第十話 『怪しい痕を追っていたら、また無駄に心臓ばっかり忙しかったです!』
神社暮らし、裏手の痕もひとまず見守っていくのです!
奉納庫の裏が片づいたあと、白雲神社は何事もなかったみたいに昼になった。結は本殿の水を替えに行った。小麻里は洗った布を干している。
月夜は本殿裏の小さな倉庫で、前に運んだ箱を元に戻していた。そして、木乃葉は働いているのか働いていないのか、ぎりぎり分からない位置にいた。
棚の横にしゃがみ、細い紙束を陽の当たる側に移している。一応、手は動いている。
「木乃葉」
「何」
「今日はちゃんと仕事してるんですね」
「今日は、って何」
「この前は見守り担当でした」
「見守りも仕事」
「自称ですよね」
木乃葉は紙束を棚に置いた。
「じゃあ今日は、月夜の見守り兼紙移動担当」
「肩書きだけ増えた」
月夜は笑いながら布を畳んだ。そのまま一枚。もう一枚。三枚目で、手が止まった。木乃葉に会ったときから気になっていたことを、思い出したからだった。
月夜、と呼ばれた瞬間に覚えた、あの妙な懐かしさ。名前を聞いた木乃葉の尻尾が、一瞬だけ止まったこと。月夜は布を置いた。
「木乃葉」
「さっきも呼ばれた」
「大事なほうです」
木乃葉がこちらを見る。月夜は逃がさないように、先に聞いた。
「私のこと、前から知ってたんですよね」
倉庫の中が、少しだけ静かになった。木乃葉の尻尾も。三本のうち二本が、動きを止めた。
「なんで今さら」
「今さらだからです」
月夜は木乃葉を見る。
「小麻里お姉ちゃんも、結お姉ちゃんも、私を見たとき変な顔しました」
「うん」
「木乃葉も、私の名前を聞いたとき止まりました」
「よく見てるね」
「ずっと誤魔化されてる側なので」
「言い方」
木乃葉は笑った。でも、いつものからかう笑い方より少し薄かった。月夜は続ける。
「私の名前、初めて聞いたみたいには呼びませんでしたよね」
「……そう聞こえた?」
「じゃあ」
月夜は一度だけ息を整えた。
「前の私は、木乃葉とどんな関係だったんですか?」
今度こそ。木乃葉はすぐに答えなかった。金色の目が月夜を見た。長い。でも、不快ではない。何かを探しているようにも見えた。
「月夜」
「はい」
「全部聞いたら、今の君が楽になると思う?」
予想していなかった質問だった。月夜は少し黙った。楽になる。たぶん。そう思っていた。過去が分かれば、この妙な既視感も、みんなの反応も、鐘のことも、少しは整理できると思っていた。でも、本当にそうなのかは分からない。
「……分かりません」
正直に答えた。木乃葉の耳が少しだけ動く。
「じゃあ、今日は一個だけ」
月夜は姿勢を正した。
「はい」
「知ってた」
「……」
「私は君を、前から知ってる」
月夜の胸が、少しだけ強く鳴った。今まで曖昧だったものが、一つだけ形を持った。
「どのくらい前から?」
「それは今日の一個じゃない」
「ずるい」
「約束してない」
「今しました」
「してないよ」
木乃葉の口元が上がる。少しだけ、いつもの顔に戻った。月夜は唇を尖らせた。でも、ひとつは答えをもらった。木乃葉は自分を知っていた。
それはもう推測ではない。
「じゃあ、もう一個だけ」
「欲張り」
「質問だけ」
「答えるとは言ってないけど」
「前の私は、木乃葉のこと好きでした?」
木乃葉の表情が止まった。月夜自身も。口に出してから止まった。なんで。その質問を選んだ。もっと聞くことはあったはずだ。どこで会った。何をしていた。
どうして今ここにいる。なのに、最初に出たのは、それだった。木乃葉の耳が、ゆっくり横へ倒れた。
「……君」
「はい」
「そういうの、急に投げるね」
「私も今びっくりしてます」
「自分で言ったのに?」
「口が先に」
「便利な口」
月夜の顔が熱くなってきた。今すぐ撤回したい。でも、聞きたい気持ちも消えなかった。木乃葉はしばらく月夜を見て、やがて少しだけ笑った。
「好きだったよ」
月夜の思考が止まった。
「……」
「たぶん、ね」
「たぶん?」
「どの好きかは、君が勝手に決めて」
「そこ一番大事じゃないですか!」
月夜が声を上げた瞬間。倉庫の外から、小麻里の声が飛んできた。
「何が大事なの」
月夜の口が閉じた。木乃葉の肩が震える。笑っている。
「何でもないです!」
「声大きいけど」
「木乃葉が変なこと言うからです!」
「私は普通に答えただけ」
「普通じゃない!」
小麻里は少しのあいだ黙った。
「……まあ、壊さないでね」
それだけ言って離れていった。何を壊すのか。月夜には分からなかった。倉庫か。空気か。自分の心臓か。たぶん全部だった。
***
しばらくして、月夜はようやく布を畳む作業に戻った。木乃葉は隣で紙束を整えている。妙な沈黙。でも、嫌ではない。月夜は一枚畳み、続けてもう一枚を手に取った。
とうとう我慢できずに聞いた。
「さっきの、からかってませんよね」
「どれ」
「好きだったって」
「半分くらい」
「何が半分」
「からかってるのが」
「じゃあ半分は本当?」
木乃葉が月夜を見る。
「そういうところ」
「何がですか」
「昔も、答えの隙間に指突っ込んで広げようとしてた」
月夜の手が止まる。
「私、そんな感じだったんですか」
「今とそんなに変わらないよ」
「記憶ないのに?」
「記憶と性格、全部同じものじゃないでしょ」
木乃葉は紙束を軽く叩いた。
「変わったところもあるけど」
「例えば」
「前より素直」
「嘘」
「ほら、そういうところ」
月夜はむっとした。木乃葉が笑う。でも、その笑い方は、少し懐かしいものを見るみたいだった。月夜は初めて、その顔を怖いとは思わなかった。
自分が知らない自分を、目の前の誰かが覚えている。それは今まで、奪われているみたいに感じることもあった。自分だけ知らない。みんなは知っている。
でも、木乃葉がこうして笑うのを見ると、少なくとも全部が悪い記憶ではないのかもしれないと思えた。それだけで、少し救われた。月夜は最後の布を畳んだ。
「木乃葉」
「何」
「今の私とも、仲良くしてくれます?」
木乃葉の耳が止まった。今度は月夜が先に笑った。
「前の私じゃなくて」
数秒。木乃葉は何も言わなかった。それから、本物の尻尾の一本が、月夜の腰の横を軽く叩いた。
ぽふ。
「今さら」
「答えになってません」
「もうしてるでしょ」
月夜は少しだけ目を見開いた。確かに、昨日は一晩、部屋にいた。飴も食べた。道に迷ったら見つけると言った。今も隣で紙を運んでいる。
「……そうですね」
「今さらでしょ」
木乃葉がもう一度言った。今度は、月夜も頷いた。
***
昼食の席では、月夜だけが少し妙に静かだった。結が味噌汁を置く。小麻里が魚をほぐす。木乃葉は平然と漬物を食べている。
さっきまで「好きだった」なんて話をしていた人と同じ食卓に座っているのに、あまりにも普通だった。月夜はご飯を一口食べる。木乃葉も一口。視線が合う。
月夜が先に逸らした。
「何」
木乃葉が聞く。
「何でもないです」
「さっきから変」
「原因が言います?」
結が二人を見る。
「何かあった?」
「何も」
木乃葉が即答した。月夜も続ける。
「何もないです」
二人の声が重なった。小麻里が箸を止める。
「……そういうとき、だいたい何かあるよね」
月夜はご飯を口へ運んだ。木乃葉も同時に味噌汁を飲んだ。結はそれ以上追わなかった。ただ、少しだけ笑っていた。月夜はその空気に助けられた。
次の一口を運ぶころには、さっきの沈黙は、味噌汁の湯気に紛れていた。
***
食後。小麻里が茶箪笥の横まで来た。木乃葉はちょうど外へ水を取りに出ている。小麻里は棚の中を一度見てから言った。
「何か聞いた?」
月夜の手が止まった。
「……何をですか」
「木乃葉から」
「なんで分かるんですか」
「朝から二人とも変だから」
月夜は少し迷った。全部言うのは、なぜか違う気がした。だから一つだけ。
「前から私のこと知ってたって」
小麻里は驚かなかった。
「うん」
「小麻里お姉ちゃんも?」
「知ってる」
また。はっきりした答え。月夜は茶葉の缶を持ったまま、小麻里を見る。
「前の私と、今の私って」
言葉を探した。
「同じに見えます?」
小麻里はすぐには答えなかった。少しだけ月夜の顔を見る。
「似てる」
「同じ?」
「それは違う」
月夜の胸が、小さく鳴った。小麻里は続ける。
「前のあんたを知ってるからって、今のあんたを前と同じに扱うつもりはないよ」
月夜は何も言えなかった。嬉しい。たぶん。そういう種類の沈黙だった。
「……ありがとうございます」
「何が」
「今の私を見てくれてるみたいで」
小麻里の目が少しだけ逸れた。
「見ないと危ないから」
「そこ、もう少し綺麗に終われません?」
「事実」
月夜は笑った。そのとき外から木乃葉の声がした。
「何二人で仲良くしてるの」
「水取ってきて」
小麻里が即答した。
「取ってきたよ!」
木乃葉が少し不満そうに戻ってくる。月夜はその顔を見て、また少し笑った。小麻里の「それは違う」という返事だけが、会話が切れたあとも妙に残った。
午後。月夜は奥の居室の茶箪笥を整理した。湯呑み。小皿。茶葉の缶。昨日までなら、いちいち小麻里に場所を聞いていた。今日は半分くらい、手が先に動く。
新しく覚えたからなのか。昔の身体が知っていたからなのか。もう、全部を区別しようとは思わなかった。今日覚えた棚の位置に、茶葉の缶を戻す。
手はもう迷わなかった。戸口から木乃葉が顔を出した。
「終わった?」
「もう少し」
「手伝う?」
月夜は振り返る。
「珍しい」
「失礼」
「紙移動担当じゃなかったんですか」
「昇進した」
「何に」
「月夜担当」
月夜は一瞬だけ固まった。木乃葉の口元が上がる。
「今、変な意味に取った」
「取ってません!」
「声」
「木乃葉が悪い」
木乃葉は笑いながら中へ入ってきた。でも、今度は本当に手伝った。高い棚の缶を取り、月夜へ渡す。月夜が下に置く。それだけ。肩が少し触れる。
今までなら、そのたびに少し騒いでいたかもしれない。今日は、月夜は何も言わなかった。木乃葉も。しばらくして、月夜が小さく言う。
「今の私とも、って聞いたの」
「うん」
「ちょっと変でした?」
木乃葉は棚を見たまま答えた。
「ちょっとだけ」
「やっぱり」
「でも、嫌いじゃない」
月夜の手が止まる。木乃葉は何でもないみたいに、もう次の缶を取っていた。月夜はそれを受け取った。
「……そういうの、普通に言うんですね」
「君に言われたくない」
思い当たる節があった。月夜は少し笑った。受け取った缶を棚に戻すと、木乃葉の肩がもう一度だけ触れた。今度も。二人とも何も言わなかった。
月夜は茶箪笥の戸を閉めた。ぱたん。中の湯呑みは、今日はどれも迷わず元の場所に戻せた。
ううむ……腰が痛いのです……今日は別にこれといって話すこともないのですが、最近、作品を書き始めたころに話ごとに立てていたプロットとだいぶ変わってきている気がして、どうやってこの小説を引っ張っていくか悩んでいるのです……




