第十四話 『神社に戻ってきても、まだまだ気の休まる暇がありませんでした!』
神社暮らし、今日も平和なのに妙に落ち着きません!
一巻 鐘が鳴る前の夏
第十四話 『神社に戻ってきても、まだまだ気の休まる暇がありませんでした!』
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神社へ戻ってきたとき、いちばん最初に迎えてくれたのは、何事もなかったみたいな夏の匂いだった。
石段の下から聞こえていた蝉の声は、境内に入るともっと近くなって、陽に温められた土の匂いと乾いた木の匂いが、空気の中にのんびりと広がっていた。風待ちトンネルの前で一瞬だけうなじをかすめていった妙な感覚も、石段を上がっただけなのに嘘みたいに遠のいていた。もちろん、完全に消えたわけじゃなかった。どこかに薄く残ってはいたけれど、少なくとも今は気を引っ張られるほど鮮やかじゃなかった。
「靴からちゃんと脱いで。」
先を歩いていた小麻里が、振り向きもせずに言った。月夜はぼんやりしたまま玄関の上がり框を越えかけて、はっとして、いま脱ぎっぱなしにしようとしていたサンダルを拾ってきちんと揃えた。
「これくらいならよくないですか?」
「これくらいが積み重なると見苦しくなるの。」
「小麻里って、変なところだけ厳しいですよね。」
「変なところじゃなくて基本。」
横で聞いていた木乃葉が、小さく笑った。
「小麻里って、乱れてるものを見ると顔が微妙に険しくなるんだよね。」
「木乃葉も、人の足で押しやった枕の上に寝る癖、そろそろ直しなよ。」
「それは整理じゃなくて活用でしょ。」
「生活態度がいちばん問題だね。」
月夜は二人のあいだを行き来するやり取りを聞きながら、小さく笑った。風呂屋から戻る道すがら冷めかけていた空気が、ここではまったく別の種類の熱に変わっていた。この神社の中にはもう、お互いに馴染んだリズムがあって、その中でしか通じない距離感があった。そして不思議なことに、自分も少しずつその中へ入り込んでいる気がした。
奥の居室のほうへ入っていくと、中は外よりひんやりしていた。敷居と板張りの床は、長く使い込まれたなめらかさを帯びていて、奥から滲んでくる草の匂いと布の匂いは、不思議なくらい気持ちを落ち着かせた。結は先に空いた盥と手拭いを一か所にまとめると、月夜のほうを振り返った。
「今日は休んでも大丈夫だよ。」
「そう言われると、逆に何かしなきゃって気になるんですけど。」
結の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「だいぶここの人っぽいこと言うようになったね。」
小麻里は、いつの間にか縁先に掛けてあった手拭いを一枚ずつ払って整えていた。月夜はそれを見ながら、おそるおそる聞いた。
「何からやればいいですか?」
ほんの一瞬だけ、小麻里の手が止まった。それから少し驚いたような顔で月夜を見た。
「なんですか、その顔。」
「あなたが先に聞いてくるとは思わなかったから。」
「ひどいんですけど。」
「じゃあ、裏の洗濯物から取り込んで。」
小麻里は顎で外を示した。
「乾いてないのはそのままで、乾いたのだけ。」
物干しに掛かっている布を一枚ずつ触って、ちゃんと乾いているものだけ選んで畳めばいいだけだった。それなのに月夜は妙に緊張した。下手にまだ乾いていないものを持ってきたら、小麻里にすぐ指摘されそうだったからだ。
陽の下へ出て、物干しに掛かっている布にひとつずつ触れてみると、指先に伝わる感触が少し意外だった。薄い布はぱりっと乾いていたし、少し厚いものは端だけまだしっとりしていた。月夜は慎重に、よく乾いたものだけを選んで腕に掛けた。そうして最後のほうに掛かっていた白い布を取ろうとして、ふと手を止めた。思っていたより長くて、形もなんだか見慣れなかった。
「……これ、何ですか?」
思わず聞くと、中から小麻里の返事が飛んできた。
「それ、結お姉ちゃんのブラ。」
月夜は、ほとんど手に持った布を落としかけた。白い布が風に一度だけ揺れた。さっきまではただの洗濯物のひとつだったのに、正体がわかった途端、急に指先の感覚がやけに鮮明になった。
「そんなに驚くこと?」
いつの間にか後ろへ来ていた木乃葉が、月夜の肩越しに一緒に覗き込んだ。
「洗濯物は洗濯物でしょ。」
「それはわかってますけど。」
「わかってる顔じゃないけど。」
「顔で洗濯物を区別する人なんていませんから。」
木乃葉は、いかにも面白そうに笑った。その笑い方がなんだか余計に憎たらしくて、月夜は慌てて布を畳み、ほかの洗濯物のあいだへ押し込んだ。けれどちょうどそのとき、風がひとつ吹いた。腕に載せていた洗濯物がずれて、月夜は落とさないよう慌てて抱え込むみたいに押さえた。その様子を見た木乃葉が、横でぼそりと呟いた。
「君、今すごく怪しいよ。」
「洗濯物と戦ってるだけです。」
「その言い方のほうが怪しいね。」
そのとき、縁側のほうから結が顔を出した。
「どうかした?」
月夜は一瞬、何でもないと言いたかった。けれどもう表情が遅かった。木乃葉が待ってましたとばかりに手を挙げた。
「結の洗濯物が思ったより攻撃的なんだって。」
「そんなこと言ってません!」
「顔はほとんどそう言ってたよ。」
結は一度だけ瞬きをしてから、ゆっくり視線を月夜の腕の上へ移した。その先に畳まれた白い布があるとわかって、ようやく口元がほんの少し緩んだ。
「それ、普通に畳んで持ってきてくれればいいから。」
どうしてその一言のほうが余計に恥ずかしいのか、自分でもわからなかった。月夜は顔がじわっと熱くなるのを感じながら、小さく呟いた。
「……はい。」
結局月夜は、洗濯物を無事に中へ持って入った。さっきまではトンネルがどうとか、妙な気配がどうとか、そんな話をしていた人間が、今は人の洗濯物ひとつに気を取られて顔を赤くしているのだから、それが少し癪でもあり、不思議とおかしくもあった。
***
陽がさらに傾くと、境内の色もゆっくり変わっていった。
朝はただ明るく見えていた庭も、夕方の光を含むと少し落ち着いて見えて、軒先の影は長く伸びて石畳の上をきちんと横切っていた。遠くで聞こえていた蝉の声もひとつ分落ち着いて、その代わりに虫の声がごく薄く混じり始めていた。昼と夜のあいだの、曖昧だからこそかえって心地いい時間だった。
月夜は縁側の端に座って、さっき畳んだばかりの手拭いの山を眺めながら、ふと思った。今日一日でやったことといえば、風呂屋へ行って帰ってきて、洗濯物を取り込んで、どうでもいいことで顔を赤くしたくらいなのに、不思議と疲れてはいなかった。頭の中の空白を無理に覗き込まなくていい時間があるせいで、身体のほうが先に安心しているみたいだった。
「そこでぼんやりしてないで、こっち来て。」
台所のほうから小麻里の声がした。
小麻里の声に従ってすぐ向かうと、結は食卓の上に器を並べていて、小麻里は茶碗を運んでいた。木乃葉は案の定、いちばん働いていない位置に立っていた。
「木乃葉って、本当に手伝わないんですか?」
月夜が聞くと、木乃葉は平然とした顔で胸元に手を当てた。
「あたしは空気空気を和ませる役なんだよ。」
「今でも十分和んでるんですけど。」
「それはあたしがいるからでしょ。」
「じゃあ外れてみてくださいよ。」
「言うことひどいなあ。」
結が器を置きながら、小さく笑った。
「口ではああ言ってても、さっきからずっとここにいたよ。」
「見張り?」
小麻里が無造作に受けた。
「手を出したら余計遅くなりそうだから。」
「二人とも、今日に限って扱い雑じゃない?」
「今日に限らず、元からです。」
月夜が言うと、木乃葉が目を細めた。
「だいぶ馴染んできたね。」
その言葉が、なんだか少し嬉しかった。月夜は気づかれないように視線を逸らし、結から渡された汁椀を受け取って卓の上へ置いた。味噌の匂いがやわらかく立ちのぼった。ご飯、汁、軽く和えた青菜、煮物が一皿。四人が囲んで座ると、結が先に箸を取った。
「食べよう。」
食事中の会話は、思っていた以上にたわいなかった。甕の蓋がまた風でずれた話、庭掃きは明日の朝早いほうがいいという話、木乃葉が昔、風呂屋でこっそり菓子をひとつ余分に買おうとして小麻里に見つかった話。大事な話は何ひとつなかったのに、それが妙によかった。
「でも本当に、バレないと思ってたんだよ。」
木乃葉が少し拗ねたみたいに言うと、小麻里がすぐ返した。
「尻尾で隠そうとする時点で詰めが甘い。」
「それ、あたしの尻尾を甘く見すぎじゃない?」
「甘く見てるんじゃなくて、過大評価してないだけ。」
月夜はご飯を食べながら、笑いをこらえるために少しだけ俯いた。木乃葉はそれを見逃さず、すぐ問いかけた。
「今、笑ったでしょ。」
「笑ってません。」
「口元が反則してたよ。」
「それはわたしの口元に言ってください。」
「もう言い返すのまで自然になってきたね。」
そう言う木乃葉のほうを見ると、本当に尻尾が少しだけ拗ねたみたいに揺れていた。月夜は思わず、その動きを数秒ほど見てしまった。
けれど木乃葉がそれに気づいた。
「何。」
「別に。」
「また尻尾見てたでしょ。」
「ただ動いてたからです。」
「触ってみる?」
月夜は箸を持ったまま止まった。向かいの小麻里は平然と汁をひと口飲んでいたし、結は湯呑みを持ち上げながら、ほんの一瞬だけ目を上げただけだった。誰も代わりに止めてくれそうにない空気だった。
「……食事中なんですけど。」
それを聞いた木乃葉は、吹き出すみたいに笑った。
「断る理由そこなの?」
「じゃあどこなんですか。」
「普通はもう少し別のところを気にするんじゃないかなって。」
「その“別のところ”のほうが怪しいんですけど。」
今度は結まで、声を出さずに笑った。小麻里も箸先を一瞬だけ止めた。三人そろってそんな反応をするものだから、なんだかこっちが負けたみたいな気分になった。月夜は結局、諦めた顔で残りのご飯だけ食べきった。
食事が終わると、自然に後片付けが始まった。結が水を汲んできて、小麻里が器を洗い、月夜が乾いた布巾で拭いて片づけた。木乃葉は最後まで「水が手に触れると気が抜けるんだよね」なんてことを言っていたけれど、最後には皿を二枚ほど、黙って元の場所へ運んでいた。
***
一通り終わるころには、もうすっかり暗くなっていた。縁側の外に見える木々の影は黒く沈んでいて、昼間の熱を含んでいた空気も、今は素足に触れるとほんの少し涼しかった。月夜は奥の居室の前に立って、一度だけ息を整えてから空を見上げた。神社で迎える夜はまだどこか馴染まなかったけれど、それでも昨日よりは少しだけ見慣れていた。
そのとき、隣へ小麻里が立った。
「疲れた?」
「少しは。」
「じゃあ今日はもう考えないで寝なよ。」
「変に夜ひとりでうろついたりしないで。」
「……そういう言い方されると、ちょっと怖いんですけど。」
小麻里は代わりに、ほんの少しだけ口元を動かした。
「怖いなら木乃葉の部屋に放り込んであげようか。」
「なんで解決策のほうが危なくなるんですか。」
「お互い寝られなさそうだよね。」
すぐ後ろから木乃葉の声が割り込んだ。
「かなり楽しそうではあるけど。」
「わたしは全然楽しくないんですけど。」
「そう言いながら、顔ちょっと赤いよ。」
「夕方の空気のせいです。」
背後で木乃葉の笑い声が重なった。
寝る前に布団を敷くことさえ、もう昨日よりずっと自然になっていた。自分の居場所ができるって、本当はこういうふうに人を安心させることなのだろうか、と考えていたそのとき、部屋の外で風がひとつ通り過ぎた。
月夜はしばらく耳を澄ませた。何もなかった。鈴の音も、怪しい気配も聞こえなかったけれど、逆に言えば、何も妙なことが起きないまま一日が終わるのも、考えてみればずいぶんいいことなのかもしれないと思った。
月夜は布団の端を引き上げて胸元までかけ、ゆっくり目を閉じた。
今夜は、本当に静かに眠れそうな気がした。
いきなり一週間近くも姿を消してしまって、本当に申し訳ないのです! その、わたし一応、百合がメインではないとはいえ百合作品を書いている作家なのですが、肝心の百合に関する経験がなかったのです! なので少しでも経験を得ようと思って、周りのレズの友達に会って相談に乗ってもらったり、わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ! (※ムリじゃなかった!?)をじっくり読み込んだりしていたのです。もちろん、みかみてれん先生の他の作品もちょこちょこ読んでいたのです!




