第十九話 『昔の学校で何かが出ましたが、ちゃんと見る前に消えてしまいました!』
神社暮らし、山の上の昔の学校にもいろいろいるみたいです!
「……いるね」
木乃葉が言った。声は小さい。でも、冗談ではなかった。月夜は廊下を見る。夏の光。古い床。手洗い場。最初は。何も見えなかった。それから、廊下の突き当たり。光の端に、黒いものがひとつ立っているのに気づいた。
「……」
月夜の喉が止まる。人。そう思うには、輪郭が薄い。影。そう思うには、立ち方がはっきりしすぎている。子どもくらいの高さ。細い身体。首だけが、少し横に傾いている。月夜の手が、無意識に横へ伸びた。小麻里の袖をつかむ。つかんでから気づいた。
「……すみません」
「今はいい」
小麻里は影から目を離さなかった。木乃葉が一歩。前へ出る。三本の尻尾は止まっている。
「木乃葉」
月夜が小さく呼ぶ。
「うん」
「子どもですか」
「違う」
返事は早かった。月夜は少しだけ目を見開く。
「違う?」
「人の霊じゃないよ」
木乃葉の声は、思っていたより普通だった。
「雑鬼」
「ざっき」
「残った気配とか、場所の癖とか。そういうのにくっついて、形だけ真似する小さいやつ」
月夜はもう一度見る。子どもの姿。でも、子どもではない。その答えだけで、怖さの種類が少し変わった。
「じゃあ」
月夜は聞いた。
「ここで亡くなった子とかじゃない?」
「少なくとも、あれは違う」
木乃葉ははっきり言った。月夜の指から、小麻里の袖をつかむ力が、ほんの少しだけ抜けた。
***
影が、首をもう少し傾けた。ぎこちない。人なら、そこまで曲げたら痛そうなくらい。月夜の指が、小麻里の袖を少し強くつかむ。小麻里は何も言わなかった。
ただ、月夜より半歩前へ出た。
「こっち見てる?」
小麻里が聞く。木乃葉が答える。
「見てるっていうより」
少しだけ目を細める。
「真似するもの探してる」
「私たちを?」
「たぶん」
月夜は影を見る。顔らしいところには、目も口もない。でも、見られている感じだけがある。
「嫌ですね」
「うん」
「木乃葉でも嫌なんですか」
「見た目が」
「そこ?」
「動きが下手なんだよね、こういうの」
影が一歩。動いた。たん。音だけは、妙に普通だった。でも、歩き方は違う。上半身が先に傾く。脚が遅れてついてくる。首は横に折れたまま。人間の動きを、遠くから見て覚えたものみたいだった。月夜の背中が冷える。
「……本当に下手」
「でしょ」
木乃葉が言った。その会話のほうが、少しだけ怖さを減らした。
***
影が、また一歩。たん。月夜は小麻里の袖を離さない。今度は謝らなかった。小麻里も何も言わない。
「近づかれて大丈夫なんですか」
月夜が聞く。木乃葉は少しだけ肩をすくめた。
「私には」
「私には?」
「近づけないほうがいい」
「先に言ってください」
小麻里が御札へ手を伸ばす。でも、木乃葉が片手を上げた。
「まだいい」
「分かってる」
二人のやり取りが、妙に落ち着いている。それが、月夜には少し安心だった。怖いのは自分だけでいい。この二人まで慌てていたら、たぶんもっと怖かった。
影が、三歩目を踏んだ。その瞬間。木乃葉の表情が変わる。笑っていない。怒っているようにも見えない。ただ、そこにいるだけなのに、空気がほんの少し重くなった。月夜の腕に鳥肌が立つ。影が止まった。一拍。二拍。それから、急に。走った。
「っ」
月夜が息を飲む。人の走り方ではない。身体が先に倒れる。脚があとから追いつく。首は横に折れたまま。たん。たん。たん。速い。
小麻里が月夜の前へ出ようとする。その前。木乃葉が一歩だけ進んだ。それだけだった。触れていない。手も上げていない。影が、木乃葉の数歩手前で突然止まった。そして、きいっ。薄い。鋭い音。悲鳴に似ている。紙を裂く音にも似ている。次の瞬間。黒い身体が、細かく割れた。
墨を落としたガラスが砕けるみたいに、四方へ散る。月夜は目を見開いた。破片は、床に落ちなかった。陽の光に触れたところから、薄くなる。埃みたいに。
ひとつ。またひとつ。最後には、何も残らなかった。廊下。夏の光。木の床。それだけ。月夜はしばらく何も言えなかった。
「……え」
ようやく出たのが、それだった。木乃葉が振り返る。
「終わり」
「終わり?」
「うん」
「何もしてないように見えましたけど」
「したよ」
「何を」
「ここにいた」
月夜は木乃葉を見る。
「……それだけ?」
「それだけ」
小麻里が御札から手を離した。
「木乃葉、ああいうのとは相性悪いから」
「木乃葉が?」
月夜が聞き返す。木乃葉が訂正する。
「向こうが」
三本の尻尾が、またゆっくり動き始める。
「私は平気」
「雑鬼のほうが、木乃葉に耐えられない?」
「そう」
月夜は、さっき影が消えた場所を見る。
「神様って」
「何」
「思ってたより物騒」
木乃葉が笑った。
「今さら?」
***
少しして、月夜は自分の手を見た。まだ。小麻里の袖をつかんでいる。
「……」
そっと離す。布に。小さなしわ。
「すみません」
小麻里は袖を見る。
「いいよ」
「しわ」
「帰ったら伸ばす」
「すぐ戻ります?」
「このくらいならね」
月夜は少しだけ笑った。怖さが、そこで一段、下がった。小麻里が、今度は月夜の手首を一度だけ軽く握る。
「大丈夫?」
「はい」
「ほんとに?」
月夜は廊下を見る。もう何もいない。
「……ちょっと怖いです」
正直に言った。小麻里は手を離さなかった。
「なら、少し待つ」
それだけ。月夜は頷いた。数秒。何も起きない廊下を見た。木乃葉も急かさない。やがて、月夜の呼吸が普通に戻る。
「もう大丈夫です」
小麻里の手が離れた。今度は、袖ではなく、手首に、少しだけ感触が残った。月夜は、そこで、校舎へ入る前に言われたことを思い出した。
名前を呼ばれても、姿が見えないなら返事をしない。
「さっきの」
「何」
「もし、あれが私の名前を呼んでたら」
木乃葉が月夜を見る。
「返事しないほうがよかった?」
「うん」
「やっぱり」
小麻里が続ける。
「名前そのものに特別な力があるって話じゃなくて」
「声の主が見えない状態で、そっちへ行かないため」
「普通に迷うから」
月夜は少しだけ肩の力を抜いた。
「怪異のルールなのに、半分くらい遭難対策ですね」
「山と古い建物だから」
「現実のほうがしつこい」
木乃葉が笑った。
「でも、そういう現実の隙間に入るのが、ああいうのだからね」
その言葉だけは、少し真面目だった。月夜は廊下の角を見る。暗い。でも、さっきまでよりは、ただの角に見えた。
***
木乃葉は、影がいた場所まで歩いていった。しゃがむ。床を見る。鼻先を少し動かす。月夜も少し離れてついていく。
「何か残ってます?」
「ほとんど何も」
「匂いも?」
「薄い」
木乃葉は窓のほうを見る。
「たぶん、ずっとここにいたわけじゃないね」
小麻里が聞く。
「どこかから入った?」
「入ったっていうより」
木乃葉は床へ指を向ける。
「ここに残ってるものを使って、形になった感じ」
月夜は廊下を見る。擦れた床。子どもの高さにある手垢。古い下駄箱。
「人の気配が残ってるから?」
「そう」
木乃葉が頷く。
「人が長く使った場所は、空っぽになっても完全に空にはならない」
月夜はその言葉を聞いた。
「じゃあ」
「うん」
「さっきの子どもの形も」
「学校に残ってる『子どもらしさ』を借りただけかもしれない」
死んだ子どもではない。誰か一人の霊でもない。ここに積もったものを、下手に真似した雑鬼。それなら、さっき見た影の不器用な歩き方にも少し納得がいった。
「それなら」
月夜は少しだけ息を吐いた。
「さっきのノートとは関係ない?」
「分からない」
木乃葉は正直だった。
「でも、結びつける理由もまだない」
月夜は頷いた。何でも一つの謎にまとめなくていい。それも最近、少しずつ分かってきた。
***
「帰ろう」
小麻里が言った。月夜は少し驚く。
「もう?」
「見るもの見た」
「でも、あれ一匹だけで?」
「一匹出たからって全部探すほうが変」
小麻里は棚に戻した箱を一度確かめる。
「調査に来たんじゃない」
そうだった。山道を覚える。昔の分校を見る。ついでに。昼の肝試し。本当にそのくらいだった。木乃葉が月夜の横に来る。
「夜までいたい?」
「嫌です」
即答。木乃葉が笑う。
「早い」
「昼で十分です」
「夜のほうが窓綺麗だよ」
「その誘い方では行きません」
小麻里が先に玄関へ向かう。月夜も続いた。
***
下駄箱の前。月夜は少しだけ立ち止まった。剥がれた名前札。薄い鉛筆の跡。さっきの雑鬼は、誰か一人ではなかった。でも、ここには、本当にいた人たちの痕が残っている。月夜は下駄箱に触れなかった。ただ、見た。
「さっき」
月夜が言う。
「木乃葉が、人が使った場所は完全に空にならないって言いましたよね」
「言った」
「じゃあ」
月夜は少し考える。
「ここが怖いのって、何かいるからだけじゃないのかもしれませんね」
小麻里が振り返る。
「どういう意味」
「誰もいないのに」
月夜は廊下を見る。
「いた痕が多すぎるから」
数秒。木乃葉が小さく笑った。からかう笑いではない。
「そうかもね」
その答えだけで、月夜は満足した。
***
玄関を出る。外。眩しい。月夜は思わず目を細めた。風。蝉。草の匂い。校舎の中にも夏はあったのに、外へ出ると、同じ夏が全然違って感じる。運動場の隅。
錆びた鉄棒。雑草。何も変わっていない。月夜は一度だけ校舎を振り返った。一枚の窓が、陽を反射して白く光った。中は見えない。
「また来たい?」
木乃葉が聞く。月夜は少し考える。
「昼なら」
「お」
「でも、肝試しじゃなくて」
「じゃあ何」
月夜は校舎を見る。
「普通に見に」
今日。怖いものは見た。でも、それだけの場所ではない気がした。昔。子どもたちがいた。勉強して。絵を描いて。名前札のある下駄箱を使っていた。
そっちのほうが、本当はずっと長かったはずだ。小麻里が山道へ向く。
「帰るよ」
「はい」
三人で歩き始める。数歩進んだあと、月夜は自分の手を見る。さっきまで小麻里の袖をつかんでいた手。今は空いている。その横を、木乃葉の尻尾が一度だけ通った。触れない。月夜もつかまなかった。怖くないからではない。でも、もう歩けるから。月夜はそのまま、二人のあいだを歩いて、白雲神社へ戻る道へ入った。
うーん……久しぶりにケロロを見ていたら、漫画版で読んでみようかなと思って読んだんですけど、百合の匂いがちょっとするのです! よきなのです!




