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第十三話 『お風呂屋は平和だったのに、帰り道はそうじゃありませんでした!』

神社暮らし、お風呂上がりの牛乳も、帰り道の風も、しっかり記憶に残ります!

一巻 鐘が鳴る前の夏


第十三話 『お風呂屋は平和だったのに、帰り道はそうじゃありませんでした!』


——


脱衣所の戸を開けた瞬間、冷たい空気が先に肌へ触れた。


壁掛けの扇風機は相変わらず頼りない速さで回っていたけれど、濡れた肌の上を撫でていく風は思っていたよりずっとはっきりしていた。月夜は濡れた髪の先から雫が落ちるのを感じて、反射みたいに一度だけ肩をすくめた。


問題はそのあとだった。


湯船から上がったばかりの四人は、まだ誰も服を着ていなかった。それぞれ身体に手拭いを巻いているだけで、それがかえって困った。隠れているようで、ちゃんと隠れてはいない類の気まずさがあった。水気を含んだ肌とか、手拭いの端を押さえている指とか、濡れた髪が肩に張りつく形とか、そういうものがどうしても普段よりくっきり見えた。さっきまで湯気の中で何となく誤魔化されていたものが、脱衣所の灯りの下ではあまりにもはっきりしていた。だから月夜は、なるべく脱衣箱と床と扇風機だけを見ることにした。


「また視線の置き場なくしてる顔してるね。」


すぐ隣で聞こえたのは木乃葉の声だった。月夜が勢いよく振り向くと、木乃葉は手拭いの端を片手で押さえたまま、ひどくのんびりした顔で笑っていた。濡れた髪が何本か首に張りついていて、耳の先は湯の熱気のせいか、まだ少し赤かった。三本の尻尾も濡れてはいなかったけれど、湿り気を含んだ空気の中で、いつもよりやわらかく膨らんで見えた。


「そんなことないですけど。」


「じゃあ、なんでさっき扇風機と目合ってたの。」


「扇風機は見ても安全だからです。」


「じゃあ、あたしは危ないってこと?」


その言葉が真っすぐ入ってきて、月夜は少しだけ返事に詰まった。危ない、というのとも少し違う。けれど、安全と言い切るのもまた違った。そのあいだに、木乃葉の口元が少しだけ上がった。


「答えるの、ずいぶん時間かかるね。」


「質問のほうがおかしいんです。」


「おかしい方向に聞くのは、いつだって君のほうが先でしょ。」


後ろで髪を拭いていた小麻里が、乾いた手拭いを肩に掛けながら言った。


「二人とも、喧嘩するならロビー出てからにして。」


「喧嘩してませんけど。」


「喧嘩じゃなくても、うるさい。」


結はその隣で、濡れた髪を静かに整えていた。結はこういう場面でも不思議なくらい落ち着いていた。白い手拭いをゆるく巻いているだけなのに、それでもきちんとして見えるのが少しだけ憎たらしいくらいだった。月夜はそっちまで見てしまったら、本当にもうどこにも視線を置けなくなりそうで、もう一度脱衣箱のほうへ顔を戻した。


結局、服はそれぞれで着た。そのあいだにも小さな騒ぎは絶えなかった。小麻里は月夜に投げてよこした手拭いが少しだけ逸れると、「受け取るのも練習が必要だね」と言ったし、木乃葉は鏡の前で濡れた耳の先を整えていて、月夜と目が合うと、わざとみたいに尻尾を一度だけ揺らした。その短い動きひとつでどうしてこっちだけ驚かなきゃいけないのかわからなかったけれど、驚いたのは事実だった。


***


脱衣所を出ると、ロビーの空気はずっと軽かった。古びたソファがひとつ、低い卓がひとつ、硝子戸つきの冷蔵庫、それから壁に貼られた色褪せたポスター。お風呂屋特有の、時間が少しだけゆっくり流れているみたいな空間だった。つばさおじいちゃんは帳場の奥で瓶牛乳の箱を整理していて、四人を見ると、ただくしゃっと笑っただけだった。


先に冷蔵庫の戸を開けたのは小麻里だった。瓶がきれいに並んでいた。コーヒー牛乳、いちご牛乳、フルーツ牛乳、ソーダ、牛乳。瓶の内側に冷たい水滴が粒になってついているのを見るだけで、喉が渇いてきそうだった。


「何飲む?」


小麻里が聞いた。


「コーヒー牛乳か、いちご牛乳。」


月夜は少しだけ冷蔵庫の中を覗きこんだ。どちらも良さそうで、すぐには決められなかった。


「こういうときって、普通どっちが正解なんですか?」


「正解なんてないよ。」


結が言った。


「好きなのを飲めばいい。」


すると木乃葉が、冷蔵庫の戸にもたれながら口を挟んだ。


「でも、イメージってものはあるよね。コーヒー牛乳はちょっと大人っぽいほうで、いちご牛乳は飲む前からもう舌まで甘くなりそうなほう。」


「その基準も木乃葉の気分じゃないですか。」


「もちろん。」


そう言ってから、木乃葉は月夜のほうを上から下まで眺めた。そしてわざとらしくひと呼吸置いてから言った。


「君は、いちご牛乳のほうが似合いそうだけど。」


「なんでですか。」


「こういうところでもそんな顔のままそれ飲んでたら、見てるほうの心臓のほうがうるさくなりそうだから。」


それがどういう方向のからかいなのか気づいた瞬間、月夜はすぐに言い返した。


「じゃあ、コーヒー牛乳は何なんですか。」


「それは飲んでる子より、持ってる瓶の首のほうまで妙に意識しちゃう感じ?」


「説明がどんどん変になってるんですけど。」


小麻里が冷蔵庫の戸を閉めながら、そこで話を切った。


「ただ瓶牛乳一本選ぶだけで、なんでそんなに空気怪しくするの。」


「だって、お風呂上がりの牛乳って、もともとちょっといやらしくない?」


木乃葉が何でもないみたいに言った。


「冷たくて、甘くて、瓶の口は小さいし。」


「やめてください!」


今度は月夜が本気で大きな声を出した。帳場の奥でつばさおじいちゃんが咳みたいな笑いを漏らして、結は手の甲で一瞬だけ口元を隠した。小麻里は最後まで顔を逸らしたまま、肩だけを一度揺らした。笑っていた。


月夜は結局、いちご牛乳を選んだ。それだけで木乃葉にまた何か言われそうな気もしたけれど、なぜだかコーヒー牛乳を選ぶほうが負けた気がして、そっちのほうが嫌だった。


「ほんとにそれ選ぶんだ。」


「な、何ですか。」


「いや。ただ、思ったより素直だなって。」


「いちご牛乳に罪はないと思うんですけど。」


そう言いながら瓶を受け取った瞬間、冷たい硝子が掌に触れた。湯上がりの身体で持つには冷たすぎるくらいで、月夜は小さく息を吸いこんだ。その反応も、木乃葉にはきっちり見られていた。やっぱりすごく腹立たしかった。


それでも、瓶を持った手の感触だけは少し嬉しかった。さっきまでの熱の上に、冷たい硝子が乗る感じは、どうしてかお風呂上がりにだけ許された小さなご褒美みたいだった。


お風呂屋の前の縁台で牛乳を飲み終えると、村の空気はさっきより少しだけ明るくなっていた。湯船で温まった熱がまだ身体の奥に残っているのに、手の中には冷たい瓶があって、外は朝らしく明るかった。そんな状態で道の上に立っていると、人は妙にやわらかくなるのかもしれなかった。結は空になった瓶をきちんと箱へ返して、小麻里はまとめてあった瓶の首を結び直した。木乃葉は最後のひと口を口の中で転がすみたいに飲んでから、瓶の口に一瞬だけ唇をつけたまま、ひどく満足そうな顔をしていた。


「なんでそんなに機嫌いいんですか。」


月夜が聞くと、木乃葉は当然みたいに答えた。


「風呂上がりの牛乳は裏切らないから。」


「言い方が重すぎるんですけど。」


「大事なことだから。」


木乃葉は空の瓶を持ち上げて見せた。


「これは季節感とかじゃなくて、もう信仰に近い。」


「神様がそっちの信仰語ると、ちょっと混乱するんですけど。」


「暮らしに密着した神だって言ったでしょ。」


小麻里が何でもないように受けた。


月夜はそこでようやく小さく笑った。その顔を見て、木乃葉は結局もうひとこと付け足した。


「でもやっぱり、君はいちごのほうだったね。」


「なんでまたそこに戻るんですか。」


「今の顔見たら、余計にそう。」


木乃葉が言った。


「風呂上がりで頬ちょっと赤いまま、そういうの持ってると、いかにも甘そうだし。」


「その言い方もおかしいです。」


「おかしく聞くほうは毎回決まってるよね。」


月夜は反射的に言葉を失った。その一瞬を逃さず、木乃葉の尻尾の一本がゆったりと揺れた。やっぱり腹が立つ。でももう、その腹立たしさは完全に嫌な種類ではなかった。


神社へ戻る道は、来るときより静かだった。風呂に入って牛乳まで飲んだからなのか、みんな少しずつゆるんでいた。小麻里は前で歩幅を合わせて、結は時々後ろを振り返って、月夜がちゃんとついてきているかだけを見ていた。木乃葉は今日も好き勝手に歩いているようで、不思議と遠くには行かなかった。先へ出たかと思えば、いつの間にか隣にいて、隣にいると思えば、すぐまた木陰のほうへ溶けていた。


山の下の村の音は、少しずつ遠ざかっていった。洗濯物を叩く音も、自転車の車輪の音も、お風呂屋の硝子戸が開く音も、ひとつずつ後ろへ押されていった。代わりに、山道の匂いが濃くなった。湿った土、陽に温められた葉、古い木の皮の匂い。そのあいだに、ごく薄く、水と石が触れ合って冷えるみたいな匂いが混じっていた。


そうして道が一度だけ日陰へ折れるところで、月夜はほんの少しだけ歩みを緩めた。


前には、トンネルが見えていた。古いコンクリートの入口は、真昼なのに中だけ少し暗く見えて、上のあたりには昔取りつけてあったらしい標識の跡だけがぼんやり残っていた。トンネルそのものは大きくなかった。人が何人か並んで歩けば、もういっぱいに見えそうな幅だった。それなのに不思議と、奥は長さ以上に深く見えた。


風迎えの隧道。


まだ誰かに正式にそう聞いたわけでもないのに、頭の中は先にその名前で呼んでいた。


月夜は気づかないうちに、その前で足を止めていた。


「どうしたの。」


先に振り向いたのは小麻里だった。


「あ……」


月夜はすぐに答えられなかった。


「ここ……」


語尾がそのまま消えた。中から誰かが出てくるわけでもなく、強い風が吹いているわけでもなかった。むしろ静かだった。その静けさがあまりにはっきりしていて、一瞬だけ耳の奥まで鈍くなるくらいだった。夏なのに、蝉の声さえそこだけ一枚ぶん押し込められて聞こえた。


結が月夜の隣まで来て立った。


「何か感じる?」


感じる、という言い方が正しいのかどうかはわからなかった。でも他の言葉もすぐには浮かばなかった。月夜はトンネルの入口を見たまま、ゆっくり頷いた。


「初めて見る感じじゃないんですけど……」


少しだけ息を整えて、それからごく小さく続けた。


「ここで、誰かが泣いてた気がします。」


その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに冷えた。ほんの少しのことだったのに、たしかに変わった。木乃葉が真っ先に笑いを消して、三本の尻尾が同時に止まった。小麻里も目を細めた。結は何も言わなかったけれど、手に持っていた空の手拭いを握る指先に、ほんの少しだけ力が入った。


沈黙を先に破ったのは木乃葉だった。


「それ、またずいぶん普通の顔で言うんだね。」


からかいの混じらない声だった。月夜はそこで初めて、自分が何を言ったのかに気づいたみたいに目を瞬かせた。


「私……変なこと言いましたか。」


「変なのは変だよ。」


小麻里が言った。


「でも今は、それ以上掘らなくていい。」


結が視線をトンネルから逸らさないまま、やわらかくそのあとを継いだ。


「大丈夫。ここはそのまま通ろう。」


それから少しして、もうひとこと付け足した。


「今日は、それだけで十分。」


十分、という言葉が、それ以上聞くなという意味なのか、今はここまでにしようという意味なのか、月夜にはよくわからなかった。ただ不思議と、その言葉を聞いたら、無理に中をもっと見たいとは思わなかった。その代わり、今自分が口にした言葉だけが、胸の中に残った。


結局四人は、そのままトンネルの前を通り過ぎた。誰も中へ入ろうとは言わなかったし、振り返ろうともしなかった。ただ木乃葉だけは、いつの間にか月夜のすぐ横に寄って歩いていた。からかう言葉も、いつもの悪戯もなかった。その代わり、歩いている途中でほんの一瞬だけ、尻尾の先が月夜の手の甲をかすめていった。偶然のふりをするには軽すぎて、わざとだと決めつけるには短すぎる触れ方だった。月夜はそちらを見たけれど、木乃葉は前を向いたままだった。


だから結局、何も言えなかった。


神社へ戻る最後の上り坂に差しかかったころ、蝉の声がまた大きくなった。風もいつも通りだった。けれど月夜にはわかっていた。今日、お風呂屋で飲んだいちご牛乳の冷たさと、トンネルの前でかすめたあの一瞬の冷えた空気は、同じ一日の中にありながら、まったく別の種類の記憶として残るのだろうということが。


たぶんこの夏は、これからもそうやって、平穏なものと妙なものを、交互に手渡してくるのだ。

正直、お風呂屋ってわざわざ通っていたわけじゃないので、あまり詳しくないのです! 休載していた理由は、また寝坊だったのです! 十時まで寝ていたわけじゃなくて! 四時まで寝てたのです!

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