第十二話 『みんなでお風呂屋に来たら、なんだか視線の置き場がなくなりました!』
神社暮らし、今度はお風呂屋の空気までやたらと熱いのです!
つばさ湯の戸を開けると、温かい湿気が先に頬に触れた。古い木の床。石鹸の匂い。帳場の横に積まれた白い手拭い。
さっきまで山道を歩いていた身体には、それだけでも少し気持ちよかった。
「荷物は奥に置いてな」
つばさおじいちゃんが帳場の奥から顔を上げる。
「ゆっくり浸かっていきな」
「午前のうちに入ろうと思って」
結が答えた。つばさおじいちゃんは月夜を見る。
「初めてだったな」
「はい」
「いきなり肩まで入るなよ。足から慣らせ」
「昨日から初心者扱いが増えてきました」
「初心者でしょ」
小麻里が横から言う。
「神社も村もお風呂屋も」
「範囲が広い」
木乃葉がくすっと笑った。
「大丈夫。お風呂なら私が教えてあげる」
月夜はすぐに木乃葉を見る。
「急に神様っぽい顔しないでください」
「今日知ったばかりなのに扱い雑じゃない?」
「普段通りでいいって言ったの、木乃葉です」
「それもそう」
つばさおじいちゃんが咳みたいに笑った。
「床だけは本当に滑るからな」
それだけ言うと、また手拭いを畳み始めた。四人は女湯の暖簾をくぐった。
***
脱衣所には、古い木の箱が壁沿いに並んでいた。真ん中に低い長椅子。壁には大きな鏡。扇風機は首を振りながら、頼りない風を送っている。
結と小麻里は迷わなかった。籠を置く。髪をほどく。着替えを畳む。全部が慣れた動きだった。月夜だけが、籠を置いたあとで少し止まった。
「……」
「何」
小麻里が聞く。
「四人で来るって、こういうことなんですね」
「今さら?」
「山道では考えてませんでした」
「考えなくていいでしょ」
正論だった。それでも、結が髪紐を外すと、長い黒髪が肩に落ちた。うなじが見える。小麻里は何でもない顔で袖を抜き、頬にかかった髪を耳にかけた。木乃葉は鏡の前で髪を片側へ払う。
襟元が少しゆるむ。鎖骨の上に、汗の粒がひとつ残っていた。見てはいけないわけではない。それでも、視線の置き場がなくなった。
月夜の目は、最終的に自分の籠へ逃げた。
「また置き場なくしてる」
木乃葉の声。
「何をですか」
「目」
「なくしてません」
「じゃあ今、誰のどこ見てたの」
月夜は一瞬黙った。
「……木目です」
「鎖骨じゃなくて?」
「木目です」
「二回言うと余計怪しいね」
「今日から木目が好きなんです」
木乃葉が楽しそうに笑う。月夜は無視して服を畳んだ。今度こそ普通にやろう。そう思った、そのとき。ぽす。小さな音がした。月夜は反射で横を見る。
木乃葉が長椅子に座ったところだった。そして、三本あった尻尾のうち、真ん中の一本だけが、妙な角度にずれていた。完全に落ちてはいない。でも、昨日まであれだけ自然に動いていたものが、今は明らかに「そこにあるもの」みたいになっている。月夜は止まった。木乃葉も止まった。数秒。
木乃葉の耳の先が、先に赤くなった。
「……見るな」
「もう見ました」
「忘れて」
「それはちょっと難しいです」
木乃葉は素早く身体をひねり、ずれた尻尾を押さえた。いつもなら、ここで何か余計なことを言う。でも、今日は言わなかった。金色の目が少し泳いでいる。
月夜は初めて見る顔だった。
「木乃葉」
「何」
「そんなに恥ずかしいんですか」
木乃葉は少し黙った。
「……可愛くないから」
声が小さい。月夜はもう一度、尻尾を見る。本物の二本。少しずれた一本。前に、どれが偽物か当てた。
それでも普段は、三本とも同じように木乃葉の後ろで揺れている。
「別に」
月夜は言った。
「私は、三本あるほうが木乃葉っぽいと思いますけど」
木乃葉が顔を上げた。
「……それ褒めてる?」
「たぶん」
「そこでたぶん使うんだ」
「可愛いかどうかは、木乃葉が決めることじゃない気もします」
言ってから、月夜は自分で少し恥ずかしくなった。木乃葉も、さっきとは別の意味で黙った。その横から、結の声がした。
「貸して」
結が手を差し出した。木乃葉は少しためらってから身体を向ける。結は慣れた手つきで、ずれた尻尾の位置を直した。月夜は思わず見た。
木乃葉の肩が少し揺れる。
「結お姉ちゃん、慣れてますね」
「前にもあるから」
「言わなくていい」
木乃葉が低く言った。小麻里が服を畳みながら口を挟む。
「暴れるからでしょ」
「暴れてない」
「寝相」
「それは寝てるから仕方ない」
「神様でも寝相悪いんですね」
月夜が言うと、木乃葉は完全に普段の顔に戻った。
「神様だからって寝相まで神々しいと思ってた?」
「ちょっと」
「期待が重い」
結が手を離す。
「はい。もう大丈夫」
三本の尻尾がまた並んだ。さっきまでのことが嘘みたいに自然だった。月夜は、元に戻った三本の尻尾をもう一度見た。初めて会ったときは、ただ変わった尻尾だと思っていた。今は、二本は生まれつきで、一本は木乃葉が自分で選んでつけている。その違いを知っている。
「木乃葉」
「今度は何」
「どうして三本にしたんですか」
木乃葉は一瞬だけ尻尾に目をやった。
「可愛いからって言ったでしょ」
「それだけ?」
「それだけで十分じゃない?」
少しだけ間。
「自分の見た目くらい、自分で好きにしたいし」
月夜はその言葉を聞いた。神様。今日、そう知った。でも、目の前にいる木乃葉は、自分が可愛いと思う形を選んで、ずれたら恥ずかしがる。
そのことに、妙に安心した。
「じゃあ」
月夜は言う。
「三本でいいと思います」
「二回目」
「大事そうなので」
木乃葉の耳が少しだけ上がった。
「……ありがと」
今度は、からかいのない声だった。月夜は少し迷ってから聞いた。
「さっき、ずれたとき痛かったんですか」
「痛いってほどじゃない」
木乃葉は尻尾の付け根に手をやる。
「本物じゃないけど、力は通してるから。変な向きになると気持ち悪い」
「感覚あるんですね」
「あるよ」
「じゃあ、本物のほうはもっと敏感だったり……」
言ってから、月夜は止まった。木乃葉の目が細くなる。
「思い出した?」
「忘れてください」
「無理」
今度は月夜が耳まで熱くなった。さっきまで照れていたはずの木乃葉は、もう完全に立ち直っていた。木乃葉が月夜を見る。
「誰にも言わないで」
「言う相手いません」
「村って思ったより狭いから」
「それは前に知りました」
月夜は少し笑った。木乃葉も。今度は普通に笑った。
***
浴室は白い湯気で満ちていた。壁には少し色褪せた富士山。洗い場には木の椅子と手桶。月夜は言われた通り、まず足に湯をかけた。
「熱っ」
小さく声が出る。小麻里が横から言った。
「だから足からって言われたでしょ」
「足からでも熱いものは熱いです」
「すぐ慣れる」
本当に、二杯目には少し慣れた。身体を洗う。髪を濡らす。石鹸の泡を流す。さっきまでの気まずさも、湯気の中では少し薄くなった。
結は一番奥。小麻里はその隣。木乃葉は月夜の横。
「また隣ですね」
「嫌?」
「そう聞かれると答えづらいです」
「じゃあ嫌じゃない」
「勝手に決めないでください」
木乃葉が笑った。月夜は髪をすすぐため前へ屈む。その瞬間。背中を柔らかいものがかすめた。月夜はすぐに身体を起こした。
「……今の」
「何」
木乃葉は平然としている。月夜は三本の尻尾を見る。一番近い一本が、ほんの少しだけ揺れた。
「絶対わざと」
「証拠は?」
「その顔」
「顔で判断するようになったね」
「みんなに鍛えられました」
小麻里が横から言う。
「変なところだけ上達してる」
「必要技能です」
月夜はもう一度髪を流した。今度は何も触れなかった。
「月夜」
小麻里が呼ぶ。
「はい」
「背中、少し泡残ってる」
月夜は手を伸ばした。届きにくい。
「あ」
「後ろ向いて」
小麻里が言う。月夜は少しためらってから背を向けた。指先が背中に触れる。泡を払う。一度。二度。それだけ。小麻里の手つきは本当に実務的だった。
それなのに、熱い湯より、そこだけ妙にはっきりした。
「終わり」
「ありがとうございます」
「顔赤い」
木乃葉が言った。月夜は振り向かない。
「お湯です」
「便利だね、その言い訳」
「本当に熱いんです」
木乃葉が、濡れた髪を肩の後ろへ払った。
「じゃあ次、私が背中洗ってあげようか」
月夜はすぐ振り向いた。
「なんで今それを足すんですか」
「お風呂屋なら普通でしょ」
「木乃葉が言うと普通じゃなくなるんです」
「じゃあ結なら?」
結は手桶を置きながら、あっさり答えた。
「頼まれたらやるよ」
月夜は数秒固まった。
「……それはそれで困ります」
小麻里がとうとう笑った。
「自分で洗えるなら自分で洗いな」
「はい」
「残念」
「木乃葉だけです、残念なの」
「じゃあ入る?」
結が湯船を指した。四人で湯船に入る。しばらくして、木乃葉が湯船の縁に顎を乗せた。
「今日」
「はい」
「私が神様って知ったあとも、普通だったね」
月夜は木乃葉を見る。
「普通じゃなかったですけど」
「敬語増えなかった」
「増やすなって言ったでしょう」
「そうだけど」
木乃葉は水面に視線を落とした。
「もっと怖がるかと思ってた」
その言い方だけは、少し軽くなかった。月夜は考えた。狐耳。三本の尻尾。夜の匂い。見えないものを追う金色の目。たしかに。
普通の人ではないことは、もう十分分かった。それでも。
「神様だって分かったからって、昨日までの木乃葉が別の人になるわけじゃないでしょう」
「例えば?」
「尻尾でからかうし、飴で喜ぶし、夜中に勝手に部屋入るし」
「悪いところばっかりじゃん」
月夜は笑った。
「だから木乃葉は木乃葉です」
木乃葉は黙った。湯の上に出た狐耳の先だけが赤くなる。小麻里がぼそっと言う。
「お湯のせい?」
「うるさい」
結と月夜が同時に笑った。肩まで浸かった身体から、ゆっくり力が抜けていった。月夜は小さく息を吐いた。
「……気持ちいい」
「でしょ」
結が言った。湯船の水面で、木乃葉の尻尾が二本だけ浮いている。もう一本は邪魔にならないよう、少し上に避けていた。月夜はそれを見て、さっきの脱衣所を思い出した。でも、今度は何も言わなかった。木乃葉が横目で見る。
「何」
「別に」
「今、何か優しいこと考えた?」
「考えてません」
「怪しい」
「木乃葉こそ、人の頭の中まで嗅がないでください」
木乃葉が吹き出した。結も小さく笑う。小麻里は湯船の縁に頭を預けた。しばらく。誰も話さなかった。水の音。湯気。遠くで桶が置かれる音。ただそれだけ。
月夜は肩まで湯に沈んだ。神様と。巫女と。小麻里お姉ちゃんと。一緒に風呂に入っている。言葉にすると十分変だった。でも、その変さより先に。
四人で同じ湯船にいることが、少し自然に思えた。木乃葉が水面の下で、尻尾の先を月夜の手の甲に一度だけ触れさせた。月夜は横を見る。
木乃葉は目を閉じている。たぶん。さっきの礼なのだと思うことにした。月夜も何も言わなかった。ただ、手を引かなかった。今日はそれで十分だった。
湯気の向こうで、結が髪をまとめ直した。小麻里は目を閉じて、肩まで湯に沈んでいる。誰も急いで上がろうとはしなかった。月夜も、もう少しだけ、本当にここにいてもいいと思った。
その……書き終わってはいたのですが、そのまま寝落ちしてしまって、今こうして上げているのです! これからはまた続けて連載していくのです!




