第九話 託すⅤ 呪い
背後の殺気に瞬時に振り返ろうとしたが、左方から迫る拳を目にし、咄嗟に腕で頭をガードした。
視界が揺れる。直後に身体は水平に飛び、周囲を取り巻いていた木に打ち付けられた。
剣が手から落ち、その場でカラカラと転がる。
一瞬飛んだ意識を取り戻すとすぐに首元を、大きく粗野な手に掴まれた。
ベルの身体が宙に浮く。
その褐色な手を引きはがそうとするが微動だにしない。バタバタと足を動かすが無意味に空気を掃いた。
ベルの目に映ったのは、他の奴らより一回り大きなオークであった。
通常の魔物とは一線を画す威圧感を纏っている。上向きに伸びた牙。筋骨隆々な褐色の肉体。そして、背後に広がる〝飛膜の翼〟。異常な個体であることは一目で分かった。
――本物の、ロード……!
オークの口が不意に開いた。
「ヤッテクレタナ」
耳を疑った。野太い声がカタコトの言葉を紡いだ。
――コイツ、言葉を……!?
かつて父親に教えてもらった知識が湧き出す。
魔族の中でも、より知能が発達し、人間の言葉を使う種族――〝魔人〟
しかし、本来オークは魔人ではなく魔物に分類され、喋るなど前代未聞であった。
「ダガ、ココニ来タノガ、アノ青髪ノ男デハナク、オマエデ良カッタ」
「なん……だと」
懸命に声を出すが、掠ったようなものしか出ない。
「捻リ潰シヤスイカラナ」
ベルの引き攣った顔を見て、ロードはニヤリと口角を上げた。
「人間ノ女ハ弱イ」
その言葉は鼓膜を超え、記憶を刺激する。
〝これだから女は〟
脳裏に焼きついた、男たちの蔑みの目。今、目の前の醜悪な魔物と重なる。実力も、知識も何も認められない。積み上げたものは《《あそこ》》では全くの無意味に変わった。
ベルの人生に付きまとう〝呪い〟がここでも彼女を襲った。
オークの手を剥がそうとしていたベルの力が抜けて、だらんと垂れ下がった。
――あぁ、そうか。あたしは女だから弱いのか
彼女の首を絞める力は徐々に増していき、意識が白濁していく。
ベルの耳に届く音が単なる振動となった。
真っ白な頭の中で、デトの言葉がよぎる。
〝行ってこい〟
同じようなフレーズを以前どこかで聞いたことがある。そんな気がした。
デトの低く、重い声。鋭く、真っ直ぐな視線があの日の父と重なる。
〝理想を貫きたくば、力を得るしかない。行ってこい。その手で証明してみせろ〟
ベルの手に青筋が立つ。
直後、ベルの首を絞めていたオークの手首が鋭角に折れ曲がった。
「ガァッ……!」
ベルの拳が横から突き刺さっていた。
オークの太い指たちの力は緩み、ベルが解放される。
彼女はサッと足をつけて、顔を下に向けながら首をさすった。
折られた手首を押さえながら、後ずさるオーク・ロード。
ロードがベルを睨みつけようとすると、奴の表情が強張っていった。
「どいつもこいつも」
ベルの体から異様なオーラが放たれる。単なる暴力的な威圧感ではない。歪んでいて危険を本能に訴えるものだった。
彼女は知らない。確かにそれはデトと同じもの。
「女だなんだ、好き勝手言いやがって」
ベルがゆっくりと顔を上げる。
「そんなにあたしが下等に見えるなら、正面から叩き潰してやるわよ」
手の甲をオークに向け、人差し指を立てた。
こちら側に指を招く。
「来いよ。半端者のキメラ」
オークの顔は赤褐色に満ちていった。
「図ニ、ノルナ!!」
黒い飛膜の翼を広げ、重い足音を響かせながら、ベルの方へと走り出した。
先ほど折った腕とは反対の手が振りかざされる。
ベルは、オークが繰り出した腕に片足で飛び乗り、踏み台とした。
跳んだ勢いのまま顔面に側方から蹴りを入れる。
しかし、想定したよりもよろめかない。
脇を後ろから鷲掴みにされた。
遠心力が身体にかかる。
投げ飛ばされた身体。
両足で着地をすると摩擦を利用して速度を殺す。
「フハハ。ヤハリ、ヒンジャクダナ!」
飛膜を広げ、飛空してくるロード。
ベルは突っ込むロードの攻撃の軌道から抜け出す。
破壊的な打撃が、地面に衝撃を与えて砂埃が上がった。
逃げたベルをロードが追う。
自信を浮かべる表情が迫ってくる。
「ドウシタ! サッキノ威勢ハ!」
丸太のような足が、ベルを薙ぎ払おうと空気を切る。
直撃。
ロードはにやりと笑った――が、その表情はすぐに消えた。
弾き飛ぶと思われた小さな体は、幹のようにその場にどっしりと構えていた。
ロードの足は確かにベルの頭部を捉えたかに見えた。
しかし直撃の瞬間、彼女は両腕で強烈な蹴りを受け止め、ブレない体幹でその破壊的な衝撃を完全に殺しきっていた。
ベルの目つきはまるで捕食者であった。
一瞬怯んだロードの緩みをベルは逃さない。
蹴りだされた足に沿ってオークに近づき、鍛え上げられた褐色の肉体をストレートに殴打する。
空気が震えた。
オークはバランスを崩し、鈍い音を立てて背から倒れる。
ベルの頭から血が伝うが、その目に宿る覇気は失われていない。
「自分の肉弾戦《得意分野》で粋がってんじゃないわよ」
起き上がろうとするオークから離れ、転がっていた自分の武器を拾った。
片手で持ち上げ、剣身を肩に乗せる。
「生憎あたしは剣が専門よ」
片足ずつ大地を踏み締め、立ち上がるロードは「ハッ」と、鼻を鳴らした。
「得意分野ダト? 関係ナイ。殺シ合イデハ!」
一歩踏み込んだかと思うと、巨大な褐色の肉体が爆発的な速度で距離を詰めてきた。
「勝ツコトダケガ、スベテダ!」
叫びながらオーク・ロードは最高速度を見せる。
飛膜が風を切りながら、巨大な体躯が一直線を描いた。
オークはその金髪ごと噛み砕こうと、鋭い牙を光らせる。
「ええ、そうね」
吸血鬼に似た犬歯がベルの目に映った。
「んじゃ。斬るわ」
銀色に輝く刃が肩から離れ、天を通る。そして、強く踏み出した足と共に大地へ。
―― 一角 ――
大きな弧を描いた剣筋が猪頭を、褐色の肉体を、真っ二つに裂いた。
振り切ったと同時に広がる振動が、技の重みを表す。
慣性のまま、分たれた肉塊がベルの脇を抜けて地面に滑った。
摩擦音と共に砂埃が舞う。
戦場にはただ一人、気高き騎士が立っていた。
風で葉が擦れあう。静寂が訪れた。
ゴブリンの死体、オークの死体を見下ろす。
ベルは思い出したように呼吸を荒げた。
気迫が途切れ、頭痛が襲った。
頬に流れる血を拭う。
だが、ベルの目は死んでいない。
――戻らないと
まるでおもりが付いているかのような足取りで動き出した。
首に張り付いた汗が気持ち悪さも感じないほど、ただ一心に彼のことを思う。
――まだ、デトが戦っている
ひたすらに足を動かすが思うように運べない。
喉を通る空気の音はただ耳に響いた。
膝の力が抜けてしまう。
不意にベルの体は膝から崩れ落ちた。
その時、彼女の身体は誰かの生身の腕により支えられる。
「どこへ行く」
もう聞き慣れた声に顔をあげれば、そこには青い髪が垂れていた。
デトの顔はいつもの通り平然としていた。
「ここで合流だと言っただろう」
不思議なことに、黒い手袋以外に、彼の上半身は何も身につけていなかった。
しかし、彼の肉体には血や泥が疎らについている。
彼の鍛え抜かれた腕の中で、ベルの全身の力が抜けた。
「なんで上裸なのよ……」
デトは少し間を置き、静かに言う。
「戦果だ」
「そりゃ、ご苦労さん」
ベルの強張っていた頬が少し緩んだ。
***
第九話 託す 完




