第二章 湯灌の死体
悲鳴は、雨の音に一度だけ裂け目を入れた。
それからすぐ、屋敷の中が動き出した。喪服の人々が廊下へ流れ、誰かが名を呼び、誰かが制止する声を上げる。畳を踏む足音が重なり、障子が乱暴に開けられ、奥の座敷から線香の匂いが廊下へこぼれた。
江口桜次郎は、龍崎征臣のノートを閉じる暇もなかった。
人は、救われた相手を疑えない。
その一文は、紙の上から消えたわけではない。だが、江口の中ではもう文字ではなくなっていた。喉の奥に刺さった小骨のように、飲み込むことも吐き出すこともできずに残っている。
二階堂壮也は、すでに廊下へ出ていた。足音に迷いがない。どこへ向かえばいいかを知っているというより、騒ぎの中心を見失わない人間の動きだった。
五十嵐理人も続く。黒いスーツの裾がわずかに揺れた。表情は落ち着いているが、目だけが細くなっている。理科室で実験台の異常を見つけた時のような顔だった。
「湯屋だ!」
廊下の向こうで男が叫んだ。
「犬神さんが――犬神宗久さんが!」
名前が出た瞬間、周囲のざわめきが変わった。
ただ人が倒れたという騒ぎではない。犬神宗久という名前に、村人たちが別の意味を見ているのが分かった。悲鳴、動揺、驚き。その奥に、ほんの少しだけ、待っていたものが来たような硬さが混じっている。
江口はその空気に足を止めかけた。
二階堂が振り返る。
「桜次郎」
「分かってる」
江口は返事をして、再び走った。
屋敷の廊下は長かった。古い木の床が足の下で軋む。壁には白黒の古写真がいくつも掛けられている。雨で薄暗いせいか、写真の中の人々の顔が、こちらを見ているようにも、目を逸らしているようにも見えた。
廊下の突き当たりから土間へ降りる。そこから裏口へ抜けると、雨の匂いが一気に濃くなった。
庭は広かった。
龍崎家の裏手には、母屋とは別に古い建物がいくつも並んでいる。蔵、納屋、離れ、そして湯屋。どれも雨に濡れ、黒々としていた。庭石の間を細い水流が走り、苔の上で雨粒が跳ねている。
湯屋は母屋から少し離れた場所にあった。木造の小さな建物で、屋根は低く、軒が深い。入口の前にはすでに数人が集まっている。喪服の男たちが戸口を塞ぎ、女たちは少し離れた場所で口元を押さえていた。
江口たちが近づくと、村人の一人が振り向いた。
「来ない方がいい」
その声は震えていた。
二階堂は足を止めなかった。
「警察に連絡は」
「携帯が繋がらんのです。さっきから何度も」
「固定電話は」
「母屋にあります。でも、この雨で回線が不安定で」
「救急は」
「呼んでも、道が……」
男はそこで言葉を詰まらせた。
二階堂は短く息を吐いた。怒鳴りはしない。だが、声の質が変わる。
「全員、入口から離れてください。中に入った人間は?」
村人たちが互いを見る。
「最初に見つけたのは誰ですか」
返事はすぐには返ってこなかった。
喪服の集団の後ろから、小柄な女が前へ出た。五十代くらいだろう。顔色は紙のように白く、手には濡れた手拭いを握っている。
「私です」
「お名前は」
「百鬼夜子です。旅館をやっております」
百鬼夜子。
江口はその名を頭の中で繰り返した。龍崎家に来る途中、拓馬が話していた。参列者の宿泊先を手配した女将。村のことなら何でも知っていると言われている女。
二階堂が聞く。
「中に入りましたか」
「入口から見ただけです。犬神さんが湯に沈んでいて……声を上げました」
「触りましたか」
「いいえ」
「他には」
「犬神家の若い衆が一人、戸を開けようとして。でも、中から閂が掛かっていて」
二階堂の目が動いた。
「閂?」
「ええ。湯屋の内側に」
「今は開いているんですか」
「悲鳴を聞いて来た神代さんが、裏の小窓から棒を入れて外したんです」
その瞬間、二階堂の顔が険しくなった。
「誰が外した」
声が低くなる。
喪服の男たちの中から、痩せた中年男が出てきた。眼鏡をかけ、黒いネクタイをきっちり締めている。先ほど車で迎えに来た神代拓馬と顔立ちが似ていたが、年齢は少し上に見える。
「私です。神代恒成です。村長の甥にあたります」
「なぜ外した」
「中に人が倒れていると聞いたからです。助けなければと」
「それで中には」
「入っていません。戸を開けただけです」
二階堂は湯屋の入口を見た。
「今から誰も中へ入らないでください。救命が必要かどうかだけ確認します。江口、五十嵐先生、ついて来て」
「俺も?」
「お前、妙なものを見るのは得意だろ」
「褒められてる気がしない」
「褒めてない」
江口は小さく息を吐いた。
五十嵐はすでに入口の敷居を見ていた。雨で濡れた石畳。泥の跳ね。足跡。彼の視線は、その一つ一つを拾っている。
「五十嵐先生」
江口が声をかけると、五十嵐は顔を上げた。
「いえ、少し気になって」
「何が」
「ここまで、人がたくさん走ってきたはずですよね」
「そうですね」
「なのに入口近くの泥の付き方が、少し偏っています」
二階堂が聞いた。
「どういう意味ですか」
「今はまだ分かりません。ただ、最初から雨で流れたにしては、敷居の右側だけ乾いた跡が残っています」
「乾いた跡?」
江口も見る。
たしかに、敷居の右端にだけ、雨に濡れきっていない細い帯のような部分があった。軒が深いせいで雨が当たりにくいのかもしれない。だが、その部分だけ妙にきれいに見えた。
二階堂は頷いた。
「覚えておきます。今は中だ」
三人は湯屋へ入った。
中は薄暗かった。
入口から脱衣所があり、その奥に浴室がある。古い木の床。壁には竹籠と手拭い。棚には湯灌に使うらしい白い布や柄杓、桶が並んでいる。線香の匂いはここまで届かず、代わりに湿った木と湯の匂いが満ちていた。
だが、江口は一歩入った瞬間、違和感を覚えた。
思ったほど湯気がない。
湯屋という言葉から想像するほど、空気が熱くも湿ってもいなかった。もちろん浴室の方から湿気は来ている。だが、湯船に人が沈んでいると騒ぐほどの状況にしては、どこか乾いている。
五十嵐も同じことを感じたのだろう。小さく眉を寄せた。
「湯気が少ないですね」
二階堂が振り向く。
「湯が冷めてる?」
「それなら湯気が少なくても自然です。ただ、外で聞いた話では、湯に沈んでいたと」
「まあ、見てみよう」
二階堂は浴室の戸を開けた。
江口は一瞬、息を止めた。
浴室は石張りだった。古いが、よく磨かれている。中央に大きな木の浴槽がある。その湯の中に、男がうつ伏せに沈んでいた。
白髪交じりの頭。太い首。黒い喪服の上着は脱がされているが、白いワイシャツは濡れて体に貼りついている。両腕は湯の中で力なく沈み、片手だけが浴槽の縁にかかっていた。
犬神宗久。
名を聞いただけで、顔を知らなくても、この男がそうなのだと分かった。周囲の反応が、その死体に名を与えていた。
二階堂が近づきすぎない位置で膝をついた。
「呼吸なし。反応なし。五十嵐先生」
「はい」
「医者じゃないのは分かってます。見える範囲で構いません」
五十嵐は頷き、浴槽の縁に触れないよう身をかがめた。顔を近づけることはしない。目だけで、死体と湯の状態を観察している。
江口は入口付近に立ったまま、浴室全体を見た。
床に水はある。
だが、少ない。
湯船から人を引き上げようとしたなら、もっと水が散っていてもいい。誰も触れていないのだから当然とも言えるが、では犬神はどうやって沈んだのか。自分で浴槽に入り、そこで意識を失ったのか。
違う。
江口の中で、まだ言葉にならない違和感が動いた。
浴槽の湯は澄んでいなかった。微かに白く濁っている。湯灌に使うために何かを混ぜたのかもしれない。だが、匂いは薄い。酒の匂いも、薬品の匂いも、はっきりとはしない。
壁には鏡がある。
その鏡が、曇っていなかった。
江口は眉を寄せた。
「五十嵐先生」
「はい」
「この湯、温かいんですか」
五十嵐は浴槽の外側に手を近づけ、触れずに湯気の流れを見るようにした。
「湯気だけを見るなら、あまり高くないように見えます。でも」
「でも?」
「浴槽の木の縁に残っている水滴は、比較的新しいです。湯を足したか、かき混ぜたか」
二階堂が言う。
「湯の温度を測ってみるか」
「台所に料理用温度計があるかもしれません。あるいは湯灌用のものが」
「江口」
「探してくる」
江口は脱衣所に戻った。
棚を探すと、葬具の間に古い温度計があった。湯灌用だろうか。木のケースに入っており、使い込まれている。江口はそれを布越しに取り、二階堂へ渡した。
「直接触るなよ」
「言われなくても。ミステリ好きの教師を舐めるな」
「現実の現場でミステリ好きはだいたい邪魔だ」
「警察の人間って夢がない」
「死体の前で夢を見るな」
二階堂はそう言いながらも、江口の手元を見ていた。余計な場所に触っていないか確認しているのだろう。
五十嵐が温度計を湯に差し込む。もちろん、死体から離れた位置だ。
数秒後、五十嵐が数字を見る。
「四十二度弱」
「高いな」
二階堂が言った。
「ええ。ただ、この湯気の量と合わない気がします」
「どういうことですか」
江口が聞く。
「湯温が四十二度近くあるなら、この閉じた浴室ではもう少し鏡が曇るはずです。換気が強ければ別ですが」
三人は同時に上を見た。
浴室の上部に、小さな換気窓があった。古い木枠の窓で、外へ向けて少し開いている。人が通れる大きさではない。だが、細い棒や紐なら通せそうだった。
二階堂の目がそこで止まった。
「閂はどこだ」
浴室と脱衣所の境ではなく、湯屋の入口戸の内側に木の閂がある。今は外され、壁に立てかけられていた。おそらく神代恒成が小窓から外したものだ。
二階堂は閂に近づく。
「触ったのは神代恒成だけなんだっけ」
「本人はそう言ってたけど」
江口が答える。
「どうやって外したと言ってた?」
「裏の小窓から棒を入れて」
二階堂は浴室の換気窓を見た。次に脱衣所の棚、入口戸、閂受けを順に見る。
「この窓から閂まで、距離がある」
五十嵐が言う。
「棒で届かない距離ではありません。ただ、角度が悪いです」
「やったことがあるみたいに言うな」
「理科準備室には、手を入れたくない隙間が多いので」
「教育現場って何なの本当」
江口は言いながらも、視線は別の場所に向いていた。
脱衣所の床だ。
濡れている部分と、乾いている部分がある。入口から浴室へ向かう動線上には、水滴が点々と落ちている。だが、その水滴の向きが奇妙だった。
浴室から外へ出た跡のようにも見える。
ただし、犬神宗久が出たわけではない。死体は湯の中にある。誰かが浴室から出たのだとすれば、そいつは濡れた足で歩いたことになる。
しかし外の村人たちは、誰も中に入っていないと言っている。
江口はしゃがみかけて、二階堂に睨まれた。
「触るなよ」
「触らないよ。見るだけ」
「お前の見るだけは信用しきれない」
「ひどい」
五十嵐が横から言った。
「江口先生、床ですか」
「ええ。水滴が」
「向きが変ですね」
「ですよね」
二階堂が二人を見る。
「説明ちょうだい」
五十嵐が床を指さす。
「入口から浴室へ向かう水滴なら、普通は脱衣所の入口側に向かって薄くなるはずです。でもこれは、浴室側から入口側へ向かって細かく飛んでいます。濡れたものが浴室から出たように見えます」
「犬神さんが自分で出ようとした?」
江口が言うと、五十嵐は首を振った。
「それなら浴槽の周囲にもっと大きな乱れが出るはずです。体が濡れた人間が動けば、床に落ちる水の量も多くなる。これは、もっと細いものです」
「細いもの」
「濡れた紐か、布か」
二階堂の視線が鋭くなった。
「紐」
江口は換気窓を見た。
小さな窓。閂。雨。湯気の少ない浴室。床に残る細い水滴。軒下に残っていた白い繊維。
まだ形にはならない。
だが、何かが繋がりかけている。
その時、外から声がした。
「まだですか!」
男の怒鳴り声だった。
「犬神さんをいつまで湯に沈めておくつもりだ!」
二階堂は舌打ちこそしなかったが、表情でそれに近いことをした。
「江口、外を抑えろ。誰も入れるな」
「俺が?」
「お前、教師だろ。人を座らせるのは得意なはずだ」
「生徒と村人は違うと思うんだけど」
「大人の方が面倒だ。頼む」
頼む、と言われると断れない。
江口は脱衣所を出た。
入口の前では、喪服の男が数人、苛立った顔で待っていた。その中心にいる大柄な男が、一歩前に出る。年齢は五十代半ばほど。分厚い眉、脂ぎった肌、黒い喪服の下からも分かる大きな体。周囲が彼に遠慮しているのが分かった。
「中で何をしている」
「確認です」
江口は答えた。
「確認ならもういいだろう。犬神さんは死んでる。湯から上げてやらんと」
「警察が来るまで、現場は動かさない方がいいです」
「警察?」
男は鼻で笑った。
「ここは村だ。都会の決まりを持ち込まれても困る」
「被害者が出ているんです」
「だからこそ、村の作法がある」
「作法で死因は分かりません」
江口の声が、思ったより強くなった。
男の目が細くなる。
「教師だそうだな」
「はい」
「なら、余計な口を出すな。ここは学校じゃない」
「学校じゃないから困ってるんですよ。学校なら、倒れた人がいたらまず救急車を呼びます」
周囲の空気が少し揺れた。
男の顔に怒りが浮かぶ。
その間に、百鬼夜子が横からそっと口を挟んだ。
「忌部さん、今は抑えてくださいな」
忌部。
江口はその名を覚えた。
忌部多門。村議会長。噂と文書で人を殺すタイプだと、二階堂が車内で調べていた資料にあった名前。
忌部は百鬼夜子を睨んだ。
「女将は黙っていろ」
「黙っていたいんですけどねえ。あんまり騒ぐと、犬神さんが浮かばれませんよ」
「死体が湯に浮かんでいる時に言う冗談か」
「沈んでいるよりましでしょう」
百鬼夜子の声は柔らかかったが、目は笑っていなかった。
江口はそのやり取りを見ながら、村人たちの反応を観察した。
犬神宗久が死んだ。
なのに、悲しみが薄い。
恐怖はある。動揺もある。だが、それは人が死んだことへのものではなく、何かが始まってしまったことへの反応に近い。
誰かが小さく言った。
「湯灌だ」
別の誰かが続ける。
「七葬返しが……」
江口はその言葉の方へ目を向けた。
年配の女が口元を押さえている。目は怯えているが、その奥に諦めがある。まるで、最初からこの順番を知っていたように。
「今、湯灌と言いましたね」
江口が聞くと、女はびくりとした。
「いえ、私は」
「犬神さんが湯に沈んでいるからですか」
女は答えない。
忌部が代わりに言った。
「七葬返しの最初は湯灌だ。死者の罪を洗う」
「犬神さんは、まだ葬られる側ではありません」
「今はな」
その言い方が、江口の背中を冷やした。
今は。
つまり、次があるとでも言うようだった。
江口は忌部を見た。
「あなたは、犬神さんが死ぬことを予想していたんですか」
忌部の顔が険しくなる。
「言葉に気をつけろ」
「気をつけて聞いています」
「都会の若造が」
「僕は都会の若造ではなく、寝不足の社会科教師です。肩書きは正確にお願いします」
百鬼夜子が小さく吹き出した。
忌部はさらに顔を赤くしたが、その時、二階堂が湯屋から出てきた。
「江口」
「はい」
「警察への連絡は?」
「まだ繋がらないらしい」
「固定電話を使おう。案内できる人はいますか」
神代恒成が手を挙げた。
「私が」
「お願いします。ただし、あなたには後で閂の件を詳しく聞きます」
神代はわずかに目を泳がせた。
「もちろんです」
二階堂は村人たちへ向き直った。
「全員、ここから離れてください。犬神宗久さんは亡くなっています。事件性があるかどうかを確認する必要があります」
「事件性?」
忌部が言った。
「事故かもしれんだろう」
「事故かどうかを判断するためにも、現場を動かさないでください」
「警察でもない人間が偉そうに」
二階堂の目が冷えた。
「警視庁の二階堂です」
その一言で、周囲の空気が変わった。
忌部も一瞬だけ黙った。
二階堂は続ける。
「今は休暇中の参列者ですが、人が死んだ現場で最低限守るべきことは分かっています。ご協力ください」
言葉は丁寧だった。
だが、有無を言わせないものがあった。
村人たちは少しずつ後ろへ下がった。
その中で、黒御門緋紗子だけが動かなかった。
いつの間に来ていたのか、彼女は庭の端に立っていた。黒い傘を差し、雨の幕の向こうから湯屋を見ている。
江口は緋紗子の顔を見た。
驚きがない。
少なくとも、犬神宗久が死んだことへの驚きは見えなかった。
緋紗子は江口の視線に気づくと、ゆっくりと近づいてきた。
「犬神様は」
二階堂が答える。
「亡くなっています」
「そうですか」
それだけだった。
江口は思わず言った。
「そうですか、だけですか」
緋紗子は江口を見た。
「他に何と申し上げればよろしいでしょう」
「人が亡くなったんですよ」
「ええ」
「あなたは、龍守村の葬送を預かっているんでしょう」
「だからこそ、取り乱すわけにはまいりません」
静かな声だった。
江口は言葉を失った。
緋紗子は湯屋へ目を向ける。
「七葬返しの最初は、湯灌です」
「それを今言う必要がありますか」
「あります」
緋紗子の声には、ためらいがなかった。
「犬神宗久様は、罪を洗われたのです」
二階堂が低く言う。
「殺された可能性があります」
「ならば、殺した者は儀式を知っています」
「村人全員が知っているんじゃないんですか」
「形だけなら」
緋紗子は二階堂を見た。
「本当の意味まで知る者は、多くありません」
江口は尋ねた。
「本当の意味?」
「湯灌は、死者の体を清める儀式ではありません」
「違うんですか」
「龍守村では、違います」
緋紗子は雨に濡れた庭へ視線を落とした。
「湯灌は、罪を浮かべる儀式です。沈めた罪が、再び水面に上がってくるかどうかを見る」
「犬神さんに罪があると?」
「村に、罪のない人間などおりません」
その言葉は、静かすぎた。
江口は緋紗子の顔を見つめた。
彼女は本気でそう思っている。
人が一人死んだ直後に、罪の話をしている。死者を悼むよりも先に、儀式の意味を口にしている。
この村では、死が悲しみではなく、何かの順番として扱われている。
江口はそのことに、吐き気に似た嫌悪を覚えた。
*
固定電話は一度つながったが、途中で切れた。
警察に最低限の情報は伝わったらしい。しかし雨による県道の一部崩落で、到着には時間がかかるという。救急の必要はないと判断された。死者はすでに明らかに死亡しており、動かさないよう指示があった。
村は、閉じ始めていた。
午後になっても雨は弱まらない。山から霧が降り、龍崎家の屋敷を白く包んだ。携帯の電波は不安定で、つながったと思えばすぐに切れる。庭には警察が来るまでの仮の規制線として、二階堂が村人から借りた縄を張った。
縄。
それもまた葬具のように見えて、江口は嫌な気分になった。
犬神宗久の遺体は湯屋に残されたままだった。二階堂は不満を口にする村人たちを押しとどめ、現場を保全した。五十嵐は湯屋の外から、軒下、窓、桶、排水溝の位置を確認している。
江口は母屋の土間に立ち、村人たちを見ていた。
参列者は大きく三つに分かれている。
犬神家の者たちは怒っている。悲しみよりも怒りが先に出ている。誰がやった、誰の仕業だ、と声を荒げるが、具体的な名は出さない。
神代家の者たちは沈黙している。村長である神代征十郎は奥の座敷にこもったままだ。甥の恒成が表に立っているが、顔色は悪い。
黒御門家の者たちは、静かすぎる。緋紗子を中心に、儀式を中断するかどうかを話しているようだが、そこに動揺は薄い。
そして、百鬼夜子はそのどこにも属していないように見えた。
彼女は台所から湯呑みを運び、参列者に茶を出し、時折誰かの肩に手を置く。忙しく動いているのに、すべてを見ている。
江口が視線を向けると、百鬼はすぐに気づいた。
「あら、先生。お茶でもいかがです」
「ありがとうございます。でも今は」
「飲める時に飲んでおいた方がいいですよ。こういう日は、夜が長くなりますから」
「こういう日、ですか」
百鬼は湯呑みを江口に差し出した。
「人が死んだ日です」
「慣れてるみたいな言い方ですね」
「旅館をやっていると、いろんなお客様を見送りますから」
「旅館でそんなに人は死なないでしょう」
「普通はね」
百鬼は微笑んだ。
その微笑みは、人当たりがいい。だが、その奥に底が見えない。
「犬神宗久さんは、どんな人だったんですか」
江口が聞くと、百鬼は湯呑みを持つ手を止めた。
「村の地主です」
「ほかには」
「それ以上は、言い方が難しいですね」
「評判が悪かった?」
「評判というのは、誰が言うかで変わります。犬神さんに山を借りていた人は頭を下げるでしょうし、土地を取られた人は墓に唾を吐くでしょう」
江口は黙った。
百鬼は声を少し落とした。
「先生は社会科でしょう。土地が人間を変えるのは、ご存じでは?」
「社会科教師は、人間が土地で揉める話ばかり教えているようなものです」
「なら、龍守村は教材に向いています」
「嫌な教材ですね」
「ええ。龍崎先生も、よくそう仰っていました」
龍崎の名が出た瞬間、江口の胸が少し詰まった。
「龍崎先生と親しかったんですか」
「親しいというほどではありません。ただ、先生はよくうちの旅館へ来ました。村の外から来た人を泊める時も、昔の教え子を呼ぶ時も」
「昔の教え子?」
江口の声がわずかに変わった。
百鬼はそれに気づいたはずだが、表情を変えなかった。
「先生には、たくさんの教え子がいましたから」
「僕たち以外にも、今回呼ばれているんですか」
「さて」
百鬼は湯呑みを盆に戻した。
「それは、先生がご存じでしょう」
「先生はもう亡くなっています」
「亡くなった人ほど、よく喋ることがあります」
江口は眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
「遺言、手紙、日記、思い出話。生きているうちは黙っていたことが、死んでから急に出てくる。葬式というのは、死者が一番お喋りになる場所です」
百鬼はそう言って、廊下の奥へ歩いていった。
江口はその背中を見送った。
死者が一番お喋りになる場所。
それは、龍崎征臣の葬式にふさわしい言葉のように思えた。
*
夕方近くになって、二階堂と五十嵐が戻ってきた。
三人は母屋の奥にある小さな客間へ入った。外ではまだ雨が降っている。障子の向こうの庭は暗く、雨粒が池の水面を叩く音が聞こえた。
二階堂は座るなり、メモを広げた。
「よし、整理するぞ」
「警察っぽい」
「警察だからな」
「休暇中の参列者では」
「面倒な時だけ肩書きを選ぶな」
江口が黙ると、二階堂は続けた。
「犬神宗久。六十一歳。犬神家当主。村の山林と土地の大半を所有。今日の午前、龍崎先生の葬儀に参列。湯灌の準備中に姿が見えなくなる。午後一時過ぎ、百鬼夜子が湯屋で発見」
「死因は溺死ですか」
江口が聞くと、五十嵐が首を振った。
「断定はできません」
「でも湯に沈んでいた」
「沈んでいたことと、そこで溺れたことは別です」
二階堂が頷く。
「五十嵐先生の違和感は大きく五つだ」
「え、五つもあるんですか」
「あるんですよ」
五十嵐は静かに言った。
「一つ目。湯温と湯気の量が合わない。二つ目。鏡がほとんど曇っていない。三つ目。浴槽周辺の床に大きな水の乱れがない。四つ目。脱衣所の水滴が、濡れた紐か布を引いたように細い。五つ目。犬神さんの襟足が、髪の濡れ方に比べて不自然に乾いていました」
「襟足」
江口は湯の中の死体を思い出した。
全身が濡れていたはずなのに、五十嵐はそんな細部を見ていたのか。
「つまり?」
「犬神さんは、浴槽で溺れたのではない可能性があります」
二階堂が低く言った。
「別の場所で死んで、湯に入れられた」
「そう見る方が自然です」
江口は腕を組んだ。
「でも湯屋は内側から閂が掛かっていた」
「そこだ」
二階堂はメモに簡単な図を描いた。
入口戸。閂。浴室。換気窓。軒下。
「閂は木製で、受けに落とすだけの単純なものだ。外から鍵を掛ける構造じゃない。だが、換気窓から細い紐を通せば、外から落とせる可能性がある」
「紐で?」
「閂にあらかじめ紐を掛けておく。外へ出たあと、紐を引いて閂を受けに落とす。その後、紐を抜く」
江口は湯屋の軒下に残っていた白い繊維を思い出した。
「葬具の白い紐」
「おそらくな」
五十嵐が言った。
「ただ、その場合、紐は濡れていたはずです」
「雨で?」
「雨もあります。でも浴室側を通したなら、湯気や水滴でも濡れます。脱衣所の床に残っていた細い水滴は、その痕跡かもしれません」
「じゃあ、犯人は外から密室を作った」
江口が言うと、二階堂は頷いた。
「可能性はある。ただし、問題がある」
「問題?」
「誰でもできる」
その言葉で、部屋が少し静かになった。
「この村の人間なら、湯屋の構造を知っている。葬具の紐も手に入る。湯灌の準備で人の出入りが多い中なら、仕掛ける時間も作れる」
「つまり容疑者だらけ」
「そういうことだ」
江口は障子の向こうを見た。
雨の音が続いている。
村人たちは今、何を考えているのだろう。犬神宗久の死を悲しんでいるのか。恐れているのか。それとも、自分ではなかったことに安堵しているのか。
江口は、湯屋の前で誰かが呟いた言葉を思い出した。
湯灌だ。
あれは、驚きではなかった。
名前を知っていた者の反応だった。
「二階堂」
「何」
「村人たち、納得するのが早すぎないか」
二階堂は江口を見た。
「俺もそう思った」
「人が死んだら、普通は事故か病気かってなる。なのに、みんなすぐ七葬返しに結びつけた」
「昔からそういう風習があるから、とも言えるけど……ねえ」
「でも、怯え方が違った」
「どう違う」
江口は言葉を探した。
「怖がっているというより、順番を確認しているみたいだった」
五十嵐が静かに言った。
「最初は湯灌」
江口は頷いた。
「ええ。最初は湯灌。じゃあ、その次は何だ、って」
二階堂の顔が険しくなる。
「死装束」
緋紗子の声が、三人の記憶の中で蘇った。
湯灌。
死装束。
逆さ屏風。
枕飯。
野辺送り。
骨上げ。
名消し。
七つの儀式。
その最初が、もう死体を伴って現れた。
江口は自分の手を見る。
指先が冷えていた。
「先生は、本当にこれを望んだんですかね」
その問いに、二階堂も五十嵐もすぐには答えなかった。
答えられるはずがなかった。
死んだ人間の望みは、生きている人間がいくらでも形を変えられる。遺言も、手紙も、記憶も、都合のいいように読めてしまう。
だから葬式は怖い。
死者が黙っている場所で、生者だけがよく喋るからだ。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
障子の外で、誰かが膝をつく気配がする。
「江口様」
神代拓馬の声だった。
「黒御門様がお呼びです」
二階堂が聞く。
「何の用ですか」
「七葬返しを続けるかどうか、参列者に説明があるそうです」
「人が死んだ直後に?」
江口の声が強くなる。
拓馬は答えなかった。
代わりに、別の声が廊下の向こうから聞こえた。
黒御門緋紗子の声だった。
「中断はいたしません」
障子が静かに開く。
緋紗子が立っていた。黒い喪服。白い肌。雨音の中で、その姿だけが妙に濡れていないように見える。
「龍崎先生の葬儀は、予定通り進めます」
二階堂が立ち上がる。
「殺人の可能性があります。警察が来るまで儀式は止めるべきです」
「止めれば、村はもっと乱れます」
「すでに乱れていません?」
「いいえ」
緋紗子は静かに首を振った。
「まだ始まっただけです」
江口はその言葉に、胃の底が冷えるのを感じた。
「始まった?」
「七葬返しは、始まれば終わらせなければなりません」
「人が死んでも?」
「人が死んだからです」
緋紗子は江口を見た。
「犬神宗久様は、湯灌を受けました。ならば、次は死装束です」
五十嵐の表情がわずかに変わる。
二階堂は低い声で言った。
「それは予告ですか」
「儀式の順序です」
「それ、同じことじゃないです?」
緋紗子は答えなかった。
沈黙の中で、雨音だけが大きくなる。
やがて緋紗子は、懐から一枚の紙を取り出した。
「犬神様の懐から、これが見つかったと聞きました」
二階堂の目が鋭くなる。
「誰から聞いたんです?」
「村の者は、口が軽いので」
紙は濡れて波打っていた。
そこには、龍崎征臣の筆跡で短い一文が書かれていた。
――犬神宗久は、土地で人を殺した。
江口はその文字を見た。
また、龍崎の字だった。
整っていて、余白まで冷たい字。
江口は、喉の奥が渇くのを感じた。
「先生の字ですか」
五十嵐が聞いた。
江口はすぐには答えられなかった。
二階堂が代わりに言う。
「似ている」
「似ている、じゃない」
江口はようやく声を出した。
「先生の字だ」
認めたくなかった。
だが、見間違えるはずがなかった。
緋紗子は紙を見つめて言った。
「龍崎先生は、生前からご存じだったのでしょう」
「何を」
「犬神宗久様の罪を」
「だから殺されていいと?」
江口の声が低くなった。
緋紗子は顔を上げた。
「私は、そんなことは申しておりません」
「言ってるのと同じに聞こえたもので」
「江口先生」
緋紗子が初めて、わずかに声を柔らかくした。
「あなたはまだ、先生を信じていらっしゃる」
その言い方が、江口の中の何かを逆撫でした。
「信じていますよ」
江口は言った。
「でも、先生の名前を使って人が死ぬことまで信じたいわけじゃない」
緋紗子の目が、ほんの少しだけ細くなった。
怒りではない。
興味に近かった。
「では、見届けてください」
「何を」
「あなたの信じた先生が、誰を救い、誰を埋めたのかを」
その言葉を残して、緋紗子は障子を閉めた。
部屋に沈黙が戻る。
二階堂は低く吐き捨てるように言った。
「完全におかしいな、この村」
「同感です」
五十嵐が言った。
江口は紙に書かれた一文から目を離せなかった。
犬神宗久は、土地で人を殺した。
龍崎の字。
龍崎の遺言。
龍崎の葬式。
龍崎の教え子。
そのすべてが、自分たちを中心へ引き寄せているように感じた。
外では、雨が止まない。
山は濡れ、道は崩れ、村は少しずつ外から切り離されていく。
そして江口は、その時初めてはっきりと理解した。
龍崎征臣の葬式は、死者を送るために開かれたのではない。
生き残った人間を、一人ずつ死者の前に立たせるために開かれたのだ。




