第六話 『神社の下にも、覚えなきゃいけない場所ができました!』
神社暮らし、今度は山の下のことも覚えなきゃいけないみたいです!
昼の食卓には、ひとり増えていた。木乃葉は昨日からそこにいたみたいな顔で、月夜の向かいに座って魚の骨を外していた。
結は何も言わずに味噌汁の椀をひとつ増やしている。小麻里も気にしていない。気にしているのは、たぶん月夜だけだった。
「……普通に一緒に食べるんですね」
木乃葉が顔を上げる。
「食べちゃ駄目だった?」
「そうじゃないですけど、さっきまで木の根元にいたので」
「今日は座布団の上」
「進化が早い」
木乃葉は満足そうに箸を動かした。尻尾は三本とも後ろへ流している。それでも一本だけ、月夜の視界の端でやけに元気に揺れていた。
月夜は見ないようにした。見ないようにすると、余計に気になる。
「また見てる」
「見てません」
「今、見ないようにしてた」
「そこまで分かるんですか」
「分かりやすいから」
隣で小麻里が味噌汁を飲みながら言った。
「ほんとに分かりやすいよ」
「二対一は卑怯です」
結が笑った。そのまま膳を片づけ始めながら言う。
「午後、下の保管小屋までお願いしてもいい?」
月夜はすぐに顔を上げた。
「村ですか?」
「村までは下りない。途中まで」
小麻里が答える。
「米と味噌、受け取ってくるだけ」
「今度は一人じゃないですよね」
「もちろん」
「よかった」
即答すると、木乃葉がくすっと笑った。
「道に負けたの、まだ気にしてるんだ」
「二日連続で負けましたから」
「三回目は?」
「勝ちます」
「根拠は?」
月夜は小麻里を指した。
「これです」
「人を道具みたいに言わないで」
小麻里はそう言ったけれど、少しだけ笑っていた。
***
山道は、前に一人で下りようとしたときより普通に見えた。隣に小麻里がいるせいかもしれない。後ろには木乃葉までついてきていた。
「木乃葉も来るんですか?」
「暇だから」
「神社の人って、みんな暇だと山を歩くんですか」
「私は神社の人じゃなくて木乃葉」
「そこ、何が違うんですか」
「そのうち」
また、今は教えない言い方だった。月夜は少しだけ口を尖らせた。でも追わなかった。昨日までなら、たぶん聞いていた。
今は、答えが来る順番もあるのだと思うことにしている。少し歩く。道が二つに分かれた。月夜の足は、考える前に右へ向いた。一歩。そこで止まる。
「……こっちですよね?」
小麻里が月夜を見る。
「なんで分かったの」
「分かったというか」
月夜は右の道を見る。土の色。木の根。少し先にある大きな石。初めて見るはずなのに、左へ行くほうが間違いだと先に思った。
「足がこっちって言いました」
「足と会話できるんだ」
木乃葉が言う。
「便利ですね」
「君の場合、頭より信用できるかも」
「失礼ですよ」
笑いながら返したものの、胸の奥には小さな引っかかりが残った。前にも同じことがあった。鳥居の前。倉庫の棚。そして今。
知っているのは頭ではなく、身体のほうだ。小麻里は右の道へ進んだ。
「合ってるよ」
「やっぱり」
「でも次も合うとは限らないから」
「そこは信用してくれないんですね」
「今作ってる途中」
昨日と同じ言葉だった。月夜は少しだけ嬉しくなった。
***
保管小屋は、山道が少し平らになる場所にあった。板張りの小さな建物。戸の横には『共同物資』と書かれた札がぶら下がっている。小麻里が中を確認する。
米袋。味噌の壺。乾麺。紙に書かれた数量と見比べてから、月夜へ小さな壺を渡した。
「これは月夜」
「米じゃなくてよかった」
「持ちたい?」
「遠慮します」
木乃葉が米袋を指でつつく。
「私なら持てるけど」
小麻里が即座に返した。
「持たないでしょ」
「うん」
「じゃあ言わない」
小屋を出る前に、月夜は戸の脇に掛かっていた古い帳面に目を留めた。誰が何を受け取ったか。米。味噌。灯油。日付と名字だけが並んでいる。
派手なことは何も書かれていない。でも、何年分も続いていた。
「これ、ずっと使ってるんですか」
「うん」
小麻里が答える。
「村の人が持ってきて、神社が受け取って。逆に神社から下ろすものがある日もある」
「神社だけで生活してるわけじゃないんですね」
「できるわけないでしょ」
「ちょっとだけ、できそうな顔してるので」
「どんな顔」
月夜は帳面を見た。同じ名字が何度も出てくる。たぶん、前に会った迷子の家も。これから会う人たちも。白雲神社は山の上にあるけれど、山の下と切れているわけではない。食べ物も。紙も。人の手も。少しずつ行き来している。月夜はそのことが、なぜか嬉しかった。
「明日、私も買い物とかするんですか」
「最初は見るだけ」
「お金は」
「勝手に使わせない」
「信用がない」
「記憶ない人に財布預けるほうが怖いでしょ」
「それはそう」
木乃葉が帳面の上から顔を出す。
「お菓子なら私が選んであげる」
小麻里がすぐ言った。
「それが一番駄目」
「なんで」
「全部自分のになるから」
木乃葉は否定しなかった。月夜は笑った。明日。村。店。人。昨日までは、自分の過去を探すために下りる場所だった。今は少しだけ、これから使う場所を覚えに行く感じもしていた。その違いは、小さいけれど悪くなかった。月夜は笑いながら、小屋の外へ出た。その脇に古い案内板がある。
小屋に入るときには気づかなかった。『沢良木村案内図』の文字はかなり色褪せている。でも地図は読めた。白雲神社。山道。川。共同浴場。商店。学校。
少し離れたところにトンネル。月夜は壺を抱えたまま、地図へ近づいた。
「これ、今度行く村ですよね」
「うん」
「前に行こうとして、途中で戻ってきたところ」
「うん」
「その言い方、ちょっと傷つきます」
小麻里は気にしなかった。月夜は地図を見た。不思議だった。村の名前はもう知っている。場所もだいたい聞いている。
それなのに、こうして形になった道を見ると、別の感覚が出てきた。川沿いの細い道。そこから一本入った路地。商店の位置。月夜は指を伸ばした。
「ここ」
「何」
「この道、雨の日は使わないほうがいい気がします」
小麻里の顔が少し変わる。
「なんで」
「分からないです」
月夜は指先を地図から離した。
「でも、たぶん滑る」
小麻里が地図を見る。
「……合ってる」
「本当に?」
「石が多いから。雨の日はみんな一本向こう使う」
木乃葉が横から顔を出す。
「やっぱり君、変なところだけ知ってるね」
「褒められてる感じがしません」
「褒めてないから」
「正直すぎる」
笑ってから、月夜はもう一度地図を見た。今度は少しだけ、怖かった。偶然で片づけるには、当たる回数が増えている。
「月夜」
小麻里が呼んだ。
「はい」
「今思い出せないなら、無理に引っ張らなくていい」
「でも、気になります」
「分かってる」
小麻里は米袋を担ぎ直した。
「だから、実際に行って見ればいい。明日」
月夜は顔を上げた。
「明日、村まで?」
「今度はちゃんと一緒に」
「途中で帰ってこない?」
「変なのに会わなければ」
「それ、条件として弱くないですか」
木乃葉が楽しそうに笑った。
「会ったら会ったで、月夜は連れて帰ってきそう」
「子どもなら」
「大人なら?」
「……様子見」
「成長したね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
三人で小屋を離れた。月夜は最後に一度だけ案内板を振り返った。知らない地図。なのに、そこに描かれた道の一部だけが、記憶より先に月夜の中にあった。
***
戻る途中、木乃葉が少し先の石に軽く飛び乗った。赤い衣が風を受ける。三本の尻尾が広がる。月夜は反射的に目で追った。着地。一本だけ遅れて揺れる。
偽物。すぐ分かった。
「今、当てたでしょ」
木乃葉が振り返った。
「何をですか」
「どれが偽物か」
「……見てただけです」
「やっぱり見てる」
「尻尾をです」
「そこは認めるんだ」
月夜は壺を抱え直した。
「今日、問題出したの木乃葉でしょう」
「さっき答え合わせしたでしょ」
「復習です」
「熱心な生徒だね」
木乃葉が石から下りる。今度は月夜のすぐ横に来た。本物の尻尾の一本が、月夜の腕を軽く叩いた。
ぽふ。
「……わざとですよね」
「復習」
「何の」
「触った感触」
朝のことを思い出した。柔らかさ。体温。木乃葉が少し肩を動かしたことまで。月夜は顔を逸らした。
「別に忘れてません」
「へえ」
「その『へえ』やめてください」
少し前を歩いていた小麻里が振り返る。
「二人とも、荷物持ってるの忘れないで」
「はい」
月夜はすぐ返事をした。木乃葉は返事をしなかった。代わりに月夜の壺を一度だけ指で支えて、傾きを直した。
「ほら」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
たったそれだけ。でも、からかわれるだけではなくなった気がした。
***
神社へ戻ると、結が縁側で乾いた布を畳んでいた。小麻里が米を置く。月夜も壺を置く。木乃葉だけが何も持っていなかった。結が木乃葉を見る。
「何しに行ったの?」
「見守り」
「何も持ってないけど」
「見守りは手が空いてるほうがいいから」
月夜は言った。
「途中で壺支えてくれました」
木乃葉の耳がぴくっと動いた。結が少し笑う。
「じゃあ、ちゃんと働いたんだ」
「でしょ」
木乃葉が妙に得意そうになる。月夜は案内板のことを結にも話した。雨の日の道。見ただけなのに知っていたこと。結はすぐに驚かなかった。
ただ、布を畳む手が少しゆっくりになった。
「明日、村まで下りるんだよね」
「はい」
「じゃあ、地図で知ってた場所を実際に見てみようか」
「思い出せるかもしれない?」
「かもしれない」
結はそこで一度言葉を切った。
「でも、思い出せなくても失敗じゃないから」
月夜は少しだけ目を瞬かせた。
「……はい」
その言葉は、思っていたより嬉しかった。記憶がないと、何かを見れば思い出さなければいけない気がする。できなければ、自分に何かが足りないみたいで。でも、明日、ただ村を見るだけでもいいらしい。それなら、少し楽しみだった。結はそこで立ち上がり、社務所の机から一枚の紙を持ってきた。
鉛筆で、神社と山道、それから村の大まかな位置だけを簡単に描く。
「明日はこれ持っていって」
「地図」
「ちゃんとしたのじゃないけど」
月夜は受け取った。角に小さく『白雲神社』。その下に一本の道。さらに下に『沢良木村』。たったそれだけだった。でも、誰かが自分のために描いてくれた道だった。
「なくさないでね」
「はい」
月夜は二つ折りにして、袖ではなくきちんと鞄に入れた。
「そこは信用できますよね」
月夜は小麻里を見た。
「少し増えました?」
「少し」
その少しが、今日は妙に嬉しかった。沢良木村。名前だけだった場所が、明日は景色になる。月夜は縁側から山の下を見た。見えないはずの村が、今日は前より少し近く感じた。
昨日も作業していたら、そのまま気づけば朝だったので、更新できなかったのです! なので、ここからまたちゃんと更新していくのです!




