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キミの温もり

  玄関の前に立って、弟は何かを言った。どんな表情だったのかは、よく覚えていない。

  誰かに会いに行くような――そんなことを言っていた気がする。

  そして、「いってらっしゃい」と、それが最後の会話になった。

  四月一日、火曜日。

  快晴の朝。春休みで授業もなく、退屈な時間だけが続いていた。


  一人になった僕は、食事の支度をしながら、弟の帰りを待っていた。

  昼になっても、弟はまだ帰ってこない。

  携帯にかけても、応答はなかった。


  苛立ちを紛らわせようと本を開いたが、一文字も頭に入ってこない。


  朝まで青かった空は、いつの間にか雲に覆われていく。

  胸が強く締め付けられるようで、不安と焦りが募っていった。


  このまま待っていても何も変わらない――

  そう思って、僕は外へ出た。


  けれど、弟がどこへ行ったのか、誰に会いに行ったのか、まったくわからない。

  ただ、思いつくままに、あてもなく探し回るしかなかった。


  深夜になるまで、近くの通りや、弟がいそうな場所はすべて回った。

  

  もしかしたら、もう帰っているのかもしれない。

  ただ、携帯の電池が切れているだけで――


  家に帰ると、真っ暗な部屋には弟の姿はなかった。

  ただ、自分の荒い息だけが響いている。


  玄関の前でうずくまりながら、僕はぼんやりと、扉を開く音を待ち続けていた。

  そのまま、いつの間にか眠ってしまったしい。


  全身を覆う不快感に耐えきれず、目を開く。

  重たい身体を無理やり両腕で支え、ゆっくりと立ち上がった。

  ――まだ、帰ってきていない。


  これまで自分が何をしていたのか、上手く思い出せない。弟への苛立ちと不安で、頭の中は真っ白になっていた。


  何気なくテレビをつける。


  朝の速報。

  弟が、事件の被害者として報道されていた。


  気がつけば、どれくらい歩いただろう。


  時折、何度も後ろを振り返る。

  追いつかれていないかを、確かめるように。


  ...よかった。

  まだ、追いつかれていない。


  由紀の家までは、まだ少し距離があった。

  けれど、辿り着けると思った途端、張り詰めていた緊張が少しずつ緩み、足取りも自然と遅くなっていく。


  恐怖と緊張が薄れていく代わりに、今まで忘れていた全身の痛みが、じわじわと広がってきた。


  由紀の家は、同じような高さと色の家々が並ぶ住宅街の一角にあった。

  低い屋根の、簡素な創りの家。


  カーテンに閉じられた窓からは、温かな光が漏れている。


  家の前に立ち、僕はゆっくりと扉を叩いた。


  しばらくして、扉の開く音が響く。


  「えっ...霧島?いや、その怪我...大丈夫なの...?」


  扉を開いた瞬間。


  じめじめとした夜気を纏った蒼が、外で小さく震えていた。

  裸足の足は薄く汚れ、膝には乾いた血がこびりつき、青黒い痣が浮かんでいる。

  青白い顔。血の気のない唇。華奢な身体は、今にも崩れてしまいそうだった。


  まるで、雨に打たれた野良猫みたいに。


  「由紀、こんな時間にごめんね...今晩、ここに泊めてもらっても...いい?」

  「いや、全然いいけど...何があったの?とりあえず、早く入って。」


  由紀は無言のまま、僕の肩を支えながらゆっくりと部屋へ入っていく。


  狭い廊下を抜けた先にあるのは、由紀が普段使っている小さな居間だった。


  椅子に腰を下ろした僕を確認すると、由紀は救急箱を取りに廊下の奥へ向かう。


  その背中を見つめながら、僕は無意識に左手を伸ばし、由紀の手首を掴んだ。

  由紀が振り返る。


  泣き出しそうな表情だった。

  涙を堪えるように揺れる瞳が、不安そうに僕を見つめていた。


  「少し待ってて、すぐ戻るから。」

  その優しい声に、胸の奥が苦しくなる。

  「...こんなに傷だらけじゃ、痛かったでしょ」


  そう呟きながら、由紀は僕の前にしゃがみ込んだ。

  慣れた手つきで、静かに傷の手当てをしていく。


  頬にかかる短い髪の隙間から、茶色がかった瞳が真剣な色を帯びていた。

  僕と同い年の由紀は細身ではあるが、薄く筋肉のついた身体をしている。

  薄く小麦色に焼けた肌には、どこか少年らしい活発さが残っていた。


  「ちょっと我慢してね...消毒するから」


  マキロン特有の刺激臭は、静かな部屋にゆっくりと広がっていく。

  

  消毒液に染み込ませたコットンが、傷口についた汚れを丁寧に拭き取っていった。

  

  痛みに身体は小さく震える。

  それでも、僕は無理やり耐えていた。


  「...よし、これで終わり」

  由紀は小さく息を吐き、安心したように肩の力を抜く。


  「見た感じは大丈夫そうだけど...擦り傷と痣、結構深いね。時間があったら、一応病院で診てもらったほうがいいかも」


  「あぁ...ありがとう。少し休めば、多分よくなると思う...」

  

  ふと、視線が合った。


  大きな垂れ目が真っ直ぐ僕を見つめている。

  けれど由紀は、気まずそうにすぐ目を逸らした。


  「...でも、何があったのかは、ちゃんと聞かせてほしいな」


  しゃがみ込んだまま、由紀は静かに僕の言葉を待っている。


  真剣なのに、不思議と切迫感はない。

  ただ、安心させるような空気だけがあった。

  そして、今晩起きた出来事を、ゆっくりと話し始めた。


  「うん...分かった。

  でも、難しいことは明日にしよう?」

  

  「今はちゃんと休まないと。

  睡眠不足だと、治るものも治らなくなるから」

  

  いつも通り朗らかな由紀は、まるで童話の主人公みたいに柔らかく笑った。


  その優しさに触れた瞬間。


  ずっと押し殺していた感情が、堰を切ったように一気に溢れ出した。

  

  声にならない嗚咽が漏れる。

  呼吸が上手くできない。

  

  何もしたくない。

  何も考えたくない。

  

  暗い部屋の中。


  由紀は、怯える子供をあやすみたいに、そっと僕を抱きしめた。


  そのまま二人で布団に入り、静かに身を寄せ合う。


  今晩は、夢すら見なかった。


  ただ、互いの温もりだけを感じながら、静かな夜が過ぎていった。


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