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第十五話 『神社の仕事をしていたら、神霊様のもうひとつの耳まで見てしまいました!』

神社暮らし、神霊様の耳はふさふさしています!

一巻 鐘が鳴る前の夏


第十五話 『神社の仕事をしていたら、神霊様のもうひとつの耳まで見てしまいました!』


——


翌日の白雲神社は、朝の陽射しが境内をすっかり覆ってから、ようやく本格的に動き出した。


軒先に吊るされた風鈴は風がかすめるたびに小さく鳴って、石段の下のほうからはもう夏草の匂いが上がってきていた。水を汲み上げたあとの盥は陽を受けて白くつやめいていて、縁側の端に干しておいた布巾からは乾いた布の匂いがほのかにしていた。何事もなくぐっすり眠れたおかげか、身体は軽かった。記憶は相変わらず空っぽなのに、朝にやることがあるというだけで、人って少しくらいまともになれるものなのかもしれないと思った。


「それ、そんなに強く絞ったらすぐ傷むよ。」


後ろから聞こえた小麻里の声に、月夜はびくっとして手の力を抜いた。ちょうど洗ったばかりの布巾を、ありったけの力でねじっていたところだった。


「思ったよりきつく言わないんですね。」


「布巾がかわいそうでしょ。」


「私より先にですか?」


「あなたは傷まないでしょ。」


あまりにも当然みたいに返ってきた言葉に、月夜は少しだけ口をつぐんだ。小麻里はいつもそういう感じだった。ちゃんと気にかけてはくれるのに、最後にひと言だけ妙なのがつく。


月夜はもう一度、指先の力を調整して布巾を干した。乾いた風が手の甲を撫でていった。今日の仕事は朝から大げさなものではなかった。水汲み、布巾洗い、縁側拭き、本殿前の落ち葉掃き。けれど、そういうことがひとつずつ積み重なっていくうちに、神社で過ごす時間が少しずつ自分の身体に馴染んでいくような気がした。


「私、けっこうちゃんとできてますよね?」


縁側に座って手拭いを畳んでいた結が、視線を上げた。


「昨日よりは。」


「急に褒め方が渋いんですけど。」


「でも本当のことでしょ。」


結はそう言って、また手元の手拭いへ視線を戻した。きちんと畳まれた白い布が膝の上に重なっていくのを見ていると、なぜだか気持ちまで落ち着いていった。同じ空間にいても、木乃葉のもたらす緩い騒がしさとはまったく違う種類の安定感だった。


けれど問題は、その騒がしさも相変わらずちゃんと生きていることだった。


「陽、気持ちいいね。」


縁側の反対側に長く寝そべっていた木乃葉が、手の甲で目元を隠したまま呟いた。相変わらず働く人の姿勢ではなかった。尻尾もだらりと伸ばしたままだった。


月夜は本殿のほうへ向かおうとして、ふと足を止めた。視線が木乃葉のほうへ向く。今日も尻尾は見えているのに、ふと耳が見えないことが妙に気になった。狐の神霊なら、普通真っ先に思い浮かぶのはふさふさした狐耳のはずなのに。


そこまで考えたところで、結局口のほうが先に動いた。


「木乃葉って、どうして尻尾だけなんですか?」


縁側に寝そべっていた木乃葉が手を下ろした。


「ん?」


「狐の神霊なら、耳もあっていいんじゃないかって思って。尻尾はいつも見えてるのに。」


木乃葉は一度だけ目を瞬かせてから、ひどくゆっくり上半身を起こした。隣で落ち葉を掃いていた小麻里も箒を止めて、結は畳んでいた手拭いを膝の上に置いたままこちらを見た。空気が妙に静かになった。月夜は、自分が余計なことを聞いたのかもしれないと、一拍遅れて気づいた。


次の瞬間、木乃葉の頭の上に、淡い毛並みの狐耳がぴょこんと現れた。本当に、あまりにも何でもないみたいに。月夜はそのまま固まった。木乃葉の髪のあいだから、さっきまでなかったはずのふさふさした狐耳が、何でもなかったみたいに生えていた。それだけでも充分驚くことだったのに、それで終わりじゃなかった。人間の耳もそのまま残っていたのだ。


月夜の視線が上下に二度ほど揺れた。人間の耳。狐耳。人間の耳。狐耳。頭の中で整理がつく前に、口が勝手に言葉を吐いた。


「キメラ……!」


木乃葉の表情が一瞬だけ微妙にしかめられた。


「違うけど。」


「だって耳が四つあるじゃないですか。」


「言い方、すごくひどいね。」


木乃葉はそのまま手を上げて、自分の横髪をぎゅっと押さえた。すると今度は、人間の耳のほうがすっと消えた。残ったのは、頭の上の狐耳ひと組だけだった。


月夜はしばらく何も言えなかった。驚きが先に来て、そのあとで妙に感心する気持ちがやってきた。狐耳は思っていたより少し小さくて、もっとやわらかそうだった。先のほうが陽を受けて薄く光っていて、木乃葉が少し不機嫌そうな顔でこちらを見ているあいだも、耳の先だけは正直に一度ぴくっと動いた。


「……本当にあったんですね。」


「じゃあ偽物だと思ってたの?」


「いえ、尻尾もあって耳もあるって、あまりにも王道すぎるというか。」


「さっきまでキメラって言ってたくせに?」


小麻里はとうとう笑いをこらえきれずに顔を背けて、結も声を立てずに笑っていた。月夜は耳まで熱くなるのを感じながら、なんとなく視線を逸らした。


「でも、なんで普段は出してないんですか?」


「人間の中じゃ、こっちのほうが楽だから。」


木乃葉が自分の頭の上を指先で軽く叩いた。


「出しっぱなしでいたら、君がさっき言ったのよりもっとひどいこと言うやつもいるし。」


「私がいちばんひどかった気はしますけど。」


「うん。かなり。」


返事があまりにも早く返ってきて、月夜は反論もできなかった。それなのに視線はまた上へ行ってしまう。木乃葉が小さくため息をついた。


「そんなに見たいの?」


「見たくないわけじゃないですけど。」


「答えが素直すぎて余計怪しいね。」


狐耳の片方が少しだけ後ろへ倒れた。照れているのか、警戒しているのかはわからなかったけれど、人間の耳があるときよりずっと感情が読みやすい気がした。月夜はそれに気づいて、余計に黙りこんだ。


木乃葉は少しのあいだ月夜を見下ろしてから、口元をほんの少し持ち上げた。


「触ってみる?」


その言葉が出た途端、小麻里が低く言った。


「また始まった。」


結は止めずに、ただ静かに見ていた。


月夜は少しだけ息をのんだ。手を伸ばしたら、本当にふわふわしていそうだった。陽を受けて柔らかく膨らんだ毛先が、目の前にあるのだから。けれど、さっきまでキメラなんて言っていたくせに、今さら触らせてほしいなんて、あまりにも図々しい気がした。


「……今はいいです。」


結局そう答えると、木乃葉の狐耳がごくゆっくり立って、それからまた力を抜いた。


「残念。」


「なんで残念なんですか。」


「君の反応、面白いから。」


月夜は少しだけ眉を寄せたけれど、顔の熱まではどうにもならなかった。たぶん今日の朝も、静かには終わらない。


***


結局、その朝の騒ぎは小麻里のひと言で片づけられた。


「二人とも遊ぶなら、せめて庭でも掃いて。」


その言葉が落ちると、木乃葉は素直に立ち上がった。素直に、という表現が正しいのかは少し怪しかったけれど。とりあえず身体だけは起こしたものの、表情はこの世でいちばん理不尽な目に遭った人みたいに緩んでいた。頭の上の狐耳も、何事もなかったみたいにもう消えていた。今あるのはまた、人間の耳だけだった。月夜はなんとなく、そこをもう一度見てしまった。


木乃葉はすぐにそれに気づいた。


「なんでまた見るの。」


「いえ、別に。」


「さっきはキメラって言ってたくせに、今は名残惜しいわけ?」


「そういうわけじゃないですけど。」


木乃葉は箒を持ってもまともに掃くつもりはなさそうで、柄の先で自分の肩をとんとん叩いているだけだった。余裕たっぷりに笑っている顔が、なんだか妙に腹立たしかった。月夜は本殿の前に散っていた葉を集めながら、少しだけ唇を尖らせた。


「ただ……思ってたより普通だったので。」


「普通だった?」


「もっとこう、すごいものかと思ってました。きらきらしてるとか、やたら神々しいとか。」


「ちょっと傷つくんだけど。」


「でも耳の先は少し可愛かったです。」


言葉が口から出たあとで、月夜ははっとして手を止めた。小麻里も箒を止めて、結も縁側に置いてあった手拭い籠を整える手を止めて顔を上げた。


そのあと、木乃葉が笑った。いつものあの人を食ったみたいな笑い方ではなくて、本当に少しだけ嬉しそうな笑い方だった。


「へえ?」


「……なんでそっちのほうが照れるんですか。」


「今の、けっこう真っ直ぐだったから。」


月夜はなんとなく、掃いていた葉をさっきより強く寄せ集めた。顔が熱かった。褒めたつもりだったのかと聞かれると、それも違う気がするし、違うと言うにはそれもまた変だった。そのあいだに木乃葉は箒を片手に持ったまま、いかにもわざとらしく余裕のある声で言った。


「もっとちゃんとしてくれたら、次は尻尾じゃなくて耳のほうも触らせてあげる。」


「いりません。」


「断るの早いね。」


「さっきのこと、まだ忘れてませんから。」


小麻里が低くぼそっと言った。


「二人とも朝からうるさい。」


そのひと言がなかったら、月夜はたぶんもっと訳のわからないことを言っていたと思う。幸いなのか何なのか、結がそこで別の話を持ち出した。


「月夜。」


「はい?」


「今日、昼前に下の村までひとつ行ってきてくれる?」


箒を動かす手を止めた月夜が顔を上げた。


「私がですか?」


「味噌と蝋燭がひとつ足りなくて。小麻里だけでも行けるけど、あなたも道を覚えておいたほうがいいから。」


沢良木村までの道は、もう何度か往復したぶん、最初ほど見知らぬものではなかった。それでも、ひとりじゃなくて誰かと一緒に下りるのだと言われると、少しだけ安心した。けれどそのすぐ次の言葉が問題だった。


「木乃葉も一緒に行って。」


結が何でもないみたいに付け足した。


「なんでですか?」


月夜の声が、自分でもわかるくらい速くなった。


木乃葉がすぐに目を細めた。


「その『なんで』、ずいぶん露骨だね。」


「い、いや、そういう意味じゃなくて……」


「傷つくなあ。さっきは可愛いって言ってたのに。」


「なんで今それ引っ張ってくるんですか。」


結はそんな二人を見て、ごく小さく笑った。


「道は知ってても、途中で別のほうへ逸れそうなのを止めるのは、木乃葉のほうが得意だから。」


「その説明だと、私が何なんですか。」


木乃葉は少し不満そうに言ったけれど、結は答える代わりに小さな籠をひとつ差し出した。


「だからお願い。」


***


陽射しは朝よりひとつ高くなっていて、石段の脇の草むらでは蝉が絶えず鳴いていた。足元の石はもう熱を含んでいたけれど、木陰へ一歩入るだけで空気は少しやわらいだ。月夜は空の籠を持って先に歩きながら、後ろからついてくる気配に、なんとなく一度振り返った。


木乃葉は今度は耳も出していないまま、何でもない顔で歩いていた。そんな姿なのに、ただ普通にだけは見えないのは、もう正体を知ってしまったからなのか、それとも最初からそうだったのか、自分でもわからなかった。


「何。」


「いえ、別に。」


「今日はやたら確認してくるね。」


月夜はびくっとして、すぐまた前を向いた。


「ただ……本当に人間っぽいなって。」


「それもけっこうひどい言い方なんだけど。」


木乃葉が笑いながら言った。


「あたしはもともと、人間っぽく見えるほうだったよ。」


「耳、引っ込めてるから。」


「しまうっていう言い方も、なんか変だね。」


「じゃあ隠してる、にしますか。」


「それはそれで怪しい。」


言葉を交わしているうちに、山道は思っていたよりすぐ短くなった。神社から二人きりで、しかも本当に二人だけで下りるのは初めてだったのに、変に気まずいばかりではなかった。朝にあれだけ騒いでから出てきたせいなのか、それともその前に風呂屋だの風待ちトンネルだの、変に距離感のおかしくなることをいろいろ経てきたせいなのか。


少し下ったところで、木乃葉が急に足を止めた。


「ちょっと。」


「なんですか?」


木乃葉は何も言わずに手を伸ばして、月夜の頭の上をとんとんと叩いた。あまりに急だったせいで、月夜はそのまま固まった。指先がかすめたのは髪の先と、その上にちょこんと乗っていた小さな葉っぱだった。


「ついてた。」


木乃葉が指のあいだに挟んだ葉を見せた。本当にたいしたことじゃないはずなのに、月夜はそのほんの一瞬の動きだけで、妙に心臓が早くなるのを感じた。触れられたところが遅れて熱くなった。


「……言ってくれてもよかったのに。」


「言ったら君、動かなかったでしょ。」


「動きますけど。」


「今もそのまま固まってたのに?」


反論できる言葉がなかった。木乃葉はそれをわかっているみたいに笑っていて、木々のあいだから落ちる陽射しが、その顔の上をまばらに撫でていった。首筋の下へ落ちる影が細く揺れたけれど、月夜はまた見なくていいものを見た気がして、あわてて目を逸らした。


「また顔赤いね。」


「暑いからです。」


「その言い訳、最近ちょっと多すぎない?」


暑いのは本当だったけれど、それだけじゃないことくらい、月夜にも否定しきれなかった。


二人が沢良木村の入口に近づいたころ、月夜は籠の持ち手を持ち直しながら思った。記憶はまだなくて、毎日ひとつかふたつは妙なことが起きて、一緒に暮らしている人たちはみんな少しずつ怪しい。それなのに、その怪しさはもう怖いというより、少しずつ馴染んできていた。


それがいいことなのかどうかは、まだよくわからない。けれど、ひとつだけ確かなことがあった。


少なくとも、今隣を歩いている狐の神霊のことは、少し前よりずっと気になるようになっていた。

必ず連載するよ……待ってて。必ず連載しに行くから……!

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