第十二話 『みんなでお風呂屋に来たら、なんだか視線の置き場がなくなりました!』
神社暮らし、今度はお風呂屋の空気までやたらと熱いのです!
『鐘が鳴る頃 ~ 神社暮らし、はじめました!』
一巻 鐘が鳴る前の夏
第十二話 『みんなでお風呂屋に来たら、なんだか視線の置き場がなくなりました!』
——
つばさ湯の戸を押して入ると、外より先に温かい湿気が触れた。
木の床に長く染みついた石鹸の匂いと、熱い湯の匂いが、空気の中で淡く混ざっていた。硝子戸の向こうの女湯のほうは白く湯気が広がっていて、中はよく見えなかった。その代わり、脱衣所の明かりだけが黄色く灯っていた。つばさおじいちゃんは帳場の奥で手拭いを畳んでいて、顔だけ上げて四人を見た。
「ゆっくり入りな。床、滑るぞ。」
結と小麻里は慣れた人みたいに履物を脱いで、きちんと端へ寄せた。木乃葉は何でもない顔でいちばん奥の場所を取った。問題は月夜のほうだった。四人で一緒に下りてくるところまではよかったのに、いざここまで来てみると、ここから先は自然って言葉だけでは流しづらい区画が始まる気がした。
「なんでそこで止まってるの。」
小麻里が振り返って聞いた。
「いえ、ただ……お風呂屋がちゃんとお風呂屋だったので。」
「さっきも同じこと言ってた。」
小麻里は何も言わず、月夜のほうへ籠をひとつ押して寄こした。月夜はそれを受け取って、ゆっくり脱衣所のほうへ入っていった。
中は思っていたより狭くはなかった。古い木の脱衣箱が壁に沿って並んでいて、真ん中には低い長椅子がひとつ置かれていた。扇風機も回ってはいたけれど、熱い湯気の前ではあまり役に立っていないみたいだった。
結は迷いなく髪紐をほどいた。黒い髪が静かに肩の下へ落ちる、それだけで脱衣所の空気まで妙に整う気がした。小麻里はそういうことにはまるで頓着しない人みたいに服をきれいに畳んでいったし、木乃葉は逆に意識が多すぎる人みたいに、鏡を一度見て、耳を一度触って、尻尾を一度整えた。
月夜は結局、視線をどこに置けばいいかわからなくて、脱衣箱の戸だけを意味もなく開けたり閉めたりしていた。
「そんなふうに開けたり閉めたりしてたら、戸のほうが君を怖がりそう。」
月夜の隣で木乃葉が言った。月夜が振り向くと、木乃葉は髪を片側へ払って、のんびり笑っていた。いつもより襟元が少し緩んでいるだけなのに、どうにも危なっかしく見えた。鎖骨の上に浮いた薄い汗ひとつとか、耳の後ろに貼りついた髪とか、そういうものがやたら目に入った。
「怖がってませんけど。」
「じゃあなんで、脱衣箱とばっかり会話してるの。」
「してませんけど。」
木乃葉の三本の尻尾が脱衣所の明かりの下でゆっくり揺れるたびに、月夜はついそちらへ目が行った。
「また見てる。」
「違いますけど。」
「じゃあ今度は、何本目の尻尾見てたか言ってみる?」
すぐに答えられなかった、その瞬間に木乃葉が笑った。そしてちょうどそのときだった。木乃葉が長椅子へどさっと腰を下ろして脚を組んだせいで、三本の尻尾がいっせいに揺れた。そのうち一本が、ぽと、と少しだけ位置をずらして、それまであまりにも自然についていた位置から、微妙にずれた。
落ちたと言うにはまだ引っかかっていて、無事だと言うにはさっきまでみたいに自然ではなかった。月夜はほとんど反射でそちらを見たし、木乃葉も自分が何をやらかしたのか、一拍遅れて気づいたらしかった。
少しのあいだ、しんとした沈黙が落ちた。
木乃葉の耳の先が先に赤くなった。最初に動いたのは尻尾じゃなくて手だった。木乃葉は素早く身体をひねって、その尻尾を掴んだ。普段はあんなに平然としている顔なのに、今は信じられないくらい動揺が滲んでいた。
「見るな。」
「もう見ましたけど。」
「じゃあ忘れて。」
「そんなに簡単ならいいんですけど。」
そう言いながらも、月夜は視線を完全には外せなかった。木乃葉は本当に少し恥ずかしそうな顔をしていた。
「可愛くないから……」
木乃葉が小さく呟いた。その言い方があまりに正直で、月夜は逆に少しだけ戸惑った。
「そこまでは……」
月夜がゆっくり言った。
「よくわからないですけど。」
木乃葉が目を上げた。
「何が。」
「それが、そんなに可愛くないものなのかどうかは。」
自分の口から言っておきながら、月夜は少し遅れて顔が熱くなった。木乃葉のほうも同じだったのか、金色の目がほんの一瞬だけ揺れた。けれど、すぐに口元が持ち上がった。
「そういう言い方すると、今すぐつけ直してほしいって意味にも聞こえるけど。」
月夜はその場で固まった。
「なんで話がそうなるんですか!」
「だって、つけるものなのは本当でしょ。」
横で手拭いを整えていた小麻里が、ため息みたいに言った。
「二人とも、脱衣所で妙なこと言わないで。」
結はもっと直接には止めなかった。ただ静かに木乃葉のほうへ手を差し出した。
「ちょっとこっち。」
木乃葉は少しだけためらってから、結局そちらへ身体を向けた。結の指先が尻尾を掴むと、木乃葉がわずかに肩を揺らした。でも結は気にせず、そのまままっすぐ尻尾を差し直した。手つきは短く、動きは驚くほど自然だった。その短いあいだじゅう、木乃葉は耳の先を赤くしたまま、唇だけきゅっと閉じていた。
「うん、いいよ。」
結が言った。
木乃葉はゆっくり息を吐いた。元の位置へ戻った尻尾は、さっきまでと同じくらい完璧で、今のことが一瞬の見間違いみたいに思えるほどだった。けれど、その完璧さのせいで、月夜はむしろさっきの光景を余計に忘れられそうになかった。木乃葉が気まずそうに息を潜めていた瞬間とか、脱衣所の空気の中で一瞬だけ濃くなった体温みたいなものが、どうしても頭に残った。
木乃葉がまたこちらを向いた。
「さっき見たの、誰にも言わないで。」
「誰にも言う相手いませんけど。」
「村のお風呂屋は、思ったより口が多いんだよ。」
「それ、木乃葉が真っ先に言うべき情報じゃないですか?」
「だから今言ってあげたじゃん。」
そのあとに浮かんだ笑い方が少しだけ憎たらしかった。でも、声はもうさっきよりずっと普段通りに近かった。木乃葉がひと息つけたのがわかって、月夜もなんとなく少し安心した。
脱衣所の空気は相変わらず温かくて、硝子戸の向こうでは熱い湯のぶつかる音が低く響いていた。今日も妙なことはあったし、気まずいこともあったし、心臓はまた無駄に忙しかった。
たぶん、もうこの辺まで来ると、それがこの村の普通なのかもしれなかった。
***
湯船の中は、思っていたよりずっと白くて温かかった。
戸を開けて一歩入ると、熱い湯気が先に肌へ触れた。床のタイルは水気を含んでいて、壁の富士山の絵は湿気のせいで少しだけ滲んで見えた。洗い場には木の椅子と小さな手桶が並んでいて、水の落ちる音と、誰かが小さく息を整える音が低く重なっていた。知らない場所なのに、不思議なくらい静かだった。お風呂屋というのは本来、騒がしい場所というより、身体から一日を少しずつ剥がしていく場所なのかもしれなかった。
結はいちばん奥の場所に座って、小麻里はその隣に自然に腰を下ろした。木乃葉はひとつ分あけて座ると、何も言わずに顎で残った場所を示した。月夜は少しだけ迷ってから、結局そこへ座った。近いのは近かったけれど、今さら自分だけ離れて座るのも、それはそれで余計に不自然だった。
「なんでまたそんなに緊張してるの。」
木乃葉が聞いた。
「してませんけど。」
「肩、硬いけど。」
そう言われて初めて、月夜は自分の肩に力が入っていたことに気づいた。余計に気まずくなって、ただ手桶で湯を汲んだ。熱い湯を足の甲へかけると、思っていたより温度が高くて、小さく息が漏れた。
「だから最初は足からって言われたでしょ。」
小麻里が、入口でつばさおじいちゃんに言われたことをそのまま真似した。その言い方が妙に似ていて、月夜は思わず笑ってしまった。
「それは覚えてたんですね。」
「暮らしのことは、覚えてるほうが楽だから。」
シャワーの湯が肩を伝って落ちるたびに、さっきまで火照っていた身体が少しずつほどけていった。石鹸の匂い、濡れた木の匂い、湯気に混じった熱い湯の匂い。そういうものが入り混じるうちに、さっき脱衣所で起きたことも少しは遠い出来事みたいに思えてきた。もちろん、完全にではなかった。すぐ隣では、木乃葉の尻尾が今日も何事もなかったみたいにゆっくり揺れていたからだ。
問題はその次だった。髪を濡らそうとして身体を前へ倒した瞬間、背中の後ろで毛先がかすめる感触が触れた。驚くくらい軽いのに、妙にくっきりした感触だった。月夜は反射で背筋を伸ばした。
「……今の、わざとでしたよね。」
木乃葉が平然と聞き返した。
「何が。」
「尻尾です。」
「証拠ある?」
証拠はなかった。でも、すぐ隣でそんなに白々しい顔をされると、ないはずの証拠まで生えてきそうだった。月夜が唇を引き結んで睨むと、木乃葉の口元が少し上がった。
「そのくらいで反応するなら、本当にもう一本つけたら大変そうだね。」
「つけないでください。」
「まだ何も言ってないけど。」
「顔がもう言ってましたから。」
結は静かに髪をすすぎながら、水気を払って低く言った。
「お風呂屋でそんなに騒がないで。」
「はい。」
「ばれたね。」
月夜と木乃葉がほとんど同時に答えた。
小麻里はそれを聞いて、とうとう小さく息をついた。
「二人、変に噛み合ってるのが余計に疲れる。」
シャワーを終えて湯船へ入ると、水面がゆっくり割れた。熱い湯は足先から順番に身体を包み込んで、最初は少し驚くくらい熱かったのに、すぐに慣れていった。四人がひとつの湯船に並んで浸かっている光景は、思っていたより不思議だった。なのに、いざ入ってみると、もともとずっとこうだったみたいな顔ばかりで、それが余計に変だった。
月夜は肩まで湯に沈みながら、小さく息を吐いた。そのとき、隣で木乃葉がのんびり言った。
「お互い、身体洗ってあげようか?」
湯の温度のせいなのか、言葉の意味のせいなのか、心臓が一拍だけ妙な跳ね方をした。
「なんで急にそんなこと言うんですか。」
「お風呂屋に来たら言ってもいい台詞でしょ。」
「そうですけど……木乃葉が言うと変になるんです。」
「じゃあ結が言ったら変じゃないの?」
結はその問いを聞いても、まったく動じなかった。その代わり、ひどく淡々と言った。
「私は頼まれたらやるよ。」
「そのほうが危ないんですけど……」
月夜がぼそっと言うと、今度は小麻里まで口元を押さえた。木乃葉は湯船の縁に腕を預けたまま、本当に楽しそうに笑った。
「じゃあ、やっぱりあたしがやってあげるほうがいいね。」
「なんで結論がそこになるんですか。」
「身体洗うくらいなら、別に平気でしょ。」
正しいことを言っているのに、正しすぎるせいで余計に困った。お風呂屋で身体を洗い合うなんて、おかしなことではないはずなのに、この流れで言われるとどうしても別の意味までついてくる気がした。月夜が答えられずにいると、木乃葉が小さく笑った。
「また一人で変なほうまで行ったでしょ。」
「木乃葉が先にそっちの道を開けてるじゃないですか。」
「私はただ戸を開けただけ。入ったのは君のほうが先。」
言い返せなくて、月夜は仕方なく指先で水面を押した。そのとき、小麻里が隣で何でもないみたいに言った。
「月夜。」
「はい?」
「少し後ろ向いて。」
淡々としすぎていて、かえって断りにくかった。月夜が少しためらうと、小麻里が続けた。
「さっき流したとき、石鹸ちょっと残ってた。」
そこでようやく、月夜は少しだけ肩を回した。小麻里の指先が背中に触れたとき、触れた面積は小さかったのに、温度だけははっきりしていた。ただ泡を払うだけで、手つきだって早くて実務的だったのに、熱い湯の中ではそんな小さな接触ひとつでも妙に大きく感じられた。
「うん、いいよ。」
小麻里はすぐ手を引いた。
「本当にそれだけ残ってた。」
「なんでそれで、そんなに名残惜しそうな顔してるの。」
木乃葉が言うと、月夜はほとんど反射で振り向いた。
「してませんけど。」
「じゃあさっき耳まで赤かったのは、お湯のせい?」
「湯船の中なんだから、熱くて当然でしょう。」
「それっぽいね。」
木乃葉はそう言いながらも、目はまるで騙されていない目をしていた。憎たらしかった。でも、不思議と全部が嫌なわけではなかった。湯気の立つ湯船の中で、結は静かに笑っていて、小麻里は無表情なまま水面だけを整えていて、木乃葉は最後まで人をからかっていた。その真ん中に自分も混ざっているのだと、ふと少しだけ実感した。
今日はただのお風呂屋なのに、その単純な事実が妙に安心だった。
水面はゆっくり揺れていて、尻尾は相変わらずのんびり浮いていて、心臓はまた無駄に忙しかった。けれどそれはもう、少しくらいは悪くない種類の忙しさみたいだった。
その……書き終わってはいたのですが、そのまま寝落ちしてしまって、今こうして上げているのです! これからはまた続けて連載していくのです!




