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第1話 軍神、三国峠の吹雪に飢える

本作をお読みいただきありがとうございます!

全12話、毎日18時に予約投稿で完結までお届けします。

武力ゼロの寒冷地インフラ技術者が、雪国越後の兵站と経済を掌握し、軍神美少女を救う本格戦記、開幕です!

肺胞の奥まで凍てつく吸気で、神崎陸は意識を取り戻した。

 視界を埋めるのは、吹き荒れる白銀の飛沫と鉛色の空だ。頬を打つ雪粒は小石のように硬く、皮膚の感覚は疾うに麻痺していた。

(……俺は、トンネル崩落現場の点検中に巻き込まれたはずだ)

 寒冷地インフラを専門とする土木技術者として、陸は過酷な気象を見慣れていた。身につけているのは高機能素材の防寒作業着と重安全靴だ。だが、風鳴りの合間に聞こえたのは重機の音ではなく、掠れた呻き声だった。

 雪の吹きだまりに目を凝らす。

 粗末な藁沓を履き、薄い麻の着物の上に鉄の胸当てを括りつけた男たちが、腰まで雪に埋もれて立ち往生していた。十数頭の駄馬が震え上がり、荷俵の縄は凍結して千切れかけている。

「動け……! 止まれば死ぬぞ!」

「足の感覚がねえ……もう一歩も歩けねえよ……!」

 男たちの唇は青紫に変色し、呼吸は浅い。低体温症の典型症状だ。濡れた麻布のまま氷点下十度を下回る暴風雪に晒されれば、一時間も経たずに体温は三十五度を割り、心停止に至る。

「おい、しっかりしろ! 座り込むな!」

 陸は反射的に駆け寄り、雪に膝をついた若い兵士を強引に立たせた。

「だ、誰だ貴様……見慣れぬ身なりを……」

「いいから動け! 筋肉を動かして熱を作れ!」

 その時、猛吹雪を切り裂いて、澄んだ鈴の音のように凛烈な声が響き渡った。

「狼狽えるな、越後のもののふたちよ!」

 雪煙を割って現れたのは、一頭の白馬だった。

 馬背に跨がる姿に、陸は息を呑んだ。

 年の頃は十七、八。新雪の輝きを紡いだような白銀の髪が、純白の縮緬頭巾から零れている。夜空の星を凍らせたような深い紫水晶の瞳は、地吹雪を真っ向から見据えていた。

 白縮緬の陣羽織の下には黒漆塗りの南蛮胴。華奢な体躯でありながら、放つ威圧感は数千の軍勢を一人で圧するかのようだった。

「我らは関東の苦しめる民を救うため、義の軍を起こした! 毘沙門天の御加護は常に我らにあり! 神仏を念じて前進せよ!」

 兵たちが縋るように顔を上げる。

「か、景虎様……!」

「軍神様が共におられるぞ……!」

(景虎……長尾景虎!? 後の上杉謙信か……!?)

 だが、神仏の加護がどうあれ、熱力学と生理現象の法則は曲げられない。号令を発する景虎自身の吐息は白く乱れ、手綱を握る指先は白く強張っていた。

「総員、峠を越えるのだ! 歩みを止めるでない――」

「おい! そこのお姫様、いい加減にしろ!」

 陸の怒声が風を突き破った。兵たちの動きが凍りつく。

「な、何奴だ貴様! 景虎様に無礼を!」

 側陣から飛び出したのは、燃える赤褐色の髪の少女武将だった。大柄な十文字槍を構え、八重歯を噛んで陸を睨む。越後先鋒の柿崎景家だ。

「怪しげな南蛮装束の素破か! 叩き斬ってくれる!」

「斬りたければ後で斬れ! だが、今すぐ行軍を中止しろ!」

 陸は柿崎の槍先を素手で押し返した。

「この尾根は風速十五メートル、体感温度は氷点下二十度以下だ! 濡れた衣服で雪山を歩かせるのは進軍じゃない、集団自殺だ!」

「な……ぶ、無礼者! 我らは毘沙門天の――」

「神仏が体温を上げてくれるのか!? 祈ったら衣服が乾いて凍傷が治るのか! 答えろ!」

 陸の剣幕に、柿崎がたじろいだ。

 白馬上の景虎が、紫水晶の瞳を細めて陸を凝視する。

「……無礼な旅人よ。余の義を、神仏の御心を侮辱するか」

「侮辱じゃない、現実だ! 将たる者が、自然の猛威を根性論で片付けてどうする!」

「き、貴様ぁッ!」

「待て、景家」

 景虎が馬から降り立った。その足取りが微かに揺らいだのを陸は見逃さなかった。

「……では問う。この峠の只中で立ち止まれば、それこそ全軍が凍え死ぬのではないか?」

「簡単だ。雪から逃げるのをやめて、雪の中に潜るんだよ。【雪洞(スノーシェルター)】を作る!」

 陸は腰の折りたたみ式携帯スコップを取り出し、カチリと固定した。

「柿崎殿! 槍隊の屈強な男たちを集めろ! あの巨大な吹きだまりを掘るぞ!」


 そこからの陸の指揮は的確を極めた。

 風下の厚い吹きだまりを選び、斜め上方へ横穴を掘らせる。入口を低く、奥の床を一段高くすることで、重い冷気を入口の窪みに落とし、上部に暖かい空気を溜める構造だ。

「ドーム状に丸く掘れ! 天井の中央を高くして滑らかに撫で付けろ! 角を作ると崩れるぞ!」

 足軽たちが無我夢中で雪を掻き出し、わずか半刻足らずで五十人以上を収容できる雪洞が完成した。

「入口に筵を垂らせ! 床には乾いた藁を敷き詰めるんだ!」

 雪洞に入った瞬間、兵たちから歓声が漏れた。

「な、なんだこれは……!? 風がまったく来ねえ!」

「あたたけえ……! 外よりずっと温かいぞ!」

 雪の断熱性により、密閉された内部は人の体温だけで零度前後に保たれる。陸は換気孔を確保した上で木炭に火を熾し、非常用アルミレスキューシートを壁に広げた。反射熱で洞内は驚くほど暖まる。

「次は飯だ! 鍋に雪を溶かせ!」

 陸は干飯と炒り大豆、味噌の塊、乾燥生姜を煮込ませた。

「温かい水分と塩分、大豆のたんぱく質を同時に摂れ! 内臓を温めなきゃ熱は作れない!」

 湯気の立つ熱い粥が兵たちに配られた。

「う、うめえ……! 身体の芯から温もりが染み渡ってくる……!」

 兵たちが涙を流して啜り、柿崎も椀を抱えて夢中で飲み干す。

「んぐっ……んまい! 腹の底がカッと熱くなる! おい、ただの旅人じゃねえな!?」

「神崎陸だ。土木と物流の技術者だよ」

 陸は洞の奥に静かに座る景虎へ木椀を差し出した。

「景虎様、あんたも食え。冷める前にな」

 景虎は細い指で受け取り、慎重に口をつけた。

 一口啜った瞬間、少女の紫水晶の瞳が見開かれた。

「……温かい。このような温もり、生まれて初めて口にしたかもしれぬ」

 そこには軍神の威厳ではなく、寒さに震えていた十七歳の少女の素顔があった。

「余は毘沙門天の化身として気丈であらねばならぬと思うていた。だが……兵を無駄に殺すところであったのだな」

「気合だけで乗り切れる現場はないさ。高潔な義も、兵站がなきゃただの絵空事だ」

「ふ……手厳しいな、陸よ。だが、真実だ」

 景虎は微笑み、粥を飲み干した――その時だった。

「う……ッ!?」

 突如、景虎が木椀を取り落とした。

 両手でこめかみを強く押さえ、苦悶の表情で身を屈める。

「景虎様!? どうされた!」

「あ、頭が……割れるように……痛むのだ……視界が、白く霞んで……」

 少女の華奢な身体がぐらりと傾き、陸の胸元へと倒れ込んできた。

「おい、しっかりしろ!」

 受け止めた身体の手足は氷のように冷たいが、頸動脈は恐ろしい圧力で激しく脈打っていた。

(なんだこの血圧は……!? 血管攣縮か!?)

 その時、景虎の解けた帯の間から革袋が転がり落ちた。

 こぼれ出たのは――握り拳ほどもある真っ白な【岩塩の塊】と、酸鼻を極めるような紫蘇漬け梅干し、そして強烈なアルコール臭を放つ冷酒の竹筒だった。

「普段からこんなものを……!?」

 過酷な寒冷地、激しいストレス、そして致死量に近い塩分と冷酒。

(まさか……この若さで、脳卒中の危険水域に入っているのか……!?)

 陸の腕の中で、軍神と呼ばれた少女は、激しい頭痛にうなされながら苦しげに震えていた。

【土木・兵站ミニ解説:雪洞(かまくら)シェルターの断熱性】

雪は内部に大量の空気を含んでおり、極めて高い断熱性能(熱伝導率約0.1〜0.2 W/mK)を誇ります。風速15m/sのブリザード下では体感温度が氷点下20度以下に達しますが、雪洞の内部は0度前後に保たれ、体温の放射を防ぐことで低体温症による凍死を劇的に防ぐことができます。


次回『第2話 塩と冷酒の毒、軍神の頭痛を治せ』は明日18:00更新予定です。

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