第十四話 『神社に戻ってきても、まだまだ気の休まる暇がありませんでした!』
神社暮らし、今日も平和なのに妙に落ち着きません!
白雲神社へ戻るころには、昼の陽射しが少し傾いていた。石段を上がる。蝉の声。乾いた土の匂い。軒下の風鈴。
風迎えの隧道の前で感じた冷たさは、境内へ入ると少し遠くなった。消えたわけではない。胸のどこかに、『泣かないで』という一言だけが残っている。でも、今は考え続けなくていい。そう思えた。
「月夜」
前から小麻里の声。
「はい」
「靴」
月夜は足元を見る。危うくサンダルを脱ぎっぱなしにするところだった。
「……見てました?」
「見えるところでやってたから」
月夜はしゃがんで揃える。右。左。少しずれていたので直す。
「これで」
「うん」
「褒めないんですか」
「靴揃えただけで?」
「昨日より成長しました」
「基準低いね」
横で木乃葉が笑った。月夜は立ち上がる。
「木乃葉は寝相が悪いって聞きました」
木乃葉の笑いが止まった。小麻里を見る。
「言った?」
「事実」
「裏切り」
「生活指導」
結まで小さく笑った。月夜も笑った。さっきまでのトンネルが少しだけ遠くなる。こういうところが、この神社のいいところなのかもしれなかった。
変なものを見ても、帰れば靴を揃える。
***
奥の居室へ入ると、室内は少し涼しかった。結が手拭いと風呂道具をまとめる。小麻里は持って帰った洗濯物を籠に移す。月夜も手を出した。
「何します?」
小麻里が少しだけ顔を上げる。
「自分から聞くんだ」
「もう雑用係なので」
「まだ名乗ってる」
「肩書きです」
「じゃあ裏の洗濯物」
小麻里が顎で示した。
「乾いてるのだけ取り込んで」
「はい」
月夜はすぐ外へ向かった。以前なら、仕事を言いつけられた、と感じたかもしれない。今は、やることがあるほうが落ち着く。
物干しには、朝から干してあった布が並んでいた。薄い手拭い。厚い布巾。着替え。指で触る。乾いている。一枚ずつ外す。端を揃える。そこまで順調だった。
最後のほうで、少し形の違う白い布が出てきた。月夜の手が止まる。後ろから木乃葉の声。
「何」
「いえ」
「その止まり方、絶対何かあった」
木乃葉が月夜の肩越しに覗く。
「ああ」
何でもない顔。
「結のだね」
月夜はもう一度布を見る。意味を理解する。顔が少し熱くなる。
「……普通に言うんですね」
「洗濯物だし」
「分かってます」
「じゃあ畳めば」
正論だった。月夜はなるべく普通に畳んだ。木乃葉は横で見ている。
「何ですか」
「いや」
「絶対何か言う顔」
「成長したなって」
「何が」
「前ならもっと慌ててた」
月夜は少し考えた。確かに、この数日で風呂も入った。同じ食卓も囲んだ。洗濯も手伝った。人と暮らすということは、たぶん、こういうものまで少しずつ普通になることなのだ。
「木乃葉も畳んでください」
「私は見守り」
「その役職、廃止します」
「神様権限で復活」
「便利に使わないでください」
木乃葉が笑う。月夜も少し笑った。
***
洗濯物を持って戻ると、結が箪笥の前にいた。一番下の引き出しを開けている。中身は半分くらい空いていた。
「月夜」
「はい」
「ここ、使って」
月夜は止まった。
「私が?」
「うん」
結は引き出しの中を指す。
「借りてる服も、手拭いも。毎回別のところから出すより、そのほうが楽だから」
ただの引き出しだった。古い木。少し擦れた取っ手。それだけ。でも、月夜はしばらく見た。
「……いいんですか」
「どうして」
「私、一晩だけのつもりだったので」
口にして、自分で少し驚いた。一晩。最初は本当にそうだった。今は、何日目なのか、ちゃんと数えないと分からないくらいになっている。結は月夜を見た。
「今は?」
月夜はすぐには答えなかった。帰る場所が見つかったわけではない。記憶も戻っていない。ここにずっといると決めたわけでもない。それでも。
「……もう少しいてもいいなら」
そう言った。結は笑った。
「もちろん」
小麻里が後ろから言う。
「勝手にいなくなられるほうが困る」
月夜は振り返る。
「心配してくれてる?」
「仕事増えるから」
「綺麗に終わらない」
木乃葉が引き出しを覗く。
「狭くない?」
「十分です」
「私の尻尾一本くらいなら入るね」
「入れないでください」
「一本くらい」
「何のために」
「留守番」
「いりません」
木乃葉が残念そうな顔をした。月夜は笑いながら、畳んだ手拭いを引き出しに入れた。結はさらに、茶箪笥の一番下から湯呑みを一つ出した。
白地に、薄い青の線が一本。派手ではない。少しだけ縁が欠けている。
「これも」
「これも?」
「月夜用」
月夜は両手で受け取った。
「新しいのじゃないんですね」
「嫌?」
「逆です」
月夜は縁の小さな欠けを見る。誰かが使っていたのか。ずっと棚にあったのか。分からない。でも、新品より、この家の中に前からあったものを渡されるほうが、なぜか嬉しかった。
「どこ置けばいいですか」
「そこ」
結が茶箪笥の端を指す。月夜は自分で置いた。一番右。結の。小麻里の。木乃葉の。そして、月夜の。四つ。
「……増えた」
木乃葉が横から言う。
「何が」
「月夜の場所」
月夜は引き出しと湯呑みを見た。
「二つですね」
「じゃあ次は座布団」
「もういつも同じところ座ってます」
「三つ」
「数えなくていいです」
そう言いながら、月夜は少し笑っていた。引き出しには、手拭いを一枚。次に、借りている着替え。それから、小さな袋。それだけで、空だった場所が少し埋まった。
「……私の場所」
月夜が小さく言う。結には聞こえたらしい。
「そう」
月夜は、開いたままの引き出しをもう一度見た。さっきまで空いていた場所に、自分のものが入っている。
***
夕飯まで少し時間があった。月夜は縁側に座った。何かを考えるためではない。ただ、さっきもらった湯呑みに麦茶を入れて飲むためだった。
新しい、と言っていいのか分からない自分の湯呑みは、手に持つと少し重かった。向こうでは小麻里が洗った野菜を籠に移している。結は帳面を見ている。
木乃葉は寝転がっている。いつもの景色。たぶん。数日前の自分なら、こういう時間にも何か思い出そうとしていた。誰かの顔。どこかの道。自分の家。今は、麦茶が冷たいことのほうが先に分かる。それが少し嬉しかった。
「何にやにやしてるの」
木乃葉が寝転がったまま聞く。
「してません」
「してた」
月夜は湯呑みを見せた。
「これ」
「そんなに気に入った?」
「はい」
「安いよ、それ」
「値段聞いてません」
「欠けてるし」
「知ってます」
「変なの」
木乃葉はそう言ったあと、自分の湯呑みを持って月夜の隣に来た。少し間を空けて座る。
「乾杯する?」
「麦茶で?」
「場所が増えた記念」
月夜は少し笑った。湯呑みの縁を軽く合わせる。こつ。小さな音。木乃葉は一口飲む。月夜も一口飲んだ。それだけだった。でも、今日の記憶としては、十分残りそうだった。夕方。月夜は今度は台所にいた。油揚げを細く切る。細い。太い。また細い。
「揃ってない」
小麻里が言う。
「食べれば同じです」
「食べやすさが違う」
「料理は見た目にも厳しい」
小麻里が包丁を持つ月夜の手を少し直す。
「ここ」
「はい」
「力入れすぎない」
「はい」
今度は少し揃った。
「どうですか」
「さっきより」
「もう少しくらい褒めてもいいと思います」
「調子に乗るから」
「信用が細かい」
木乃葉は食卓の横に座っていた。今日は何もしていないように見える。月夜が見る。
「木乃葉」
「何」
「仕事」
「見守り」
「その役職廃止しました」
「神様権限」
「じゃあ神様権限で葱切ってください」
木乃葉が少し黙った。結が笑う。小麻里がまな板の端に葱を置いた。
「はい」
逃げ道がなくなる。木乃葉は渋々立った。
「神様に葱切らせる巫女、どうなの」
「食べる人が切る」
「合理的すぎる」
月夜は思わず笑った。木乃葉が包丁を持つ。意外と普通に切る。しかも速い。
「できるじゃないですか」
「できないとは言ってない」
「やらないだけ」
「そう」
「一番たち悪い」
「神様だから」
「それ禁止」
食卓に笑いが増える。夕飯は、ご飯。味噌汁。煮物。青菜。派手ではない。でも、月夜はもう、どこに座るか迷わなかった。自分の座布団。自分の湯呑み。
誰かが決めたわけではないのに、いつも座る場所ができている。月夜はそれに気づいた。結が味噌汁を置く。
「何か嬉しそう」
「顔に出てます?」
「少し」
月夜は湯呑みを見る。
「今日、引き出しもらったので」
木乃葉が言う。
「そんなに嬉しい?」
「木乃葉には分からないかもしれません」
「なんで」
「ずっとここにいるから」
木乃葉の動きが一瞬だけ止まった。月夜は、言ってから気づいた。木乃葉はずっとここにいる。人間よりずっと長く。
それが羨ましいことなのか。寂しいことなのか。自分にはまだ分からない。
「……すみません」
月夜が言うと、木乃葉は少し首を傾けた。
「何が」
「今の」
「別に」
木乃葉は湯呑みを持つ。
「ずっといるから、場所があるとは限らないし」
軽い声。でも、月夜には、その言葉だけが少し重く聞こえた。木乃葉はすぐに笑う。
「だから月夜の引き出し、半分私にちょうだい」
「絶対嫌です」
「即答」
「自分の場所なので」
木乃葉の耳が少しだけ動いた。
「そっか」
それだけ。食事は続いた。
***
片づけが終わるころには、外は暗くなっていた。月夜は自分の部屋へ戻る前、新しくもらった引き出しをもう一度開けた。手拭い。服。小さな袋。そして、夜の痕を片づけた朝に残しておいた、折った御札。月夜は少し考えて、それも一番奥に入れた。夜が終わった証拠。今日、自分の場所ができた証拠。
一緒に入れておくのが、なんとなく合っている気がした。引き出しを閉める。ことん。
「何してるの」
後ろから木乃葉。月夜は振り返った。
「確認」
「何の」
「まだあるか」
「一日で消えないよ」
「分かってます」
木乃葉は月夜の横に来た。引き出しを見る。
「ほんとに嬉しいんだ」
「はい」
今度は誤魔化さなかった。木乃葉は少しだけ笑う。
「じゃあ大事にしな」
「木乃葉の尻尾は入れませんけど」
「まだ言ってないのに」
「言う顔でした」
木乃葉が笑った。月夜も笑う。外では風鈴が一度だけ鳴った。普通の音。昨日までなら、鐘かもしれないと身構えたかもしれない。今日は違った。
ただの風鈴だと分かる。月夜は部屋へ戻った。布団を敷く。灯りを落とす。今夜は何も起きなければいい。そう思いながら、閉じた引き出しの中身を思い出した。手拭い。服。折った御札。失くしたものはまだ多い。それでも、明日そこから消えていたら困るものが、もうこの部屋にはあった。月夜は目を閉じた。今夜は、静かに眠れそうだった。
いきなり一週間近くも姿を消してしまって、本当に申し訳ないのです! その、わたし一応、百合がメインではないとはいえ百合作品を書いている作家なのですが、肝心の百合に関する経験がなかったのです! なので少しでも経験を得ようと思って、周りのレズの友達に会って相談に乗ってもらったり、わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ! (※ムリじゃなかった!?)をじっくり読み込んだりしていたのです。もちろん、みかみてれん先生の他の作品もちょこちょこ読んでいたのです!




