第3話 雪を味方にする橇(そり)と高速雪道
第3話です。雪で閉ざされる越後の冬。
進軍を諦めかけていた越後軍に、陸が「雪を味方にする逆転の輸送術」を提案します!
春日山城の大広間は、怒号と困惑の渦に包まれていた。
外は冬の本格的な豪雪が吹き荒れ、障子をガタガタと揺らしている。
「滅相もない! 武田晴信は信濃を侵略した仇敵にございますぞ! その敵が塩留めで苦しんでいるというのに、なぜ塩を恵まねばならんのですか!」
車座になった重臣たちの中から、老将が唾を飛ばして叫んだ。周囲の武将たちも口々に賛同の声を上げる。
「左様! 塩を絶たれて弱り切った武田軍を討つことこそが、兵法というもの!」
だが、上座に端座する長尾景虎は、紫水晶の瞳に冷ややかな光を宿し、微動だにしなかった。
「黙れ」
鈴を振るような、しかし絶対的な重みを持つ一言で、広間は水を打ったように静まり返った。
「余が敵とするのは、武田晴信の弓矢であり、刀槍である。米や塩によって民百姓を苦しめるなど、武士の風上にも置けぬ所業。毘沙門天の義に照らし、余は甲斐へ塩を送る。これ以上の異論は許さぬ」
景虎の峻厳な態度に、重臣たちは悔しげに押し黙った。
だが、その張り詰めた沈黙を破ったのは、算盤を抱えた樋口与六の泣きそうな声だった。
「景虎様……お心根は尊うございますが、算盤の帳尻が合いませぬ……!」
「何だと、与六?」
「外の雪をご覧下さい! 腰まで埋まる深雪で、馬も荷車も一歩も進めませぬ! 仮に千石の塩を甲斐国境まで運ぼうとすれば、人馬が雪を掻き分け、運ぶ途中で消費する兵糧米だけで三千石が消し飛びます! 越後の倉は空っぽになってしまいます!」
与六の悲痛な叫びに、広間は再びざわめいた。
輸送する物資そのものより、運ぶための人馬が消費する食糧のほうが遥かに多くなる――いわゆる【補給限界のパラドックス】だ。
「ぬう……雪を掻き分けるのに、そこまでの兵糧を食うのか……」
柿崎景家も腕を組み、唸り声を上げた。
「では、春の雪解けまで待つか? だがそれでは甲斐の民は全滅してしまうぞ」
困り果てた景虎の視線が、末席に静かに座っていた神崎陸へと向けられた。
「……陸。そなたの顔を見ればわかる。何か良策があるのだな?」
全家臣の視線が一斉に陸へと集中した。陸はふっと口元を緩め、立ち上がった。
「景虎様。雪を敵だと思うから運べないんですよ。雪は、最高の味方になります」
「雪が……味方だと?」
「ええ。雪をどける必要なんてありません。雪を固めて、滑らせればいいんです」
二刻後。春日山城下の、雪に閉ざされた街道に人々が集まっていた。
陸が城内の大工と鍛冶屋に急遽作らせたのは、巨大な丸太を横に三本連結し、重石を乗せた【転圧ローラー】だった。
「柿崎殿! 槍隊の馬十頭をこのローラーに繋いでくれ! 街道の雪の上を、ゆっくりと往復して踏み固めるんだ!」
「こ、これを引けばいいのか? おい野郎ども、馬を引けッ!」
柿崎の号令で、重い丸太ローラーが新雪の上をごろごろと転がっていく。
腰まであったフカフカの雪が、強烈な自重によって押し潰され、平坦な白い帯となって固まっていく。
「いいぞ、その調子だ! 表面を平らに圧雪しておけば、今夜の放射冷却で雪の水分が凍りつき、カチカチの滑らかな【アイスバーン(氷雪路)】になる!」
「ほ、舗装道路のように硬くなるのか……!?」
与六が目を丸くして帳面を走らせる。
「そして、本命はこいつだ」
陸が工夫たちに引かせてきたのは、車輪の一切ついていない巨大な木製の乗り物だった。
頑丈な栗の厚板を組み合わせ、底面には油を塗り込んだ滑り木を二本這わせてある。現代でいう大型の雪上輸送橇だ。
「荷車の車輪は雪にめり込んで抵抗になる。だが、底面積を広げた橇なら、雪の上に浮くんだ。圧雪された氷の道の上なら、摩擦係数は土の道路の十分の一以下になる!」
陸は橇の上に、塩を詰めた重い俵を二十俵、山積みにさせた。
「馬を一頭、繋いで引かせてみろ」
「馬一頭で二十俵だと!? 泥道なら四頭立てでも動かん重さだぞ!」
半信半疑の馬子が、恐る恐る手綱を引いた。
パカラン、と乾いた蹄の音が鳴る。
次の瞬間――山積みの塩俵を乗せた巨大な橇が、まるで水の上を滑るように、音もなくスルスルと滑り出した。
「なっ……!?」
「動いた……! 馬が一頭で、軽々と走ってやがる!」
工夫たちからどよめきが沸き起こり、柿崎が口をあんぐりと開けて固まった。
「す、すげえ……! 荷車どころじゃねえ速さだ! 雪の上を飛ぶように滑っていくぞ!」
「これなら、雪かきの人足もいらない。必要な兵糧は三分の一以下で済む。冬の越後街道は、車輪も泥もない【天然の高速道路】に生まれ変わるんだ」
陸が胸を張ると、横でじっと見ていた景虎が歩み寄ってきた。
彼女の紫水晶の瞳は、まるで夜空の星のように眩しく輝いていた。
「……見事だ、陸」
景虎は華奢な両手で、陸の厚い右手をきゅっと握りしめた。
「景虎様……?」
「そなたは……越後を縛り付けていた豪雪の呪いすら、己の知恵で解いてみせたのだな。余の目に狂いはなかった。そなたこそが、毘沙門天が余のために遣わしてくださった真の宝だ」
その声音には、主君としての賞賛を超えた、熱い情熱と無条件の信愛が込められていた。
景虎は振り返り、その場に平伏している重臣たちに向かって凛と宣告した。
「全軍に命ずる! これより神崎陸を【越後国総兵站奉行】に任じ、城内の蔵、道、船、荷駄の一切の差配を委ねる! 陸の命は余の命と心得るがよい!」
「ははっ……!」
重臣たちも、目の前の奇跡的な橇の進軍を見せつけられては、もはや平伏するほかなかった。
広間に戻った後、陸は景虎と与六に向き直った。
「景虎様。橇で塩を運べる目処は立ちました。ですが、ただ塩を送るだけじゃ駄目です」
「む……? 義のために送るのではないのか?」
「タダで配れば、越後の商人が怒り、財政が破綻します。俺に考えがあります。塩は【適正価格】で売りつけるんです」
「売りつける……? それでは義に反するのではないか?」
「反しませんよ。暴利を貪るわけじゃない。正規の適正価格で甲斐の民を救うんです。ただし――代金の支払いは、米や銅銭ではなく、武田家の【黒川金山の上質金(甲州金)】と【生糸】に限定する契約を結ばせます」
陸の不敵な笑みに、与六がハッと息を呑んだ。
「甲州金……! 武田の最も貴重な財源を、塩と引き換えに根こそぎ吸い上げる気ですか……!?」
「その通りだ。さらに、来年以降の生糸先物購入権もセットにする。武田信玄の命を救いながら、甲斐の喉元を経済で締め上げるのさ」
景虎は呆気にとられた後、ふっと楽しげに微笑んだ。
「くく……そなたは、時に余より余程恐ろしい男だな、陸」
景虎は白縮緬の陣羽織を翻し、長大な太刀を腰に差した。
「よい! 全軍、橇を仕立てて信濃国境へ出陣せよ! 武田晴信よ――越後の義と、我が陸の知恵を、その身に刻むがよい!」
豪雪の越後から、滑るように橇の軍列が出陣していった。
国境の向こう、甲斐の躑躅ヶ崎館では、塩留めに苦しむ武田信玄が、まだ見ぬ越後の使者の訪れを待っていた。
【土木・兵站ミニ解説:圧雪道路と雪上橇の力学】
新雪の上を駄馬や兵士が歩くと足が埋まり移動速度は激減しますが、雪を固めた「圧雪面」の上では摩擦係数が0.03〜0.05程度まで急低下します。車輪が使えない積雪地帯において、馬橇は1頭で駄載(120kg程度)の3倍以上(400kg超)の物資を軽快に牽引可能となります。
次回『第4話 敵に塩を送る真の理由――甲州金為替トラップ』は明日18:00更新! 第1幕完結です!




