第七話『山の下も、少しずつ馴染んできています!』
神社暮らし、今度は山の下のことも少しずつ覚えていきます!
翌朝。月夜は石段を下りながら、昨日より少しだけ速足になっていた。
「急がない」
すぐ前から小麻里の声が飛んでくる。
「急いでません」
「昨日より速い」
「楽しみなだけです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。小麻里が振り返る。でも、からかわなかった。
「なら転ばないで」
「そこですか」
今日は木乃葉はいない。結も神社に残った。二人で沢良木村へ下りる。月夜にとっては、初めて最後まで歩く道だった。昨日の案内板で見た分かれ道。石垣。
小さな水路。月夜は一つずつ確認しながら歩いた。知っている気がした場所。実際に見ても何も浮かばない場所。その両方があった。
「どう」
小麻里が聞く。
「半分くらい、普通です」
「残り半分は?」
「変です」
「分かりやすいね」
「説明は難しいですけど」
道の先から、人の暮らす音が聞こえてきた。自転車のベル。洗濯物をはたく音。遠くで犬が一度吠える。そして、坂を抜けた先に、家々が見えた。沢良木村。
大きくはない。道も狭い。古い瓦屋根。色の褪せた看板。軒先の植木鉢。窓の向こうで回る扇風機。月夜は立ち止まった。
「……普通ですね」
小麻里が横を見る。
「がっかりした?」
「逆です」
月夜は村を見た。もっと不思議な場所だと思っていた。山の上に変な神社がある村だから。でも、普通の家があって、普通に洗濯物が揺れている。
その眺めに、妙に安心した。
「こういうのでいいんですね」
「何が」
「村って」
小麻里はよく分からないという顔をした。月夜も、自分でうまく説明できなかった。
***
最初に入ったのは、あかね商店だった。硝子戸を開けると、小さな鈴が鳴る。店の中は外より暗くて、少し涼しい。
棚には菓子、洗剤、電池、蚊取り線香、紙石鹸。奥の冷蔵庫には瓶の飲み物が並んでいる。
必要なものと、必要かどうか分からないものが同じ棚に自然に収まっていた。
「いらっしゃい」
レジの奥から声がした。白髪を結ったおばあちゃんが、月夜を見る。小麻里が先に言った。
「あかねおばあちゃん。頼んでたもの取りに来た」
「はいはい。出してあるよ」
あかねおばあちゃんの目が月夜に移る。
「それで、この子が山の上に来たっていう子かい」
月夜は少し姿勢を正した。
「月夜です。こんにちは」
「ほう。いい名前だねえ」
あかねおばあちゃんは、すぐには視線を外さなかった。月夜の顔。髪。目。月夜は気づいた。
「……私、前に会ったことありますか?」
小麻里が横で少し動いた。あかねおばあちゃんは笑った。
「いや。銀色の髪が珍しかっただけさ」
月夜は自分の髪を一房つまんだ。
「そんなに珍しいですか」
「この村じゃあね」
それなら、さっきの視線にも説明がつく。月夜は素直に頷いた。あかねおばあちゃんは話を切り替えるみたいに、冷蔵庫を指した。
「それより、そこ塞いでると子どもが飲み物取れないよ」
月夜は一歩ずれた。
「すみません」
冷蔵庫の中。サイダー。麦茶。いちご牛乳。ソーダ味の瓶。それを見た瞬間、赤い衣と三本の尻尾が頭に浮かんだ。
「……」
「また木乃葉?」
小麻里が言った。
「なんで分かるんですか」
「顔」
あかねおばあちゃんが楽しそうに笑う。
「好きな子でもいる顔かい」
「違います」
「三本尻尾の?」
小麻里が続ける。
「小麻里お姉ちゃんまで」
「だって分かりやすいから」
月夜の耳が熱くなる。あかねおばあちゃんはますます楽しそうだった。
「ほお。山の上は賑やかそうだねえ」
月夜は少しだけ引っかかった。三本尻尾。あかねおばあちゃんは驚かなかった。でも、木乃葉が何者か知っている顔でもない。
ただ、山の上にいる変わった子くらいに受け取っているように見えた。月夜はそこも覚えた。結局。
あかねおばあちゃんは頼まれていた味噌と砂糖の袋を出し、最後に棒付き飴を二本くれた。
「一本はあんた」
「ありがとうございます」
「もう一本は、顔に出てる相手に」
「だから違いますって」
「名前は言ってないよ」
月夜は反論できなかった。あかねおばあちゃんは、袋に砂糖を入れながら月夜をもう一度見た。今度はさっきほど探るような目ではなかった。
「山の上、ちゃんと飯は食べさせてもらってるかい」
「はい。むしろ食べすぎるくらいです」
「結ちゃんがいるなら、そのへんは大丈夫か」
月夜は少しだけ引っかかった。
「結お姉ちゃん、昔からここに来てるんですか」
「そりゃあねえ」
あかねおばあちゃんは簡単に答えた。
「小麻里ちゃんも。あの二人はちっちゃい頃から、山と村を上がったり下りたりしてたよ」
月夜は小麻里を見る。小麻里は露骨に嫌そうな顔をした。
「余計なこと言わなくていい」
「何が余計だい。泥だらけで店に入ってきた話くらいしかしてないよ」
「もう言ってる」
月夜は思わず笑った。
「小麻里お姉ちゃんも泥だらけになったことあるんですね」
「子どもの頃」
「見たい」
「何を」
「その頃」
小麻里が月夜を見る。数秒。
「写真、ないから」
「残念」
あかねおばあちゃんが小さく笑った。
「探せば一枚くらいあるかもねえ」
「おばあちゃん」
「冗談だよ」
たぶん。月夜はそう思った。でも、結と小麻里には、ここで積み重ねた時間がある。それが少しだけ見えた。自分が知らない二人の昔。なぜか。
その話をもっと聞いてみたいと思った。過去を知りたいのは、自分のことだけではなくなっていた。
***
店を出たあと、小麻里は村の中をゆっくり歩いた。共同井戸。掲示板。小さな川。古い自販機。共同浴場へ続く道。学校の方向。
一度で全部覚えろとは言わなかった。ただ。
「困ったらここ」
「雨の日はこっち」
「この路地は夜通らない」
そういう生活に必要なことだけ教える。月夜はそのほうが覚えやすかった。共同井戸の横を通ったとき、子どもが二人、バケツで水を汲んでいた。月夜を見る。
小声で何か話す。でも近づいてはこない。
「珍しいんでしょうか」
「銀髪だから」
「そこ?」
「あと神社から来たから」
「私、神社の人になってます?」
「雑用係」
「そこは残るんですね」
小麻里が少し笑った。川沿いまで来たところで、月夜の足が止まった。古い自販機の隣。金属のベンチ。昨日、地図で見た場所ではない。それなのに、座ったことがある気がした。夏。冷たい缶。熱くなったベンチ。川のほうへ投げ出す足。映像ではない。ただ感覚だけが、先にある。
「小麻里お姉ちゃん」
「何」
「あそこ」
月夜はベンチを指した。
「座ったことある気がします」
小麻里はベンチを見る。少しだけ黙る。
「座ってみる?」
「いいんですか」
「気になるんでしょ」
小麻里は自販機に硬貨を入れた。がこん。冷えた缶が落ちる。月夜へ渡す。
「これ」
「私の?」
「検証」
「優しさを実験みたいに言わないでください」
月夜はベンチに座った。熱い。思っていた通り。缶は冷たい。それも同じ。足を少し前へ投げ出したくなるのも同じだった。でも、記憶は戻らない。
月夜は缶を両手で持った。
「思い出しません」
「うん」
「ちょっと悔しいです」
小麻里は日陰に立ったまま言った。
「昨日、結お姉ちゃんが言ってたでしょ」
「思い出せなくても失敗じゃない」
「そう」
月夜は缶を見る。
「覚えてたんですね」
「聞いてたから」
それだけ。でも、月夜の胸に少し残った。冷たい缶を頬に当てる。
「じゃあ、今日はこれでいいです」
「何が」
「座ったこと」
昨日まで、知らないのに知っている感覚ばかりだった。今日は、本当に座った。新しい記憶が一つ増えた。それでいい気がした。
***
掲示板には、夏祭りの紙が貼られていた。掃除当番。集会。花火。月夜は立ち止まった。
「花火、あるんですね」
「少しだけ」
「見たいです」
小麻里が月夜を見る。
「その頃までいるつもり?」
月夜は、一瞬だけ、答えに詰まった。今まで考えていなかった。今日。明日。それくらいしか。でも、花火は少し先だ。月夜は掲示板を見た。
「……いたら、見たいです」
小麻里は何も言わなかった。ただ、口元がほんの少し動いた。そのとき、風が吹いた。川のほうからではない。山のほうからだった。
掲示板の紙が一斉に逆向きにめくれる。月夜の首筋が冷えた。路地の奥。白いものが一瞬だけ見えた。神社の夜に見たものと同じ。いや。少し違う。今度は昼だった。
「見た」
月夜が言うより先に、小麻里が言った。月夜はそちらへ身を乗り出した。
「追います?」
「追わない」
即答。
「昼でも?」
「昼だからこそ」
小麻里は路地を見る。
「見えるのに、誰も反応してない」
月夜は周りを見る。川の向こう。家の前。誰も騒いでいない。さっきの白いものを見た様子もない。
「……私たちだけ?」
「たぶん」
見える人と。見えない人がいる。月夜はもう一度路地を見る。何もいない。でも、冷たい感じだけが少し残っている。小麻里が月夜の手首を軽く掴んだ。
「帰るよ」
「はい」
今回は素直に頷いた。
***
山道へ戻るころには、手の中の飴が少し温かくなっていた。月夜は包みを指で押した。
「木乃葉、喜びますかね」
小麻里が前を歩きながら答える。
「たぶん」
「甘いもの好きなんですか」
「だいたい好き」
「じゃあ、渡します」
「うん」
月夜は少し笑った。村で見た白いもの。あかねおばあちゃんの笑い声。熱いベンチ。花火の紙。今日一日だけで、沢良木村は地図よりずっと複雑になった。
怖いものもある。でも、手の中には、木乃葉へ渡す飴がある。月夜は包みを握り直し、神社へ続く坂を見上げた。戻れば、たぶん木乃葉がいる。結もいる。
夕飯もある。そして、明日になれば、今日見た道は、もう少しだけ自分のものになる。山の上へ続く道を歩きながら、月夜は初めて「戻る」という言葉を、少し自然に考えていた。
神社へ戻ると、木乃葉は本当に縁側にいた。片膝を立てて、団扇で顔をあおいでいる。月夜を見るなり、尻尾が一本だけ先に動いた。
月夜は何も言わず、棒付き飴を差し出した。木乃葉が瞬きをする。
「何これ」
「あかねおばあちゃんから」
「私に?」
「たぶん」
木乃葉は受け取った。包みを見る。そして、三本のうち二本が、少しだけ揺れた。
「……嬉しいんじゃないですか」
「別に」
「尻尾が」
木乃葉が後ろを見る。
「こいつらは勝手だから」
「本人もでしょう」
木乃葉は飴を月夜の額に軽く当てた。
「お土産ありがと」
「どういたしまして」
それだけのやり取りなのに、村でもらったものを山の上へ持って帰ることが、少しだけ生活みたいに思えた。
一昨日は貧血で倒れてしまって体調がよくなくて休載して、昨日はインフルエンザにかかって休載していたのです! インフルエンザはまだちょっとだけ残っているのです! 詳しいことはXのほうを見てもらえると助かるのです!




