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硝子の瞳

  携帯を使いたい時に、ふと思い出した。

  上着と玄関の床の間に、置きっぱなしだった。

  足音が、徐々に、徐々に寝室へ近づいてくる。人の気配が、さらに濃くなる。

  扉を開く前に、何かしなければ。

  暗闇の中に、ドアノブの鍵へ視線を向ける。勢いよく鍵をかけた途端。ドアノブが激しく回された。

  ダイジョウブ、鍵を、ちゃんと、かけたのだから...

  糸の切れた人形のように、カーペットへへたり込む。辛うじて両腕だけが体を支えていた。

  荒い呼吸を何度も繰り返す。

  胸の奥で、何匹の蛆虫が蠢いているみたいに、全身がびくびくと震えた。

  ギシギシ、とドアノブを捻る音が響く。やがて諦めたように、その音は止んだ。静寂が戻ると同時に、雨音の存在を思い出す。

  ソレはノイズのように、絶え間なく鳴り続けていた。

  扉の向こうから、人の気配が消えている。

  部屋は再び、沈黙に沈んだ。

  ゆっくりと、ゆっくりと。子猫のように床を這い、両腕で身体を支えながら、扉へ耳をぴたりと押し当てた。

  「ドンッ」と鈍い衝撃音が扉を揺らした。

  「■■■■■、ココを開げ――――」

  「いやああああああああぁぁぁぁああ――――!」

  僕は体ごとドアに体当たりするとドアノブを掴んだ。

  握り潰す勢いでドアノブを掴む。

  けれど、脂汗で濡れた両手は、よく掴むことができない。

  ドアノブが激しく捻られ、軋む音が響く。

  扉ごと潰そうとするように、外側から叩かれている。

  「■■■■■、■■■■■、■■■■■」

  聞こえない、聞こえない、聞こえない。

  喉を縄で強く締め上げられたように、呼吸が詰まる。

  どこか舌足らずな響きが残るような、男の野太いの声なんて聞こえない。

  しばらくして、再び静寂になった。

  しかし今度は、完全な沈黙ではない。

  扉の外には重い気配が満ちていて、まるで僕を見つめているようだった。

  怖い、怖い、こわい、コワイ...

  ココから逃げなきゃ...

  視線が扉から窓へと滑る。

  カーテンに覆われているのに、雨の匂いだけが止まらない。

  深呼吸して、恐怖ごと唾を飲み込む。

  勢いのまま窓際へ駆け寄った。


  僕の部屋は二階だ。

  ソレでも、地面まではそこまで高くない。

  飛び降りることはできる。

  背後からの衝撃で、扉がさらに激しく揺れた。


  このまま躊躇えば...

  最後のチャンスを失うかもしれない。


  ゆっくりと。

  ゆっくりと。

  

  猫のように窓枠へ手をかけ、無理やり身体を持ち上げる。

  かさぶたになりかけた傷口が裂け、再び血が滲んだ。


  着地の姿勢を整え、躊躇いなく地面へ飛び降りる。


  一瞬、胃が浮き上がるような感覚。

  風が耳元を掠めていった。


  「ドンッ」と鈍い着地音が響く。

  それと同時に、寝室の扉が勢いよく開かれた。


  着地の準備はしていた。

  それでも、衝撃で身体のバランスが崩れる。


  裸足の足裏と両腕へ、容赦なく激痛が走った。


  まるで金属バットで殴られたような鈍痛が全身へ広がっていく。

  肺は破裂しそうなほど膨らみ、何度も荒く呼吸を繰り返した。


  汗と雨が混ざり合い、衣服をぐっしょりと濡らしている。


  立ち上がらなきゃいけない。

  なのに、上手く思考がまとまらない。


  街灯に照らされた道を、僕は無様に這いずっていた。

  ――その時。


  背後から、凍りつくような視線を感じる。

  恐る恐る窓へ目を向けた。


  暗闇の中、‘ソレ’は立っていた。


  汚れた羊毛。

  ざらついた縫合痕。

  不自然に湾曲したヤギの角。


  そして。


  僕を見下ろす、巨大な横長のガラスの瞳。


  ただ、見ているだけなのに。

  圧し潰されるような威圧感が、全身を飲み込んでいく。


  コワイ。

  コワスギ...


  痛みを堪え、無理やり身体を起こした。


  はやく。

  ココから逃げなきゃ...


  頼れる相手がいるとすれば、真野由紀しかいない。


  余計なことを考える余裕はなかった。

  警察へ助けを求めることすら、頭に浮かばない。


  ただ、震える身体を引きずるようにして、由紀のもとへ向かう。


  三日前の記憶は、ところどころ曖昧だった。

  それでも覚えている。


  弟が被害に遭ったという知らせ。

  泣き崩れる僕のそばにいてくれた真野由紀の姿だけ。



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