第2話 塩と冷酒の毒、軍神の頭痛を治せ
第2話です。吹雪の三国峠から生還した陸と景虎。
今回は春日山城を舞台に、軍神の命を蝕む「塩分過多と冷酒」の食生活に陸がメスを入れます!
越後春日山城の本丸奥御殿は、日本海から吹き付ける寒風によって骨の髄まで冷え切っていた。
三国峠の遭難危機から奇跡の生還を果たして五日。雪洞による凍死回避と的確な兵站指揮を評価された神崎陸は、客将として城内の一角に部屋を与えられていた。現代の高機能作業着から濃紺の小袖に着替えた陸だったが、その鋭い観察眼は過酷な現場にいた頃と何一つ変わっていなかった。
案内された広間の上座で、長尾景虎は白銀の髪を背に流し、黒漆塗りの文机に向かっていた。
だが、その膳の上に並べられた光景を見た瞬間、陸は思わず眉をひそめて足を止めた。
素焼きの平皿に山盛りにされた真っ白な粗塩の塊。紫蘇でどす黒く変色した塩辛い梅干しが数粒。そして湯気一つ立たない冷や飯と、冷酒が並々と注がれた大杯だ。
「景虎様、本日の領内巡視と年貢米の出納報告でございます」
黒髪を清潔なポニーテールに束ねた少女が、両手で抱えた分厚い大福帳を開いた。樋口与六――後の直江兼続である。十五歳という若さながら、利発そうな琥珀色の瞳には過労の色が濃くにじんでいた。
「うむ、大儀であった、与六……。信濃川の堤防普請はどうなっておる?」
「は……長雨と早雪により工事は遅れ、冬の通行料収入も激減しております。沿岸の塩田も時化で釜を焚けず、塩の備蓄は年を越すのがやっとでございます」
「そうか……領民も苦しかろう。余の装飾品や太刀を質に入れ、工夫たちの手当に充てるがよい」
「景虎様、それでは上杉の家計が保ちませぬ……!」
そう語りながら、景虎は細く青白い指先で粗塩をつまみ、舌の上へ乗せた。次いで、凍るように冷えた酒を一気に喉へと流し込む。
直後、景虎の眉間に深い苦悶の皺が刻まれた。
白皙の額に青筋が浮かび、紫水晶の瞳が激痛に揺らぐ。彼女は小さく呻き、こめかみを強く指先で押さえて身を折った。
「景虎様……! またお頭の痛みが……!?」
与六が悲鳴のような声を上げる。
「案ずるな……いつものことだ。酒で痺れさせれば治まる……」
再び酒杯に伸びた景虎の手首を、陸が無言で掴み取った。机の上の粗塩と酒杯を無造作に床の隅へ遠ざける。
「貴様! 景虎様の膳に何をするかッ!」
飛び込んできたのは柿崎景家だ。八重歯を剥き出しにして詰め寄る。
「越後の武士は塩を舐め、冷酒を煽って魂を研ぎ澄ますのだ! 神聖な儀礼に指一本触れるな!」
「儀礼だと? ふざけるな。ただの自殺行為だ」
陸は冷たい視線で言い放った。
「与六、お前もだ。帳簿の数字ばかり見て、主君の身体を見ていないのか? あるのは致死量に近い塩分と冷酒だけだぞ」
「で、ですが……景虎様は毘沙門天の清浄を保つため、白米と塩のみで身を清めておられるのです……!」
「清めるどころか血管を締め殺しているんだ! 寒冷地で冷えた塩分を過剰摂取すれば血管が極限まで収縮する。さらに冷酒で急激な伸縮を繰り返せば、脳の細い動脈が耐えきれなくなる!」
陸は景虎の前に膝をついた。
「景虎様。頭の奥が脈打つように痛み、吐き気がして目の前が白く霞むだろ?」
景虎の瞳が驚愕に見開かれた。
「な……なぜ、それを知っている……?」
「高血圧性頭痛の典型だ。このまま続ければ血管が破れ、ある日突然倒れて二度と目を覚まさなくなるぞ」
「余が……倒れる……? 余は、毘沙門天の……」
「あんたの身体は神じゃない! 生身の少女だ! あんたが死んだら越後の民はどうなるんだ!」
叱責に、景虎は言葉を失った。神と崇められる彼女を一人の人間として叱る者など、これまで誰一人としていなかったのだ。
「……陸。では、余にどうせよと言うのだ……」
「俺が飯を作る。黙って待ってろ」
陸は台所へ駆け込み、食材をかき集めた。
干し昆布と干し椎茸で濃厚な出汁を引く。グルタミン酸とグアニル酸の相乗効果による深い旨味は、塩分が少なくても舌を十分に満足させる。
そこへ大根、里芋、牛蒡を乱切りにして放り込む。体内の余分なナトリウムを尿として排出させる【カリウム】の宝庫だ。仕上げに極微量の味噌、すり下ろし生姜、酢を数滴垂らす。酸味と辛味は塩気を引き立たせる王道だ。さらに香ばしく炭火で焼いた川魚に酢柑橘を添えた。
一刻後、湯気を立てる膳と、熱湯を張った木桶が運ばれた。
「足湯だ。生姜汁を混ぜてある。景虎様、足を入れろ」
「なっ……女子の素足を殿方に見せるなど……!」
景虎の白い頬が林檎のように染まる。
「命がかかってるんだ、四の五の言うな!」
陸は躊躇なく景虎の華奢な足首を掴み、白足袋を脱がせて温湯へ沈めた。
「ひゃっ……!?」
愛らしい悲鳴を上げた景虎だが、すぐに表情が蕩けるように緩んだ。
「あ……温かい……足の先から、熱が身体中を駆け上ってくる……」
「末梢血管を広げて血流を促せば、頭の血圧が下がる。幼い頃から寺に預けられ、弱音も吐けずに緊張し続けてきたんだろ。たまには肩の力を抜け」
「陸……そなたは、なぜそこまで余のことを……」
紫水晶の瞳が潤み、景虎は小さく唇を震わせた。
「さあ、冷めないうちにその汁を飲め」
景虎は椀を取り、一口啜った。
瞬間、少女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「美味い……。塩の尖った辛さがないのに、出汁と根菜の甘みが腑に染み渡る……。余は今まで、何を食べていたのだ……」
横から汁を味見した柿崎も「うわ、何だこれ、舌が痺れるような塩辛さ配分じゃないのに、腹の底から力が湧いてくる!」と目を丸くした。
景虎は汁を最後の一滴まで飲み干した。
「……陸。頭の痛みが消えた。あの、割れるようだった痛みが、嘘のように消え去ったぞ……」
憧憬と感謝に満ちた瞳で陸を見上げる景虎は、安堵したように夜着へ倒れ込んだ。
「こんなに穏やかに眠れるのは……初めてだ……」
すやすやと寝息を立てる景虎は、どこにでもいる十七歳の少女だった。
「陸殿、ありがとうございます……!」
感涙にむせぶ与六に陸が頷いた――その時だった。
「注進! 甲斐国より急ぎの注進にございますッ!」
泥まみれの使番が広間に転がり込んできた。
「今川と北条が盟約を結び、武田領への【塩留め】を発動いたしました! 駿河と相模からの塩の搬入が完全に断たれ、甲斐の民と兵は塩分欠乏により壊滅の危機にございます!」
「何ッ!? 塩留めだと!?」
柿崎の目が輝く。
「好機だ! 武田信玄が干からびるのを待って攻め込めば一網打尽だ!」
だが、目を覚ました景虎が静かに起き上がった。紫水晶の瞳に冷徹な光が宿る。
「戯言を申すな、景家。武田晴信とは弓矢と太刀をもって雌雄を決するべき相手。民を飢えさせ塩を断つなど人の道に反する外道。余は――甲斐へ塩を送る」
「はあぁッ!? 敵に塩を送るなど狂気の沙汰です!」
叫ぶ柿崎の隣で、陸の脳裏に戦慄が走った。
(待て……雪で物流が麻痺している越後から無償で大量の塩を送れば、自国の塩相場が暴騰して商人たちが買い占め、民の暴動で財政が破綻するぞ……!)
軍神の純粋すぎる「義」が、越後そのものを破滅へ導こうとしていた。
【土木・兵站ミニ解説:寒冷地における高血圧と減塩】
豪雪地帯では冬期の食料保存のため、塩漬けや梅干し、塩辛などの高塩分食品が多用される歴史がありました。極度の塩分過多とアルコール摂取は急激な血管攣縮・高血圧を招き、史実の上杉謙信も49歳の若さで脳卒中で倒れたと言われています。カリウムを多く含む芋類や豆類、減塩粥による食習慣改善はまさに命の防壁です。
次回『第3話 雪を味方にする橇と高速雪道』は明日18:00更新予定です!




