第十七話 『神霊様の尻尾を触ってみたら、なんだか無駄に心臓がどきどきしてしまいました!』
神社暮らし、神霊様の尻尾は本当に最高でしたけど、私の心臓にはあまりよくない気がします!
一巻 鐘が鳴る前の夏
第十七話 『神霊様の尻尾を触ってみたら、なんだか無駄に心臓がどきどきしてしまいました!』
——
陽はまだ高かったけれど、白雲神社に戻ってきたときの空気は、下りていったときとはまた少し違っていた。
沢良木村の下のほうの夏は、アスファルトの熱気と自販機の金属の匂いが混じっていたのに、また石段を上って境内に入ると、まず風から違った。草の匂いと乾いた木の匂い、陽を長く吸った縁側の匂いが先に来た。月夜は木乃葉から返してもらった籠を持って奥の居室のほうへ向かいながら、さっきまで手に残っていた冷たい缶の感触を思い出していた。
「どうしてそんなに静かなの。」
後ろから木乃葉が聞いた。
月夜は答える代わりに籠を下ろして、買ってきたものをひとつずつ取り出した。味噌、砂糖、蝋燭、紙石鹸、小さな瓶。結が書いてくれた紙と照らし合わせてみると、抜けはなかった。小麻里はそれをちらっと見て、短く言った。
「今回はちゃんと買ってきたね。」
「『今回は』ってつけられると、ちょっと傷つくんですけど。」
「これからもずっと今回みたいにすればいい。」
結は受け取った蝋燭を戸棚の上に置きながら、小さく笑った。
「お疲れさま。暑かったでしょ?」
「思ったより平気でした。」
月夜が言った。
「あかね商店が涼しかったので。」
「それから自販機の前で長く立ってたしね。」
その後ろから木乃葉がすぐに口を挟んだ。
月夜はなんとなくそちらを見た。木乃葉はいつも通り、三本の尻尾を後ろへ流したまま、のんびり笑っていた。月夜はまた視線を逸らした。
「また見てる。」
木乃葉が低く言った。
「見てませんけど。」
「今、三本目の尻尾見た。」
月夜が反論する言葉を失って唇だけ動かしていると、小麻里が隣で湯を沸かす薬缶を運びながら呟いた。
「そんなに気になるなら、一回触ってみればいいじゃない。」
その瞬間、部屋の中の空気が妙に静かになった。
月夜はゆっくり小麻里のほうを見た。小麻里は何事もなかったみたいに薬缶の蓋を直していて、結は湯呑みを出しかけた手を少しだけ止めた。そして木乃葉は、ほんの一瞬だけ瞬きをしてから、すぐに口元を上げた。
「そうだね。」
「『そうだね』じゃないですけど。」
「なんで? 前にも言ったけど、そのときは断ったじゃん。」
木乃葉が言った。
「今度は触ってみる?」
月夜はすぐには答えられなかった。触るなら本当に気持ちよさそうだったけれど、それを今ここで想像するだけでも、どうにも顔が熱くなるのが問題だった。
結が先に湯呑みを卓の上に置いた。
「嫌ならしなくてもいいよ。」
「したいなら、あんまり強くしないでね。」
木乃葉までそう付け足したので、月夜はなんとなく指先をもじもじさせながら迷って、すごく小さく答えた。
「……じゃあ、少しだけ……」
木乃葉が縁側のほうへ身体を向けた。尻尾の先が陽を薄く受けて、少しだけやわらかそうに見えた。木乃葉は真ん中の尻尾を持ち上げてみせた。
「こっちがいちばんおとなしいよ。」
「尻尾にも性格があるんですか?」
「少しはね。」
顔は笑っていたけれど、姿勢は思ったよりおとなしかった。月夜はゆっくり手を伸ばしたが、すぐには触れず、指先が空中で少し止まった。近づくと、毛先が先に見えた。思っていたよりずっと細くて、ずっと整っていた。陽に当たっている部分は乾いた草の色みたいで、内側はもう少し濃かった。
そして、ごく慎重に指先で尻尾に触れてみた。やわらかかった。その一言で終わらせるには妙に感触がはっきりしていたけれど、ふわふわしているのに軽いだけではなく、内側へ巻き込むような弾力が少しあった。指をそっと動かすと毛が流れに沿って寝て、すぐにまた立ち上がった。あたたかくもあった。陽のせいなのか体温なのかはわからなかったけれど、手のひらの近くに触れた瞬間、静かな温度が伝わってきた。
月夜は思わず少し息を殺した。
「……おお……」
木乃葉が肩を少し動かした。
「そんなに驚くほど?」
「思ったより……」
月夜は言葉を選んで、ようやく続けた。
「本物ですね……」
後ろで小麻里が笑いをこらえる音がした。
けれど、問題はその次だった。一度触っていると、手を離すタイミングを逃してしまった。月夜は指先で尻尾の毛並みをもう少しだけ撫でてみた。ただ撫でるというより、毛の流れを確かめる感じだった。そうすればするほど感触はさらに鮮明になって、静かで、あたたかくて、妙に手に馴染んだ。
木乃葉が低く言った。
「気持ちいい?」
「その質問、ちょっと変なんですけど。」
「触ってるほうの感想が気になっただけ。」
「じゃあ……いいとは思いますけど。」
正直に答えると、今度は木乃葉のほうが静かになった。それから月夜はどうにも気まずくなって、手にほんの少しだけ力を入れた。けれど指が尻尾の根元のほうを少し引っ張った瞬間、木乃葉が小さくびくっとした。
息が、とても低く漏れる音がした。
「んっ……」
月夜はそのまま固まった。
木乃葉の肩が一度大きく震え、続いて尻尾もぴんと立っていた。振り返った顔は、いつものように余裕のある表情ではなかった。驚いたのか、恥ずかしいのか、その両方なのか、曖昧に揺れている顔だった。
「……そこは、ちょっと……」
声は思ったより低かった。
「根元のほうは敏感だから、優しくして。」
その言葉が落ちた直後、今度は月夜のほうが凍りつき、指先が触れていた場所が急にやたらとはっきり意識された。あたたかい感触も、すぐ下から伝わっていた微かな震えも、さっき聞いた息の音も、一気に意識の中へ入ってきた。顔が一瞬で熱くなった。
「ご、ごめんなさい。」
月夜はほとんど投げるように手を離した。
小麻里があからさまにため息をついた。
「空気が変になったね。」
「変にしたのは小麻里じゃないですか……!」
月夜がすぐに振り返って言うと、小麻里は肩をすくめた。
「触ってみればって言っただけで、引っ張れとは言ってない。」
結はとうとう手の甲で口元を隠した。笑いを隠そうとしている顔だった。そして木乃葉は片手で自分の尻尾を軽く撫で下ろすと、少し遅れて笑った。
「でも、これで本当に触ったね。」
「そういうふうにまとめないでください……」
月夜は恥ずかしすぎて、もう誰のほうもまともに見られなかった。心臓だけが無駄に速かった。
***
それからしばらく、月夜は木乃葉のほうをまともに見られなかった。
見ようとしても、さっきの感触が先に浮かんだ。指先に残ったふわふわした毛並み、その内側から一瞬だけ伝わった微かな震え、そして予想よりも低く沈んだ声。考えないようにするほど、変にくっきりしていった。だから月夜はわざと卓の上に置かれた湯呑みだけを見たり、結が片づける指先や、小麻里が湯を注ぐ薬缶だけを見ようとした。
問題は、そういう態度があまりにもわかりやすいことだった。
「そこまで避けなくてもいいのに。」
木乃葉が先に言った。
すると月夜はほとんど反射的に言い返した。
「避けてるんじゃなくて、今はただ……」
語尾が濁った。
「ちょっと気まずいだけです。」
「引っ張ったほうが?」
木乃葉が聞いた。
「そこをまた正確に指摘しないでください……」
結が湯呑みをひとつ月夜のほうへ押し出した。
「飲んで。」
「お茶は悪くないから。」
月夜は言い返せず、おとなしく湯呑みを手に取った。あたたかい湯気が鼻先をかすめた。一口飲むと、緊張がほんの少しだけほどけた。けれどすぐ隣で、小麻里が何気なく投げた。
「でも表情はさっきよりまし。」
「誰が見たら大事が起きたみたいに見えるんですか。」
月夜が呟くと、小麻里は短く答えた。
「あんたの心臓のほうは、けっこう大事みたいだったけど。」
月夜は結局、湯呑みを持ったまま固まった。結はまた笑いをこらえる顔をしていて、木乃葉は今度は笑わない代わりに、頬杖をついて月夜のほうを見ているだけだった。笑ってくれたらまだ怒ることもできるのに、ああやって静かに見られると、余計に言いづらかった。
「……みんな、すごく楽しそうに見えるんですけど。」
「反応がいいからね。」
木乃葉が低く言った。
「そのくらいだと、からかいがいはあるよ。」
「からかわれる側は、あんまり楽しくないんですけど。」
「でも嫌ではないでしょ。」
その言葉を聞いて、月夜は唇だけを動かした。嫌だと言い切ると嘘のような気がして、かといって好きだと言うにはもっと大変だった。木乃葉はその沈黙に気づいたのか、今度は先に視線を逸らした。少しだけ、困らせすぎないほうへ。
そのあとは夕食の準備が自然に続いた。結は味噌を溶いて汁物を火にかけ、小麻里はあかね商店で買ってきた小さな瓶を決まった場所へしまった。月夜は洗っておいた野菜の水気を切って器に盛り、木乃葉はしばらくごろごろしてから、結局箸をそろえて置くくらいはした。
「それ、働いたうちに入りませんけど。」
月夜が言うと、木乃葉は平然と答えた。
「食卓の第一印象は大事だから。」
「さっきまで根元が敏感な話をしてた人の言うことじゃない気がしますけど。」
言った直後、月夜は自分が何を口にしたのか遅れて気づき、そのまま固まった。小麻里は野菜を盛っていた手を止めて、結は今度こそ本当に笑い出しそうな顔になった。そして木乃葉は、とてもゆっくりこちらを向いた。
「今その話、君のほうから出したね。」
「……忘れてください。」
「嫌だね。」
耳の先まで熱が上がってくるのがわかった。月夜はそのまま器だけを見下ろし、木乃葉はしばらく何も言わなかったが、とても小さな声でだけ付け足した。
「でも、さっきみたいに強くしないなら、次はもう少し長く触ってもいいよ。」
今度こそ本当に、手から器を落としそうになった。
「なんで次があるみたいに言うんですか!」
「ないの?」
「それをどうして私に聞くんですか……!」
小麻里がとうとうため息をついた。
「二人とも、ご飯の前までは静かにして。」
そのひと言で、ようやく空気が整った。
***
夕食は意外なくらい平穏だった。味噌汁の匂いが立ち上がり、箸先が器に触れる音が小さく鳴って、外からは日暮れどきの虫の声が少しずつ混じってきた。とても普通の夕食だった。問題は、普通の顔をして座っている木乃葉の尻尾が、食事のあいだずっと月夜の視界の片隅でゆっくり動いていたことだった。
結局、二回ほどまた目が行った。どちらも見つかった。
「また見てる。」
「見てませんけど。」
「今度は四回目。」
「数える基準が細かすぎます。」
結が味噌汁の椀を持って、静かに言った。
「木乃葉はもともと、そういうところはしつこいから。」
「結まで味方するんですか?」
「味方したわけじゃないけど。」
結がごく小さく笑った。
「本当のことを言っただけ。」
食事が終わったあと、片づけを済ませると外はもう薄暗く、月夜は奥の居室の縁側に少しだけ立って、夕方の空気を吸い込んだ。昼のあいだ熱を含んでいた空気はゆっくり冷めていて、木々のあいだから入り込む風は、もう昼より細くて長かった。
すぐ隣に誰かが近づいて立った。木乃葉だった。
今度は月夜も避けなかった。代わりに先に、とても小さく口を開いた。
「さっきは……ごめんなさい。」
木乃葉は少しだけ瞬きをした。
「何が。」
「引っ張ったことです。」
「ああ。」
木乃葉が笑った。
「平気。びっくりしただけだから。」
「でも。」
少しだけ沈黙があった。陽がほとんど沈んで、顔はよく見えず、声だけが近くなる時間だったけれど、木乃葉は縁側の柱にもたれながら言った。
「代わりに、ひとつわかったね。」
「何がですか。」
「君、好奇心が湧くと、思ったより大胆。」
月夜はすぐには否定できなかった。だからただ、縁側の端だけを見下ろした。木乃葉はそんな月夜を見て、とても低く笑った。
「いいね。」
「何がですか。」
「そういうところ。」
今度は不思議と、すぐには顔が赤くならなかった。けれど心臓が少し遅れて跳ねた。月夜は返事の代わりに、夕方の風をもう一度吸い込んだ。
どうやらこの夏は、本当に何でもないように見える瞬間の中で、少しずつ深くなっていくらしかった。
その! 言うなれば! もう休載はしないのです! これから冨樫先生みたいな超有名⭐︎超新星⭐︎大人気新人作家になったら、そのときは休載するでござる! つまり、しないってことです!




