表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
龍守村の七葬返し――葬列は七度死ぬ  作者: 神谷利休|アコンプリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/4

第二章 湯灌の死体

 悲鳴は、雨の音に一度だけ裂け目を入れた。

 それからすぐ、屋敷の中が動き出した。喪服の人々が廊下へ流れ、誰かが名を呼び、誰かが制止する声を上げる。畳を踏む足音が重なり、障子が乱暴に開けられ、奥の座敷から線香の匂いが廊下へこぼれた。

 江口桜次郎は、龍崎征臣のノートを閉じる暇もなかった。

 人は、救われた相手を疑えない。

 その一文は、紙の上から消えたわけではない。だが、江口の中ではもう文字ではなくなっていた。喉の奥に刺さった小骨のように、飲み込むことも吐き出すこともできずに残っている。

 二階堂壮也は、すでに廊下へ出ていた。足音に迷いがない。どこへ向かえばいいかを知っているというより、騒ぎの中心を見失わない人間の動きだった。

 五十嵐理人も続く。黒いスーツの裾がわずかに揺れた。表情は落ち着いているが、目だけが細くなっている。理科室で実験台の異常を見つけた時のような顔だった。

「湯屋だ!」

 廊下の向こうで男が叫んだ。

「犬神さんが――犬神宗久さんが!」

 名前が出た瞬間、周囲のざわめきが変わった。

 ただ人が倒れたという騒ぎではない。犬神宗久という名前に、村人たちが別の意味を見ているのが分かった。悲鳴、動揺、驚き。その奥に、ほんの少しだけ、待っていたものが来たような硬さが混じっている。

 江口はその空気に足を止めかけた。

 二階堂が振り返る。

「桜次郎」

「分かってる」

 江口は返事をして、再び走った。

 屋敷の廊下は長かった。古い木の床が足の下で軋む。壁には白黒の古写真がいくつも掛けられている。雨で薄暗いせいか、写真の中の人々の顔が、こちらを見ているようにも、目を逸らしているようにも見えた。

 廊下の突き当たりから土間へ降りる。そこから裏口へ抜けると、雨の匂いが一気に濃くなった。

 庭は広かった。

 龍崎家の裏手には、母屋とは別に古い建物がいくつも並んでいる。蔵、納屋、離れ、そして湯屋。どれも雨に濡れ、黒々としていた。庭石の間を細い水流が走り、苔の上で雨粒が跳ねている。

 湯屋は母屋から少し離れた場所にあった。木造の小さな建物で、屋根は低く、軒が深い。入口の前にはすでに数人が集まっている。喪服の男たちが戸口を塞ぎ、女たちは少し離れた場所で口元を押さえていた。

 江口たちが近づくと、村人の一人が振り向いた。

「来ない方がいい」

 その声は震えていた。

 二階堂は足を止めなかった。

「警察に連絡は」

「携帯が繋がらんのです。さっきから何度も」

「固定電話は」

「母屋にあります。でも、この雨で回線が不安定で」

「救急は」

「呼んでも、道が……」

 男はそこで言葉を詰まらせた。

 二階堂は短く息を吐いた。怒鳴りはしない。だが、声の質が変わる。

「全員、入口から離れてください。中に入った人間は?」

 村人たちが互いを見る。

「最初に見つけたのは誰ですか」

 返事はすぐには返ってこなかった。

 喪服の集団の後ろから、小柄な女が前へ出た。五十代くらいだろう。顔色は紙のように白く、手には濡れた手拭いを握っている。

「私です」

「お名前は」

「百鬼夜子です。旅館をやっております」

 百鬼夜子。

 江口はその名を頭の中で繰り返した。龍崎家に来る途中、拓馬が話していた。参列者の宿泊先を手配した女将。村のことなら何でも知っていると言われている女。

 二階堂が聞く。

「中に入りましたか」

「入口から見ただけです。犬神さんが湯に沈んでいて……声を上げました」

「触りましたか」

「いいえ」

「他には」

「犬神家の若い衆が一人、戸を開けようとして。でも、中から閂が掛かっていて」

 二階堂の目が動いた。

「閂?」

「ええ。湯屋の内側に」

「今は開いているんですか」

「悲鳴を聞いて来た神代さんが、裏の小窓から棒を入れて外したんです」

 その瞬間、二階堂の顔が険しくなった。

「誰が外した」

 声が低くなる。

 喪服の男たちの中から、痩せた中年男が出てきた。眼鏡をかけ、黒いネクタイをきっちり締めている。先ほど車で迎えに来た神代拓馬と顔立ちが似ていたが、年齢は少し上に見える。

「私です。神代恒成です。村長の甥にあたります」

「なぜ外した」

「中に人が倒れていると聞いたからです。助けなければと」

「それで中には」

「入っていません。戸を開けただけです」

 二階堂は湯屋の入口を見た。

「今から誰も中へ入らないでください。救命が必要かどうかだけ確認します。江口、五十嵐先生、ついて来て」

「俺も?」

「お前、妙なものを見るのは得意だろ」

「褒められてる気がしない」

「褒めてない」

 江口は小さく息を吐いた。

 五十嵐はすでに入口の敷居を見ていた。雨で濡れた石畳。泥の跳ね。足跡。彼の視線は、その一つ一つを拾っている。

「五十嵐先生」

 江口が声をかけると、五十嵐は顔を上げた。

「いえ、少し気になって」

「何が」

「ここまで、人がたくさん走ってきたはずですよね」

「そうですね」

「なのに入口近くの泥の付き方が、少し偏っています」

 二階堂が聞いた。

「どういう意味ですか」

「今はまだ分かりません。ただ、最初から雨で流れたにしては、敷居の右側だけ乾いた跡が残っています」

「乾いた跡?」

 江口も見る。

 たしかに、敷居の右端にだけ、雨に濡れきっていない細い帯のような部分があった。軒が深いせいで雨が当たりにくいのかもしれない。だが、その部分だけ妙にきれいに見えた。

 二階堂は頷いた。

「覚えておきます。今は中だ」

 三人は湯屋へ入った。

 中は薄暗かった。

 入口から脱衣所があり、その奥に浴室がある。古い木の床。壁には竹籠と手拭い。棚には湯灌に使うらしい白い布や柄杓、桶が並んでいる。線香の匂いはここまで届かず、代わりに湿った木と湯の匂いが満ちていた。

 だが、江口は一歩入った瞬間、違和感を覚えた。

 思ったほど湯気がない。

 湯屋という言葉から想像するほど、空気が熱くも湿ってもいなかった。もちろん浴室の方から湿気は来ている。だが、湯船に人が沈んでいると騒ぐほどの状況にしては、どこか乾いている。

 五十嵐も同じことを感じたのだろう。小さく眉を寄せた。

「湯気が少ないですね」

 二階堂が振り向く。

「湯が冷めてる?」

「それなら湯気が少なくても自然です。ただ、外で聞いた話では、湯に沈んでいたと」

「まあ、見てみよう」

 二階堂は浴室の戸を開けた。

 江口は一瞬、息を止めた。

 浴室は石張りだった。古いが、よく磨かれている。中央に大きな木の浴槽がある。その湯の中に、男がうつ伏せに沈んでいた。

 白髪交じりの頭。太い首。黒い喪服の上着は脱がされているが、白いワイシャツは濡れて体に貼りついている。両腕は湯の中で力なく沈み、片手だけが浴槽の縁にかかっていた。

 犬神宗久。

 名を聞いただけで、顔を知らなくても、この男がそうなのだと分かった。周囲の反応が、その死体に名を与えていた。

 二階堂が近づきすぎない位置で膝をついた。

「呼吸なし。反応なし。五十嵐先生」

「はい」

「医者じゃないのは分かってます。見える範囲で構いません」

 五十嵐は頷き、浴槽の縁に触れないよう身をかがめた。顔を近づけることはしない。目だけで、死体と湯の状態を観察している。

 江口は入口付近に立ったまま、浴室全体を見た。

 床に水はある。

 だが、少ない。

 湯船から人を引き上げようとしたなら、もっと水が散っていてもいい。誰も触れていないのだから当然とも言えるが、では犬神はどうやって沈んだのか。自分で浴槽に入り、そこで意識を失ったのか。

 違う。

 江口の中で、まだ言葉にならない違和感が動いた。

 浴槽の湯は澄んでいなかった。微かに白く濁っている。湯灌に使うために何かを混ぜたのかもしれない。だが、匂いは薄い。酒の匂いも、薬品の匂いも、はっきりとはしない。

 壁には鏡がある。

 その鏡が、曇っていなかった。

 江口は眉を寄せた。

「五十嵐先生」

「はい」

「この湯、温かいんですか」

 五十嵐は浴槽の外側に手を近づけ、触れずに湯気の流れを見るようにした。

「湯気だけを見るなら、あまり高くないように見えます。でも」

「でも?」

「浴槽の木の縁に残っている水滴は、比較的新しいです。湯を足したか、かき混ぜたか」

 二階堂が言う。

「湯の温度を測ってみるか」

「台所に料理用温度計があるかもしれません。あるいは湯灌用のものが」

「江口」

「探してくる」

 江口は脱衣所に戻った。

 棚を探すと、葬具の間に古い温度計があった。湯灌用だろうか。木のケースに入っており、使い込まれている。江口はそれを布越しに取り、二階堂へ渡した。

「直接触るなよ」

「言われなくても。ミステリ好きの教師を舐めるな」

「現実の現場でミステリ好きはだいたい邪魔だ」

「警察の人間って夢がない」

「死体の前で夢を見るな」

 二階堂はそう言いながらも、江口の手元を見ていた。余計な場所に触っていないか確認しているのだろう。

 五十嵐が温度計を湯に差し込む。もちろん、死体から離れた位置だ。

 数秒後、五十嵐が数字を見る。

「四十二度弱」

「高いな」

 二階堂が言った。

「ええ。ただ、この湯気の量と合わない気がします」

「どういうことですか」

 江口が聞く。

「湯温が四十二度近くあるなら、この閉じた浴室ではもう少し鏡が曇るはずです。換気が強ければ別ですが」

 三人は同時に上を見た。

 浴室の上部に、小さな換気窓があった。古い木枠の窓で、外へ向けて少し開いている。人が通れる大きさではない。だが、細い棒や紐なら通せそうだった。

 二階堂の目がそこで止まった。

「閂はどこだ」

 浴室と脱衣所の境ではなく、湯屋の入口戸の内側に木の閂がある。今は外され、壁に立てかけられていた。おそらく神代恒成が小窓から外したものだ。

 二階堂は閂に近づく。

「触ったのは神代恒成だけなんだっけ」

「本人はそう言ってたけど」

 江口が答える。

「どうやって外したと言ってた?」

「裏の小窓から棒を入れて」

 二階堂は浴室の換気窓を見た。次に脱衣所の棚、入口戸、閂受けを順に見る。

「この窓から閂まで、距離がある」

 五十嵐が言う。

「棒で届かない距離ではありません。ただ、角度が悪いです」

「やったことがあるみたいに言うな」

「理科準備室には、手を入れたくない隙間が多いので」

「教育現場って何なの本当」

 江口は言いながらも、視線は別の場所に向いていた。

 脱衣所の床だ。

 濡れている部分と、乾いている部分がある。入口から浴室へ向かう動線上には、水滴が点々と落ちている。だが、その水滴の向きが奇妙だった。

 浴室から外へ出た跡のようにも見える。

 ただし、犬神宗久が出たわけではない。死体は湯の中にある。誰かが浴室から出たのだとすれば、そいつは濡れた足で歩いたことになる。

 しかし外の村人たちは、誰も中に入っていないと言っている。

 江口はしゃがみかけて、二階堂に睨まれた。

「触るなよ」

「触らないよ。見るだけ」

「お前の見るだけは信用しきれない」

「ひどい」

 五十嵐が横から言った。

「江口先生、床ですか」

「ええ。水滴が」

「向きが変ですね」

「ですよね」

 二階堂が二人を見る。

「説明ちょうだい」

 五十嵐が床を指さす。

「入口から浴室へ向かう水滴なら、普通は脱衣所の入口側に向かって薄くなるはずです。でもこれは、浴室側から入口側へ向かって細かく飛んでいます。濡れたものが浴室から出たように見えます」

「犬神さんが自分で出ようとした?」

 江口が言うと、五十嵐は首を振った。

「それなら浴槽の周囲にもっと大きな乱れが出るはずです。体が濡れた人間が動けば、床に落ちる水の量も多くなる。これは、もっと細いものです」

「細いもの」

「濡れた紐か、布か」

 二階堂の視線が鋭くなった。

「紐」

 江口は換気窓を見た。

 小さな窓。閂。雨。湯気の少ない浴室。床に残る細い水滴。軒下に残っていた白い繊維。

 まだ形にはならない。

 だが、何かが繋がりかけている。

 その時、外から声がした。

「まだですか!」

 男の怒鳴り声だった。

「犬神さんをいつまで湯に沈めておくつもりだ!」

 二階堂は舌打ちこそしなかったが、表情でそれに近いことをした。

「江口、外を抑えろ。誰も入れるな」

「俺が?」

「お前、教師だろ。人を座らせるのは得意なはずだ」

「生徒と村人は違うと思うんだけど」

「大人の方が面倒だ。頼む」

 頼む、と言われると断れない。

 江口は脱衣所を出た。

 入口の前では、喪服の男が数人、苛立った顔で待っていた。その中心にいる大柄な男が、一歩前に出る。年齢は五十代半ばほど。分厚い眉、脂ぎった肌、黒い喪服の下からも分かる大きな体。周囲が彼に遠慮しているのが分かった。

「中で何をしている」

「確認です」

 江口は答えた。

「確認ならもういいだろう。犬神さんは死んでる。湯から上げてやらんと」

「警察が来るまで、現場は動かさない方がいいです」

「警察?」

 男は鼻で笑った。

「ここは村だ。都会の決まりを持ち込まれても困る」

「被害者が出ているんです」

「だからこそ、村の作法がある」

「作法で死因は分かりません」

 江口の声が、思ったより強くなった。

 男の目が細くなる。

「教師だそうだな」

「はい」

「なら、余計な口を出すな。ここは学校じゃない」

「学校じゃないから困ってるんですよ。学校なら、倒れた人がいたらまず救急車を呼びます」

 周囲の空気が少し揺れた。

 男の顔に怒りが浮かぶ。

 その間に、百鬼夜子が横からそっと口を挟んだ。

「忌部さん、今は抑えてくださいな」

 忌部。

 江口はその名を覚えた。

 忌部多門。村議会長。噂と文書で人を殺すタイプだと、二階堂が車内で調べていた資料にあった名前。

 忌部は百鬼夜子を睨んだ。

「女将は黙っていろ」

「黙っていたいんですけどねえ。あんまり騒ぐと、犬神さんが浮かばれませんよ」

「死体が湯に浮かんでいる時に言う冗談か」

「沈んでいるよりましでしょう」

 百鬼夜子の声は柔らかかったが、目は笑っていなかった。

 江口はそのやり取りを見ながら、村人たちの反応を観察した。

 犬神宗久が死んだ。

 なのに、悲しみが薄い。

 恐怖はある。動揺もある。だが、それは人が死んだことへのものではなく、何かが始まってしまったことへの反応に近い。

 誰かが小さく言った。

「湯灌だ」

 別の誰かが続ける。

「七葬返しが……」

 江口はその言葉の方へ目を向けた。

 年配の女が口元を押さえている。目は怯えているが、その奥に諦めがある。まるで、最初からこの順番を知っていたように。

「今、湯灌と言いましたね」

 江口が聞くと、女はびくりとした。

「いえ、私は」

「犬神さんが湯に沈んでいるからですか」

 女は答えない。

 忌部が代わりに言った。

「七葬返しの最初は湯灌だ。死者の罪を洗う」

「犬神さんは、まだ葬られる側ではありません」

「今はな」

 その言い方が、江口の背中を冷やした。

 今は。

 つまり、次があるとでも言うようだった。

 江口は忌部を見た。

「あなたは、犬神さんが死ぬことを予想していたんですか」

 忌部の顔が険しくなる。

「言葉に気をつけろ」

「気をつけて聞いています」

「都会の若造が」

「僕は都会の若造ではなく、寝不足の社会科教師です。肩書きは正確にお願いします」

 百鬼夜子が小さく吹き出した。

 忌部はさらに顔を赤くしたが、その時、二階堂が湯屋から出てきた。

「江口」

「はい」

「警察への連絡は?」

「まだ繋がらないらしい」

「固定電話を使おう。案内できる人はいますか」

 神代恒成が手を挙げた。

「私が」

「お願いします。ただし、あなたには後で閂の件を詳しく聞きます」

 神代はわずかに目を泳がせた。

「もちろんです」

 二階堂は村人たちへ向き直った。

「全員、ここから離れてください。犬神宗久さんは亡くなっています。事件性があるかどうかを確認する必要があります」

「事件性?」

 忌部が言った。

「事故かもしれんだろう」

「事故かどうかを判断するためにも、現場を動かさないでください」

「警察でもない人間が偉そうに」

 二階堂の目が冷えた。

「警視庁の二階堂です」

 その一言で、周囲の空気が変わった。

 忌部も一瞬だけ黙った。

 二階堂は続ける。

「今は休暇中の参列者ですが、人が死んだ現場で最低限守るべきことは分かっています。ご協力ください」

 言葉は丁寧だった。

 だが、有無を言わせないものがあった。

 村人たちは少しずつ後ろへ下がった。

 その中で、黒御門緋紗子だけが動かなかった。

 いつの間に来ていたのか、彼女は庭の端に立っていた。黒い傘を差し、雨の幕の向こうから湯屋を見ている。

 江口は緋紗子の顔を見た。

 驚きがない。

 少なくとも、犬神宗久が死んだことへの驚きは見えなかった。

 緋紗子は江口の視線に気づくと、ゆっくりと近づいてきた。

「犬神様は」

 二階堂が答える。

「亡くなっています」

「そうですか」

 それだけだった。

 江口は思わず言った。

「そうですか、だけですか」

 緋紗子は江口を見た。

「他に何と申し上げればよろしいでしょう」

「人が亡くなったんですよ」

「ええ」

「あなたは、龍守村の葬送を預かっているんでしょう」

「だからこそ、取り乱すわけにはまいりません」

 静かな声だった。

 江口は言葉を失った。

 緋紗子は湯屋へ目を向ける。

「七葬返しの最初は、湯灌です」

「それを今言う必要がありますか」

「あります」

 緋紗子の声には、ためらいがなかった。

「犬神宗久様は、罪を洗われたのです」

 二階堂が低く言う。

「殺された可能性があります」

「ならば、殺した者は儀式を知っています」

「村人全員が知っているんじゃないんですか」

「形だけなら」

 緋紗子は二階堂を見た。

「本当の意味まで知る者は、多くありません」

 江口は尋ねた。

「本当の意味?」

「湯灌は、死者の体を清める儀式ではありません」

「違うんですか」

「龍守村では、違います」

 緋紗子は雨に濡れた庭へ視線を落とした。

「湯灌は、罪を浮かべる儀式です。沈めた罪が、再び水面に上がってくるかどうかを見る」

「犬神さんに罪があると?」

「村に、罪のない人間などおりません」

 その言葉は、静かすぎた。

 江口は緋紗子の顔を見つめた。

 彼女は本気でそう思っている。

 人が一人死んだ直後に、罪の話をしている。死者を悼むよりも先に、儀式の意味を口にしている。

 この村では、死が悲しみではなく、何かの順番として扱われている。

 江口はそのことに、吐き気に似た嫌悪を覚えた。

     *

 固定電話は一度つながったが、途中で切れた。

 警察に最低限の情報は伝わったらしい。しかし雨による県道の一部崩落で、到着には時間がかかるという。救急の必要はないと判断された。死者はすでに明らかに死亡しており、動かさないよう指示があった。

 村は、閉じ始めていた。

 午後になっても雨は弱まらない。山から霧が降り、龍崎家の屋敷を白く包んだ。携帯の電波は不安定で、つながったと思えばすぐに切れる。庭には警察が来るまでの仮の規制線として、二階堂が村人から借りた縄を張った。

 縄。

 それもまた葬具のように見えて、江口は嫌な気分になった。

 犬神宗久の遺体は湯屋に残されたままだった。二階堂は不満を口にする村人たちを押しとどめ、現場を保全した。五十嵐は湯屋の外から、軒下、窓、桶、排水溝の位置を確認している。

 江口は母屋の土間に立ち、村人たちを見ていた。

 参列者は大きく三つに分かれている。

 犬神家の者たちは怒っている。悲しみよりも怒りが先に出ている。誰がやった、誰の仕業だ、と声を荒げるが、具体的な名は出さない。

 神代家の者たちは沈黙している。村長である神代征十郎は奥の座敷にこもったままだ。甥の恒成が表に立っているが、顔色は悪い。

 黒御門家の者たちは、静かすぎる。緋紗子を中心に、儀式を中断するかどうかを話しているようだが、そこに動揺は薄い。

 そして、百鬼夜子はそのどこにも属していないように見えた。

 彼女は台所から湯呑みを運び、参列者に茶を出し、時折誰かの肩に手を置く。忙しく動いているのに、すべてを見ている。

 江口が視線を向けると、百鬼はすぐに気づいた。

「あら、先生。お茶でもいかがです」

「ありがとうございます。でも今は」

「飲める時に飲んでおいた方がいいですよ。こういう日は、夜が長くなりますから」

「こういう日、ですか」

 百鬼は湯呑みを江口に差し出した。

「人が死んだ日です」

「慣れてるみたいな言い方ですね」

「旅館をやっていると、いろんなお客様を見送りますから」

「旅館でそんなに人は死なないでしょう」

「普通はね」

 百鬼は微笑んだ。

 その微笑みは、人当たりがいい。だが、その奥に底が見えない。

「犬神宗久さんは、どんな人だったんですか」

 江口が聞くと、百鬼は湯呑みを持つ手を止めた。

「村の地主です」

「ほかには」

「それ以上は、言い方が難しいですね」

「評判が悪かった?」

「評判というのは、誰が言うかで変わります。犬神さんに山を借りていた人は頭を下げるでしょうし、土地を取られた人は墓に唾を吐くでしょう」

 江口は黙った。

 百鬼は声を少し落とした。

「先生は社会科でしょう。土地が人間を変えるのは、ご存じでは?」

「社会科教師は、人間が土地で揉める話ばかり教えているようなものです」

「なら、龍守村は教材に向いています」

「嫌な教材ですね」

「ええ。龍崎先生も、よくそう仰っていました」

 龍崎の名が出た瞬間、江口の胸が少し詰まった。

「龍崎先生と親しかったんですか」

「親しいというほどではありません。ただ、先生はよくうちの旅館へ来ました。村の外から来た人を泊める時も、昔の教え子を呼ぶ時も」

「昔の教え子?」

 江口の声がわずかに変わった。

 百鬼はそれに気づいたはずだが、表情を変えなかった。

「先生には、たくさんの教え子がいましたから」

「僕たち以外にも、今回呼ばれているんですか」

「さて」

 百鬼は湯呑みを盆に戻した。

「それは、先生がご存じでしょう」

「先生はもう亡くなっています」

「亡くなった人ほど、よく喋ることがあります」

 江口は眉を寄せた。

「どういう意味ですか」

「遺言、手紙、日記、思い出話。生きているうちは黙っていたことが、死んでから急に出てくる。葬式というのは、死者が一番お喋りになる場所です」

 百鬼はそう言って、廊下の奥へ歩いていった。

 江口はその背中を見送った。

 死者が一番お喋りになる場所。

 それは、龍崎征臣の葬式にふさわしい言葉のように思えた。

     *

 夕方近くになって、二階堂と五十嵐が戻ってきた。

 三人は母屋の奥にある小さな客間へ入った。外ではまだ雨が降っている。障子の向こうの庭は暗く、雨粒が池の水面を叩く音が聞こえた。

 二階堂は座るなり、メモを広げた。

「よし、整理するぞ」

「警察っぽい」

「警察だからな」

「休暇中の参列者では」

「面倒な時だけ肩書きを選ぶな」

 江口が黙ると、二階堂は続けた。

「犬神宗久。六十一歳。犬神家当主。村の山林と土地の大半を所有。今日の午前、龍崎先生の葬儀に参列。湯灌の準備中に姿が見えなくなる。午後一時過ぎ、百鬼夜子が湯屋で発見」

「死因は溺死ですか」

 江口が聞くと、五十嵐が首を振った。

「断定はできません」

「でも湯に沈んでいた」

「沈んでいたことと、そこで溺れたことは別です」

 二階堂が頷く。

「五十嵐先生の違和感は大きく五つだ」

「え、五つもあるんですか」

「あるんですよ」

 五十嵐は静かに言った。

「一つ目。湯温と湯気の量が合わない。二つ目。鏡がほとんど曇っていない。三つ目。浴槽周辺の床に大きな水の乱れがない。四つ目。脱衣所の水滴が、濡れた紐か布を引いたように細い。五つ目。犬神さんの襟足が、髪の濡れ方に比べて不自然に乾いていました」

「襟足」

 江口は湯の中の死体を思い出した。

 全身が濡れていたはずなのに、五十嵐はそんな細部を見ていたのか。

「つまり?」

「犬神さんは、浴槽で溺れたのではない可能性があります」

 二階堂が低く言った。

「別の場所で死んで、湯に入れられた」

「そう見る方が自然です」

 江口は腕を組んだ。

「でも湯屋は内側から閂が掛かっていた」

「そこだ」

 二階堂はメモに簡単な図を描いた。

 入口戸。閂。浴室。換気窓。軒下。

「閂は木製で、受けに落とすだけの単純なものだ。外から鍵を掛ける構造じゃない。だが、換気窓から細い紐を通せば、外から落とせる可能性がある」

「紐で?」

「閂にあらかじめ紐を掛けておく。外へ出たあと、紐を引いて閂を受けに落とす。その後、紐を抜く」

 江口は湯屋の軒下に残っていた白い繊維を思い出した。

「葬具の白い紐」

「おそらくな」

 五十嵐が言った。

「ただ、その場合、紐は濡れていたはずです」

「雨で?」

「雨もあります。でも浴室側を通したなら、湯気や水滴でも濡れます。脱衣所の床に残っていた細い水滴は、その痕跡かもしれません」

「じゃあ、犯人は外から密室を作った」

 江口が言うと、二階堂は頷いた。

「可能性はある。ただし、問題がある」

「問題?」

「誰でもできる」

 その言葉で、部屋が少し静かになった。

「この村の人間なら、湯屋の構造を知っている。葬具の紐も手に入る。湯灌の準備で人の出入りが多い中なら、仕掛ける時間も作れる」

「つまり容疑者だらけ」

「そういうことだ」

 江口は障子の向こうを見た。

 雨の音が続いている。

 村人たちは今、何を考えているのだろう。犬神宗久の死を悲しんでいるのか。恐れているのか。それとも、自分ではなかったことに安堵しているのか。

 江口は、湯屋の前で誰かが呟いた言葉を思い出した。

 湯灌だ。

 あれは、驚きではなかった。

 名前を知っていた者の反応だった。

「二階堂」

「何」

「村人たち、納得するのが早すぎないか」

 二階堂は江口を見た。

「俺もそう思った」

「人が死んだら、普通は事故か病気かってなる。なのに、みんなすぐ七葬返しに結びつけた」

「昔からそういう風習があるから、とも言えるけど……ねえ」

「でも、怯え方が違った」

「どう違う」

 江口は言葉を探した。

「怖がっているというより、順番を確認しているみたいだった」

 五十嵐が静かに言った。

「最初は湯灌」

 江口は頷いた。

「ええ。最初は湯灌。じゃあ、その次は何だ、って」

 二階堂の顔が険しくなる。

「死装束」

 緋紗子の声が、三人の記憶の中で蘇った。

 湯灌。

 死装束。

 逆さ屏風。

 枕飯。

 野辺送り。

 骨上げ。

 名消し。

 七つの儀式。

 その最初が、もう死体を伴って現れた。

 江口は自分の手を見る。

 指先が冷えていた。

「先生は、本当にこれを望んだんですかね」

 その問いに、二階堂も五十嵐もすぐには答えなかった。

 答えられるはずがなかった。

 死んだ人間の望みは、生きている人間がいくらでも形を変えられる。遺言も、手紙も、記憶も、都合のいいように読めてしまう。

 だから葬式は怖い。

 死者が黙っている場所で、生者だけがよく喋るからだ。

 その時、廊下から足音が近づいてきた。

 障子の外で、誰かが膝をつく気配がする。

「江口様」

 神代拓馬の声だった。

「黒御門様がお呼びです」

 二階堂が聞く。

「何の用ですか」

「七葬返しを続けるかどうか、参列者に説明があるそうです」

「人が死んだ直後に?」

 江口の声が強くなる。

 拓馬は答えなかった。

 代わりに、別の声が廊下の向こうから聞こえた。

 黒御門緋紗子の声だった。

「中断はいたしません」

 障子が静かに開く。

 緋紗子が立っていた。黒い喪服。白い肌。雨音の中で、その姿だけが妙に濡れていないように見える。

「龍崎先生の葬儀は、予定通り進めます」

 二階堂が立ち上がる。

「殺人の可能性があります。警察が来るまで儀式は止めるべきです」

「止めれば、村はもっと乱れます」

「すでに乱れていません?」

「いいえ」

 緋紗子は静かに首を振った。

「まだ始まっただけです」

 江口はその言葉に、胃の底が冷えるのを感じた。

「始まった?」

「七葬返しは、始まれば終わらせなければなりません」

「人が死んでも?」

「人が死んだからです」

 緋紗子は江口を見た。

「犬神宗久様は、湯灌を受けました。ならば、次は死装束です」

 五十嵐の表情がわずかに変わる。

 二階堂は低い声で言った。

「それは予告ですか」

「儀式の順序です」

「それ、同じことじゃないです?」

 緋紗子は答えなかった。

 沈黙の中で、雨音だけが大きくなる。

 やがて緋紗子は、懐から一枚の紙を取り出した。

「犬神様の懐から、これが見つかったと聞きました」

 二階堂の目が鋭くなる。

「誰から聞いたんです?」

「村の者は、口が軽いので」

 紙は濡れて波打っていた。

 そこには、龍崎征臣の筆跡で短い一文が書かれていた。

――犬神宗久は、土地で人を殺した。

 江口はその文字を見た。

 また、龍崎の字だった。

 整っていて、余白まで冷たい字。

 江口は、喉の奥が渇くのを感じた。

「先生の字ですか」

 五十嵐が聞いた。

 江口はすぐには答えられなかった。

 二階堂が代わりに言う。

「似ている」

「似ている、じゃない」

 江口はようやく声を出した。

「先生の字だ」

 認めたくなかった。

 だが、見間違えるはずがなかった。

 緋紗子は紙を見つめて言った。

「龍崎先生は、生前からご存じだったのでしょう」

「何を」

「犬神宗久様の罪を」

「だから殺されていいと?」

 江口の声が低くなった。

 緋紗子は顔を上げた。

「私は、そんなことは申しておりません」

「言ってるのと同じに聞こえたもので」

「江口先生」

 緋紗子が初めて、わずかに声を柔らかくした。

「あなたはまだ、先生を信じていらっしゃる」

 その言い方が、江口の中の何かを逆撫でした。

「信じていますよ」

 江口は言った。

「でも、先生の名前を使って人が死ぬことまで信じたいわけじゃない」

 緋紗子の目が、ほんの少しだけ細くなった。

 怒りではない。

 興味に近かった。

「では、見届けてください」

「何を」

「あなたの信じた先生が、誰を救い、誰を埋めたのかを」

 その言葉を残して、緋紗子は障子を閉めた。

 部屋に沈黙が戻る。

 二階堂は低く吐き捨てるように言った。

「完全におかしいな、この村」

「同感です」

 五十嵐が言った。

 江口は紙に書かれた一文から目を離せなかった。

 犬神宗久は、土地で人を殺した。

 龍崎の字。

 龍崎の遺言。

 龍崎の葬式。

 龍崎の教え子。

 そのすべてが、自分たちを中心へ引き寄せているように感じた。

 外では、雨が止まない。

 山は濡れ、道は崩れ、村は少しずつ外から切り離されていく。

 そして江口は、その時初めてはっきりと理解した。

 龍崎征臣の葬式は、死者を送るために開かれたのではない。

 生き残った人間を、一人ずつ死者の前に立たせるために開かれたのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ