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第十話 『怪しい痕を追っていたら、また無駄に心臓ばっかり忙しかったです!』

神社暮らし、裏手の痕もひとまず見守っていくのです!

一巻 鐘が鳴る前の夏


第十話 『怪しい痕を追っていたら、また無駄に心臓ばっかり忙しかったです!』


——


奉納庫の裏手に残っていた白い粉は、思っていたよりあっけなく片づけられた。


月夜が少し緊張した顔で見ている前で、小麻里は箒を持ってきて、石垣の下をひと掃きした。陽に当たると一瞬だけきらりと光っていた粉は、乾いた埃みたいに寄せ集められて、端のほうへ押しやられた。風がひとつ吹いただけでも飛んでいきそうなくらい軽かった。昨夜の匂いだの、敷居のところで迷っただの、そういう話に比べると、あまりにも何でもない処理で、かえって妙なくらいだった。


月夜はとうとう我慢できずに聞いた。


「……ああやって掃いてしまっても、大丈夫なんですか?」


小麻里は箒の先で残った粉をもう一度集めながら答えた。


「少しでも霊力があれば、そんなに問題ないよ。」


「少しでも、ですか?」


「うん。完全に素手で、長いこと触らなければね。」


安心させるようでもあり、でも完全には安心できない言い方だった。月夜が何とも言えない顔をすると、小麻里は箒を立ててこちらを振り向いた。


「何。あんた、やってみたいの?」


「いえ。そうじゃなくて……こんなふうに日常的に片づけていいものなのかなって。」


「変なものが出るたび、毎回いちいち儀式から始めてたら、ここじゃ暮らしが回らないから。」


実際、白雲神社は今もごく普通の顔をしていた。本殿の前は静かで、井戸の水は澄んでいて、結は奥の居室のほうで干していた布を整えていた。小麻里は掃き集めた粉を紙の上へ払ってから、手頃な大きさに折りたたんだ。


「これは結お姉ちゃんが燃やす。」


「捨てるんじゃないんですか?」


「そのまま捨てても別にいいけど、変に残しておくと、木乃葉がまた匂うってうるさいから。」


ちょうどその瞬間、噂された本人が見事な間で顔を出した。木乃葉は奉納庫の脇の木陰にもたれていて、聞いていたことを隠す気もなく口元を上げた。


「今、あたしの悪口言ったでしょ。」


「聞いてたんなら、悪口じゃないってわかったはずだけど。」


小麻里が言った。


「匂いに敏感なのは長所だよ。」


「ばれたら面倒なのも事実でしょ。」


小麻里はまったく引かなかった。


木乃葉はくすっと笑ってから、月夜のほうへ目を向けた。今日は昼だからなのか、赤い衣の色がいつもより明るく見えた。三本の尻尾も昨日みたいに張り詰めてはおらず、陽が当たるたびに毛先が少しだけゆるく膨らんでいた。だから困るのは、そういうところばかりがどうしても目に入ることだった。月夜はあわてて視線を逸らした。けれど、もう遅かったらしい。


「また見てる。」


「見てませんけど。」


「じゃあさっき、あたしの尻尾の先まで視線落ちてたのは誰?」


「それは……ただ、そこにあったからです。」


「上手いこと言うね。」


木乃葉はずいぶん満足そうな顔をした。小麻里は箒を肩に担いだまま二人を見比べて、わかったみたいにため息をついた。


「二人とも暇なら、倉庫の奥の棚でも拭いて。」


「暇なのはあたしだけじゃないけど。」


木乃葉がぼそっと言った。


「あたしはもともと見張り担当だし。」


「誰が決めたんですか。」


月夜が聞くと、


「私が。」


と木乃葉は答えた。


あまりにも堂々とした返事で、月夜は逆に呆れてしまった。


結局、三人で奉納庫の中まで整えることになった。小麻里は高い棚の上の箱を下ろし、月夜は奥に積まれていた布を畳み、木乃葉は邪魔するかと思いきや、日のよく入るほうへ紙束を移していた。


***


昼前が近づいてきたころ、小麻里が結を呼びに外へ出た、そのときだった。


奉納庫の中は外よりひんやりしていて、紙と木の匂いが淡く混じっていた。月夜は膝をついて下の棚の布を整えながら、ふとすぐ隣にしゃがんでいる木乃葉を横目で見た。木乃葉は何でもないような顔で、爪先で木箱の表面をとんとんと叩いていた。


よく考えたら、昨夜のことはまだきちんと問い詰めていなかった。


月夜はしばらく迷ってから、ようやく口を開いた。


「……あの。」


「うん?」


「昨夜の……久しぶりに味見したくなったって、あれです。」


木乃葉の手がぴたりと止まった。それから本当にゆっくりと顔だけがこちらへ向いた。金色の目が、笑うみたいに細くなった。


「それ、今になって気になったの?」


「今になって、やっと聞く隙ができたので。」


「へえ。」


「大したことじゃないよ。」


木乃葉はわざとらしいくらい平然と言った。


「前にも似たようなこと、あったし。」


「前にも、ですか?」


「うん。君が尻尾つけたまま、寝台の上であたしに好きにし——」


その瞬間、月夜は反射で手を伸ばして、木乃葉の口もとへ指を一本立てた。


「しっ。」


自分でも驚くくらい慌てた、小さな声だった。木乃葉がほんの少しだけ目を見開いた。指先の下で伝わる息は温かくて、言葉を飲み込んだ唇は思っていたよりおとなしかった。月夜はそこでようやく、自分が何をしたのかに気づいて顔がかっと熱くなった。


「そんなこと……覚えてないですから……。」


語尾のほうは、ほとんど言い訳みたいに小さくなった。


少しのあいだ、沈黙が落ちた。


それから木乃葉が、指に唇が触れないように、ほんの少しだけ気をつけながら笑った。目のほうから先に笑う顔だった。尻尾の一本も、ゆっくりと揺れた。


「記憶なくても止めるんだ。」


「だって……なんか、変な方向に行きそうだったので。」


「あたしはただ、事実を言おうとしただけなのに。」


「そのほうがもっと怖いです。」


木乃葉はしばらく月夜の指先を見下ろしていたが、やがてとてもゆっくり身体を引いた。月夜も遅れて手を戻した。指先だけが妙に熱かった。


木乃葉は口元を上げたまま、小さく言った。


「あのときも、こんな顔してた。」


「またそうやってはぐらかそうとしないでください。」


「今度は本当。」


「信じませんけど。」


そうは言っても、月夜はなぜだかそれ以上問い詰められなかった。そんなことあるわけないと押し切ってしまえば済むはずなのに、どこかで本当にそうだったのかもしれない、という妙な感覚が邪魔をした。


そのとき、奉納庫の外から小麻里の声がした。


「奥の棚、まだ終わってないの?」


月夜はほとんど飛び上がるみたいに返事をした。


「い、今やってます!」


すぐ隣で木乃葉が低く笑った。その笑い方が悔しくて振り向きそうになったけれど、また巻き込まれそうでやめた。その代わり、目の前の布束をぎゅっと掴み直した。奉納庫の中の空気は少し冷たくて、さっきまで無駄に心臓が速くなっていた理由を、わざわざ説明する方法はなかった。だから月夜は、知らないふりをすることにした。


昼食は思っていたより穏やかに過ぎていった。味噌汁の匂いが上がって、小さな魚が皿の上で光っていて、結は何事もなかったみたいな顔で茶碗を並べていた。小麻里は奉納庫でのやり取りをわざわざ持ち出さなかったし、木乃葉もまるで何もなかったみたいに、平然と漬物を飯の上にのせて食べていた。だからこそ、月夜だけがひとりで少し妙な気分になっていた。白い粉もあったし、朝は御札まで貼られたし、ついさっきまで奉納庫の中では無駄に心臓が忙しかったのに、目の前にはあまりにも普通の昼の膳があった。


こうやって、すぐ何でもなかったみたいな顔をするものなのだろうか。あるいは、この神社にいる三人が、こういうことに慣れすぎているだけなのだろうか。


「食べないの?」


結が聞いて、月夜はようやく箸を持ち上げた。


「食べてます。」


「何か考えごとしてる顔だったから。」


「それはまあ、もともと多いほうですけど。」


すると木乃葉がすかさず横から拾った。


「さっきから、あんまり健全なほうの考えじゃなかったよね。」


月夜はご飯を口に運ぶ途中で、そのまま木乃葉を睨んだ。木乃葉は妙にゆったりした顔で汁を飲んだだけだった。ここで反応したらまた自分だけ損をする気がして、月夜は何も言わずに茶碗だけを見ることにした。小麻里はそんな二人を見ても止めなかった。ただ、一度くらいは笑ってもよさそうなのに、最後まで何でもない顔をしていた。


「小麻里お姉ちゃん。」


「何。」


「さっき、聞いてましたよね。」


「何を。」


「何を、じゃなくて、その……奉納庫の中で。」


小麻里は汁椀を置きながら、ひどく淡々と答えた。


「半分くらい。」


「半分のほうが余計に意地悪なんですけど。」


「全部聞こえてないだけ、まだましだと思えば。」


その返しに木乃葉が、くつっと笑った。月夜はまた耳の先が熱くなっていくのを感じた。結局、昼食はその妙な空気を完全には片づけないまま終わったけれど、それでもきちんと食べきった。それは大事なことだった。気まずいことと食事は別だというのを、月夜はここ最近でずいぶん学んできていた。


***


食後になると、またそれぞれにやることができた。結は本殿のほうへ行き、小麻里は洗っておいた布を干していた。月夜は奥の居室の茶箪笥の整理を任されたのだけれど、思っていたより手がかかった。湯呑みの大きさを揃えて並べること、小皿を種類ごとに重ねること、茶葉の缶の位置を入れ替えること、埃を払うこと。大した作業ではないのに、気づけばずいぶん時間が過ぎていた。


「そこ、詰めすぎないで。」


後ろから聞こえたのは小麻里の声だった。月夜が振り向くと、小麻里が柱にもたれて立っていた。


「取り出しにくいから。」


「あ……本当ですね。」


「あと、その缶は上じゃなくて下。」


「なんでですか?」


「結お姉ちゃんがよく使うのは、下にあったほうが面倒じゃないから。」


あまりにも当然みたいに言うので、月夜は思わず笑ってしまった。小麻里という人は、生活そのものを細かい効率で積み上げているみたいだった。


月夜は缶を下へ移しながら、ふと聞いた。


「お姉ちゃんって、もともとこういうの得意だったんですか?」


「何が。」


「こういう、暮らしをちゃんと回していくことです。」


小麻里は少しだけ考えるように間を置いてから、短く答えた。


「得意っていうより、やらないと目立つから。」


「それ、逆にすごいと思うんですけど。」


「すごいのは結お姉ちゃんでしょ。」


小麻里は何でもないみたいに言った。


「あたしは、空いてるところを埋めてるだけ。」


その言い方があまりにも自然に出てきたせいで、月夜はむしろ余計に覚えておきたくなった。


午後の光は少しずつ傾いていて、奥の居室の中には茶の匂いと乾いた草の匂いが淡く混じっていた。月夜は茶箪笥をひと通り整え終えて、最後に手拭いを何枚か畳んで引き出しへ入れた。そこまでやって、妙な満足感があった。この神社の物の置き場所をひとつずつ覚えて、誰がどの湯呑みをよく使うのかも少しずつわかってきて、どの戸が閉まりにくいかまで身体のほうが先に覚え始めていた。


「終わった?」


ふいに木乃葉が戸口から顔を出した。尻尾の一本が先に見えて、そのあとで金色の目がついてきた。


「はい。たぶん。」


「たぶんなら、もう一回見直したほうがいいって意味だよね。」


「なんで人がせっかく得た達成感を踏みにじるんですか。」


「その程度で踏みにじられる達成感なら、弱いんでしょ。」


木乃葉はそう言いながらも部屋の中へ入ってきて、月夜が整えた茶箪笥をひと通り見た。そして意外なくらい素直に頷いた。


「今回は悪くないね。」


「今回は、って何ですか。」


「前はちょっと、湯呑みたちがみんな遭難してるみたいだった。」


「その言い方、ひどくないですか?」


「でも今回は生き延びたじゃん。」


腹が立つのに、まるで的外れでもないから余計に腹が立った。月夜が唇を尖らせると、木乃葉がふいに手を伸ばした。どうせまた何かからかうのだと思ったのに、今度は月夜の額のあたりを指さしただけだった。


「それ、もう外していいかもね。」


御札のことだった。月夜はそこでようやく、朝から貼ったままだったことを思い出した。指先で端を摘んでみると、御札はあっさりと剥がれた。外してしまうと、妙に物足りなかった。木乃葉はそれを見て、口元を上げた。


「やっと人っぽくなった。」


「その前は何だったんですか。」


「封印された人。」


「その言い方、気に入ってるんですね。」


「かなり。」


月夜は外した御札を折りながら、少しだけ迷った。それから朝、結に言われたことを思い出して、捨てずにそのまま懐へしまった。


夕方が近づくころ、四人は奥の居室の前の縁側に少しだけ集まっていた。結が冷ましたお茶をひとりずつに配り、小麻里は乾いた手拭いで髪の先の水気を拭っていた。木乃葉はどこから持ってきたのかわからない菓子をひとつくわえていて、月夜は手の中の湯呑みの温度をゆっくり感じていた。


風は今日も吹いていた。けれど昨夜みたいに裏返ってはいなかった。奉納庫の裏で見た白い粉も、昼の陽の下では結局、掃き集められる種類のものだった。けれど月夜は、もうわかっていた。それが何でもなかったという意味ではないのだと。ただこの神社には、何でもないような顔で受け流すやり方を知っている人たちがいるだけなのだ。そして自分も、少しずつそちらへ近づいているのだと。


「また何その顔。」


木乃葉が聞いた。


「どんな顔ですか。」


「馴染んできた顔。」


月夜はすぐには言い返せなかった。その言い方が冗談みたいでもありながら、妙に否定しにくかったからだ。代わりに、湯呑みの縁だけをそっと撫でた。情が移るのは、もしかしたら怖いことなのかもしれない。


けれど今日は、それがそこまで嫌ではなかった。

ううむ……腰が痛いのです……今日は別にこれといって話すこともないのですが、最近、作品を書き始めたころに話ごとに立てていたプロットとだいぶ変わってきている気がして、どうやってこの小説を引っ張っていくか悩んでいるのです……

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