第十一話 『白雲神社の神様は、思っていたよりずっと近くにいました!』
神社暮らし、朝から情報量が多すぎるのです!
明け方。月夜は、箒の音で目を覚ました。さっ。さっ。まだ鳥も本気では鳴き始めていない。部屋は青く、窓の外だけが少しずつ朝になっていた。
月夜は寝間着のまま戸を開ける。音は本殿の裏からだった。昨日、白い痕を片づけた場所。月夜は廊下を曲がり、そこで少し足を緩めた。結が箒を持っていた。
昨日、白い粉が残っていた石垣の隙間を、今は普通に掃いている。横には水を張った小さな桶があり、金属皿も火もない。木乃葉は石垣の上に座り、眠そうな顔で三本の尻尾を垂らしていた。
「また何か出たんですか」
月夜が聞く。結は首を振った。
「確認してるだけ」
「昨日のが残ってないか?」
「うん」
月夜は言われる前に、石垣から少し距離を置いたところで止まった。結が一度だけこちらを見る。何も言わない。それで合っているらしい。
木乃葉が鼻先を少し上げた。一度。二度。
「ほとんどしない」
月夜は木乃葉を見る。
「匂い?」
「昨日のやつ」
「ほとんど、ってことは少しは」
「残り香くらい」
木乃葉は石垣の上から、尻尾の先で、昨日白かった場所を軽く示した。
「新しいのはないよ」
その言葉で、月夜の肩から少し力が抜けた。夜のあいだに、また何かが来たわけではない。少なくとも、今ここに新しい痕はない。
「今日は火、出さないんですね」
結が瞬きをする。
「出さないよ」
横から木乃葉が笑う。
「残念そう」
「違います」
「昨日、忍法って言ってたのに」
「一回見たので十分です」
「ほんと?」
「……もう一回くらいなら」
「好きなんじゃん」
月夜が言い返そうとしたところで、小麻里が奥の居室から出てきた。髪はまだ半分しか結んでいない。
「朝から何してるの」
「異常なしの確認です」
月夜が先に答える。小麻里は石垣を見て、それから結に視線を向けた。
「何もなし?」
「うん。新しい痕はない」
「じゃあ終わり」
簡単だった。でも、その簡単さが、今は少し嬉しかった。何も出なかった朝は、何も出なかった、と確認して終われる。月夜は石垣をもう一度だけ見た。
昨日の白はない。朝露に濡れた石と。箒で寄せられた普通の砂だけだった。木乃葉が石垣から降りる。
「今日は下りるんでしょ」
「どこへ?」
月夜が聞く。小麻里が答えた。
「つばさ湯」
「お風呂屋?」
「村の道、もう少し覚えるついで」
結も頷く。
「昼になる前に行こうか」
月夜は少し嬉しくなった。山を下りる。昨日までなら、何か変なものに出会わないか先に考えたかもしれない。今日は、お風呂屋という普通の予定のほうが先に来た。月夜はそのまま境内を見る。本殿。鳥居。朝の石段。そして、ひとつ気になった。
「四人とも行っていいんですか?」
「何が」
小麻里が聞く。
「神社です」
月夜は本殿を指した。
「誰もいなくなりますよね」
「午前だけなら大丈夫」
「でも」
月夜は少し考える。
「神様が怒ったりしません?」
沈黙。短い。でも、結と小麻里が同時に木乃葉を見た。月夜もつられて見る。木乃葉は、自分だけ何も分かっていないみたいに、一度瞬きをした。
「何」
小麻里が言う。
「その神様なら、ここ」
指先。木乃葉。月夜は止まった。
「……はい?」
木乃葉が首を傾ける。
「え」
月夜は木乃葉を見る。耳。尻尾。金色の目。赤い衣。夜に匂いを嗅ぐ。変なものを追う。神社のどこにいても、誰も止めない。材料は、山ほどあった。でも、結論だけが違った。
「ちょっと待ってください」
「うん」
木乃葉は平然としている。
「木乃葉って」
「木乃葉」
「名前じゃなくて」
「可愛い」
「そこでもなくて」
月夜は本殿と木乃葉を交互に見た。
「白雲神社の神様?」
「そうだよ」
あっさり。あまりにも。あっさり。月夜は数秒、何も言えなかった。
「……なんで早く言わないんですか!」
木乃葉の耳が少し倒れた。
「聞かれなかったから」
「普通そこ、自己紹介に入れません?」
「初めまして、木乃葉です。神様です。って?」
「それくらい重要です!」
木乃葉は少し考えた。
「でも君、狐耳と尻尾見てたじゃん」
「狐っぽい先輩だと思ってました」
「だいぶ無理あるね」
「木乃葉が普通すぎるんです!」
「神様だって普通に暮らすよ」
「夜中に人の部屋へ勝手に入るのも?」
「それは個性」
「神様関係ないじゃないですか!」
小麻里がとうとう笑った。結も口元を押さえている。月夜は二人を見る。
「二人とも知ってたんですよね」
「もちろん」
小麻里が答える。
「なんで教えてくれなかったんですか」
「木乃葉が勝手に言うと思ってた」
「言わなかったじゃないですか」
「本人に言って」
月夜はまた木乃葉を見る。木乃葉は尻尾を一本だけ上げた。
「ごめん?」
「疑問形」
「じゃあ、ごめん」
「軽い」
でも、腹は立たなかった。驚きが大きすぎて、まだ怒るところまで追いついていない。月夜は本殿を見る。
「じゃあ」
「何」
「みんな、木乃葉が神様だって知ってるんですか?」
今度は、空気が少し変わった。小麻里が先に答えた。
「村の人は、ほとんど知らない」
月夜は顔を上げる。
「知らない?」
「普通は、白雲神社に神様がいるってだけ」
結が言葉を継ぐ。
「木乃葉がその神様だってことまでは、話してないよ」
「どうして」
木乃葉が自分で答えた。
「知りたくない人もいるから」
声は軽い。でも、さっきまでと少し違った。
「昔、話したこともある」
木乃葉は本殿のほうを見る。
「それで来なくなった人もいる」
月夜は何も言えなかった。神様が本当にいる。それを知ったら、喜ぶ人ばかりだと思っていた。でも、現実はそうでもないらしい。木乃葉は肩をすくめた。
「別に困らないけど」
「……ほんとに?」
月夜が聞く。木乃葉の金色の目が月夜に戻る。一瞬。ほんの一瞬だけ、笑っていなかった。
「さあ」
それだけ。また、いつもの顔に戻る。月夜はそれ以上聞かなかった。でも、その答えを忘れないと思った。
***
朝食のあいだ。月夜は何度も木乃葉を見た。味噌汁を飲む。漬物を食べる。魚の骨を外す。尻尾の一本で、落ちそうになった手拭いを拾う。全部。
昨日までと同じ。なのに、神様。
「そんなに見られると、穴あくよ」
木乃葉が言った。月夜はすぐ答えた。
「神様にも穴あくんですか」
「たぶん」
「適当」
「神様でも知らないことあるから」
「便利ですね、その立場」
木乃葉は笑った。月夜は少し考えた。
「敬語、もっと丁寧にしたほうがいいですか」
木乃葉の箸が止まった。小麻里も。結も。木乃葉がゆっくり顔を上げる。
「やめて」
「なんでですか」
「気持ち悪い」
「神様に言われた」
「今まで通りでいいよ」
木乃葉は少しだけ目を細めた。
「君に急に『木乃葉様』とか言われたら、たぶん笑う」
月夜は想像した。
「木乃葉様」
木乃葉が吹き出した。小麻里も顔を逸らす。結まで笑う。
「ほら」
「そこまで笑います?」
「似合わない」
月夜は少しむっとした。でも、安心もした。神様だと知ったからといって、昨日までの距離を全部変えなくていい。それは思っていたより大きかった。
月夜は味噌汁を一口飲んだ。
「じゃあ、木乃葉で」
「うん」
「たまに神様」
「それはいらない」
「困ったときだけ」
「もっといらない」
四人の食卓に、いつもの笑いが戻った。
***
朝の片づけを終えると、つばさ湯へ行く支度をした。結は手拭いと石鹸。小麻里は着替えを風呂敷に。月夜も借りている服をきちんと畳んだ。
木乃葉だけは何も持っていない。
「木乃葉、何もいらないんですか」
「現地でどうにかする」
「神様だから?」
「違う。面倒だから」
「格が戻ってこない」
山道を下りる。四人。月夜は一度だけ、神社を振り返った。神様まで一緒に山を下りている。本殿は空になる。それでも、不安はなかった。
木乃葉がいる場所が、白雲神社の神様がいる場所なのだと。今は少し分かった気がしたからだ。道の途中で、月夜は木乃葉の横に並んだ。
「木乃葉」
「何」
「私が知っててもいいんですか」
木乃葉は少しだけ目を瞬かせた。質問の意味は、すぐ分かったらしい。神様だということ。村の人には話していないこと。木乃葉は前を向いたまま答えた。
「もう知ったでしょ」
「そうじゃなくて」
「うん」
少しだけ間。
「君はいいよ」
短い。それだけだった。月夜はそれ以上聞かなかった。胸の奥が少しだけ温かくなった。信頼なのか。昔から知っているからなのか。まだ分からない。でも、今はそれでいい。木乃葉の横顔は、いつもと同じだった。だからこそ。月夜には、その「君はいいよ」が冗談ではないと分かった。木乃葉の尻尾が一本。
月夜の手の甲に軽く触れた。すぐ離れる。月夜も何も言わなかった。
***
沢良木村の東側。坂を下りたところに、古い木造の建物が見えた。青いペンキ。硝子戸。軒の下の風鈴。看板には、『つばさ湯』。
「ここですか」
「うん」
小麻里が先に歩く。月夜は建物を見上げた。思っていたより、ちゃんとお風呂屋だった。
「何その顔」
木乃葉が聞く。
「もっと共同浴場っぽいの想像してました」
「十分共同浴場だよ」
「体育館のシャワー室みたいな」
木乃葉が本気で嫌そうな顔をした。
「それは嫌」
「私も今、そう思いました」
戸が開く。中から、首に手拭いを掛けたおじいさんが顔を出した。
「おお、神社の子らが揃って来たか」
結が頭を下げる。
「こんにちは、つばさおじいちゃん」
おじいさんは四人を見る。木乃葉にも。普通に。
「朝から珍しいな」
それだけ。月夜は少しだけ木乃葉を見た。神様だとは知らない。たぶん。ただ、神社にいる変わった子として知っている。その距離が、今は少しだけ分かった。
つばさおじいちゃんが月夜を見る。
「初めてか?」
「はい」
「なら、いきなり熱い湯入るなよ。まず足から」
「お風呂にも初心者指導あるんですね」
横で木乃葉が笑った。
「今日は神様が教えてあげようか」
月夜は即答した。
「そこだけ急に神様使わないでください」
木乃葉の耳が楽しそうに立った。月夜も少し笑った。朝には、夜の痕がもう残っていなかった。そのあと、自分は白雲神社の神様が誰なのかを知った。そして今。
その神様と一緒に風呂屋の入口に立っている。やっぱり変だ。でも、もう、変だから離れたいとは思わなかった。むしろ、もう少し近くで見ていたいと思った。
それが! 最近ちょっと時間がないのです……! 休載はもちろんしないのですが! 遅くなることはあるのです!




