第十五話 『神社の仕事をしていたら、神霊様のもうひとつの耳まで見てしまいました!』
神社暮らし、神霊様の耳はふさふさしています!
翌朝。月夜が自分用の湯呑みを茶箪笥から取り出すと、少しだけ気分がよかった。白地に、薄い青の線。縁には小さな欠け。
自分用の湯呑みが決まるまでは、結か小麻里が出してくれたものを受け取るだけだった。今日は自分で場所を知っている。たったそれだけなのに。
「にやにやしてる」
後ろから声がした。月夜は振り返らずに答えた。
「してません」
「してた」
木乃葉だった。縁側に寝転がり、片手で団扇を動かしている。三本の尻尾は陽の当たる床に長く伸びていた。
「朝から人の顔ばっかり見ないでください」
「月夜が分かりやすいから」
「それ、みんな言います」
月夜は麦茶を一口飲んだ。向こうでは小麻里が洗った布巾を盥から上げている。結は乾いた手拭いを畳んでいた。
朝の仕事は、もうだいたい分かるようになってきた。水を汲む。布巾を洗う。縁側を拭く。本殿の前を掃く。月夜は湯呑みを置き、濡れた布巾を一枚取った。
ぎゅっ。
「強い」
小麻里がすぐ言った。月夜は手を止める。
「まだ駄目ですか」
「昨日よりまし」
「褒め方が結お姉ちゃんに似てきました」
結が顔を上げる。
「私、そんなに渋い?」
「けっこう」
「じゃあ、ちゃんと上手になってるよ」
「急に甘くなった」
小麻里が小さく笑った。月夜も少し笑い、今度は力を抜いて布巾を絞った。水滴が落ちる。ちょうどいい。
昨日までは、教えられたことをこなすだけだった。今日は、自分で加減できることが少し増えている。それが嬉しかった。
***
布巾を干し終えたところで、月夜は縁側の木乃葉を見た。正確には、頭の上の狐耳を見た。
「何」
すぐ気づかれた。
「いえ」
「今、明らかに耳見たよね」
月夜は少し迷った。隠すほどでもない。
「木乃葉って」
「うん」
「その耳、隠せるんですか?」
木乃葉の団扇が止まった。
「急にどうしたの」
「村の人、木乃葉が神様だとはほとんど知らないんですよね」
「そうだね」
「なのに、狐耳と尻尾は見えてるじゃないですか」
木乃葉は自分の狐耳を片手で触った。
「別に、見えてても困らないから」
「それで済むんですか」
「案外ね」
木乃葉は少し笑った。
「田舎の神社だし。私みたいなのが一人くらいいても、木乃葉は木乃葉で済むよ」
月夜は少し考えた。つばさ湯でも、村の人は木乃葉を見て、騒がなかった。神様とは知らない。でも、狐耳と三本の尻尾がある木乃葉自体は、昔からそこにいる人として受け入れている。
「じゃあ、隠せないわけじゃない?」
「隠そうと思えば」
木乃葉が団扇を置いた。
「見る?」
「何をですか」
「消えるところ」
「そんな手品みたいに」
木乃葉が狐耳に指を添える。次の瞬間。輪郭が少し薄くなった。ぴんと立っていた耳が、陽炎みたいに揺れる。そして、すうっ。頭の上から消えた。代わりに、横髪のあいだから、人間の耳が見えている。月夜は固まった。
「……本当に消えた」
「消したっていうより、形を人のほうへ寄せてるだけ」
「耳って寄せられるものなんですか」
「私はできる」
「神様、便利」
「最近そのまとめ方雑じゃない?」
小麻里がとうとう吹き出した。結も手拭いを膝の上に置いたまま笑っている。月夜は木乃葉の頭を見る。さっきまであった狐耳がない。知っている顔なのに、思っていたより印象が違った。
「……変ですね」
木乃葉の顔が露骨に曇った。
「人の耳の私が?」
「違います。見慣れなくて」
「まだ数日しか見てないくせに」
「それでもです」
月夜は少しだけ笑った。
「狐耳があるほうが、木乃葉っぽい」
木乃葉が一度瞬きをした。それから、また頭の上に手をやる。すぐに。淡い色の狐耳が戻った。ぴく。片方だけが動く。
「戻した」
月夜が言う。
「こっちのほうがいいんでしょ」
「私が決めることじゃないですけど」
「さっき木乃葉っぽいって言った」
「言いましたけど」
木乃葉が少し得意そうになる。その瞬間。狐耳がぴんと立った。月夜は思わず指をさす。
「ほら」
「何が」
「嬉しい」
「違う」
「耳が」
木乃葉は両手で耳を押さえた。小麻里が低く言う。
「隠してもそこは変わらないんだね」
「うるさい」
結が静かに笑った。月夜も、今度は普通に笑った。神様だとか。狐だとか。そういうことより、木乃葉にも、分かりやすく照れる場所がある。
そのことのほうが、今は少し嬉しかった。
***
「でも」
月夜は聞いた。
「村へ下りるとき、隠す日もあるんですか」
木乃葉は一度だけ、境内の外に目をやった。
「あるよ」
「毎回じゃない?」
「毎回やるほどでもない」
木乃葉は尻尾を一本持ち上げる。
「全部隠すのも面倒だし」
「じゃあ今日は?」
「気分」
「自由ですね」
「神様だから」
「そこ便利に使わないでください」
木乃葉は笑った。でも、狐耳は出したままだった。月夜はそこを見た。少し前。木乃葉が神様だと知った。村の人のほとんどは、そのことを知らない。
それでも、木乃葉は姿そのものまで隠して暮らしているわけではない。人ではないところを見せたまま、木乃葉として普通に話している。その距離のほうが、月夜には少し分かりやすかった。
「私は」
木乃葉が見る。
「出てても、別に嫌じゃないです」
「別に?」
「むしろ」
月夜は狐耳をもう一度見る。
「やっぱり、木乃葉っぽいと思います」
狐耳が、またぴんと立った。
「二回目」
「大事そうなので」
「尻尾のときも言ってたね」
「木乃葉、分かりやすいところ多いですね」
「観察しないで」
言いながら、耳の先だけが、ほんの少し横へ倒れた。月夜は笑いそうになるのをこらえた。木乃葉はしばらく耳を押さえていたが、やがて片手を離した。
「触る?」
月夜は目を瞬かせた。
「耳を?」
「他に何があるの」
「急ですね」
「さっきから見てるし」
木乃葉が少し頭を傾ける。狐耳の片方が、月夜のほうへ向いた。近くで見ると、尻尾より毛が細い。先のほうだけ、陽を受けて少し透けている。
月夜は反射的に手を上げかけた。途中で止める。木乃葉の耳が、その指先を追うみたいに少し傾いた。
「……ずるい」
「何が」
「耳で催促しないでください」
「してないけど」
月夜は少し迷ってから、今度は自分で手を伸ばした。指先が、狐耳の先に触れる。尻尾より毛が細い。柔らかいのに、中心には薄い弾力がある。ぴくっ。
触れた瞬間、耳が月夜の指の下で動いた。
「わ」
同時に、木乃葉の肩までわずかに揺れた。月夜は慌てて手を引く。
「今の、痛かったですか」
「痛くない」
「じゃあ」
木乃葉は少しだけ目を逸らした。
「急に触られると、くすぐったい」
その言い方で、今度は月夜のほうが妙に指先を意識した。
「……先に言ってください」
「触る前に言ったら、やめるかと思って」
「やめませんけど」
口から出て、二人とも止まった。木乃葉の耳が、今度こそぴんと立つ。月夜は少し遅れて顔を熱くした。
「今のは」
「聞いた」
「忘れてください」
「無理」
結が縁側から静かに言った。
「木乃葉は、嫌なら自分から触っていいなんて言わないよ」
木乃葉が結を見る。
「それ、今言う?」
月夜はもう一度だけ狐耳を見る。
「……じゃあ、今日は先だけ」
「次もあるんだ」
「そういう言い方すると取り消します」
「じゃあ黙る」
本当に黙った。三秒くらいだけ。小麻里が箒を持ったまま言う。
「短いね」
「何が」
「黙る時間」
月夜はとうとう笑った。今度は木乃葉も。狐耳を出したまま、一緒に笑った。
***
しばらくして、木乃葉がまだ狐耳を出したまま、箒を持った。正確には、持たされた。
「二人とも遊んだなら、庭」
小麻里が言った。
「私までですか」
「月夜はもともと仕事中」
「そうでした」
木乃葉だけが不満そうに箒を見る。
「私は見せただけなのに」
「仕事してないから」
「神様に箒持たせる?」
月夜が横から言う。
「葱も切ったでしょう」
「最近、扱いが雑」
「普段通りです」
木乃葉はため息をついた。それでも、今日は本当に少しだけ掃いた。月夜が落ち葉を一か所に集める。木乃葉がその横を掃く。風が吹く。
せっかく集めた葉が一枚だけ逃げた。木乃葉の狐耳がそちらを向く。月夜はまた笑った。
「便利ですね」
「何が」
「音の方向すぐ分かる」
「そこに感心する?」
逃げた葉を木乃葉が尻尾で止める。月夜が箒で回収する。二人でやると、思っていたより早く終わった。結が縁側から言う。
「月夜」
「はい」
「昼前、村まで行ってきてくれる?」
月夜が顔を上げた。
「買い物ですか」
「うん。味噌と蝋燭。あと紙石鹸」
結が小さな紙を見せる。
「一人で?」
月夜が聞くと、小麻里がすぐ言った。
「まだ」
「分かってます」
以前より、その返事は素直に出た。結が木乃葉を見る。
「一緒に行って」
木乃葉が自分を指す。
「私?」
「小麻里、午後の仕事あるから」
「私は暇だと思われてる」
「違うの?」
小麻里の返事が早い。木乃葉は黙った。月夜が笑う。
「お願いします」
木乃葉が横目で見る。
「嫌じゃないんだ」
「何が」
「二人で下りるの」
月夜は一瞬だけ答えに詰まった。昨日までなら、もっと慌てたかもしれない。今日は。
「嫌ならお願いしません」
そのまま答えた。木乃葉の狐耳が、またぴんと立った。月夜は指をさした。
「ほら」
「今日はもうしまう」
「逃げた」
次の瞬間。狐耳が消えた。人間の耳が戻る。でも、三本の尻尾だけは、少し機嫌よさそうに揺れていた。
***
昼前。月夜は自分の引き出しから、結にもらった簡単な地図を取り出した。もう何度か通った道。それでも、持っていく。小麻里が玄関でそれを見た。
「まだ使うんだ」
「お守りみたいなものです」
「地図が?」
「結お姉ちゃんが描いてくれたので」
結が少しだけ笑う。
「帰り、暗くなる前にね」
「はい」
小麻里は籠の中を一度確認した。財布。買い物メモ。手拭い。
「今度は忘れ物なし」
「信用、増えました?」
「少し」
月夜は笑った。その『少し』が、前よりずっと嬉しかった。地図を丁寧に折って、籠の内側にしまう。それから、その籠を持って石段を下りた。
木乃葉が隣。神社を出て少しすると、木乃葉の狐耳はもう見えなかった。
「本当にしまうんですね」
「今日はこっちのほうが楽」
「尻尾はそのまま」
「これはもういいの」
月夜は三本を見る。一本だけ。少し遅れて揺れる。付けたほう。今では見分けるのも簡単になった。
「何」
木乃葉が聞く。月夜は先に答えた。
「尻尾見てました」
木乃葉が一度瞬きをした。
「今日は認めるんだ」
「見たものは見たので」
「成長したね」
「みんながしつこいからです」
木乃葉が笑った。山道を下る途中、木の枝から小さな葉が落ちた。月夜の髪に乗る。本人は気づかない。木乃葉が自然に手を伸ばした。
指先が銀色の髪に触れる。一度。
「取れた」
薄い葉を見せる。月夜は少しだけ目を瞬かせた。触れられたところが、遅れて熱くなる。
「……言ってくれれば」
「今言った」
「先にです」
「先に言ったら、君たぶん変な姿勢で避けるでしょ」
否定しようとしたが、できなかった。木乃葉が笑う。月夜も少し遅れて笑った。前なら、こういう一瞬のたびに、何を考えればいいか分からなくなっていた。
今は、分からないままでも、一緒に歩ける。それでよかった。山道の先に、沢良木村の屋根が見え始める。月夜は籠を持ち直した。
「木乃葉」
「何」
「耳」
「今日はもう出さないよ」
「違います」
月夜は少しだけ笑った。
「見せてくれて、ありがとうございました」
木乃葉は何も言わなかった。ただ、三本の尻尾のうち、本物の一本だけが、月夜の手の甲を軽く叩いた。
ぽふ。
「……返事、それですか」
「分かりやすいでしょ」
今度は、確かに分かりやすかった。二人はそのまま、村へ続く坂を下りていった。
必ず連載するよ……待ってて。必ず連載しに行くから……!




