第九話 『夜の痕を消しても、神社はまだ少し怪しかったです!』
神社暮らし、今日は神社の中からもう一度見直していくのです!
朝になっても、月夜の部屋には夜の名残が少し残っていた。木乃葉は布団の横で眠っていた。
正確には、座ったまま壁にもたれて、片方の耳だけをぴくぴく動かしている。小麻里は戸口の外にいたはずだ。
夜中に交代すると言っていたはずなのに、結局二人とも、ほとんど一晩中そばにいたらしい。月夜は布団の中から、その光景をしばらく見た。
「……ほんとにいた」
木乃葉の耳が動いた。目は閉じたまま。
「何が」
「起きてるじゃないですか」
「今起きた」
「嘘」
「神様みたいに勘がいいね」
「朝から意味わからないです」
木乃葉はそこでようやく目を開けた。三本の尻尾のうち一本が、布団の端に乗っている。月夜は昨夜、その毛先を少しだけ指で挟んだことを思い出した。
今は触らなかった。代わりに、廊下のほうを見る。小麻里の姿はない。
「小麻里お姉ちゃんは?」
「結を呼びに行った」
「昨日のこと?」
「うん」
木乃葉の声が、そこで少しだけ真面目になった。
「君にもまだ残ってる」
月夜は反射的に自分の肩を見た。
「何がですか」
「匂い」
「自分では分からないです」
「分からなくていいよ」
木乃葉は起き上がり、月夜の髪に鼻先を近づけた。昨日ほど近くはない。それでも月夜は少しだけ肩をすくめた。
「……近いです」
「確認」
「先に言ってくれるようになったんですね」
「成長したでしょ」
「一晩で?」
「褒めて」
「嫌です」
木乃葉が笑った。でも、鼻先が月夜の肩から離れたあと、耳だけはまだ廊下の向こうへ向いていた。昨夜の鐘。こつ、と鳴った廊下。見えない何か。
全部、夢ではなかった。少なくとも木乃葉と小麻里も同じ夜を見ている。そのことだけで、怖さは少し形を変えていた。
ひとりで怖がらなくていい怖さになっていた。戸の向こうから足音がした。今度は、ちゃんと二人分。小麻里が先に入る。その後ろに結。
結の手には、小さな白い紙と朱色の糸、それから浅い木皿があった。
「起きてるね」
「はい」
結は月夜の顔を見て、次に髪。肩。最後に布団の端に視線を落とした。
「まだ少し残ってる」
「木乃葉も言ってました」
「じゃあ、朝のうちに落とそうか」
月夜は少し姿勢を正した。
「痛いですか?」
「痛くないよ」
「熱い?」
「たぶん」
月夜は眉を寄せた。
「そこ、たぶんなんですか」
結の口元がほんの少し動いた。
「人によるから」
「急に不安になりました」
小麻里が戸口の柱にもたれた。
「昨日、夜中に木乃葉が乗ってても平気だったんだから、それくらい大丈夫でしょ」
「乗ってません」
木乃葉が言う。月夜もすぐ続けた。
「ほぼ乗ってました」
「月夜はどっちなの」
「事実を言ってます」
結が小さく笑った。
「じゃあ、額借りるね」
「はい」
月夜が目を閉じる。額に薄い紙が触れた。ぺたり。冷たい。結の指が紙の上から軽く押さえる。
「動かないで」
「はい」
「息は普通にしてていいよ」
「それ言われると逆に意識します」
「じゃあ忘れて」
「無理です」
木乃葉がまた笑いそうな声を出した。結の指先が少し動く。聞き取れない短い言葉。次の瞬間。御札がほんのり熱くなった。
「あつ」
熱い。でも、火傷するような熱ではない。湯気の立つ湯呑みに触れたときくらい。その熱が額から首へ、肩へ、薄く流れていく。そして、ふっと抜けた。
風が通ったみたいだった。窓は閉まっている。戸もほとんど開いていない。それでも銀色の髪が一本だけ揺れた。木乃葉が鼻を動かす。
「薄くなった」
結も頷いた。
「うん」
月夜はおそるおそる目を開けた。
「これで終わりですか?」
「月夜のほうはね」
「私のほうは?」
「あとで境内を見る」
小麻里が答えた。
「昨日、廊下のところにも残ってたから」
月夜は戸口を見る。
「入ってきてたんですか」
三人が少しだけ黙った。最初に答えたのは結だった。
「完全には」
「完全には?」
「敷居の内側まで来た痕はない」
結は木皿にもう一枚、細い紙を置いた。
「でも、外側までは来てた」
月夜は一度だけ息を飲んだ。昨日、小麻里が戸口に座ったこと。木乃葉が部屋から出なかったこと。全部、そういう意味だったらしい。
「じゃあ」
月夜は聞いた。
「白雲神社の中には、勝手には入れないんですか?」
今度は木乃葉が答えた。
「何でも、はね」
「何でも?」
「境って、そういうものだから」
木乃葉は自分の尻尾の一本で、戸の敷居を軽く指した。
「人でも、そうじゃないものでも。越えられる線と、越えにくい線がある」
「絶対じゃないんですね」
「絶対って言えるもの、あんまりないよ」
月夜は敷居を見た。ただの木の段差。昨日までなら、それだけだった。今は少し違う。内側と外側。戻れる場所と、そうではない場所。
そんなものが、こんな低いところに一本引かれている。
「だから夜は、勝手に外へ出ない」
小麻里が言った。月夜は素直に頷いた。
「はい」
「今日は素直だね」
「実物が来たあとまで反抗するほど元気じゃないです」
「それならいい」
結が御札の端に指をかけた。
「これは昼までつけてて」
「貼ったまま?」
「うん」
月夜は額に触れた。
「外歩くんですよね?」
「神社の中だけだから」
「十分恥ずかしいですけど」
木乃葉が横から言った。
「似合ってるよ」
「どこがですか」
「封印されてる感じ」
「そういう言い方、好きですね」
「かなり」
月夜はため息をついた。でも、御札を剥がそうとはしなかった。
***
朝食のあと、四人は本殿の裏から見回りを始めた。昨日、木乃葉が匂いを嗅いだ場所。奥の居室の外。井戸の脇。本殿の裏へ続く細い土の道。
そして奉納庫の横。昼の神社は、いつも通りだった。蝉が鳴いている。濡れた土が乾き始めている。風も普通に山から下へ流れている。それなのに、奉納庫の裏へ回ったところで、木乃葉の足が止まった。
「ここ」
月夜も近づく。石垣の隙間。白い粉みたいなものが、ほんの少し溜まっていた。灰ではない。土でもない。陽が当たると、一瞬だけきらりと光る。
「これが痕ですか?」
結がしゃがむ。
「たぶん」
木乃葉も鼻先を少し近づけた。すぐに顔をしかめる。
「昨日の匂い」
月夜は手を伸ばしかけて、小麻里に手首を掴まれた。
「触らない」
「まだ触ってません」
「触る顔だった」
「顔で判断される範囲が広がってません?」
小麻里は手を離した。
「広げさせてるの、あんた」
月夜は反論できなかった。結は紙を一枚敷いて、小さな刷毛で白い粉を集めた。動きは静かだった。大げさな儀式もない。怖いものを扱っているというより、こぼれた塩を掃除しているみたいだった。
「こんな感じでいいんですか?」
「長く残さないほうがいいから」
結が答える。
「何なのか分からないものほど、生活の中に置きっぱなしにしない」
その言い方が、月夜には少し残った。分からないから放っておくのではない。分からないから、できるところだけ片づける。
白雲神社では、そうやって暮らしているらしい。木乃葉が石垣を一度見回す。
「ここで切れてる」
「何が?」
「匂い」
月夜が聞く。
「じゃあ、ここから中には入ってない?」
「少なくとも、同じ痕はない」
木乃葉は今度ははっきり言った。月夜の肩から、少しだけ力が抜けた。
「よかった」
そう言ったあと、木乃葉が月夜を見る。
「でも、夜の鐘は別」
月夜の顔が上がる。
「別?」
「同じものが鳴らしたって決まったわけじゃないってこと」
「木乃葉にも分からない?」
「分からない」
「結お姉ちゃんも?」
「うん」
結が頷いた。
「でも、あの音が白雲神社の鈴じゃないことは分かる」
月夜は昨夜を思い出した。風の止まった部屋。動かなかった呼び鈴。それでも響いた音。謎は残った。でも、少なくとも全部が同じ一つの怪異ではない可能性がある。それだけで、頭の中の絡まり方が少し変わった。
「質問は減らないですね」
「一気に減ったらつまらないでしょ」
木乃葉が言う。
「私は減ってほしいです」
「真面目」
「当事者なので」
月夜はそう言って、額の御札を軽く押さえた。
***
昼前。結が白い粉を包んだ紙を、小さな金属皿の上に置いた。月夜は少し離れたところから見ていた。御札が一枚。結の指が触れる。短い言葉。
火が、ふっと立った。大きくない。赤い火が一瞬だけ紙の縁を走る。白い粉も一緒に黒くなり、最後には、ただの灰になった。
「……忍法」
思わず口から出た。結が顔だけこちらへ向ける。
「違うよ」
「今のは完全に忍法でした」
「御札」
「息も吐きましたよね?」
「火がこっちに来ないように」
「説明が現実的すぎます」
横で木乃葉が笑い出した。小麻里も口元を少し押さえている。月夜は納得できないまま、灰を見た。さっきまで怖かった白い痕は、今は皿の上の灰になっている。
それを見たら、ほんの少しだけ、夜が遠くなった。結が言う。
「もう御札、外していいよ」
月夜は額の紙に手をかけた。ぺり。簡単に剥がれる。額が急に軽い。木乃葉が言った。
「やっと人に戻った」
「最初から人です」
「ほんとに?」
「何ですか、その意味深な言い方」
木乃葉は答えず、尻尾だけ揺らした。月夜は少しだけ睨んだ。でも、そのあと、剥がした御札を捨てずに半分に折った。
「持っておくの?」
小麻里が聞く。
「一応」
「記念?」
「昨日の夜、ちゃんと終わった証拠です」
そう言うと、結がほんの少し目を細めた。月夜は御札を懐にしまった。怖いことを忘れるためではなく、朝になったことを覚えておくためだった。
灰を片づけたあと、月夜はなぜか自分から箒を持った。
「どこ掃くの」
小麻里が聞く。月夜は戸口を指した。
「ここ」
「さっきまで怪しいものいたところだけど」
「だからです」
月夜は敷居のすぐ内側を、ゆっくり掃いた。埃。小さな砂。髪の毛が一本。怪異の痕なんて、もう何も見えない。それでも、朝になれば、ここも普通に掃除する場所に戻る。
「こういうのも、結界とかになるんですか?」
月夜が聞くと、結は少し考えた。
「掃除そのものが特別な力になるわけじゃないよ」
「じゃあ意味ない?」
「あるよ」
結は敷居に目を落とした。
「ここが内側だって、毎日ちゃんと確かめることになるから」
月夜は箒を止めた。難しい術より、その説明のほうが、今は分かりやすかった。木乃葉が横から言う。
「結界って、派手な光の壁だけじゃないからね」
「木乃葉が真面目なこと言った」
「失礼」
「朝だからですか?」
「君、最近遠慮なくなってきたね」
月夜は少し笑った。それから、もう一度箒を動かした。昨夜。越えられなかった何かがいた場所を、今日は自分の手で掃いている。
そのことが、妙に心強かった。白雲神社では、夜の痕も、朝になれば掃いて、燃やして、それからまた、ご飯を食べて、布を干して、茶を淹れるらしい。
月夜はそのやり方を、少しだけ好きになり始めていた。
ううむ……夏コミ、行けるのかちょっとわからないのです……まだ何か月か先の話ではあるのですが、これこれ、もう全盛期を過ぎてしまって、あのえっちな匂いがあんまり出なくなっているのです!




