第一話 明けの明星Ⅱ 籠からの逃走
「俺の名前は デト 。ここは……俺の家だ。」
淡々とした低い声。
リアを保護したというその青年は、暗い青色を基調とした長い髪を結った姿で、壁に寄りかかっていた。
「あ……私の名前は リア です。助けてくれて、ありがとうございました」
――まずい……うまくしゃべれない
上目でデトを覗き込む。
リアは彼を目の当たりにした時の肌を蝕む張り詰めた空気感を思い出し、身震いした。
――今はそれほどだが、あの感覚は何だったんだろう
「あんた、気を失って倒れていたが……何があったんだ?」
「それは……人間の街を目指していて……」
リアは記憶を辿り、最後の悍ましい光景を手を振るわせながら伝えた。
「私が覚えているのはここまでです」
デトは変わらず腕を組み、リアを見つめている。
「地龍だな。この辺りに住み着いてやがる厄介なドラゴンだ」
「ドラゴン……」
リアはあの時の恐怖を肌で思い出した。
「生き残れたのは運がいい……が……」
デトの目線がリアから虚空に移る。
彼の青い虹彩が赤い夕日に照らされる。
一度目をつむり、ぎろりとリアを睨みつけた。
疑いをかけるような眼。いったい、何を考えているのだろうか。
視線が外れる。
「人間の街に向かっていたと言ったな。どこの街だ。」
言葉に詰まってしまった。それらしい回答をすることができない。なぜなら……
「実は、街の場所はわからないんです。」
デトは訝しげに目を細めた。
「その。私は幼いころからずっと森の中で暮らしていて。だから。どこにあるかはわからなくて」
「……そうか。一人でか?」
「え?」
「一人で森の中で生活をしていたのか?」
「いや……」
リアは口をつぐむ。
「身内はいないのか」
「……」
沈黙が空間を支配する。デトはリアを真っ直ぐ見ていたが、リアは俯くままであった。
デトは諦めた様子で扉の方へ向かった。
「……傷が癒えるまでここに居るといい」
そう言ってデトはドアノブに手をかけ、一度リアに横目で鋭い眼差しを向けた。
蝶番の甲高い音とともにデトは奥に消えていった。
足音が遠ざかっていく。
デトの気配を感じることができなくなると、リアは肩を下ろした。緊張の糸がほぐれ、そのまま倒れこんだ。
――このままここにいてもいいのだろうか。
あの男といるのは何か危険な気がする
リアの感じ取った気配。
あの地龍のような、単に威圧的で暴力的な恐ろしさではない。
異様に歪んでいる、言葉では言い表せない何かがデトを包み込んでいた。言うなればそれは……
――呪い――
まもなく日は落ちる。
――兎にも角にも、なるべく早くここを去りたい。だけど、武器もないこの状態で外に行っても死ぬのは確実。
あの男がどれだけ危険だろうと、しばらくここにいるのが最善の選択。
気分を害さないように気をつけよう……少なくともここを出るまでは
「身内……か。」
外から入る光はほぼなく、部屋の明かりもついていない。薄暗い部屋でリアは天を仰いでいた。次第にリアの瞳はまぶたに覆われ、意識が遠のいていく。
「ジーク……さん。」
***
――確か、五歳の時だ。ジークさんは私を拾ってくれた
剣を教わり、世の中のこと、そして、愛を教わった
頭を撫でてくれた手は何よりも温かかった
街に行かなくたって、ずっと森の中だって良い……あの人さえいれば
うまく笑えていたのに
あの日のせいで
私はこうなってしまったんだ
***
目を開けた。
いつのまにか時間は随分経っていたらしい。
暗い部屋でむくりと上半身が起き上がる。
体中が軋むように痛む。けれど、リアの瞳には、焦燥が宿っていた。
――いかないと。ここにいては近づけない。私は早く……
ジーク。その名前だけが、恐怖と孤独で崩れそうな彼女の心を繋ぎとめる唯一の杭だった。
リアは呼吸を荒げながらあたりを見回す。見る限り、彼女のものと思われる荷物はない。
不安が胸を締め付ける。
――刀はどこ……? 剣が。剣がないと、私は本当に〝何もない〟
リアは痛みを無視して立ち上がり、ふらつく足取りでドアへと向かった。
ふと、自分がなぜ生きているのか、そんな疑問が頭をかすめる。あの時の記憶は曖昧で、地龍から逃げられた覚えはリアにはなかった。
しかしそれ以上思考する余裕などなく、彼女は足を止めなかった。
リアはドアを少しだけ開けて隙間から廊下を覗いた。
暗闇が広がり先を見通せない。
デトの気配はしない。
彼女は忍び足で外へと出た。向かい側に、もう一つ部屋があることに気づく。
――何か……ないのか
左手でドアノブをつかみ、壁に張り付くようにして中を窺う。雑多な景色が視界に入った。どうやら物置のようだ。狭い空間に向かい合って棚が並んでいる。
奥の窓から月明かりが差し込んでいた。
足を踏み入れて静かに戸を閉める。罪悪感が内臓を重くする。
命の恩人の家を漁り、物を盗もうとしている自分。見つかればただでは済まないだろう。それでもリアは棚へと手を伸ばした。
食料、ガラクタ。目につくものはあるが、リアの私物は見つからない。
――武器になるものは
焦りで息が荒くなり始めた、その時。
リアは窓の下に細長い何かが立てかけられていることに気づいた。
剣だ。鍔と鞘には青い装飾が施され、リアの腰までの長さがある。リアはそれを手に取り、鞘から刀身をわずかに出した。銀色の両刃にリアの姿が映る。
ひんやりとした金属を手のひらで感じつつ、リアは目を奪われた。
柄や鞘に埃はかぶっておらず、刃こぼれもない。随分丁寧に手入れがされているようだ。
――これなら――
リアの体がビクリと入口の方へ向いた。
足音がかすかに聞こえる。デトが近づいている。
リアの鼓動が加速する。
姿は見えない。けれど、壁一枚隔てた向こうに〝あの男〟がいる。
勝手に家を徘徊し、武器を手にした自分を、彼はどうするだろうか。想像しただけで、彼女の手は震え、剣を取り落としそうになった。
〝居てはいけない〟
息がうまくできない。
リアは剣を握りしめながら、逃げ場を求めて慌てて視線を巡らせた。
右手の方に扉があることに気が付く。
外へと、繋がっている。
物置の外から足音が聞こえてくる。
軋んだ音はだんだんと大きくなり――不意に、その音は止まった。ドアの目の前だ。
ゆっくりと、ドアノブがキュッと鳴き、回転する。
ドアは闇へ消えてゆき、青髪の青年が現れた。
デトが物置へと踏み入る。
彼は誰もいない空間を眺めた。
開け放たれた奥の扉から、冷たい空気が流れ込む。
***




