第十六話 『買い出しに下りたのに、自販機の前でもなんだかそのまま通り過ぎられませんでした!』
神社暮らし、村の昼は飲み物ひとつまでなかなか夏らしいです!
沢良木村の昼は、山の上より少し忙しかった。自転車のベル。遠くの犬の声。洗濯物をはたく音。
白雲神社では風と木の匂いが先に来るのに、村ではそこにアスファルトの熱と、冷蔵庫のモーター音みたいなものが混ざる。月夜は籠を持ち直した。
隣には木乃葉。狐耳は隠している。三本の尻尾はそのまま。
「耳は隠すのに、尻尾はいいんですね」
月夜が言うと、木乃葉は前を向いたまま答えた。
「こっちはもう、見慣れてる人は見慣れてるから」
「神様だとは知らない?」
「ほとんどね」
月夜は尻尾を見る。
「じゃあ、何だと思われてるんですか」
「山の上にいる変な子」
「かなり雑」
「だいたい合ってる」
木乃葉は笑った。その答えに、月夜は少しだけ安心した。秘密だから、誰とも関われないわけではない。知らないままでも、村の人は木乃葉と普通に話している。
その距離は、前より少し分かるようになっていた。
***
あかね商店へ入ると、冷たい空気が肌にまとわりついた。
「いらっしゃい」
あかねおばあちゃんが、すぐに二人を見る。
「今日は二人かい」
「買い物です」
月夜が籠から紙を出す。味噌。蝋燭。紙石鹸。砂糖。木乃葉が横から覗く。
「お菓子は」
「書いてません」
「見えない字で」
「ありません」
あかねおばあちゃんが笑った。
「木乃葉は昔からそこだけ都合のいい字を読むねえ」
「昔から?」
月夜が聞くと、木乃葉がすぐに口を挟む。
「余計な情報は買い物に含まれません」
「誰が客なんだい」
あかねおばあちゃんは呆れた顔をしながら、味噌を出した。月夜は棚を見て回る。前より迷わない。紙石鹸は奥。蝋燭は日用品の棚。砂糖はレジの近く。
「覚えてるね」
木乃葉が言った。
「一回来ましたから」
「最初より村の人っぽい」
「神社の雑用係です」
「肩書き気に入ってるの」
「分かりやすいので」
あかねおばあちゃんが袋に品物を入れながら言う。
「山の上でちゃんと働いてるなら、十分だよ」
月夜は少しだけ嬉しくなった。誰かに、ここで何をしている人なのかを説明できる。前は、自分の名前以外、何もなかった。今は、白雲神社の雑用係。
立派かどうかは別として、ちゃんと今の自分の言葉だった。
***
木乃葉は菓子棚の前で止まっていた。月夜は買い物メモを見る。そして、木乃葉を見る。
「一個だけですよ」
木乃葉が振り返る。
「いいの?」
「結お姉ちゃんの財布なので、勝手にたくさんは駄目です」
「月夜が管理する側になってる」
「任されたので」
「成長したね」
木乃葉は少し悩んで、小さなラムネ菓子を一つ取った。意外と安い。
「それでいいんですか」
「何が」
「もっと欲張るかと」
「君が一個って言ったから」
月夜は一瞬だけ黙った。木乃葉はもうレジへ向かっている。たったそれだけ。でも、自分の言葉を聞いた。それが少しだけ、胸に残った。会計の途中、硝子戸の鈴が鳴った。近所らしいおじいさんが一人入ってくる。手には古い懐中電灯。
「電池あるかい」
「奥の棚だよ」
あかねおばあちゃんが指す。おじいさんは月夜を見る。
「ああ。神社にいる新しい子か」
月夜は少しだけ背筋を伸ばした。
「月夜です」
「そうかい」
それだけ。次に木乃葉を見る。
「今日はまた尻尾出してるな」
木乃葉が一本を持ち上げる。
「暑いから」
「尻尾は暑いほうが増えるのか」
「そういう日もある」
完全に適当だった。おじいさんも分かっているのか、笑っただけで電池を取りに行く。月夜はその背中を見た。神様とは呼ばない。拝みもしない。
木乃葉は、ただ木乃葉だった。それが、妙に分かりやすかった。月夜は財布から紙幣を出す。結から預かった分。あかねおばあちゃんが金額を言う。
月夜は一度、自分で数えた。お釣りも。
「合ってる」
木乃葉が横から言う。
「見てたんですか」
「今回は見守り」
「その役職、まだ生きてたんですね」
「便利だから」
月夜はお釣りを小さな財布に戻した。買い物をした。誰かに全部任せず、自分で品物を探し、自分で金額を確かめた。そんな普通のことが、少しだけ嬉しい。
あかねおばあちゃんが袋を籠に入れながら言った。
「慣れてきたね」
「少し」
「最初は店の中でも、どこ見たらいいか分からない顔してたからねえ」
月夜は少し恥ずかしくなった。
「そんなに分かりやすかったですか」
「銀髪の子がきょろきょろしてたら目立つよ」
木乃葉が横で笑う。
「やっぱり分かりやすい」
「木乃葉は黙ってください」
「はいはい」
返事は軽かった。でも、木乃葉は月夜の籠が傾かないよう、横から一度だけ底を支えた。会計のあと、あかねおばあちゃんが月夜へ飴を一つ差し出した。
薄桃色。
「これ、持っていきな」
「またですか」
「暑い日は糖分も必要」
「ありがとうございます」
受け取る。木乃葉がすぐ見る。
「桃」
「そうみたいです」
「似合う」
「飲み物でも飴でもそれ言いますよね」
「月夜が桃っぽいから」
「どういう意味ですか」
木乃葉は答えない。あかねおばあちゃんだけが、楽しそうに笑った。
***
店を出る。外は、さっきより暑かった。月夜はすぐ隣の自販機を見た。冷たい缶が並んでいる。
「一本飲む?」
木乃葉が聞く。月夜は少し迷ってから頷いた。
「はい」
今日は、一番右下の桃味の炭酸水。木乃葉はメロンソーダ。硬貨。ボタン。がこん。冷たい缶が落ちる。月夜は両手で持った。
「冷たい」
「自販機だからね」
「分かってます」
ぷしゅ、と缶が鳴る。一口。甘い。少し強い。舌の上が痛いくらい。月夜は目を丸くした。
「おいしい」
「やっぱり」
「前から知ってたみたいに言わないでください」
「今の月夜が好きそうだと思っただけ」
木乃葉は自分の缶を開けた。月夜は少しだけ止まって、冷たい缶を頬に当てた。
「今の」と付いた二文字だけが、炭酸の刺激より長く残った。
月夜はもう一口飲んだ。
***
自販機の横には、古い金属のベンチがあった。月夜はそこに座った。熱い。
「やっぱり熱い」
「前にも座ったでしょ」
「覚えてます」
ここに来てからの記憶だ。そこはもう、昔の記憶があるかもしれない場所ではなく、前に冷たい缶を頬に当てた場所になっている。木乃葉も隣に座った。
少し間を空けて、二人で缶を飲む。月夜はふと、道の向こうを見た。緩い上り坂。その先。
「木乃葉」
「何」
「あっちって、何があります?」
木乃葉も視線を向けた。
「ああ」
少しだけ間。
「花火手の丘」
「花火手」
「夕方、光がよく残る場所」
木乃葉は缶を指先で回した。
「風もいい」
月夜は坂を見る。今すぐ何かを思い出す感じはない。ただ、名前が好きだった。
「行ってみたいです」
木乃葉が月夜を見る。
「今日?」
月夜は籠を見る。味噌。蝋燭。砂糖。紙石鹸。
「味噌を持って丘に行くの、ちょっと嫌ですね」
木乃葉が吹き出した。
「生活感強すぎるね」
「別の日に」
月夜は言った。
「何も持ってない日に」
木乃葉の尻尾が一本だけ動く。
「じゃあ今度」
「連れていってくれます?」
「うん」
あまりにも普通に返ってきた。月夜は少しだけ目を瞬かせる。
「約束ですよ」
「覚えてたらね」
「木乃葉が?」
「月夜が」
「私、最近のことは覚えてます」
「じゃあ逃げられないか」
「逃げるつもりだったんですか」
木乃葉が笑う。でも、約束は取り消さなかった。月夜は坂の先をもう一度見た。知らない場所。なのに、今度行く場所になった。
それだけで、少し違って見えた。
***
帰り道。上り坂に入ったところで、月夜は籠を持ち直した。重い。朝は空だった。今は、味噌と砂糖だけでも十分重い。木乃葉が横から手を出す。
「貸して」
「大丈夫です」
「重いでしょ」
「持てます」
「持てるのと、持たなくていいのは別」
月夜は木乃葉を見る。その言葉。少しだけ意外だった。
「……木乃葉、たまにすごくまともですね」
「返して」
「まだ渡してません」
「じゃあ貸して」
結局、籠は木乃葉へ渡った。木乃葉は片手で普通に持つ。もう片方の手には、自分で選んだラムネ菓子。
「軽そう」
月夜が言う。
「月夜が持つよりは」
「神様だから?」
「それもある」
「また便利に使った」
二人で歩く。山道へ入る少し前、道の横に小さな掲示板があった。夏祭り。清掃日。それから、共同浴場の休みの日。月夜は足を緩める。
「前も見ました」
「うん」
「でも今は、前より読めます」
「字が?」
「意味が」
月夜は夏祭りの紙を見る。前は、その頃まで自分がいるか分からなかった。今も。分からないこと自体は同じ。でも。
「いたら、行きたいです」
前より自然に言えた。木乃葉は掲示板を見たまま言った。
「じゃあ、その頃までいたら一緒に行こう」
「軽い約束が増えました」
「丘と祭り」
「二つ」
「嫌?」
月夜は少し考えた。
「いえ」
木乃葉が笑う。
「じゃあ増やそう」
「増やしすぎると忘れます」
「月夜、最近のことは覚えてるんでしょ」
さっき自分が言った言葉を返された。月夜は反論できなかった。
「……覚えます」
そう言って、月夜は掲示板の祭りの日付をもう一度見た。数字はまだ先だった。けれど、その日の自分を少し想像できた。月夜の手は、もう空いていた。
さっきまでは籠の持ち手があった場所。何もない。変に落ち着かなくて、月夜は指を少し曲げた。そのとき。
木乃葉の尻尾の一本が、月夜の手の甲に軽く触れた。
ぽふ。
月夜は見る。木乃葉は前を向いている。
「今の、わざと?」
「歩いてたら当たった」
「便利な言い訳ですね」
「便利でしょ」
月夜は少し笑った。今度は、尻尾がもう一度近くを通っても、手を引かなかった。触れはしない。ただ、避けなかった。
***
山道へ入る前、月夜は足を止めた。
「木乃葉」
「何」
「今度の丘」
「うん」
「夕方がいいです」
木乃葉が少しだけ笑った。
「分かってる」
「なんで」
「月夜、そういう色好きそうだから」
月夜は坂の先に残る夕方の色を想像した。自分で選んだ時間まで当てられたことが、少しくすぐったい。
「じゃあ、任せます」
そう答えた。木乃葉の尻尾が、少し大きく揺れた。神社へ戻る道は、前よりずっと短く感じた。月夜は空いた手を一度だけ握って、また開いた。
次にこの道を歩くときは、今日よりもう少し、帰る道らしく感じられる気がした。少なくとも、もう、ただの知らない山道ではなかった。
木乃葉と歩いた道として、今日はちゃんと残っている。
今日は特に言うこともなく、ただ!女同士とかありえないでしょと言い張る女の子を、百日間で徹底的に落とす百合のお話が面白いことのです! みかみてれん先生は本当にすごい方なものです!




