第八話 『真夜中に、かなり困った感じで起こされました!』
神社暮らし、真夜中はいろいろと困るのです!
その夜。月夜は、胸のあたりが少し重くて目を覚ました。最初は布団だと思った。寝返りで寄っただけかもしれない。でも、温かい。布団より。かなり。
「……」
月夜は目を開けた。月明かり。暗い部屋。目の前に、金色の目。
「……え」
木乃葉がいた。近い。というより、ほとんど上にいる。胸のあたりから腰の横まで、布団越しに木乃葉の体温が近い。片手を月夜の横についている。
髪が月夜の首筋に落ちている。赤い衣の裾が布団の上に流れていた。狐耳が月夜の頬のすぐ近くで動く。
三本の尻尾のうち一本が、布団の端からはみ出している。月夜は数秒。状況を理解できなかった。
「……木乃葉」
「起きた」
「起きますよ」
「静かに起きたね」
「叫ばなかっただけ褒めてください」
木乃葉は少し笑った。月夜は顔が熱くなる前に、まず聞いた。
「なんで私の上にいるんですか」
「上じゃないよ」
「ほぼ上です」
「横寄り」
「誤差です」
木乃葉は答えず、鼻先を月夜の首もとへ近づけた。髪の先が鎖骨のあたりに触れる。そのすぐあとに、木乃葉の息が首筋にかかった。
月夜の肩がびくっと動いた。近い。顔を少し向ければ、頬が触れそうなくらいだった。
「……ちょっと」
「動かないで」
「その言い方、余計に変です」
木乃葉がもう一度だけ鼻先を寄せる。
「味見してるだけ」
月夜の思考が止まった。
「何を」
「君」
一拍。二拍。月夜の顔が一気に熱くなった。
「そういう言い方やめてください!」
「声」
木乃葉が指を口元に立てる。月夜は反射的に声を落とした。
「……木乃葉が変なこと言うからでしょう」
「変に受け取る君も悪い」
「この体勢で普通に受け取れる人います?」
「私は普通」
「木乃葉は基準に入りません」
尻尾が一度揺れた。毛先が月夜の腰の横を軽くかすめる。月夜の身体がまた小さく動いた。木乃葉の目が細くなる。
「敏感」
「尻尾当てたの木乃葉です」
「事故」
「絶対違う」
いつもの調子。でも、月夜はそこで気づいた。木乃葉の耳が笑っていない。片方だけ、廊下のほうへ向いている。尻尾も。
三本とも、いつもみたいに好き勝手には揺れていない。
「……何かあったんですか」
木乃葉の顔から、からかう色が少し消えた。
「昼のやつ」
「村で見た白いの?」
「たぶん、それに近い匂い」
木乃葉はもう一度、月夜の肩のあたりに鼻先を寄せた。今度は月夜も動かなかった。
「君についてきてる」
月夜の背中が冷えた。
「私に?」
「正確には、君の服と髪に少し」
「それを嗅いでたんですか」
「うん」
「最初からそう言ってください」
「面白くない」
「こっちは心臓に悪いです」
木乃葉が少しだけ身体を離した。ようやく息がしやすくなる。でも、今度は別の理由で、部屋が狭く感じた。昼に見たもの。誰も反応しなかった白い影。
それが、自分について神社まで来た。
「入ってきたんですか」
「まだ分からない」
「匂いだけ?」
「それも分からない」
木乃葉は正直だった。月夜は少し安心した。怖い話なのに、分からないことを、分からないと言ってくれるほうがいい。そのとき。こつ。
廊下の外で、木が鳴った。二人とも止まる。木乃葉が耳を立てた。月夜は息を潜めた。もう一度。こつ。今度は少し遠い。風ではない。誰かが一歩だけ。
廊下の端に重さをかけたみたいな音。木乃葉が布団から離れた。立つ。三本の尻尾が低くなる。月夜は初めて、木乃葉が本気で警戒している姿を見た。
「木乃葉」
「ここにいて」
短い。冗談がない。月夜は頷いた。でも、木乃葉が戸へ手を伸ばした、その前に、外から足音が近づいた。聞き慣れた歩幅。戸の前で止まる。するり。
少し開く。小麻里が顔を出した。数秒。何も言わなかった。月夜。木乃葉。乱れた布団。夜中。小麻里の目が、順番に全部を見る。そして、するり。
戸が閉じ始めた。
「待ってください!」
月夜は反射で声を出した。戸が止まる。木乃葉の肩が震える。笑っている。
「行かないでください!」
「……今、入っていいの?」
小麻里の声が低い。
「そういう意味じゃないです!」
「じゃあどういう意味」
「説明したら余計に変になります」
「もう十分変」
正論だった。月夜は布団の端を掴んだ。
「木乃葉が勝手に入ってきて」
「うん」
「私の匂いを嗅いで」
「……うん」
「違います、今の説明も変です」
小麻里が目を閉じた。
「一回最初から」
木乃葉がとうとう笑った。
「昼の気配が月夜についてきてたから、確認してた」
空気が変わった。小麻里の目が開く。
「村の?」
「たぶん」
「濃い?」
「昼より」
小麻里は戸を完全に開けた。今度は迷わず部屋へ入る。
「廊下にもいる」
「いた?」
「匂いだけ。さっきまで」
木乃葉の耳がまた廊下へ向く。月夜は二人を見る。
「見えるんですか?」
小麻里が答える。
「今は見えない」
「昼は見えたのに」
「夜は、見え方が変わることもある」
月夜は少しだけ背筋を伸ばした。
「じゃあ、昼に見た白いのと同じもの?」
木乃葉が言う。
「同じとは限らない。でも、匂いは近い」
「匂いって、どんな」
木乃葉は少し考えた。
「雨の前の土に、古い紙を混ぜたみたいな」
「全然分からないです」
「狐向けの説明だから」
「人向けください」
「嫌な感じ」
「急に雑」
小麻里が、少しだけ笑いそうになった。それだけで、部屋の空気がほんの少し戻る。でも、外はまだ静かだった。
***
小麻里は戸口のすぐ外に座った。木乃葉は月夜の部屋の中。月夜は布団の上。変な配置だった。
「私も外にいたほうが」
「駄目」
小麻里が即答。
「私についてきたなら、私が」
「だから中」
「理屈は分かりますけど」
木乃葉が横から言う。
「月夜、こういうときだけ責任感出すね」
「こういうときだからですよ」
「昼は飴のこと考えてたのに」
月夜は少し固まった。
「……なんで知ってるんですか」
「匂い」
「飴の?」
「違う。顔」
「木乃葉まで顔で読むんですか」
「小麻里に聞いた」
「情報共有が早い」
月夜は少し迷ってから、木乃葉を見た。
「木乃葉は、怖くないんですか」
「何が」
「こういうの」
廊下の向こうを指す。見えないもの。匂いだけ残すもの。夜になると見え方が変わるもの。木乃葉は少しだけ考えた。
「怖いっていうより、面倒」
「慣れてる人の答え」
「そう?」
「私は普通に怖いです」
月夜が言うと、木乃葉の尻尾の一本が、布団の上にゆっくり乗った。さっきみたいに腰をくすぐる位置ではない。月夜の手のすぐ横。
触ろうと思えば触れる場所。
「じゃあ怖がってればいいよ」
「雑ですね」
「怖くないふりするよりまし」
木乃葉は廊下を見たまま言った。
「その代わり、一人で確かめに行かない」
「昼にも言われました」
「昼は追うな。今は、何か聞こえても勝手に戸を開けない」
月夜は顔を上げた。
「声がしても?」
小麻里が戸口から続ける。
「まず中から呼んで。私か結お姉ちゃんが返事するから」
「小麻里お姉ちゃん本人の声だったら?」
「それでも一回呼んで」
「慎重ですね」
「夜だから」
その理由なら、今の月夜にも十分だった。
「木乃葉だったら」
「私は勝手に入るから大丈夫」
「そこ直してください」
月夜が即座に返すと、小麻里が小さく笑った。怖い話なのに、少し笑えた。木乃葉の尻尾の先が、月夜の指に一度だけ触れた。今度は事故ではなかった。
月夜は何も言わず、その毛先を、ほんの少しだけ指で挟んだ。木乃葉も何も言わなかった。ただ、耳だけが少し月夜のほうへ向いた。
小麻里が戸の外から言った。
「それで、月夜の分の飴は」
月夜は枕元を見る。木乃葉へ渡した一本とは別に、自分の分がまだ荷物の中に残っている。
「あります」
木乃葉の耳が立つ。月夜はすぐにそちらを見た。
「木乃葉はもう一本もらったでしょう」
「何味か気になっただけ」
「顔が欲しそうです」
「月夜まで顔読むようになった」
月夜は包みから自分の棒付き飴を出した。水色の包み。開ける。口に入れる。
「……ソーダ」
「私のと同じ」
「おいしいです」
「でしょ」
「木乃葉が作ったみたいに言わないでください」
戸口で、小麻里が小さく笑った。ほんの一瞬。夜中の異常な状況が、ただ三人で飴の話をしている時間みたいになった。そのとき。風が止まった。完全に。
虫の声まで遠くなる。木乃葉の尻尾が止まる。小麻里が立つ。月夜も息を止めた。廊下の向こう。何も見えない。でも、誰かがいる。そう感じた。そして、りん――。
細い金属音。遠い。なのに、耳のすぐ近くで鳴ったみたいに残る。月夜の胸が強く鳴った。
「……鐘」
小さく言う。木乃葉が月夜を見る。いつもの笑いはない。
「今の」
月夜が聞く。
「木乃葉も聞こえました?」
「聞こえた」
小麻里も、戸口の向こうで、はっきり頷いた。三人とも聞いた。月夜だけではないと、その場で確かめられたのは初めてだった。木乃葉が立ち上がる。
「匂い、引いた」
「音がしたら?」
「うん」
「じゃあ、あれが帰った音?」
木乃葉はすぐには答えなかった。
「それは、まだ分からない」
でも、そのあと、小さく付け足した。
「ただ」
木乃葉の耳が、まだ暗い廊下へ向いている。
「今の音は、ここの鈴じゃない」
月夜は枕元の小さな呼び鈴を見る。動いていない。外の軒下も。風はない。それでも、音だけは確かに残っていた。怖かった。でも、前とは違う。
自分だけが聞いた音ではない。小麻里も。木乃葉も。同じ夜に。同じ音を聞いた。月夜は布団の上で膝を抱えた。木乃葉はしばらく廊下を見たあと、月夜の布団の横に座り直した。今度は上でも、横寄りでもない。ちゃんと少し離れた場所。
「朝までいるんですか」
「匂いが戻らなければ、途中で寝るかも」
「ここで?」
「嫌?」
月夜は少しだけ迷った。
「……嫌ではないです」
言ったあと、木乃葉の耳がほんの少しだけ月夜へ向いた。小麻里は戸口に座り直す。
「私は外」
「二人とも寝ないんですか」
「交代」
「そこまでしなくても」
小麻里は月夜を見る。
「する必要があるかどうか、明日の朝決める」
それ以上は言わせない声だった。月夜は布団を少し引き上げた。守られている。そう考えると少し恥ずかしくて、同じくらい安心した。
「……明日、結お姉ちゃんにも話します」
「うん」
小麻里が答える。木乃葉は月夜の口元に残った飴の棒を見た。
「その前に寝られる?」
月夜は少し考えた。
「木乃葉が上に乗らなければ」
「乗ってないって」
「誤差です」
戸口で、小麻里が、とうとう小さく笑った。夜はまだ終わっていなかった。でも、月夜はさっきより少しだけ、布団の中へ戻れる気がした。
完全復活!! ……と言いたいところなのですが、相変わらずまだ体調はあんまりよくないのです! それから、今回は久しぶりに本屋さんへ行って、紙の本でオーバーロードを買ったのですが、やっぱり今でもすごく面白いのです!




