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第十一話 『白雲神社の神様は、思っていたよりずっと近くにいました!』

神社暮らし、朝から情報量が多すぎるのです!

一巻 鐘が鳴る前の夏


第十一話 『白雲神社の神様は、思っていたよりずっと近くにいました!』


——


明け方、月夜は目を覚ました。


完全に起きたわけではなかった。身体はまだ温かい布団のほうへ半分残っていて、頭の中も薄い眠気に濡れていた。それでももう一度目を閉じられなかったのは、外からごく小さくぱちぱちと鳴る音が聞こえたからだった。木が燃える音みたいでもあり、紙が擦れる音みたいでもある、曖昧な小さな音だった。


月夜は目をこすりながら身を起こした。部屋の中はまだ青みがかっていた。戸を開けて廊下へ出ると、空気は夜より冷たく、朝より静かだった。板の間の端には薄い明け方の光がかかっていて、神社全体がちょうど息を入れ替えている途中みたいにひっそりしていた。


月夜は裸足のまま廊下をたどっていって、奉納庫のほうがぼんやり明るいことに気づくと、少しだけ足を速めた。そして角を曲がった瞬間、その場で足を止めた。


結がいた。奉納庫の前の空き地に、結が少し膝を折った姿勢で立っていた。手には昨日、白い粉を包んでいた紙があって、その前には小さな御札が一枚、赤く光っていた。次の瞬間、結がほんの短く息を吐くと、御札の端から火が、ふっと立ち上がった。紙に移った火は大きくなかったのに、妙にきれいだった。煙の匂いより先に、昨日嗅いだあの妙な匂いが、灰みたいにほどけながら消えていった。


それを見た月夜は、ほとんど反射で叫んでいた。


「忍法!」


結が顔だけ少しこちらへ向けた。


「それじゃないよ。」


あまりにも落ち着いて訂正されて、月夜は逆に気まずくなった。


「いや、今の完全にそっちでしたけど。」


「御札で燃やしただけ。」


結が言った。


「口から火を噴いたわけじゃないよ。」


「今、息吐いたじゃないですか。」


「火を出したのは御札。私は向きをつけただけ。」


説明を聞いても、月夜はまだ少し納得しきれない顔をしていた。明け方の光の中の結は、いつもよりもっと白くて静かに見えて、だからこそ、そういうことが自然にできる人みたいにも見えた。


結は火が完全に静まってから、燃え残った灰を小さな金属の器の中へ払った。明け方の風がひとつ通ると、その灰もほんの一瞬だけ揺れて、すぐに落ち着いた。


「起きたんだね。」


結が言った。


「もう少し寝ててもよかったのに。」


「これ見たのに、どうやってまた寝るんですか。」


「そんなにしょっちゅうあることじゃないけど。」


「しょっちゅうあったら、もっと嫌です。」


結はその返しに、小さく笑った。月夜は灰の入った器をちらりと見てから、ふと思い出したように聞いた。


「そういえば私、昨日御札貼られたときは、あんまり驚いてなかったですね。」


「今さら思ったの?」


「はい。普通だったら、もっと驚いててもおかしくなかったんじゃないかなって。」


一晩前までは、額に御札を貼って匂いを払うなんて話を聞きながら、恥ずかしいほうには反応しても、変なほうにはそこまで大きく驚かなかった。今になって考えると、それもかなり変だった。


結は少し考えてから、ひどくあっさり言った。


「もう狐の神様と一緒に暮らしてるでしょ。」


「それなのに御札一枚貼られたくらいで、急に世界観が崩れるわけでもなかったんじゃないかな。」


あまりにももっともらしくて、月夜はすぐには言い返せなかった。


「あ……言われてみれば、そうですね。」


「でしょ?」


「納得はするんですけど、ちょっと悔しいです。」


「なんで?」


「変なことの基準が、上がるの早すぎる気がして。」


言い終わるのと同時に、後ろの木陰から低い笑い声が漏れた。


「それはもう手遅れだね。」


木乃葉だった。いつからいたのかわからないけれど、木乃葉は石垣の上に腰かけて頬杖をついていた。赤い衣の裾が明け方の空気の中で少しゆるんでいて、三本の尻尾は石垣の下へ半分ほど流れたまま、ゆっくり揺れていた。この時間の木乃葉は、昼よりもいっそう妖怪じみて見えた。問題なのは、妖怪っぽい、という感想のあとに、妙に綺麗だ、という感想まで勝手についてきてしまうことだった。


月夜はなんとなく視線を逸らした。


「人が真面目に納得してるのに、なんで隠れて笑ってるんですか。」


「面白いから。」


木乃葉が言った。


「御札一枚は平気なのに、火は忍法って叫ぶ基準が。」


「それは寝ぼけてたからです。」


「寝ぼけてるわりに声大きかったよ。」


結が金属の器を持って振り返りながら言った。


「どうせみんな起きたなら、今日は朝ごはん食べたら下りようか。」


「どこへですか?」


月夜が聞くと、今度は廊下のほうから小麻里の声がした。


「お風呂屋。」


小麻里は髪を半分だけ結んだ格好のまま、こっちへ歩いてきていた。


「村のほうも、もう少し覚えるついでに。昨日は店のほうしか見てないし。」


月夜は目を瞬かせた。四人で一緒に動くというのも少し不思議だったし、朝から風呂屋というのもなかなか聞き慣れなかった。


「朝からですか?」


「朝だから。」


小麻里が答えた。


「昼過ぎると人も増えるし。」


それはたしかにそうかもしれなかった。田舎の風呂屋がどういう流れで回っているのか、月夜にはまだよくわからなかったけれど、少なくとも今の自分にとっては、そのへんの全部がまだ見学対象みたいなものだった。


結が灰の入った器を少し持ち上げて言った。


「これも途中で捨てて。」


「そのあとそのまま下りればいいね。」


白い粉は明け方に燃やされて、御札はひとつの説明で納得して、そのあとには四人で風呂屋へ行くことになる。妙なことと暮らしがあまりにも近くくっついていて、月夜はもう、それがこの神社の普通なのかもしれないとさえ思いはじめていた。


けれど、そのときふとひとつだけ引っかかることがあった。


「ちょっと待ってください。」


月夜が聞いた。


「こんなふうにみんなで神社空けても、大丈夫なんですか? 神様が怒るとか、そういうのは……」


結が答えるより先に、小麻里がごく当然みたいな顔で横を指した。


「その神様なら、ここにいるじゃん。」


指先の向いた先にいたのは、木乃葉だった。


一瞬、時間が止まったみたいだった。月夜はゆっくり首だけをそちらへ向けた。石垣の上に座っていた木乃葉が、今さら何言ってるの、みたいな顔で頬杖をついたままこちらを見ていた。尻尾の一本がごくゆっくり揺れた。


「……はい?」


「なんでそんなに驚くの。」


木乃葉が言った。


「まさか、今まで気づいてなかった?」


気づいていなかったと言うべきなのか、どこかではわかっていたと言うべきなのか、そのあいだのどこかで頭の中が真っ白になった。狐耳があって、尻尾が三本あって、妖怪っぽくて、人間でもなくて、妙な匂いまで嗅ぎ分けて、夜には勝手に部屋へも入ってきた。けれど、それがそのまま白雲神社で祀られている神様に繋がるかと言われたら、普通はそんなふうにはならない。


月夜は結局、ひどく正直な感想をそのまま口にしてしまった。


「それは……そんな重大なこと、もうちょっと早く言ってほしかったんですけど。」


***


朝ごはんを食べているあいだじゅう、月夜は何度も木乃葉のほうをちらちら見てしまった。


今になって見返せば、納得できる材料は最初からいくらでもあった。狐耳、三本の尻尾、神社の中でいちばん勝手なのに、誰も本気で咎めない空気、それに夜になれば誰より先に妙な匂いに気づく感覚。問題は、そういう情報を全部並べたうえでも、まさか本当にそっちだったとは思えなかったことだった。


木乃葉はそんな月夜の視線を真正面から受け止めていたが、やがてとうとう箸を置いて言った。


「そんなに見てたら、神様に穴あくよ。」


「神様がそんなこと言っていいんですか?」


「神様にだって言いたいことはあるよ。」


「私はもっと、威厳ある感じのほうを想像してたんですけど。」


「がっかりした?」


木乃葉がわざと頬杖をついたまま聞いてくると、月夜は少し答えに詰まった。がっかりしたというより、また基準がずれた、という感じに近かった。神様といえば、少なくとも本殿の奥で静かに祀られているとか、人前にはあまり姿を見せないとか、最低でも夜中に人の部屋へ勝手に入り込んだりはしない気がしていた。


その考えがそのまま顔に出ていたのか、木乃葉の目が細くなった。


「今、すごく失礼なこと考えたでしょ。」


「考えてませんけど。」


「考えたよ。どうせ『神様なら、夜中に人にのしかかったりしなさそうなのに』とか。」


月夜はご飯を口に運ぶ手をそのまま止めて固まった。横で小麻里が汁を飲みながら、ほんの小さく笑う声を漏らし、結もとうとう目を伏せたまま笑いを隠しきれなかった。


「二人とも笑わないでください……。」


「ごめん。」


結が言った。


「でも、ちょっと面白かった。」


月夜は何となく茶碗を抱え込むみたいに持ち直して、残っていたご飯を慌てて食べた。その横で木乃葉は、いかにも満足そうな顔で漬物をひとつつまんでいた。尻尾の一本がのんびり揺れていた。


朝の片づけを終えると、四人はそのまま下りる支度をした。結は小さな手拭いと石鹸を用意して、小麻里は着替えを薄い風呂敷にまとめた。木乃葉は自分は特に準備なんて要らない、という顔をしていたくせに、いざ出る段になるといちばん先に戸口に立っていた。月夜はそれを見て、思わず小さく呟いた。


「神様が一番ちゃんとしてるんですけど。」


「ちゃんとしてるんじゃなくて、楽しみにしてるだけ。」


木乃葉が言った。


「風呂屋までの道って、甘いものの匂いがよくするし。」


「すごい勢いで格が下がりましたね。」


「もともと暮らしに近い神様なんじゃないの。」


小麻里が何でもないように受けた。


山道を下りながら、月夜は何度も横を見てしまった。今日の木乃葉は普段と何も変わらなく見えるのに、今ではその普通さそのものが妙だった。神様なのに、石を踏み外しかけて体勢を崩すことがある。神様なのに、夜は人の上に乗ってくる。神様なのに、人をからかうことに全力だ。なのに、そういうことをひとつひとつ思い出していくと、むしろ今までの木乃葉の全部が少しだけ自然に思えてくるのだった。


「また何。」


木乃葉が聞いた。


「いえ……今さら整理してるんです。」


「何を。」


「木乃葉が神様だってことです。」


「整理、時間かかるね。」


「大事な情報だったので。」


「でも、可愛いほうの神様でしょ。」


「自分で言うとちょっと微妙になります。」


そのやり取りを聞いていた小麻里が、前を歩きながらひとこと言った。


「ああいうほうだから、村の人も逆に気楽なんだよ。」


「威厳がないからですか?」


「威厳ないのは否定しないんだ。」


木乃葉が即座に返した。


道はもうだいぶ身体に馴染んできていた。分かれ道の向きも、濡れると滑る石がどのあたりにあるのかも、どの辺で木の匂いが濃くなるのかも、ぼんやりと身体が覚えていた。それが完全に気楽というわけではなかったけれど、今日はその感覚が少しだけ怖くなかった。ひとりじゃなかったからかもしれない。前に小麻里がいて、横に木乃葉がいて、少し後ろに結がいるだけで、道そのものの形がほんの少し安定する気がした。


村の入口へ近づくにつれて、暮らしの音が少しずつ増えていった。洗濯物をはたく音、自転車の車輪が砂利を踏む音、遠くで誰かを呼ぶ声。沢良木村は今日もまた普通の顔をしていた。その普通の真ん中に、四人で並んで入っていくことが、昨日よりずっと自然に感じられた。


***


村の東の坂の下にある古い建物には、『つばさ湯』と書かれた看板が掛かっていた。大きくない木造の建物で、古い青いペンキがところどころ剥げていて、軒の下には年季の入った風鈴がひとつぶら下がっていた。硝子戸の脇には、『営業中』と書かれた木札が少し斜めに掛かっていた。


「思ってたより……ちゃんとお風呂屋ですね。」


月夜が言うと、小麻里が目を細めた。


「ちゃんとしてないお風呂屋でも想像してたの?」


「いえ、村の共同風呂って聞いてたので、もうちょっと……体育館のシャワー室みたいなのを想像してました。」


「その想像のほうが嫌なんだけど。」


木乃葉が心底嫌そうな顔で言った。


そのとき、中から戸ががらりと開いて、肩幅の広い、首に手拭いを掛けたおじいさんが顔を出した。おじいさんは四人をひと目見て、それからゆっくり笑った。


「おお、神社の子らがみんなで下りてきたな。」


「こんにちは、つばさおじいちゃん。」


結が先に頭を下げた。


おじいさんの目は、そのまま自然に月夜のほうへも向いた。あかねおばあちゃんのときと似て、一度見て、それからもう少しだけ見る目だった。けれど、その人も何も聞かず、ただひとつ頷いただけだった。


「初めて来る顔は、いきなり熱い湯から入るとくらっと来るぞ。まず足から慣らしな。」


「もう初心者扱いですね。」


月夜が小さく呟くと、木乃葉が横で低く笑った。


「初心者でしょ。」


「お風呂まで経験制なんですか?」


「ここ、生活のだいたい全部が経験制だから。」


それを聞いて、月夜は少し笑ってしまった。風呂屋の前まで来て、ようやく明け方に御札が燃えて、白い粉が灰になっていた場面が、ずいぶん遠いことみたいに思えてきた。妙なことはたしかにあったし、その余韻だってまだ全部消えたわけじゃない。それでも結局こうして、四人で一緒に村の風呂屋まで下りてきている。


月夜は入口に掛かった男湯と女湯の札を交互に見て、ふと考えた。


妙な場所に来てしまったのかもしれない。なのに不思議なことに、今ではその妙さの中に、自分の居場所みたいなものが少しずつできてきている気がした。

それが! 最近ちょっと時間がないのです……! 休載はもちろんしないのですが! 遅くなることはあるのです!

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