第十七話 『神霊様の尻尾を触ってみたら、なんだか無駄に心臓がどきどきしてしまいました!』
神社暮らし、神霊様の尻尾は本当に最高でしたけど、私の心臓にはあまりよくない気がします!
白雲神社へ戻るころには、陽が少し傾いていた。石段を上る。月夜は空の手で歩いていた。籠は木乃葉が持っている。
「そろそろ返してください」
「もう着くよ」
「だからです」
「じゃあ最後まで持つ」
「意地ですか」
「親切」
「自分で言います?」
木乃葉は笑った。神社の鳥居が見える。その瞬間。月夜は少しだけ安心した。今朝もここから出た。そして、帰ってきた。それだけで、最近は一日の形がちゃんとできる。
***
奥の居室へ戻ると、結が買い物メモを受け取った。
「全部あった?」
「はい」
月夜が答える。小麻里は籠の中を見る。味噌。砂糖。蝋燭。紙石鹸。
「お菓子」
ラムネ菓子を見つける。月夜がすぐ言った。
「一個だけです」
「誰の判断」
「私です」
小麻里が月夜を見る。少しだけ。
「えらい」
「そこまでですか」
「木乃葉相手なら」
「ひどい」
木乃葉が不満そうに言う。結はお釣りまで確かめた。
「ちゃんと合ってる」
そう言って笑った。月夜は少し胸を張った。
「もう一人でも買い物できるかもしれません」
小麻里が即答する。
「まだ」
「早い」
「道じゃなくて、変なの拾うから」
「拾ってません」
「迷子」
「人です」
木乃葉が横から言う。
「白いのも」
「それは向こうから来ました」
「余計駄目」
結がとうとう笑った。月夜も少し遅れて笑った。信用は増えている。でも、まだ一人にはしない。今は、そのくらいの距離がちょうどよかった。
***
荷物を片づけたあと、月夜は縁側で麦茶を飲んでいた。木乃葉はその向かい。珍しく。膝の上に大きめの櫛を置いている。木の櫛。歯が粗い。
「何ですか、それ」
「尻尾用」
木乃葉は当たり前みたいに答えた。月夜は三本の尻尾を見る。
「手入れするんですか」
「するよ」
「勝手に綺麗なのかと思ってました」
「神様に何を期待してるの」
木乃葉は本物の尻尾の一本を膝に乗せる。毛並みを手で広げる。
「夏は絡むし」
「抜け毛もある?」
「ある」
「神様でも」
「ある」
「夢が減る」
「生活が増えただけ」
月夜はその言葉を聞いて、少し笑った。前にも、似たことを言われた気がする。白雲神社は、神様がいても、ちゃんと生活する場所だった。
***
木乃葉が櫛を入れる。ざっ。
「痛くないんですか」
「向き守れば」
「逆からやったら?」
「嫌」
「分かりやすい」
木乃葉が月夜を見る。
「やる?」
月夜の手が止まった。
「私が?」
「さっきからずっと見てるし」
今度は、否定しなかった。
「見てました」
「素直」
「今日からです」
「じゃあ、はい」
木乃葉が櫛を差し出す。月夜は受け取った。思っていたより重い。
「どれを」
「本物のほう」
「それは分かります」
「じゃあ右」
木乃葉が身体を少しずらす。右側の尻尾が、月夜の膝近くに来る。前に、一度触ったことがある。柔らかくて、温かかった。でも、ちゃんと手入れするために触るのは初めてだった。月夜は少しだけ姿勢を正す。
「何で緊張してるの」
「失敗したら嫌なので」
「尻尾一本でそんな顔しなくていいよ」
「木乃葉の身体でしょう」
木乃葉が、一瞬だけ黙った。
「……そういうところ、真面目だね」
月夜は答えず、毛先から、ゆっくり櫛を入れた。さら。毛が流れる。思ったより抵抗は少ない。
「これで?」
「うん」
もう一度。今度は少し長く。さら。櫛の歯のあいだから、細い毛が何本か抜ける。
「抜けた」
「普通」
「持って帰っていいですか」
木乃葉が振り返った。
「何に使うの」
「冗談です」
「一瞬本気かと思った」
月夜は笑った。緊張が少し解ける。
***
何度か櫛を通す。手触りが変わっていく。最初から柔らかかったのに、整えるほど、毛先が指の間をするりと抜ける。
月夜は櫛を止めて、手のひらで一度だけ撫でた。表面はふわふわしている。でも、その奥の体温まで、前よりはっきり感じられた。
「わ」
「何」
「さっきより、ずっと気持ちいいです」
言ってから、月夜は固まった。木乃葉がゆっくり振り返る。
「触ってるほうが?」
「毛並みの話です」
「私は変な意味で聞いてないけど」
「今の顔は聞いてました」
木乃葉は少し得意そうに笑った。月夜はまた櫛を動かす。その横で、結が茶を淹れていた。小麻里は野菜の泥を落としている。
誰も、特別なことみたいには見ていない。それが、余計に変な感じだった。神様の尻尾を梳いている。なのに、夕飯の前の家事みたいな時間だった。
「月夜」
結が言う。
「根元に近づくときは、少しゆっくり」
「はい」
月夜は顔を上げた。
「結お姉ちゃんもやったことあるんですか」
「あるよ」
木乃葉がすぐ言う。
「昔は結が一番上手だった」
「昔は?」
結が木乃葉を見る。
「今も」
「訂正が早い」
小麻里が横から言う。
「根元引っ張ると騒ぐから」
「小麻里」
「事実」
月夜は手を止めた。
「そんなに敏感なんですか」
木乃葉が少しだけ目を細める。
「根元のほうはね」
「……」
「だから、優しくして」
「言い方」
「事実」
月夜は余計に慎重な顔になった。
「分かりました」
今度こそ。月夜は真面目に頷いた。
***
だから、事故だった。尻尾の奥に、小さな絡まりがあった。月夜は櫛を少し浮かせて、指でほどこうとした。
「これ」
「ん?」
「絡んでる」
指先を入れる。毛を二つに分ける。あと少し。そのとき。木乃葉が身体を動かした。同時に、月夜の指が、根元近くの毛をほんの少し引いた。
「んっ……!」
低い声。月夜の手が止まった。木乃葉の肩が跳ねる。三本の尻尾が、一斉にぴんと立った。
「……」
「……」
空気が止まった。月夜はゆっくり手を離す。
「ご、ごめんなさい」
「……大丈夫」
木乃葉の声が、いつもより少し低い。耳は出ていない。もし出ていたら、たぶん全部寝ていた気がする。
「痛かった?」
「痛いっていうより」
木乃葉は少し顔を逸らした。頬のあたりだけが、わずかに赤い。
「そこ、急に引かれると……びっくりするから」
最後のほうだけ、声が少し低くなった。月夜はさっき指先に伝わった細い震えまで思い出してしまう。
「……分かりました」
今度は月夜まで声が小さくなった。小麻里が野菜を洗いながら言う。
「だから根元はって言ったのに」
「わざとじゃないです」
「分かってる」
月夜は櫛を持ったまま固まった。もう続けないほうがいい。そう思った。櫛を置こうとする。木乃葉が止めた。
「続き」
月夜は顔を上げる。
「いいんですか」
「嫌なら最初から頼まないよ」
結も。静かに言った。
「木乃葉は、嫌な相手には尻尾触らせないから」
木乃葉が結を見る。
「それ、今言う?」
「月夜、すごい顔してるから」
月夜は自分の頬に触れた。
「どんな顔ですか」
小麻里が言う。
「神棚割ったみたいな顔」
「そこまで?」
木乃葉が吹き出した。空気が戻る。月夜も少しだけ息を吐いた。
「じゃあ」
櫛を持ち直す。
「今度はもっとゆっくり」
「うん」
木乃葉が身体を預け直した。月夜は毛先から、またゆっくり梳いた。
***
今度は、失敗しなかった。根元に近づくほど、力を抜く。絡まりは指で解く。木乃葉も。もう身体を跳ねさせない。
「どうですか」
「上手」
「さっきより?」
「かなり」
「よかった」
月夜は少し笑った。最後に、手のひらで毛並みを整える。すう。柔らかい。温かい。最初に触ったときより、今のほうが、ずっとはっきり分かる。
木乃葉の尻尾だ。そういう感覚だった。
「終わり」
月夜が言う。木乃葉は尻尾を持ち上げて確認する。
「綺麗」
「でしょう」
なぜか。月夜のほうが少し得意になった。木乃葉が笑う。
「じゃあ次も頼もうかな」
「次があるんですか」
「嫌?」
前なら、ここで慌てたかもしれない。月夜は少し考えた。
「今日みたいに動かないなら」
「私のせいになってる」
「半分は」
木乃葉が笑った。
「じゃあ約束」
木乃葉は満足そうに、梳いた尻尾を一度だけ揺らした。
***
結が月夜の前に湯呑みを置いた。いつもの青い線の入ったもの。
「冷ましてあるよ」
「ありがとうございます」
月夜は受け取った。一口。ちょうどいい。
「結お姉ちゃんって」
「うん」
「私が熱いの苦手かどうか、もう分かったんですか」
結の手が少し止まった。
「今の月夜は、熱すぎるとすぐ顔に出るから」
「また顔」
「分かりやすいから」
木乃葉が横から言う。月夜は睨んだ。それでも、湯呑みの縁からは、もう湯気が上がっていなかった。
結が自分のために待った時間まで、その温度に残っている気がした。
「……ありがとうございます」
結は少しだけ笑った。小麻里が野菜の籠を持ち上げる。
「休憩終わったら手伝って」
「はい」
「木乃葉も」
「え」
「尻尾綺麗になったんだから働けるでしょ」
「理屈が雑」
月夜は笑った。
***
夕飯の支度は、いつも通りだった。結が汁物。小麻里が野菜。月夜が器。木乃葉は。
「箸」
月夜が言う。
「命令された」
「仕事です」
木乃葉は渋々、箸を四人分並べた。その途中、整えたばかりの尻尾が月夜の横を通る。月夜は反射的に見た。木乃葉も気づく。
「また見た」
今度は、月夜は否定しなかった。
「ちゃんと梳けてるか確認です」
木乃葉が一度だけ瞬きをする。
「うん」
木乃葉は笑った。
「ちゃんと綺麗」
それで終わった。誰も、もうそのことをからかわなかった。
***
夕食のあと、月夜は縁側へ出た。風が少し涼しい。昼の熱が、ようやく木から抜け始めている。少しして、木乃葉も来た。隣に座る。
今日は少しだけ間を空けて、月夜は自分の指先を見る。まだ。尻尾の感触が残っている気がした。
「さっきは」
月夜が言う。
「本当にごめんなさい」
木乃葉は前を見たまま答える。
「もういいって」
「でも」
「次、気をつければいい」
次。その言葉が、少しだけ胸に残る。月夜は横を見る。
「本当に次もやるんですね」
「月夜、思ったより丁寧だったから」
「途中で事故ありましたけど」
「それ込みでも」
少しの沈黙。木乃葉が続ける。
「次は、もう少し長くてもいいよ」
月夜が横を見る。
「手入れが?」
「何だと思ったの」
「……木乃葉がそういう聞き方するからでしょう」
木乃葉は笑った。それから、少しだけ声を落とす。
「触られるの、嫌じゃなかったし」
月夜の心臓が、一度だけ。強く鳴った。でも、今度はすぐ顔を逸らさなかった。
「……そうですか」
それだけ答えた。少しして、木乃葉が呼んだ。
「月夜」
「はい」
「今度は耳も?」
木乃葉が何でもないみたいに聞く。月夜は一瞬だけ黙った。朝、指先だけで触れた狐耳を思い出す。
「……今度は、もう少しちゃんと」
「予約?」
「順番です」
「じゃあ待つ」
その返事が思ったより素直で、月夜はほんの少しだけ笑った。木乃葉も。それ以上は言わなかった。三本の尻尾のうち、今日、月夜が梳いた一本だけが、縁側の床をゆっくり滑って、月夜の手のすぐ横で止まった。触れない。でも、近い。月夜はその距離を、そのままにした。風が通る。
尻尾の毛先が、月夜の小指に一度だけ触れた。今度は、どちらも何も言わなかった。
その! 言うなれば! もう休載はしないのです! これから冨樫先生みたいな超有名⭐︎超新星⭐︎大人気新人作家になったら、そのときは休載するでござる! つまり、しないってことです!




