第十八話 『肝試しをすることになってしまいましたが、思ったより普通に怖いです!』
神社暮らし、夜はだめなので朝に怖い場所へ行くみたいです!
朝。月夜が目を覚ますと、最初に聞こえたのは箒の音だった。さっ、さっ。乾いた砂を整える音。その次に思い出したのが、昨日の木乃葉の尻尾だった。
櫛を通した感触。指の間を抜けた柔らかい毛。根元を少し引いてしまったときの、木乃葉の声。月夜は布団の中で数秒だけ止まった。
「……朝から思い出すことじゃない」
自分にそう言って、起きた。奥の居室を出ると、白雲神社はもういつもの朝だった。小麻里は本殿の前を掃いている。結は井戸端で盥に水を張っている。木乃葉は、縁側で団扇を使いながら、片手に古い紙を持っていた。尻尾は三本とも、昨日より少し整って見える。月夜は見た。今度は隠さなかった。木乃葉もすぐ気づく。
「確認?」
「はい」
「どう」
「ちゃんと綺麗です」
木乃葉の口元が少しだけ緩んだ。狐耳は出していないけれど、たぶん気分は悪くないらしい。
「次も頼むね」
「動かなければ」
「まだ言う」
月夜は少し笑って、井戸へ向かった。顔を洗う。冷たい。昨日の気まずさまで少し流れていく。
***
朝食の途中、木乃葉がさっきの古い紙を食卓に置いた。簡単な地図だった。白雲神社。山道。少し離れた場所に、四角い印。その横に、『沢良木小学校高葉山分校』と書かれている。月夜は箸を止めた。
「学校?」
小麻里が頷く。
「今の沢良木小学校とは別」
「昔、山側に置かれてた分校」
「今は使ってないよ」
結が味噌汁を置きながら言う。
「校舎だけ残ってる」
月夜は地図を見る。つばさ湯からの帰りに見た沢良木小学校。白い壁。校庭。子どもたち。あそこでは、何も思い出さなかった。
「高葉山分校」
口にしてみる。風迎えの隧道みたいに、名前が先に出ることはなかった。胸も。特に動かない。
「知らない感じです」
月夜が言うと、結が少しだけ目を細める。
「それも見てみたら分かるかもね」
「行くんですか?」
木乃葉が地図を指で叩いた。
「今日」
「急」
「山の道、覚えるついで」
小麻里が言う。
「それと」
ほんの少しだけ間。
「昼の肝試し」
月夜は小麻里を見る。
「小麻里お姉ちゃんが言うと、冗談に聞こえないんですけど」
「冗談半分」
「残り半分は?」
「古い建物は、足元と釘に気をつける」
「そっち」
木乃葉が笑った。
「夜に行けないから昼に行くだけだよ」
月夜は三人を見る。
「私、行かないって選択肢は」
「あるよ」
結がすぐ答えた。意外だった。
「あるんですか」
「もちろん」
「木乃葉が面白がってるだけだから」
結の言葉に、木乃葉が少し不満そうな顔をする。
「半分は」
月夜は地図をもう一度見た。知らない場所。昔の学校。もし。そこでも何も感じなければ、それはそれで一つ分かる。
「……行きます」
小麻里が聞く。
「本当に?」
「はい」
月夜は味噌汁を一口飲んだ。
「ただし、変なのが出たら木乃葉が前」
「最初からそのつもり」
「そこは頼もしい」
木乃葉が少し得意そうに尻尾を揺らした。
***
準備は簡単だった。水筒。手拭い。懐中電灯。御札が一枚。月夜は御札を見る。
「昼ですよね」
「昼でも古い建物は暗い」
小麻里が答える。
「御札は暗さ対策じゃないでしょう」
「念のため」
「便利ですね、その言葉」
月夜は籠に水筒を入れた。結は神社に残る。出る前、結が言った。
「無理に思い出そうとしなくていいからね」
月夜は頷いた。地図を一度だけ畳み直す。今日は記憶を取り戻しに行くのではなく、高葉山分校を見に行く。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
月夜は小麻里と木乃葉と一緒に、鳥居をくぐった。
***
高葉山分校へ向かう道は、風迎えの隧道へ続く古い道の途中から、さらに山側へ分かれていた。木が多い。道も少し細い。でも、昼だから明るい。
小麻里が先を歩く。月夜は真ん中。木乃葉は後ろ。
「なんで私が真ん中なんですか」
「一番迷うから」
小麻里が言う。
「反論できない」
木乃葉が後ろから笑う。
「護送されてるみたい」
「肝試しの雰囲気がなくなります」
「安心した?」
「少し」
素直に答えると、木乃葉の尻尾が一度だけ月夜の肘に触れた。月夜は振り返らなかった。最近。そのくらいなら、いちいち驚かなくなった。
***
二十分ほど歩いたところで、木の間から屋根が見えた。灰色。低い。さらに進む。古い木造の校舎が現れた。月夜は足を止めた。思っていたより、ずっと学校だった。平屋の本館。小さな倉庫。狭い運動場。錆びた鉄棒。水の出ない水飲み場。窓枠の塗装は剥げている。でも、廃屋というほど崩れてはいない。
「……普通」
月夜が言った。
「何を期待してたの」
木乃葉が聞く。
「窓が全部割れてて」
「うん」
「黒板に『帰れ』って」
「期待しすぎ」
「肝試しって言うから」
小麻里が運動場を見る。
「定期的に様子見してる人はいるよ」
「完全に捨てられてるわけじゃない」
月夜は校舎を見上げた。
「今の沢良木小学校とは、ずっと別だったんですよね」
「うん」
「こっちは分校」
小麻里が答える。
「山側の子どもが通ってた」
「人数が減って閉じたあと、下の本校にまとまった」
それなら、あの帰り道で見た学校とは、最初から別の場所だ。月夜はもう一度校舎を見る。胸の奥。何も動かない。
「ここも」
「何」
「今のところ、知らない感じです」
小麻里はそれ以上言わなかった。ただ。
「なら、それでいい」
とだけ答えた。
***
玄関へ上がる前、小麻里が一度だけ二人を振り返った。
「先に三つ」
「何ですか」
「一人で別の部屋に行かない」
「はい」
「名前を呼ばれても、姿が見えないなら返事しない」
月夜は少し止まった。
「……それ、先に聞くとかなり怖いです」
「怖くするためじゃない」
小麻里は続ける。
「古い建物は音が回るから。誰の声か分からないまま動くと、普通に迷う」
「現実的な理由もあるんですね」
「あと」
三つ目。
「持って帰らない」
月夜は下駄箱を見る。
「何を?」
「勝手に何か」
「記念品みたいに?」
「そう」
木乃葉が横から付け足す。
「欲しいものがあったら、先に聞く」
「怪異対策?」
「半分」
「残りは」
「泥棒対策」
月夜は少しだけ肩の力が抜けた。
「そのくらいなら守れます」
小麻里が頷く。
「ならいい」
月夜は三つを頭の中で繰り返した。離れない。見えない声には返事しない。勝手に持ち帰らない。大げさな呪文ではない。むしろ、学校見学の注意事項に、ほんの少しだけ夜の神社のルールが混ざったようだった。それが、白雲神社らしい気がした。玄関のガラス戸には、鍵がかかっていなかった。小麻里が開ける。ぎい。古い蝶番の音。中から、乾いた木と紙の匂いが流れてくる。黴臭さは思っていたより弱い。
玄関脇には下駄箱。名札はほとんど外されている。薄く残った鉛筆の跡。月夜は一つずつ見た。何も思い出さない。それなのに、人がいなくなったあとまでここが「学校」だと分かるのが少し怖かった。
「どう」
木乃葉が聞く。
「記憶じゃないですけど」
月夜は下駄箱を見る。
「誰かがここを使ってたっていう感じは、すごくします」
木乃葉の表情が少しだけ静かになった。
「そういう場所だからね」
小麻里が先へ進む。
「床、気をつけて」
「はい」
廊下。左に教室。右に職員室と小さな部屋。突き当たりには手洗い場。窓から夏の光が長く差している。月夜は一歩。もう一歩。床が少し鳴る。でも、知っている感じはしない。そのことに、少し安心した。記憶がないからといって、目にするものすべてが『忘れた場所』とは限らない。
***
最初の教室。小さな机がいくつか残っていた。黒板。教卓。掲示板。画鋲の跡。月夜は窓際まで歩いた。机に手を触れようとして、止める。埃がある。
「そこは触っても大丈夫」
小麻里が言う。
「記憶を見るためじゃないです」
月夜は笑った。
「埃がすごいので」
「成長した」
木乃葉が言う。月夜は指先で机の端を少しだけなぞった。白い埃の線。ただそれだけ。何も浮かばない。
「ほんとに何もない」
月夜が呟く。木乃葉が横に来る。
「残念?」
「少し」
正直に答えた。
「でも」
月夜は教室を見回した。
「知らないって分かるのも、前よりは嫌じゃないです」
木乃葉は少しだけ笑った。
「それならいいんじゃない」
そのとき。がたん。窓が鳴った。月夜は肩を跳ねさせた。木乃葉が見る。
「今のは風」
「分かってます」
「びっくりした」
「してません」
「肩」
「身体が勝手に」
「便利だね」
月夜は少しだけ睨んだ。
***
次の部屋には、長い棚があった。古い地図。箱。ノート。小麻里が一つの箱を降ろす。中には、古い名札。星形に折られた紙。端の潰れたノート。
「残ってたんだ」
小麻里が言う。木乃葉が覗く。
「片づけきれなかったんだろうね」
月夜も近づいた。派手なものはない。むしろ、本当に普通のものばかり。誰かが名前を書いて。誰かが折って。誰かが使った。月夜はノートを見た。
「開けても?」
小麻里が少し考える。
「見るだけなら」
月夜はそっと表紙を開いた。中には、算数の計算。ひらがなの練習。先生がつけたらしい赤い丸。途中のページには、太陽と花の絵が大きく描いてあった。
上手ではない。でも、描いた本人は、たぶんかなり真面目だった。花びらの数だけは、妙に丁寧に揃っている。月夜は少し笑った。
「普通ですね」
「学校のノートだからね」
木乃葉が答える。
「何か怖いこと書いてあると思った?」
「肝試しって言われたので、ちょっと」
小麻里が呆れた顔をした。
「期待しすぎ」
月夜はノートを閉じた。思い出すものは何もない。でも、それでよかった。ここにいた誰かの普通の時間が、ただ一冊分だけ残っている。そのほうが、さっきまで想像していた怪談より、ずっとこの場所らしく見えた。そのとき。廊下で。たん。短い音。三人とも。同時に止まった。今度は、風ではなかった。
月夜の視線が廊下へ向く。木乃葉の尻尾が。一本ずつ。ゆっくり止まる。小麻里は箱を棚に戻した。
「そこにいて」
声が低い。月夜は頷いた。
「はい」
もう一度。たん。少し遠い。誰かが。廊下の床を。一歩だけ踏んだみたいな音だった。夏の光は、さっきと同じように床に落ちている。なのに、その真ん中に何か別のものが混ざった気がした。木乃葉が先に廊下へ向く。
「……いるね」
月夜の背中が冷えた。でも、逃げたいとは思わなかった。今度は、何がいるのか、ちゃんと見るところまで三人一緒だった。
あたしは!まだ冨樫先生じゃないのです!!




