第十三話 『お風呂屋は平和だったのに、帰り道はそうじゃありませんでした!』
神社暮らし、お風呂上がりの牛乳も、帰り道の風も、しっかり記憶に残ります!
脱衣所へ戻ると、扇風機の風が気持ちよかった。湯上がりの肌に当たるたび、熱が少しずつ逃げていく。
月夜は乾いた手拭いで髪を押さえながら、長椅子に座った。
「生き返ります」
「さっき湯船で死んでた?」
小麻里が言う。
「熱で少し」
「大げさ」
木乃葉は鏡の前にいた。三本の尻尾を確認する。一度。二度。月夜は見ないふりをした。木乃葉が鏡越しに目を合わせる。
「見てもいいよ」
「今日はもう十分です」
「何が」
「全部」
木乃葉が笑った。服を着る。髪を整える。籠を戻す。たったそれだけなのに、入る前より少しゆっくりした時間に感じた。
***
ロビーの冷蔵庫には瓶牛乳が並んでいた。牛乳。コーヒー。いちご。フルーツ。月夜は硝子戸の前で少し迷った。
「どれ」
小麻里が聞く。
「いちご」
今度はすぐ決めた。木乃葉が横から覗く。
「やっぱり」
「何がですか」
「似合う」
「飲み物に似合うとかあります?」
「あるよ」
木乃葉はコーヒー牛乳を取った。
「私はこれ」
「大人ぶってる」
「神様なんだけど」
「それ、都合いいときだけ使わないでください」
結が普通の牛乳を取る。小麻里はフルーツ牛乳。四人で外の縁台に座った。瓶の蓋を開ける。冷たい硝子。一口。甘い。月夜は思わず頬を緩めた。
「おいしい」
「顔」
木乃葉が言う。
「何ですか」
「すごく分かりやすい」
「今日はもう顔の話禁止です」
「じゃあ尻尾の話する?」
「もっと禁止です」
隣で小麻里が笑った。つばさおじいちゃんは帳場から何も言わず、空き瓶の箱を足で少し寄せた。月夜は飲み終えた瓶をそこに戻す。つばさ湯を出る前、つばさおじいちゃんが月夜を呼び止めた。
「嬢ちゃん」
「はい」
帳場の横から、小さな紙袋を一つ差し出す。中には塩飴が四つ入っていた。
「帰り、暑いからな」
「ありがとうございます」
月夜が受け取ると、つばさおじいちゃんは結と小麻里を見た。
「今日は日が高いうちに戻るんだろ」
「うん」
小麻里が答える。
「ならいい」
それだけ。でも、月夜は少し引っかかった。
「日が高いうちに?」
つばさおじいちゃんは月夜を見る。
「あの山道は、暗くなると歩きづらい」
「道が変わるから?」
月夜が聞くと、つばさおじいちゃんは一瞬だけ黙った。それから笑う。
「山は、昼と夜で顔が違うってことだ」
それ以上は言わなかった。月夜も追わなかった。村の人にも、知っていることと、口にすることのあいだに距離があるらしい。それも、少しずつ覚えていけばいい。山の上では見ないもの。風呂屋。牛乳。村の人。それが一つずつ増えていく。
「また来たいです」
月夜が何気なく言うと、結がすぐ答えた。
「来よう」
それだけだった。でも、月夜は少し嬉しかった。
***
帰り道、村を抜ける前に、道の向こうに低い校舎が見えた。白い壁。大きな窓。鉄棒。校門の横には、『沢良木小学校』と書かれている。
月夜は少しだけ足を緩めた。
「学校」
「うん」
小麻里が答える。校庭では、何人かの子どもがボールを追っていた。遠くから笑い声が聞こえる。月夜はしばらく見た。何か。思い出すかもしれない。
そう思った。でも、何もなかった。胸も動かない。足も勝手に進まない。ただの学校だった。
「……ここは、何もないです」
月夜が言う。結が横に来る。
「何もない?」
「知ってる感じがしない」
言ってから、月夜は少し不思議になった。神社。道。倉庫。古いベンチ。ところどころでは身体が先に反応する。でも、村全部が懐かしいわけではない。
「それも大事なんじゃない?」
結が言った。
「何でも知ってたわけじゃないって分かるから」
月夜はもう一度校舎を見る。
「なるほど」
記憶がないせいで、何も浮かばない場所まで不安に思っていた。でも、知らない場所がちゃんとあるなら、知っている感覚のほうが少しだけ本物らしくなる。校庭からボールが転がってきた。柵の手前で止まる。子どもが走ってくる。月夜は拾おうとしたが、柵があるので届かない。向こうの子どもが自分で拾った。目が合う。ぺこり。月夜も軽く頭を下げた。それだけ。昔の記憶はない。でも、今日ここを見たことは、次から覚えていられる。月夜は笑って、また山のほうへ歩き始めた。沢良木村の音が少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
自転車のベル。犬の声。誰かが雨戸を動かす音。代わりに、山の匂いが濃くなる。木の皮。湿った土。夏草。月夜は小麻里の少し後ろを歩いた。
結はその横。木乃葉は月夜の隣。
「今日は迷わないね」
木乃葉が言う。
「四人いますから」
「一人なら?」
「今は行きません」
「えらい」
「学習しました」
「二日かかったけど」
「そこは言わなくていいです」
道が日陰へ入る。そこで、月夜の足取りが少しだけ遅くなった。空気が変わった。熱いわけではない。寒いわけでもない。ただ、音が一枚、遠くなる。
蝉の声が急に薄く聞こえた。前を見る。古いコンクリートの入口。低い天井。中は昼なのに暗い。月夜の胸が、ほんの少しだけ締まった。そして、口が先に動いた。
「……風迎えの隧道」
三人が止まった。月夜も足を止め、自分が何を言ったのか分からず目を瞬かせた。
「今、私」
入口の上。錆びた小さな銘板がある。文字はかなり薄い。『風迎えの隧道』。月夜はそこを見る。読んだから言ったわけではない。
言ったあとで、文字を見つけた。
「……先に知ってた」
結が静かに言う。
「うん」
月夜は入口から目を離せなかった。胸の奥で、何かが軋む。景色ではない。声。小さな。誰かが息を詰まらせる音。それから、『泣かないで』
誰の声なのか分からない。自分の声かもしれない。違うかもしれない。月夜は反射的に胸元を押さえた。
「月夜」
小麻里の声。少し遠い。
「大丈夫?」
「……はい」
返事はできた。でも、目の前のトンネルが、さっきよりずっと近く見える。
「ここで」
月夜はゆっくり言った。
「誰かが泣いてた気がします」
木乃葉から笑いが消えた。三本の尻尾も止まる。結は入口を見る。小麻里は月夜のすぐ横まで来た。
「誰」
「分かりません」
「顔は?」
「見えない」
「声は」
月夜は目を閉じた。さっきの一言を探す。でも、もう遠い。
「泣かないで、って」
「誰が言った?」
「分からないです」
月夜は目を開けた。
「でも、聞いた気がする」
小麻里はそれ以上聞かなかった。結も。代わりに、木乃葉がトンネルの入口へ数歩近づいた。鼻先を少し上げる。月夜はその動きを知っている。
匂いを確認している。少しして、木乃葉が首を振った。
「この前の白いやつとは違う」
月夜は顔を上げた。
「違うんですか?」
「少なくとも、あの匂いはない」
村で見た白い影と、このトンネルは、同じものとは限らない。
「ここ、昔から変なんですか」
月夜が聞く。今度は小麻里が答えた。
「変っていうより」
少し言葉を探す。
「夕方以降は、あんまり通らない」
「村の人も?」
「知ってる人は」
「なんで」
「風の音が、人の声みたいに聞こえることがあるから」
月夜はトンネルを見る。
「それだけ?」
「それだけで十分でしょ」
小麻里の返事は早かった。月夜は少し考えて、頷いた。確かに、夜のトンネルで誰かの声が聞こえる。それだけで通りたくない。結が言う。
「今日は中へ入らないで帰ろう」
「はい」
月夜は素直に答えた。前なら、もう少し見たいと思ったかもしれない。今も気になる。でも、覚えていない場所へ、思い出すためだけに飛び込む必要はない。
そう思えるくらいには、帰る場所ができていた。四人はトンネルの手前から、脇の細い道へ回った。脇道へ入って少しして、月夜は前を歩く結の背中に声をかけた。
「結お姉ちゃん」
「うん?」
「前の私も、あのトンネル通ったことありますか」
結の足取りが、ほんの少しだけ遅くなった。でも、今度は長く黙らなかった。
「あるよ」
月夜は目を上げる。
「何回も?」
「何度か」
「一人で?」
「ううん」
結は振り返った。
「私たちと」
月夜の胸が、一度だけ強く鳴った。私たち。結。小麻里。木乃葉。その中に、昔の自分もいた。景色は戻らない。でも、今日初めて、過去の自分が誰かと一緒に歩いていたことだけは形になった。
「楽しかったですか」
思わず聞く。結は少しだけ笑った。
「全部が、とは言わないけど」
「そこ正直」
「でも」
結は前へ向き直る。
「また歩いてた」
月夜はその言葉を聞いた。また。嫌なら来ない。少なくとも、何度か戻ってくるくらいには、自分はこの道を知っていた。それで十分だった。少し遠回り。
でも、陽が当たっている。月夜は数歩進んでから、一度だけ振り返った。入口は暗い。何も動かない。それでも、胸の奥には、さっきの声だけが残っている。
泣かないで。誰に言ったのか。誰に言われたのか。分からない。でも、今度はただの「懐かしい気がする」ではなかった。言葉が一つ。ちゃんと残った。
月夜はそれを、何度か頭の中で繰り返した。
***
遠回りの道は細かった。木の根が出ている。石も多い。月夜は足元を見ながら歩いた。少し前を小麻里。さらに前を結。木乃葉は変わらず横にいた。
さっきから何も言わない。月夜は横を見る。
「木乃葉」
「何」
「珍しく静かですね」
「君が考えてるから」
「邪魔しないんですか」
「することもある」
「今日は?」
木乃葉は少しだけ考えた。
「今日はしない」
それだけ。月夜は前を見る。何となく。それが嬉しかった。数歩。木乃葉の尻尾の先が、月夜の手の甲に触れた。一度だけ。さっきと同じ。でも、今日は月夜のほうから、指先を少し動かした。毛先に軽く触れる。木乃葉は何も言わない。尻尾も引かなかった。ほんの数秒。それだけで終わった。
「……木乃葉」
「今度は何」
「ありがとうございます」
「何が」
「分かりません」
木乃葉が少し笑った。
「じゃあ受け取っとく」
山道を上る。少しずつ。蝉の声が戻ってくる。風も普通になる。トンネルの冷たさは、もう背中にはなかった。それでも、月夜は忘れなかった。
いちご牛乳の甘さ。湯船の熱。そして、暗い入口の前で、突然戻ってきた一言。同じ日にあるには、ずいぶん違う記憶だった。でも、今の自分には、どちらもちゃんと今日の出来事だった。
正直、お風呂屋ってわざわざ通っていたわけじゃないので、あまり詳しくないのです! 休載していた理由は、また寝坊だったのです! 十時まで寝ていたわけじゃなくて! 四時まで寝てたのです!




