、村人たちは怯えた。だが、小夜子という名前に対する反応は、そのどちらとも違っていた。
恐怖ではない。
驚きでもない。
もっと古いものだった。
土の下に埋めたはずのものを、雨が洗い出してしまった時の沈黙。そういう沈黙だった。
江口桜次郎は、座敷の中央に置かれた二つの枕飯を見ていた。
一膳は龍崎征臣のもの。白い飯に、箸が一本まっすぐ立てられている。葬式の場にあるべき供え物だった。
もう一膳は、その隣に置かれていた。
同じように飯が盛られ、同じように箸が立てられている。だが、その飯の表面は乾いていた。白い粒の輪郭が少し硬くなり、箸の根元に細い亀裂が入っている。
五十嵐理人が言った通り、置かれた時間が違う。
龍崎のための膳よりも古い。
つまり誰かは、犬神宗久が死ぬ前から、あるいは忌部多門が死ぬ前から、このもう一つの枕飯を用意していたことになる。
紙片には、細い筆跡で名前が書かれている。
鴉丸小夜子。
江口はその名前から目を離せなかった。
「百鬼さん」
二階堂壮也が静かに声をかけた。
百鬼夜子は座敷の入口に立ったまま、動けずにいた。いつも柔らかく浮かべていた笑みは消えている。旅館の女将として客の間を滑るように歩いていた時の余裕もない。濡れたような目で、二つ目の枕飯だけを見ている。
「知っている名前ですね」
二階堂の問いに、百鬼は答えなかった。
その沈黙が、肯定だった。
座敷にいた村人たちの視線が、百鬼に集まる。だが誰も問い詰めない。むしろ、問いが言葉になる前に飲み込もうとしている。そこにいる全員が、小夜子という名前を聞きたくなかったのだ。
江口は、背後の遺影を見た。
龍崎征臣は、変わらず静かに微笑んでいる。
あの人は、この名が出ることを知っていたのだろうか。
いや、知っていたのではない。
出したのだ。
江口の中で、その感覚が少しずつ形になりつつあった。
犬神宗久の懐から出た紙。
忌部多門へ宛てられた手紙。
そして、小夜子のために置かれた枕飯。
すべてが龍崎の死後に動き出している。けれど、それぞれの仕掛けは、龍崎が生きているうちに用意しなければ成立しないものばかりだった。
死者は何もできない。
それでも龍崎征臣は、死んだあとに人を動かしている。
「その名前を」
百鬼がようやく口を開いた。
声は掠れていた。
「どこで」
「こちらが聞きたい」
二階堂が言った。
「鴉丸小夜子とは誰ですか」
百鬼は唇を閉ざした。
代わりに、別の男が低く言った。
「昔の話だ」
神代恒成だった。
彼は座敷の端に立ち、青ざめた顔でこちらを見ている。村長の甥。湯屋の閂を外した男。今は、葬儀を取り仕切る側の人間として振る舞おうとしているが、視線が定まっていない。
二階堂は神代へ目を向けた。
「昔の話なら、説明できますね」
「説明するようなことではありません」
「人が二人死んでいるんです」
「小夜子は関係ありません」
その言い方は、あまりに早かった。
江口は思わず口を挟んだ。
「今、関係ないと決める方が不自然です」
神代は江口を睨んだ。
「あなたは部外者です」
「そうですね」
江口は頷いた。
「だからこそ、分かります。部外者に知られたくない名前なんですね」
神代の顔が歪んだ。
座敷のあちこちで、小さな息遣いが聞こえた。誰かが畳の上で指を握り込む。誰かが目を逸らす。誰かが、龍崎の遺影を見る。
二階堂が低く言った。
「小夜子さんは亡くなっているんですか」
誰も答えない。
「失踪ですか」
やはり誰も答えない。
「戸籍上は」
その言葉に、神代の肩がわずかに動いた。
二階堂はそれを見逃さなかった。
「戸籍上は生きているんですね」
「……昔、村を出た娘です」
神代は絞り出すように言った。
「それだけです」
「村を出た娘に、枕飯を供えるんですか」
江口が聞くと、神代は黙った。
五十嵐が膳に近づいた。ただし、触れない。目だけで観察する。
「この枕飯、龍崎先生のものより先に置かれています」
「分かるんですか」
百鬼が聞いた。
五十嵐は頷く。
「表面の乾き方が違います。部屋の湿度が高いので断定は避けますが、少なくとも同時ではありません」
「誰が置いたんです」
二階堂が座敷を見回した。
誰も答えない。
その時、廊下の奥から黒御門緋紗子が現れた。
彼女は騒ぎを聞いて来たのではなく、騒ぎの中心へ戻ってきただけのように見えた。喪服は乱れていない。顔色も変わらない。
緋紗子は座敷へ入り、二つ目の枕飯を見た。
そして、ゆっくりと目を伏せた。
「置かれたのですね」
二階堂が振り返る。
「知っていたんですか」
「枕飯の儀では、死者に供物を捧げます」
「小夜子さんは死者なんですか」
緋紗子は答えなかった。
江口はその横顔を見つめた。
「あなたも、この名前を知っている」
「龍守村の者なら」
「全員知っているんですか」
「忘れた者もおります」
「忘れたふりをしているだけでは」
緋紗子の視線が江口に向いた。
それは怒りではなかった。だが、温度が下がったのが分かった。
「江口様は、教師でいらっしゃる」
「はい」
「生徒の名前を、忘れたことはありますか」
江口はすぐには答えられなかった。
何年も前の生徒。数週間だけ受け持った生徒。赴任直後に転校していった生徒。授業で一度しか顔を合わせなかった生徒。正直に言えば、すべての名前を覚えているわけではない。
だが、忘れていい名前などない。
教師は、その矛盾の上に立っている。
「忘れたくない名前はあります」
江口は言った。
緋紗子はわずかに頷いた。
「小夜子様は、龍崎先生にとって、そのような名前だったのでしょう」
「先生の教え子だったんですか」
江口が聞くと、座敷の奥で百鬼が小さく息を呑んだ。
緋紗子は静かに言った。
「はい。龍守村分校の生徒でした」
龍守村分校。
江口は木箱の中の三冊目のノートを思い出した。
鍵のかかったノート。表紙に何も書かれていない、龍守村分校時代の記録。
あのノートの中に、この名前がある。
そう直感した。
「先生は、分校にもいたんですね」
五十嵐が言った。
「短い間です」
緋紗子は答えた。
「ただし、あの方がこの村へ残したものは、決して短くありませんでした」
「どういう意味ですか」
江口の問いに、緋紗子は答えなかった。
代わりに、神代恒成が苛立った声を出した。
「もういいでしょう。小夜子の名は、葬儀には関係ありません」
「関係ない名前が枕飯に添えられるわけがない」
二階堂が言う。
「神代さん。過去帳を見せてください」
「過去帳?」
「この村の死者を記録したものです。寺か、葬送を預かる家にあるはずだ」
神代は緋紗子を見た。
緋紗子は少しの間を置いてから、頷いた。
「黒御門家にございます」
「見せてもらいます」
「構いません。ただし、古いものですので、扱いにはお気をつけください」
二階堂は江口と五十嵐を見た。
「行くぞ」
江口は頷いた。
その時、百鬼夜子が小さな声で言った。
「見ても、何も分かりませんよ」
二階堂が立ち止まる。
「なぜ」
「この村の帳面は、書かれていることより、書かれていないことの方が多いからです」
「なら、なおさら見る必要がある」
百鬼はそれ以上何も言わなかった。
ただ、枕飯の前に残された小夜子の名を、痛ましいものを見るように見つめていた。
*
黒御門家は、龍崎家から歩いて五分ほどの場所にあった。
だが、雨の中を歩く五分は長かった。
山から吹き下ろす風が傘を揺らし、足元の泥が跳ねる。道は石畳だが、ところどころ苔が生えて滑りやすい。夜が近づき、村全体が薄暗い青に沈んでいた。街灯は少ない。家々の窓から漏れる明かりだけが、雨にぼやけている。
黒御門家は、神社の隣にあった。
神社といっても、観光地にあるような明るさはない。低い鳥居。雨で黒ずんだ石段。苔むした狛犬。奥にある社殿は小さく、古い。山の影に半分飲まれているように見えた。
その隣に、黒御門家の屋敷があった。
龍崎家ほど大きくはない。だが、こちらの方が古い。屋根は低く、外壁は黒く、窓は少ない。人が住む家というより、何かを保管するための建物のようだった。
緋紗子が先に立ち、引き戸を開けた。
「どうぞ」
中は静かだった。
線香とも、古紙とも、湿った木ともつかない匂いがする。玄関から奥へ続く廊下には、白い布で覆われた棚が並んでいた。布の下には箱や祭具が置かれているのだろう。江口はその形を何となく目で追ったが、緋紗子に「触れないでください」と言われる前に手を引っ込めた。
「何もしてませんよ」
「しそうなお顔でした」
「僕ってそんなに信用ないですか」
「好奇心のある方は、葬儀の場では危ういものです」
二階堂が横から言った。
「否定できないな」
「親友なら否定しろよ」
「親友だから正直に言ってる」
五十嵐が小さく笑った。
緋紗子は廊下の奥の部屋へ三人を案内した。
そこは書庫だった。
壁一面に古い帳面が並んでいる。厚い和綴じの帳。木箱に入った巻物。年代別に分けられた紙束。どれも保存状態は悪くないが、古さの気配は隠せない。
緋紗子は棚の一角から、一冊の帳面を取り出した。
「これが、ここ三十年ほどの過去帳です」
二階堂が受け取ろうとすると、緋紗子はすぐには渡さなかった。
「机の上でご覧ください」
「ええ」
帳面は低い机の上に置かれた。
緋紗子が手袋を差し出す。三人はそれをはめた。
ページを開くと、墨の文字が並んでいた。
日付。名前。続柄。享年。簡単な死因らしき記述。
老人が多い。病死。事故死。行旅中死亡。古い村らしい記録だった。
二階堂がページをめくる。
「二十年前は」
緋紗子が指で位置を示した。
「このあたりです」
ページが変わる。
二十年前。
そこには、何人もの名前が記されていた。だが、鴉丸小夜子の名はない。
「ないな」
二階堂が言った。
「死亡扱いではないということです」
緋紗子が答える。
「失踪届は」
「当時、家族が出したと聞いております」
「聞いている?」
二階堂の目が鋭くなる。
「あなたは当時、村にいたのでは」
「いました」
「なら、聞いているではなく、知っているのでは」
緋紗子は黙った。
江口はページを覗き込んだ。
小夜子の名はない。
だが、その周辺の記述に妙な空白があった。
一行分だけ、墨が薄く滲んだ場所がある。書き損じを削ったようにも、何かを消したようにも見える。和紙の表面がわずかに荒れている。
「ここ」
江口は指さした。
「何か消してませんか」
二階堂が顔を近づける。
「たしかに」
五十嵐も覗き込んだ。
「紙の繊維が削れていますね。墨を落とそうとした跡かもしれません」
「この行に、小夜子さんの名前があった?」
江口が言うと、緋紗子は答えなかった。
代わりに、廊下の方から低い声がした。
「なかったことにした名前を、今さら掘り返すな」
振り返ると、神代征十郎が立っていた。
村長。
龍崎家の座敷では奥にこもっていた男だ。五十代後半。白髪交じりの髪をきっちり撫でつけ、黒い紋付を着ている。背は高くないが、立っているだけで周囲を抑えるような圧がある。
神代恒成が恐縮していたのとは違う。
この男は、村に命令することに慣れている。
二階堂が言った。
「神代征十郎さんですね」
「そうだ」
「警視庁の二階堂です」
「聞いている」
「鴉丸小夜子さんについて教えてください」
「昔、村を出た娘だ」
「その説明は聞きました」
「なら、それで十分だ」
「十分かどうかを決めるのは、こちらです」
神代の目が冷える。
「ここは東京ではない」
「人が二人死んだ場所でもあります」
「だからこそ、余計な混乱を起こすなと言っている」
二階堂は一歩も引かなかった。
「混乱を起こしているのは、殺人犯です」
「殺人と決まったわけではない」
「少なくとも、忌部多門さんは毒を摂取した可能性が高い」
「医師でもない者が」
五十嵐が静かに言った。
「医師ではありませんが、観察はできます」
神代は五十嵐を見た。
「あなたは」
「五十嵐理人です。龍崎先生の教え子でした」
その言葉に、神代の表情がわずかに変わった。
「そうか。君もか」
君も。
江口はその言葉を聞き逃さなかった。
「神代さん」
江口が口を開いた。
「今、君も、と言いましたね」
「それが何だ」
「龍崎先生の教え子が、他にもいるんですか。この村に」
神代は答えない。
緋紗子は目を伏せている。
二階堂が続けた。
「鴉丸小夜子さんも、龍崎先生の教え子だった」
「……昔の分校でな」
神代はようやく言った。
「だが、それだけだ。教師と生徒など、この国にいくらでもいる」
「その生徒のために枕飯が置かれている」
「誰かの悪戯だ」
「二人死んだ日に?」
「そうだ」
「都合のいい悪戯ですね」
神代は二階堂を睨んだ。
だが、二階堂は怯まない。
江口は過去帳の削られた行を見つめていた。
なかったことにした名前。
神代はそう言った。
村を出た娘ではない。
忘れた娘でもない。
なかったことにした名前。
「小夜子さんは、何をしたんですか」
江口が聞いた。
神代は江口を見た。
「何もしていない」
「なら、なぜ名前を消したんですか」
「消したのではない。最初から書かなかった」
「でも、今あなたは“なかったことにした名前”と言いました」
神代の口元が引き締まる。
江口は続けた。
「名前を記録しないことと、存在を消すことは違います。でもこの村では、同じ意味なんですか」
神代は低く言った。
「教師は言葉をいじるのが好きだな」
「社会科教師なので。記録に残すかどうかで、人の扱いが変わることはよく知っています」
部屋の空気が硬くなる。
江口は自分でも少し驚いていた。
怒っている。
自分は、この村に怒っている。
小夜子という知らない少女の名前が、勝手に消されていたことに。
そして、それを昔の話で済ませようとする大人たちに。
だが、それだけではない。
龍崎征臣がこの村に関わっていたこと。
小夜子が龍崎の教え子だったこと。
その名前が今、龍崎の葬式で戻ってきたこと。
そのすべてが、江口の中の“先生”を揺らしていた。
「龍崎先生は、小夜子さんをどう見ていたんですか」
江口は緋紗子に聞いた。
緋紗子は少し黙った。
「優秀な生徒だったと」
「それだけ?」
「村を出たがっていました」
百鬼の言葉ではない。
緋紗子の口から出たその言葉に、神代が鋭く視線を向けた。
「黒御門」
「隠しても、もう意味はありません」
緋紗子は静かに言った。
「小夜子様は、村を出るはずでした。龍崎先生が、外の学校へ推薦すると約束していたのです」
江口の胸が鳴った。
「先生が」
「はい」
「それで、小夜子さんは出られたんですか」
緋紗子は答えなかった。
答えの代わりに、神代が吐き捨てるように言った。
「出なかった。本人が逃げた」
「逃げた?」
二階堂が聞く。
「夜中に村を出た。それきり戻らん」
「捜索は」
「した」
「どれくらい」
「山を探した。川も探した」
「見つからなかった」
「そうだ」
「だから村を出たことにした」
神代は沈黙した。
江口は、その沈黙の重さを感じた。
小夜子は村を出た。
そう言えば、村は楽だったのだろう。
死体がない。
犯人もいない。
責任もない。
だが、枕飯は死者に供えるものだ。
誰かが今、小夜子を死者として扱っている。
「龍崎先生は、何と言っていたんですか」
江口は聞いた。
「小夜子さんが消えた時」
神代は答えない。
緋紗子が代わりに言った。
「先生は、三日間、山を歩きました」
「一人で?」
「はい。雨の中を」
江口は思わず、窓の外を見た。
今と同じ雨だったのだろうか。
山を歩く龍崎の姿が浮かぶ。傘も差さず、泥に靴を取られながら、生徒の名を呼ぶ姿。
それは、江口の知る先生らしい姿だった。
だが、神代の冷たい声がその像を壊した。
「龍崎は、あの娘を探していたのではない」
江口は神代を見た。
「では、何を」
「自分の失敗を探していた」
神代はそれだけ言って、背を向けた。
二階堂が呼び止める。
「まだ話は終わっていません」
「私は村の葬儀を守らなければならない」
「人が死んでいる」
「だから守るのだ」
神代は部屋を出ていった。
その背中には、明らかな拒絶があった。
江口は息を吐いた。
「この村の人、みんな同じことを言いますね」
「人が死んだから、儀式を守る」
二階堂が言った。
「逆に言えば、儀式が崩れると困るんだろう」
五十嵐が過去帳の削られた行を見つめていた。
「小夜子さんの記録は、ここにはない。でも、どこかには残っているはずです」
「どこに」
江口が聞く。
五十嵐は顔を上げた。
「龍崎先生のノートです」
*
龍崎家へ戻る頃には、夜になっていた。
雨は勢いを増している。山の方では、時折、低い地鳴りのような音がした。雷ではない。どこかで土が崩れているのかもしれない。
母屋に戻ると、参列者たちは夕食どころではなくなっていた。
犬神宗久、忌部多門。
二人の死者が出たことで、龍崎家の座敷は弔いの場所ではなく、避難所に似た空気を帯び始めている。喪服の人々は疲れた顔で座り込み、湯呑みを手にし、互いに低い声で話していた。
だが、小夜子の名が出てから、会話は明らかに少なくなっている。
江口たちは控室へ戻った。
木箱はそのまま置かれていた。
一冊目のノート。
二冊目のノート。
そして鍵のかかった三冊目。
江口は三冊目を手に取った。
表紙には何も書かれていない。黒い布張りのノート。古い錠前がついている。
「鍵は」
二階堂が聞く。
「最初の鍵では開かなかった」
江口は錠前を見た。
小さく、古い。だが、しっかり閉じている。無理に開ければ壊れるだろう。
五十嵐が言った。
「忌部さんの部屋にあった手紙」
「それが?」
「あの手紙の封筒、少し膨らんでいませんでしたか」
二階堂が顔を上げる。
「鍵が入っていた可能性か」
「はい」
「現場に戻る」
「今?」
江口が聞くと、二階堂は頷いた。
「警察が来るまで動かさないのが原則だが、鍵が犯人に回収されたら終わる。現場確認の範囲で探す」
三人は再び離れへ向かった。
忌部の遺体は、まだ部屋の中央にある。白い死装束が薄明かりに浮かび、畳に落ちた影が異様に濃い。江口はできるだけ死体を直視しないようにしたが、それでも視界の端に白い布が入る。
二階堂は手袋をはめ、封筒の周辺を確認した。
便箋。封筒。倒れた盃。座卓。死装束の紐。畳にこぼれた酒。
五十嵐が部屋の隅を見ていた。
「ありました」
小さな声だった。
彼は畳の縁を指さす。
そこに、真鍮の小さな鍵が落ちていた。死装束の袖から滑り落ちたのかもしれない。畳の色に紛れて、注意しなければ見逃す位置だった。
二階堂が布越しに拾う。
「三冊目の鍵か」
江口は頷いた。
「たぶん」
「戻るぞ」
控室へ戻り、鍵を錠前に差し込む。
江口は自分の指先が冷えていることに気づいた。
かちり。
小さな音を立てて、錠前が開いた。
江口はゆっくりとノートを開いた。
最初のページには、龍崎の字があった。
『龍守村分校 観察記録』
その下に、数人の生徒の名前が並んでいる。
江口はページをめくった。
神代拓馬。
鴉丸小夜子。
黒御門緋紗子。
犬神修一。
忌部澪。
江口は目を止めた。
「緋紗子さんも?」
二階堂が覗き込む。
「黒御門緋紗子。年齢的に、当時は中学生か高校生くらいか」
「龍崎先生の教え子だったんだ」
江口は呟いた。
あの女も、先生の教え子。
龍崎を“先生”と呼ぶ理由が、ようやく見えた。
だが、問題はそこではなかった。
鴉丸小夜子の欄。
そこには、他の生徒よりも多くの記述があった。
『成績優秀。村外への進学を強く希望。家庭環境に問題あり。姉、鏡花との関係は良好。村の三家に対する不信感が強い』
次の行。
『小夜子は、村を出せば生きる。村に残せば壊れる』
江口の喉が鳴った。
さらにめくる。
『推薦状、準備済み』
その下に、別の筆跡で走り書きがある。龍崎の字より乱れている。だが、同じ人物が急いで書いたもののようにも見える。
『小夜子は消えたのではない』
江口は息を止めた。
次の行。
『私が、村に返した』
部屋の空気が止まった。
二階堂は何も言わなかった。
五十嵐も、顔を動かさない。
江口はその一文を見つめ続けた。
小夜子は消えたのではない。
私が、村に返した。
意味は分からない。
だが、嫌な意味しかないことは分かった。
「先生」
江口の声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
「これは、どういう意味ですか」
当然、答えはない。
だが、ノートの続きには、まだ龍崎の文字が並んでいた。
江口は、ページをめくるのが怖くなった。
救われた相手を疑えない。
その言葉が、また胸の奥で響く。
二階堂が静かに言った。
「桜次郎。読むぞ」
「……分かってる」
「無理なら俺が読む」
「無理だから、俺が読む」
二階堂は何も言わなかった。
江口は次のページを開いた。
そこには、短い一文だけが書かれていた。
『七葬返しが始まれば、小夜子は戻る』
その瞬間、屋敷の外で大きな音がした。
地鳴りのような、何かが崩れる音。
続いて、廊下から男の声が響いた。
「県道が落ちた!」
別の声が叫ぶ。
「橋もだ! 車は通れん!」
村が、完全に閉じた。
江口はノートを握ったまま、窓の外を見た。
雨の向こうで、山が黒く沈んでいる。
犬神宗久は湯灌で死んだ。
忌部多門は死装束で死んだ。
そして、小夜子の枕飯が現れた。
七葬返しは、もう止まらない。
龍崎征臣の葬式は、三人の教え子を閉じ込めたまま、次の死者を待っていた。




