表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
龍守村の七葬返し――葬列は七度死ぬ  作者: 神谷利休|アコンプリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/4

第一章 先生が死んだ

 江口桜次郎は、葬式というものが苦手だった。

 死者を悼む場所だからではない。黒い服を着なければならないからでも、読経のあいだ神妙な顔を作らなければならないからでもない。

 葬式には、生きている人間の都合が出る。

 泣く者。泣けない者。泣いているふりをする者。故人との距離をさりげなく誇示する者。遺族の疲れを見ないふりで慰める者。悲しみより先に、誰が来ていて誰が来ていないかを数える者。

 死者は黙っている。

 だから、その場では生者だけがよく喋る。

 江口は昔から、それが少し怖かった。

 午前六時四十二分。

 スマートフォンが鳴った。

 江口は布団の中で目を開けた。目覚めたというより、意識が水底から引き上げられたような感覚だった。昨夜は定期テストの採点をしていた。鎌倉幕府の成立と御恩と奉公。赤ペンを握ったまま机に突っ伏し、気づけば午前三時を過ぎていた。そこから布団に移動した記憶はあるが、眠った記憶はない。

 枕元のスマートフォンは、震えながら光っている。

 画面に表示された名前を見て、江口は眉を寄せた。

 二階堂壮也。

 この時間に二階堂から電話が来る時点で、ろくな話ではない。警視庁に勤める人間というのは、仕事の都合で時間の感覚がおかしくなるのだろうか、と江口は一瞬だけ思った。だが、二階堂は無駄な電話をする男ではない。

 江口は通話ボタンを押した。

「朝から警察は勘弁してほしいんだけど」

 いつもの調子で言ったつもりだった。

 だが、受話口の向こうはすぐに返事をしなかった。

 短い沈黙。

 その沈黙だけで、江口は体を起こした。背中に冷たいものが走る。

「桜次郎」

 名前で呼ばれた。

 二階堂がそう呼ぶ時は、たいてい冗談では済まない。

「何」

 江口の声は、自分でも驚くほど低かった。

「龍崎先生が亡くなった」

 言葉は短かった。

 短いぶんだけ、逃げ場がなかった。

 江口は何も言えなかった。カーテンの隙間から、薄い朝の光が部屋に入っている。床には昨日脱いだ靴下が片方だけ転がり、机の上には採点途中の答案が広がっていた。湯を入れたまま忘れたマグカップ。読みかけの文庫本。空になった栄養ドリンクの瓶。

 世界は、あまりにも普通だった。

「……いつ」

「昨日の夜だ。村の人間から連絡があった」

「村?」

「龍守村。先生の故郷らしい」

 龍守村。

 聞いたことのない地名だった。

 江口は額に手を当てた。頭の奥が鈍く重い。眠気は消えていた。代わりに、胃の底へ冷たい石が落ちたような感覚があった。

「病気?」

「表向きはな」

「表向きって言うなよ。朝から」

「俺も言いたくない」

 二階堂の声は低かった。普段なら、もう少し皮肉が混じる。江口がくだらないことを言えば、さらにくだらない返しが来る。高校時代からそうだった。二人は、深刻な話ほど少し斜めから扱う癖があった。

 だが今の二階堂には、その余裕がなかった。

「葬儀に来てほしいそうだ」

「そうだ、って誰が」

「龍守村の人間だ。詳しい関係はまだ分からない。ただ、先生の遺言で、お前と俺の名前が指定されていた」

「遺言」

 江口は、その言葉を繰り返した。

 教師の葬式に、遺言で教え子が呼ばれる。

 その時点で、もう嫌な物語が始まっている。

「行くのか」

 二階堂が聞いた。

 江口はすぐには答えなかった。

 龍崎征臣。

 高校時代の顧問。ソフトテニス部の顧問で、社会科教師で、やたらと字が綺麗で、怒る時にも声を荒らげない男だった。

 江口が転入してきたばかりで、教室に馴染めずにいた頃、龍崎だけが妙に自然に声をかけてきた。

 無理に友達を作らなくていい。

 ただ、他人を敵だと決めるのは少し待て。

 放課後の教室で、龍崎はそう言った。黒板の前ではなく、生徒の机に腰を預けるようにして、窓の外を見ながら。説教ではなかった。励ましでもなかった。ただ、そこに置かれた言葉だった。

 当時の江口には、それだけで十分だった。

 誰かに救われるというのは、必ずしも抱きしめられることではない。むしろ、触れられない距離で、自分がまだここにいていいと知らされることの方が多い。

 江口にとって、龍崎はそういう教師だった。

「行くよ」

 江口は言った。

「無理なら来るな」

「無理だから行くんだろ」

 受話口の向こうで、二階堂が息を吐いた。

「お前、昔からそういうところが最悪だよ」

「親友みたいなこと言うな」

「親友だろ」

「朝から重い」

「葬式の話をしてるんだ。軽い方が嫌だろ」

 江口は少しだけ笑った。

 笑った瞬間、胸の奥が痛んだ。

「場所、送って」

「送る。ただし、一人で来るな」

「何で」

「先生の遺言が、少し変だ」

 江口は布団から出た。床に足をつける。冷たい。六月に入ったばかりだというのに、朝の床は妙に冷えていた。

「どんなふうに」

 二階堂は、少しだけ間を置いた。

「葬儀は、龍守村の古式に従うこと」

 江口は黙って聞いた。

「七葬返しが終わるまで、参列者は村を出てはならない」

「……何それ」

「俺も同じことを思った」

「葬式って普通、故人の希望により家族葬でとか、香典は辞退しますとか、そういうやつじゃないの」

「普通の葬式ならな」

 普通ではない。

 その言葉だけが、部屋の中に残った。

 江口はカーテンを開けた。窓の外には低い雲が垂れこめている。朝の光はあるのに、空は重かった。雨が降る前の色だ。

 遠くでトラックの走る音がした。どこかの家の玄関が開く音。通学路を歩く子どもの声。日常は平然としている。だが、江口の周囲だけ、薄い膜で隔てられたように静かだった。

「壮也」

「何」

「先生、何を始めるつもりだったんだろうな」

 電話の向こうで、二階堂はすぐには答えなかった。

 やがて、低く言った。

「死んだあとに始めるようなことは、たいてい生きている人間には迷惑だ」

「名言っぽく言うなよ。朝から不吉だ」

「不吉な場所に行くんだよ、俺たちは」

 電話が切れたあとも、江口はしばらくスマートフォンを握っていた。

 画面は黒くなっている。

 そこに映った自分の顔は、ひどく寝不足で、ひどく冴えていて、ひどく嫌な予感をしていた。

 採点途中の答案に目をやる。

 赤ペンの線が一本、解答欄から大きくはみ出していた。寝落ちする直前につけたものだろう。まるで、誰かの傷口のように見えた。

 江口は赤ペンを片づけ、答案を重ねた。

 その一番上に、生徒の字で小さく書かれている。

『先生、最近顔色わるくないですか』

 ここ数年、標語のように目に入る文言。

 江口は数秒それを見てから、赤ペンで短く返した。

『社会科の答案に保健室案件を書くな』

 書いてから、少しだけ後悔した。

 今日、学校へ行けなくなったら、この答案を返すのは明日以降になる。生徒は自分のコメントを見て、また余計な心配をするかもしれない。

 教師という仕事は、他人に心配するなと言いながら、自分の心配だけはうまく隠せない仕事だ。

 江口は学校へ連絡を入れた。

 忌引きではない。身内ではない。恩師の葬儀に参列したいというだけでは、職場によっては嫌な顔をされる。だが管理職は、龍崎の名前を聞くと、意外なほどあっさり了承した。

『分かりました。今日と明日は年休扱いで調整します。気をつけて行ってください』

 気をつけて行ってください。

 電話口の声は事務的だったが、その言葉だけは妙に耳に残った。

 江口は黒いスーツを出した。

 最後に着たのは、去年の親戚の法事だったはずだ。袖を通すと、肩のあたりがわずかに窮屈だった。太ったわけではない。むしろ痩せた。だが、体に合わない感じがした。葬式用の服というのは、いつ着ても自分の体を少し他人のものにする。

 ネクタイを結びながら、鏡の中の自分を見る。

 三白眼。目の下のクマ。血色の悪い肌。

 生徒に顔色を心配されるのも当然だった。

 その時、スマートフォンが短く震えた。

 二階堂からのメッセージだった。

『十時に東京駅。そこから新幹線と車。龍守村までは遠い』

 続けて、もう一通。

『五十嵐理人も来るらしい』

 江口は手を止めた。

 五十嵐理人。

 同じ学校の理科教師。二十七歳。理学部の地質学専攻出身で、観察眼が妙に鋭い。職員室では穏やかに笑っているが、その目はいつも対象を測っている。江口の顔色や手の震えやマグカップの中身まで、必要以上に見てくる男だった。

 江口はすぐに返信した。

『何で五十嵐先生が』

 二階堂からの返事はすぐに来た。

『俺も知らない。現地で聞く』

 江口は画面を見つめた。

 五十嵐が龍崎とどう関係しているのか。少なくとも、江口は聞いたことがなかった。江口の学校に五十嵐が着任した時、共通の知人の話など一度も出なかった。そもそも五十嵐は、自分の昔話をあまりしない。学生時代の話も、家庭の話も、好きなものの話も、必要最低限しか話さない。

 理科教師は、と江口は思う。標本のラベルみたいな会話をする時がある。

 だが、それにしても妙だった。

 龍崎の葬式に、江口と二階堂だけでなく五十嵐まで呼ばれる。

 偶然ではない。

 そう思った瞬間、江口の胃のあたりが小さく軋んだ。

 外では雨が降り始めていた。

     *

 東京駅は、平日の午前とは思えないほど人が多かった。

 黒いスーツを着た江口は、改札前の柱にもたれていた。手には小さなボストンバッグ。中身は着替えと、必要最低限の洗面用具と、念のため持ってきた文庫本一冊。葬式に本を持っていくのはどうかと思ったが、活字がないと落ち着かない時がある。

 約束の五分前に、二階堂壮也が現れた。

 薄いグレーのジャケットに黒いシャツ。葬儀に向かうには少し軽く見えるが、二階堂が着ると不思議と失礼には見えなかった。金髪はいつもより抑えられている。だが、顔立ちのせいで駅の雑踏の中でも妙に目立つ。

「顔色悪いな」

 開口一番、二階堂が言った。

「今日それ三人目」

「誰に言われた」

「生徒と鏡と今のお前」

「鏡に言われるのは重症だろ」

「鏡は正直だからな。世界一信用できる」

 二階堂は江口の顔を数秒見た。

 その視線には、軽口の奥に別のものがある。高校時代からそうだった。二階堂は、江口が本当にきつい時ほど、あえて軽い言葉を選ぶ。

「寝たか」

「寝たよ」

「何時間」

「寝たという概念について、まず定義を確認したい」

「寝てないんだな」

「教師は睡眠ではなく責任感で動いてる」

「その理屈で倒れた教師を何人か見た」

「警察って教師の死因にも詳しいの?」

「お前が倒れそうな時だけ詳しくなる」

 江口は視線を逸らした。

「親友みたいなこと言うなって」

「親友だろ。まだ否定するのか」

「葬式の日に関係性を詰めるな」

 二階堂は少し笑った。

 その笑い方を見て、江口はようやく息を吐いた。

 二階堂がいる。

 その事実だけで、世界の重心が少し戻る気がした。

 高校時代、江口と二階堂は同じソフトテニス部だった。と言っても、江口は泥臭く強くなろうとするタイプではなく、二階堂は妙に器用で、練習量のわりに勝てるタイプだった。二人の共通点は多くなかった。だが、なぜか一緒にいることが多かった。

 龍崎は、その二人をよくペアにした。

 当時は、相性がいいからだと思っていた。

 今になって思うと、それも龍崎の観察だったのかもしれない。

「五十嵐先生は?」

 江口が聞くと、二階堂は改札の向こうを見た。

「もう来てる」

「え」

 その言葉に合わせるように、背後から声がした。

「おはようございます」

 江口は振り返った。

 五十嵐理人が立っていた。

 黒いスーツに、細い黒のネクタイ。普段の職員室で見るよりも、ずっと大人びて見えた。整えた髪。落ち着いた目。二十七歳という年齢より、少し下に見える。笑うとますます若さが残る。

「五十嵐先生」

「江口先生、寝てませんね」

「挨拶の次がそれ?」

「見れば分かります」

「理科教師の目って嫌だな」

「便利ですよ。嫌われますけど」

 二階堂が五十嵐を見る。

「初対面だな。二階堂壮也です」

「五十嵐理人です。江口先生には、職員室でいつもお世話になっています」

「世話?」

 二階堂が江口を見る。

「してない。むしろされてる方」

「あぁ……それだったら、主に顔色の観察と、コーヒー摂取量の監視です」

「世話じゃなくて管理だろ、それ」

「学校現場は管理が大事です」

「管理職何人いるんだよ、うちの学校」

「僕は江口先生専属の管理役ですから」

「理科教師まで警察みたいなこと言い出した」

 江口がぼやくと、五十嵐は少しだけ笑った。

 その笑みは穏やかだったが、目は笑い切っていなかった。

 江口はそれに気づいた。

 五十嵐もまた、ただの参列者としてここにいるわけではない。

「五十嵐先生」

「はい」

「龍崎先生と、どういう関係だったんですか」

 五十嵐はすぐには答えなかった。

 駅の構内放送が流れる。人の靴音。キャリーケースの車輪の音。改札を抜ける電子音。都市の音は、どれも乾いている。

 五十嵐は江口を見た。

「僕の高校時代の顧問でした」

 江口は言葉を失った。

 二階堂も、わずかに眉を動かした。

「顧問?」

「はい。地学部の顧問です。正確には、僕が二年の時に赴任してきました」

「二年の時」

 江口は、頭の中で時期を数えた。

 江口と二階堂が高校を卒業した年。

 龍崎は二人の高校を去った。

 その直後に、五十嵐の学校へ赴任している。

「聞いたことない」

 江口は呟いた。

「僕も聞いたことありませんでした」

 五十嵐は静かに言った。

「江口先生と二階堂さんが、龍崎先生の教え子だったことは」

 三人のあいだに、奇妙な沈黙が落ちた。

 同じ先生に教わっていた。

 だが、それを互いに知らなかった。

 偶然というには、時期が整いすぎている。

 二階堂が低く言った。

「先生は、何も言わなかったのか」

「ええ」

「江口たちのことも?」

「一度も」

 五十嵐はそこで少しだけ視線を落とした。

「ただ、今思えば、似たようなことは言われました」

「似たようなこと?」

 江口が聞く。

「無理に正しくあろうとしなくていい。ただ、間違った人間を許す前に、自分が何に怒っているのか考えろ、と」

 江口の胸の奥が、わずかに痛んだ。

 龍崎らしい言葉だった。

 それでいて、江口が知っている龍崎とは少し違う。

 江口に向けられた龍崎の言葉は、もっと柔らかかった。敵だと決めるのは少し待て。人を疑うのは悪いことではないが、疑う前に見ることを覚えろ。お前は一人でいるのが下手じゃない。ただ、一人でいる理由を他人のせいにしすぎる。

 当時の江口は、それを救いだと思った。

 だが、五十嵐に向けられた言葉は違う。

 正しさ。怒り。許し。

 まるで、龍崎は相手の傷に合わせて、別々の言葉を処方していたようだった。

「いい先生でしたよ」

 五十嵐が言った。

 江口は顔を上げた。

 五十嵐は続ける。

「少なくとも、僕にとっては」

「その言い方、怖いな」

 二階堂が言うと、五十嵐は否定しなかった。

「怖い人でもありましたから」

 江口は口を開きかけた。

 だが、言葉が出なかった。

 龍崎を怖いと思ったことがなかったわけではない。怒鳴らないのに、嘘をつくとすぐに見抜かれる。部室で誰かが隠している不満を、本人より先に言語化する。試合で負けた生徒に、慰めではなく、負けた理由を静かに言う。そういう怖さはあった。

 だが、それは優秀な教師の怖さだと思っていた。

 人を見ているから、怖い。

 そう信じていた。

 新幹線の発車時刻が近づいていた。

 二階堂が切符を取り出す。

「行こう。話は中でできる」

 江口は頷いた。

 だが、足を踏み出す前に、もう一度だけ五十嵐を見た。

「五十嵐先生」

「はい」

「先生から、葬儀に来るよう連絡が?」

「龍守村の方からです」

「遺言で?」

「はい」

「僕たちと同じですね」

「そうみたいです」

 五十嵐は淡々としていた。

 だが、その指先がほんの少しだけ、切符の端を強く押さえているのを江口は見た。

 五十嵐も動揺している。

 そう分かって、江口は少しだけ安心し、同じくらい不安になった。

     *

 新幹線の窓の外で、都市の景色が流れていく。

 灰色のビル群。高架下の駐車場。遠くのマンション。やがて住宅地が減り、畑が増え、山の輪郭が近づいてくる。

 三人は横並びではなく、向かい合わせに座っていた。二階堂が通路側、江口が窓側、五十嵐が向かいの窓側。テーブルにはコンビニのコーヒーが置かれている。江口が買ったものだ。

 五十嵐がそれを見た。

「今日くらい、コーヒー控えたらどうですか」

「葬式に行くのに眠そうな顔をしていたら失礼でしょう」

「今もう十分失礼な顔色です」

「理科教師って、言葉にメス入ってますよね」

「観察結果です」

 二階堂がスマートフォンを操作しながら言った。

「五十嵐先生、龍崎先生のこと、どれくらい知ってるの?」

「高校時代に一年半ほど教わっただけです。地学部の顧問として」

「地学部」

 江口が呟く。

「ソフトテニス部の顧問だった先生が?」

「赴任先で空いていた顧問を持ったんだと思っていました」

 五十嵐は窓の外へ視線を向けた。

「でも今思うと、地学部に来たこと自体、偶然ではなかったのかもしれません」

「どういう意味だ」

 二階堂が聞く。

「龍崎先生は、石を見るのが好きでした」

「石?」

「ええ。岩石標本を見ながら、よく言っていました。人間も地層と同じだ、と」

 江口は嫌な予感を覚えた。

 五十嵐は静かに続ける。

「表面に出ているものはごく一部で、下にはもっと古いものが重なっている。圧力をかければ歪む。熱を加えれば変わる。割れば、内部の模様が見える」

 二階堂の手が止まった。

「教師の言葉としては、あまり健全じゃないな」

「当時は、深いことを言う先生だと思っていました」

 五十嵐の声には、皮肉はなかった。

 だからこそ、重かった。

 江口はコーヒーの蓋を開けた。湯気が上がる。飲もうとして、やめた。五十嵐の視線がわずかに動いたからだ。

「飲みませんよ」

「まだ何も言ってません」

「顔が言ってる」

「じゃあ顔に従ってください」

 二階堂が小さく笑った。

「お前ら、同僚としての距離感が変だな」

「江口先生がすぐ体調を崩しそうな生活をするので」

「五十嵐先生がすぐ人体観察してくるから」

「どっちもどっちだな」

 二階堂はスマートフォンを江口に向けた。

「龍守村について、少し調べた」

 画面には、地図アプリが表示されている。山に囲まれた小さな集落。最寄りの駅から車で一時間以上。一本の県道が谷沿いに伸び、その先で細い道に分かれている。

「人口三百人弱。高齢化が進んでる。観光資源はほとんどない。ただし、龍守葬送儀礼という無形文化財に近い扱いの風習があるらしい」

「無形文化財に近い扱い?」

 江口が聞く。

「正式指定はされてない。資料が少ないんだ。村の外に出したがらない風習らしい」

「七葬返しですか」

 五十嵐が言った。

 二階堂が頷く。

「たぶんな。湯灌、死装束、逆さ屏風、枕飯、野辺送り、骨上げ、名消し。七つの儀式で死者の罪を村から返す」

「死者の罪」

 江口は繰り返した。

「普通、葬式って故人を送るものじゃないんですか」

「建前はな」

 二階堂は画面を閉じた。

「だが、古い村の儀式には共同体の都合が混じる。死者を送るだけじゃない。死者に責任を背負わせる。生き残った連中が、これで終わったと思うためにな」

「嫌な説明ですね」

「仕事柄だ」

 五十嵐がぽつりと言った。

「罪を返すというより、罪を移す儀式かもしれませんね」

 江口は五十嵐を見た。

「どう違うんですか」

「返すなら、本来の持ち主に戻すことです。移すなら、誰かに背負わせることです」

 二階堂が目を細めた。

「龍崎先生の葬式に、俺たちが呼ばれた理由がそれなら最悪だな」

「俺たちに罪を背負わせるってこと?」

 江口が言うと、二階堂は首を振った。

「逆かもしれない」

「逆?」

「先生が背負っていたものを、俺たちに見せたいのかもしれない」

 二階堂は、閉じかけた画面をもう一度開いた。

「それと、もう一つ気になることがある。龍守村には、古い家の序列があるらしい」

「家の序列?」

 江口は眉を寄せた。

「葬送を司る黒御門。土地を持つ犬神。診療所の薬師丸。村政の神代。旅館と外部との窓口になる百鬼。伝承や古文書に関わる忌部。それから、かつて七葬返しの古い記録を持っていた鴉丸」

 知らない名字ばかりだった。

 だが、並べられたそれらの名は、単なる住民の姓には聞こえなかった。役割を持った札のようだった。誰が弔い、誰が土地を押さえ、誰が薬を扱い、誰が外と内をつなぎ、誰が記録を握ってきたのか。村というより、閉じた盤面の駒を説明されているような気がした。

「ずいぶん物騒な家系図だな」

 江口が言うと、二階堂はスマートフォンの画面を見つめたまま、低く応じた。

「家系図というより、役割表だな」

「役割表?」

「誰が何を守ってきたのか。誰が何を隠してきたのか。そういうものが、名字に残ってる」

 五十嵐が窓の外を見た。

「地層みたいですね」

「また理科教師が怖いことを言い出した」

「表面だけ見ても分からない、という意味です。古いものほど下にあります。けれど、崩れる時は、下から崩れます」

 江口は黙った。

 龍崎先生が、五十嵐に言ったという言葉を思い出す。

 人間も地層と同じだ。

 表面に出ているものはごく一部で、下にはもっと古いものが重なっている。

 圧力をかければ歪む。熱を加えれば変わる。割れば、内部の模様が見える。

 その言葉が、今になって妙に冷たく響いた。

「……苗字」

 江口は、小さくその名を繰り返した。

 二階堂が目を上げる。

「何か引っかかるのか」

「いや」

 江口は首を振った。

「ただ、質量のある苗字だなと思っただけ」

「苗字に質量も何もないだろ」

「社会科教師はいろんなところから土地の匂いを嗅ぐんだよ」

「便利だな」

「警戒されますけど」

 五十嵐が静かに言った。

 江口は思わず彼を見た。

 五十嵐は窓の外を見ていた。

 山が近くなっていた。

 緑の濃い斜面に、低い雲が絡んでいる。雨は細かく窓を叩いていた。水滴が斜めに流れ、景色を歪ませる。

 龍崎先生。

 あなたは、死んでから何を見せようとしているんですか。

 心の中でそう問いかけた。

 当然、答えはなかった。

     *

 新幹線を降りたあと、三人は在来線に乗り換え、さらに駅前で手配されていた車に乗った。

 迎えに来ていたのは、龍守村の役場職員だという男だった。名を神代拓馬といった。三十代半ばほど。痩せた体に、黒い喪服が少し余っている。顔には疲労が浮かんでいたが、目だけが妙に落ち着かない。

「遠いところ、ありがとうございます」

 拓馬は運転席で何度も頭を下げた。

「龍崎先生には、生前、大変お世話になりまして」

 それは定型文のように聞こえた。

 二階堂が助手席に座り、江口と五十嵐は後部座席に並んだ。車は駅前のロータリーを抜け、山へ向かう道に入った。

 雨は強くなっていた。

 ワイパーが忙しく動く。窓の外には、濡れた杉林が続いている。道は狭く、片側は山肌、片側は谷だった。ガードレールの向こうで、川が白く泡立っている。普段なら細い流れなのだろうが、雨で水量が増していた。

「道、大丈夫なんですか」

 江口が聞くと、拓馬はバックミラー越しにちらりと見た。

「今のところは」

「今のところ」

 二階堂が繰り返す。

「雨が続くと、県道が崩れることがあります。龍守村は地盤があまり強くありませんので」

 五十嵐が窓の外を見る。

「斜面の層が脆そうですね」

「分かるんですか」

 拓馬が驚いたように言った。

「少し。地質をやっていたので」

「それは心強い」

 拓馬はそう言ったが、声は心強さを感じているようには聞こえなかった。

 江口は、運転席の男の手元を見た。ハンドルを握る指に力が入りすぎている。道が悪いからではない。何か別の緊張がある。

 二階堂もそれに気づいているはずだった。だが、今は何も言わない。

「龍崎先生は、村ではどういう方だったんですか」

 江口は聞いた。

 拓馬の肩が、ほんの少し強張った。

「立派な方でした」

 返事は早かった。

 早すぎた。

「村の外で長く教師をされていましたが、戻ってこられてからも、いろいろと相談に乗ってくださいました。村の若い者にも、年寄りにも、分け隔てなく」

「分け隔てなく」

 二階堂が低く言った。

「はい」

 拓馬は前を向いたまま頷いた。

「龍崎先生は、人を見る目がありましたから」

 その言葉に、江口は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

 人を見る目がある。

 それは、褒め言葉として使われることが多い。

 だが、人を見るという行為には、見られる側の逃げ場を奪う冷たさもある。

 車はさらに山奥へ入った。

 やがて、道の両脇に古い石碑が増え始めた。苔むした地蔵。崩れかけた祠。白い紙垂が雨に濡れて、細い指のように垂れている。

 その先に、黒い幟が立っていた。

 雨に濡れた布に、白い文字が染め抜かれている。

 龍守葬。

 江口は、その文字を見た瞬間、胸の奥が冷えた。

 葬式を知らせる幟にしては、あまりにも大きい。まるで、村全体が一つの葬儀場になっているようだった。

「着きます」

 拓馬が言った。

 車が坂を上る。

 視界が開けた。

 谷間に、小さな集落があった。

 瓦屋根の家々。細い道。山から落ちてくる霧。雨に濡れた田畑。村の中央には、古い公民館のような建物があり、その奥に大きな屋敷が見える。

 屋敷の前には、黒い車が何台も停まっていた。喪服の人々が傘を差して出入りしている。玄関には白い幕。軒下には水の入った桶が七つ、等間隔に並べられていた。

 江口はそれを見て、思わず息を止めた。

 七つの桶。

 龍崎の遺言。

 七葬返し。

 村を出てはならない。

 すべてが、現実の形を持ち始めている。

 車が止まった。

 拓馬が振り返る。

「こちらが、龍崎家です」

     *

 龍崎家は、古い屋敷だった。

 大きすぎる家というのは、それだけで人を少し不安にさせる。住むためだけではなく、何かを隠すためにも作られているように見えるからだ。

 玄関を入ると、湿った畳と線香の匂いが混じっていた。廊下は長く、薄暗い。壁には古い写真が掛けられている。集合写真。祭りの写真。学校らしき建物の前で撮られた写真。どれも人の顔が小さく、時間に削られて表情が読めない。

 奥の座敷に、祭壇があった。

 白い菊。黒い幕。線香の煙。

 中央に、龍崎征臣の遺影。

 江口は足を止めた。

 写真の中の龍崎は、江口の記憶より少し老けていた。だが、目元は変わらない。静かで、深くて、こちらを見ているのか、こちらの奥を見ているのか分からない目。

 高校時代、江口はその目に何度も救われた。

 嘘をついても見抜かれる。

 強がっても見抜かれる。

 助けてほしいと言えない時も、見抜かれる。

 それが救いだった。

 今、遺影の中の龍崎は、同じ目で江口を見ていた。

 ただし、もう何も言わない。

「先生」

 声には出さなかった。

 だが、胸の中でそう呼んだ。

 その時、背後から女の声がした。

「江口桜次郎さんですね」

 江口は振り返った。

 黒い喪服の女が立っていた。四十代前半だろうか。髪を低く結い、肌は白く、唇にはほとんど色がない。美しいというより、整いすぎていて近寄りがたい顔だった。背筋がまっすぐ伸びている。葬儀の場にいる人間特有の疲れや乱れがない。

「黒御門緋紗子と申します」

 女は深く頭を下げた。

「龍守村の葬送を預かっております」

 葬送を預かる。

 奇妙な言い方だった。

 二階堂が名乗り、五十嵐も続いた。

 緋紗子は三人を順に見た。視線は丁寧だったが、温度がない。まるで、すでに名前を知っている品物の状態を確認しているようだった。

「お待ちしておりました」

「先生の遺言で、ですか」

 江口が聞くと、緋紗子は頷いた。

「はい。龍崎先生は、あなた方三人に必ず来ていただくよう望まれました」

「三人?」

 二階堂が言った。

「俺たちが一緒に来ることも、先生は知っていたんですか」

「少なくとも、そうなるとお考えだったようです」

 江口は五十嵐を見た。

 五十嵐の表情は変わらなかったが、目だけがわずかに細くなっていた。

「なぜですか」

 江口は緋紗子に向き直った。

「なぜ、僕たちなんです」

 緋紗子は少しだけ沈黙した。

 線香の煙が、彼女の前を薄く流れていく。

「先生は、生前よく仰っていました」

「何を」

「教え子は、教師の作品ではない。けれど、教師が自分の罪を見つけるための鏡にはなる、と」

 江口は眉を寄せた。

 緋紗子は続けた。

「あなた方は、先生にとって特別な教え子だったのでしょう」

 その言葉は、一見すると慰めのようだった。

 だが、江口にはそう聞こえなかった。

 特別。

 その言葉の中に、選ばれた喜びではなく、選ばれてしまった不穏さがあった。

「こちらへ」

 緋紗子は座敷の奥を示した。

「ご焼香の前に、先生の遺言をお聞きください」

「今ですか」

 二階堂が聞く。

「はい。七葬返しの前に、必ず」

 七葬返し。

 その言葉が出た瞬間、座敷の空気が少し変わった。

 近くにいた村人たちが、こちらを見た。誰も大きな反応はしない。だが、目だけが動く。喪服の中の視線。雨音。線香の煙。古い家の柱が軋む音。

 江口は、急に自分が村人ではないことを強く意識した。

 客ではない。

 部外者でもない。

 何かのために呼ばれた人間。

 それが一番近い気がした。

 三人は奥の控室へ通された。

 そこには、黒塗りの小さな机があり、上に封筒が置かれていた。封筒の表には、龍崎の筆跡で三人の名前が書かれている。

 江口桜次郎。

 二階堂壮也。

 五十嵐理人。

 江口は、その字を見た瞬間、胸を掴まれたようになった。

 龍崎の字だった。

 細く、整っていて、余白まで計算されているような字。

 高校時代、黒板に書かれる龍崎の文字は美しかった。授業の内容よりも、その字を覚えている生徒さえいた。江口もその一人だった。龍崎の字を見ると、教室の匂いや、放課後の光や、ラケットのグリップの感触まで思い出す。

 緋紗子が封筒を開けた。

 中から一枚の紙を取り出す。

 彼女は静かに読み上げた。

「私、龍崎征臣の葬儀は、龍守村に伝わる古式葬送、七葬返しに従って執り行うこと」

 江口は黙って聞いた。

「七葬返しが終わるまで、参列者は村を出てはならない」

 二階堂の表情が硬くなる。

「葬送の場において、私に関する一切の記録を開示すること」

 五十嵐がわずかに顔を上げた。

「江口桜次郎、二階堂壮也、五十嵐理人の三名には、最後まで立ち会わせること」

 緋紗子はそこで一度言葉を切った。

 雨音が強くなる。

 屋根を叩く音が、座敷の奥まで響いてきた。

 緋紗子は最後の一文を読んだ。

「三人は、私が最後に教えたかった生徒である」

 沈黙が落ちた。

 江口は自分の手を見た。

 指先が、わずかに冷えている。

 最後に教えたかった生徒。

 その言葉は、普通なら光栄に思うべきものなのかもしれない。

 だが、今は違った。

 死者の葬儀。

 古式の儀礼。

 村を出てはならないという遺言。

 そして、最後の授業。

 それらが一つに繋がると、ひどく嫌な形になる。

 二階堂が緋紗子を見た。

「法的な拘束力はない」

「承知しております」

「なら、出ていく人間を止めることはできません」

「はい」

 緋紗子は静かに頷いた。

「ただ、今夜から雨が強くなります。県道が崩れれば、物理的には難しくなるかもしれません」

 二階堂の目が細くなる。

「偶然ですか」

「山の天気は、村の者にも決められません」

 緋紗子の声は穏やかだった。

 だが、その穏やかさがかえって江口には不気味だった。

 五十嵐が口を開いた。

「七葬返しとは、具体的に何をするんですか」

「死者の罪を七つの葬送で返す儀式です」

「死者の罪?」

「はい」

 緋紗子は五十嵐を見た。

「湯灌、死装束、逆さ屏風、枕飯、野辺送り、骨上げ、名消し」

 七つの言葉が、静かに部屋へ置かれていく。

 江口はその中の一つに引っかかった。

「名消し」

「最後の儀式です」

「名前を消すんですか」

「村に災いを残す死者は、名を残してはなりません」

 二階堂が低く言った。

「龍崎先生の名前を消すということですか」

 緋紗子は答えなかった。

 答えないことが、答えのようでもあった。

「先生は、そんなことを望んだんですか」

 江口は思わず言った。

 声が少し強くなった。

 緋紗子は江口を見た。

「望まれたのは先生です」

「でも、先生は――」

 言いかけて、江口は止まった。

 先生は、そんな人じゃない。

 そう言おうとした。

 だが、その言葉を口にするには、自分は龍崎の何を知っているのだろう。

 高校時代の一年半。放課後の部室。試合前の助言。転入生だった自分に向けられた数少ない言葉。卒業式の日に渡された一冊のノート。

 それだけだ。

 それだけで、人間の全体を知った気になっていたのかもしれない。

 緋紗子は静かに言った。

「江口さん」

「はい」

「あなたは、先生を信じていらっしゃるのですね」

 その言い方が、江口には嫌だった。

 信じていることを褒めているのではない。

 信じている状態を確認している。

 まるで、これからそれを壊すために。

「信じています」

 江口は言った。

 言ってから、自分の声が少し震えていたことに気づいた。

 緋紗子は微笑まなかった。

「では、最後までご覧ください」

「何を」

「先生が、誰の先生だったのかを」

     *

 遺言の確認が終わると、三人はしばらく控室に残された。

 廊下の向こうから、参列者のざわめきが聞こえる。雨音はさらに強くなっていた。古い窓ガラスに、細かい水滴が叩きつけられている。

 二階堂は腕を組み、壁にもたれていた。

「最悪だな」

「葬式でその感想はどうなんだ」

 江口が言うと、二階堂は冷たく返した。

「葬式じゃないだろ、これは」

 江口は反論できなかった。

 五十嵐は机の上の封筒を見ていた。封筒は緋紗子が置いていったものだ。遺言とは別に、三人へ渡すよう言われていたらしい。

 中には、小さな鍵が入っていた。

「何の鍵でしょう」

 五十嵐が言った。

「龍崎先生の遺品箱だってさ」

 二階堂が答える。

「先生の?」

 江口は鍵を見た。

 古い真鍮の鍵だった。小さいが、重そうに見える。持ち手の部分に、細い傷がいくつもある。長いあいだ使われていたものだ。

 緋紗子によれば、龍崎は死の少し前、三人が来たら遺品箱を開けるようにと言い残していたという。

「開ける?」

 二階堂が言った。

 江口は頷いた。

 控室の隅に、古い木箱が置かれていた。黒ずんだ木目。金具には錆が浮いている。箱の上には白い布が掛けられていた。

 江口は布を取った。

 鍵穴に真鍮の鍵を差し込む。

 少し抵抗があった。何年も開けられていなかったような硬さだった。江口が力を込めると、かちりと音がした。

 蓋を開ける。

 中には、ノートが三冊入っていた。

 一冊目は、江口に見覚えがあった。

 黒い表紙の大学ノート。角が少し丸まっている。表紙の右下に、龍崎の字で小さく書かれている。

『練習記録 一』

 江口は息を止めた。

「これ……」

「知ってんの?」

 二階堂が聞く。

「部活のノートだ」

 高校時代、龍崎は部員全員に練習記録を書かせていた。反省、目標、試合で気づいたこと。江口は面倒だと思いながらも、意外と真面目に書いていた。書くことは嫌いではなかったからだ。

 だが、これは江口たちが提出していたノートではない。

 龍崎自身の記録だった。

 二階堂が二冊目を取る。

 そこには『観察記録 二』とあった。

 五十嵐が三冊目を見る。

 表紙に文字はない。代わりに、小さな錠前がついていた。

「三冊目だけ、さらに鍵がありますね」

「今の鍵じゃ開かないのか」

 二階堂が試すが、合わなかった。

 江口は一冊目を開いた。

 最初のページには、日付と名前が並んでいた。江口桜次郎。二階堂壮也。ほかの部員たちの名前。練習内容。試合結果。

 そして、ページの端に龍崎の字で短い所見が書かれている。

『江口。孤独に慣れているように見えるが、実際には孤独を選んでいるわけではない』

 江口の指が止まった。

『二階堂。観察力が高い。だが、人を疑う前に守ろうとする癖がある』

 二階堂が横から覗き込み、顔をしかめた。

「なんだこれ」

「先生のメモだろ」

「メモっていうより、診断だ」

 江口はページをめくった。

『江口は、他人の悪意には敏感だが、善意に弱い。救われたと感じた相手には、判断が鈍る』

 心臓が、一度だけ強く打った。

 五十嵐が黙って見ている。

 江口はさらにページをめくった。

 龍崎の字が続く。

『人は、救われた相手を疑えない』

 その一文を見た瞬間、江口は呼吸を忘れた。

 紙の上の文字は、静かだった。

 だが、その静けさが刃物のように見えた。

 人は、救われた相手を疑えない。

 それは、ただの観察なのか。

 それとも、江口自身に向けられた言葉なのか。

 二階堂が低く言った。

「桜次郎」

「大丈夫」

「まだ何も言ってない」

「顔が言ってる」

「お前も人の顔を読むようになったな」

「教師だからな」

 江口は笑おうとした。

 だが、うまくいかなかった。

 龍崎先生。

 これは何ですか。

 あなたは、僕を救ったんですか。

 それとも、救われたと思う人間がどんな顔をするのか、ずっと見ていたんですか。

 外で、雷が鳴った。

 屋敷全体が低く震える。

 その直後だった。

 廊下の向こうで、誰かの悲鳴が上がった。

 女の声だった。

 短く、喉を裂くような声。

 三人は同時に顔を上げた。

 二階堂が真っ先に動く。江口もノートを置き、立ち上がった。五十嵐がその後に続く。

 廊下へ出ると、参列者たちが一方向へ走っていた。喪服の裾が揺れる。誰かが「湯屋だ」と叫ぶ。

 湯屋。

 江口の脳裏に、緋紗子の声が蘇る。

 湯灌。

 死者の罪を洗う、最初の儀式。

 二階堂が走りながら言った。

「嫌な予感が当たったかも」

 江口は返事をしなかった。

 返事をする余裕がなかった。

 雨の音が、ますます強くなっている。

 龍崎家の廊下は長く、暗く、どこまでも続いているように見えた。

 江口は走りながら、さっきの一文を思い出していた。

 人は、救われた相手を疑えない。

 その言葉は、もう紙の上にはなかった。

 江口の中に入り込み、静かに根を下ろしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ