第十九話 『昔の学校で何かが出ましたが、ちゃんと見る前に消えてしまいました!』
神社暮らし、山の上の昔の学校にもいろいろいるみたいです!
一巻 鐘が鳴る前の夏
第十九話 『昔の学校で何かが出ましたが、ちゃんと見る前に消えてしまいました!』
——
廊下の端から聞こえた音は、三人をその場に凍りつかせるには十分だった。
月夜は息を殺したまま廊下のほうを見た。夏の光が床の上に長く横たわっていて、開いた窓は風もなく止まっていた。さっきまではただの古い学校だったのに、その短い音ひとつで、急に『廃校』という言葉の裏側が開くような気がした。誰もいないのに、誰かがいそうな種類の空気だった。
小麻里が先に箱から手を離し、低く言った。
「そこにいて。」
その言葉を聞いて、月夜はそのまま棚の横に立ち、木乃葉はもう廊下のほうへ半分身体を向けていた。三本の尻尾がゆっくり止まっていた。いつものようにのんびりした顔ではなかった。かといって緊張した顔でもなかった。ただ、聞いている顔だった。
「風じゃないよね?」
小麻里が小さく尋ねた。
「うん。」
木乃葉が答えた。
「軽いけど。」
「軽いけどっていうのが、余計に嫌なんですけど。」
月夜がほとんど口の形だけで言うと、木乃葉が横目で一度見た。
「そのくらいなら大丈夫。」
「本当に危ないものは、こんなに堂々と音を立てないよ。」
三人はゆっくり廊下へ出た。木の床はさっきよりも静かだった。さっきは陽が差して、ただ古びて見えていた廊下が、今はあまりにもきちんと整えられた空っぽの場所のように見えた。左の壁の掲示板、色あせた窓枠、手洗い場の小さな鏡。全部そのままなのに、独特の息苦しい端正さだけが少し濃くなっていた。
廊下の端、手洗い場の前に影がひとつ立っていた。最初は影だと思ったが、陽の傾きでできた染みのようなものが、ごくゆっくり、人のように首を傾けた。月夜は反射的に小麻里の袖をつかんだ。
「……いるんですけど。」
「うん。いるね。」
小麻里はあまりにも淡々と答えた。
影はたしかに小さかった。子供の背丈くらいに見えた。身体の線もぼんやりしていて、顔もはっきりしない。ただ、姿勢だけが妙にはっきりしていた。背筋をまっすぐ伸ばしすぎたまま、首だけが少し折れていた。
月夜は背筋が冷えた。
「あれ、どう見ても普通じゃないんですけど。」
「普通ではないね。」
木乃葉が言った。
「でも大したことはないよ。」
その言葉が終わった直後、廊下の端の影が一歩動いた。
歩くというには妙な動きだった。足を上げて進むのではなく、上半身が先に傾き、脚が遅れてついてくるような動きだった。本当に、どこかネジを逆に差し込まれた玩具みたいだった。月夜は思わず一歩下がった。
「なんであんな歩き方なんですか……」
「雑鬼だから。」
木乃葉が平然と答えた。
「形の真似がうまくできないの。」
それを説明と呼んでいいのかはわからなかったが、本当の問題は、そう言っている間にもそれがどんどんこちらへ来ていることだった。たん、たん、と裸足でもないのに裸足のような音がした。
小麻里が低く呟いた。
「あまり近づかれると面倒だね。」
「そうだね。」
木乃葉がため息に近い声で言った。
「朝からどうして突っ込んでくるかな。」
その瞬間、影が何の前触れもなく、急に速度を上げた。
上半身が先にぐんと前へ傾き、脚は妙に折れたまま追いついてきた。首は横に折れたままなのに、身体だけがまっすぐ走ってくる、奇妙な動きだった。月夜はそれを見て、悲鳴に似た息を飲み込んだ。
そして次の瞬間、木乃葉が一歩前に出た。ぶつかったというには、接触さえまともに見えなかった。ただ、飛びかかってきた影が木乃葉のすぐ前まで来て、急に耳を裂くような短い悲鳴を上げた。
きいっ、という音だった。子供の声でも、風の音でもなかった。紙を両手で裂くときの音を、もっと薄く鋭くしたような悲鳴。
文字通り、砕けた。影がばらばらに壊れた。黒い墨を薄いガラス板の上に撒いて、それを金槌で叩いたように、形が一瞬で割れて四方へ散った。けれど床は汚れなかった。砕けた破片は床に触れる前に、陽の光の中で乾いた埃みたいに薄れていき、最後には何も残らなかった。
廊下には、また夏の光だけが残った。
月夜はそのまま固まっていた。
「……え?」
ほかの言葉が出てこなかった。小麻里は横で何でもないことのように息を吐き、木乃葉は自分の袖を一度払った。
「だから大したことないって言ったでしょ。」
「陽の気が弱いところにくっついて威張る種類だから。」
「陽の気ですか?」
月夜がようやく聞き返すと、木乃葉が肩をすくめた。
「うん。私はそういうの、ちょっと強すぎるから。」
「雑鬼は近づくと耐えられないの。」
「それをどうしてそんなに何でもないみたいに言うんですか……!」
「何でもないから。」
小麻里はそこでようやく、月夜がつかんでいた自分の袖を一度見た。
「もう手を離していいよ。」
月夜ははっとして手を離した。
「すみません。」
「いいよ。その代わり、しわになったね。」
「今その話ですか?」
小麻里の口元がほんの少し動いた。笑ったのかどうか曖昧なくらいに。木乃葉はそれを見て小さく笑うと、廊下の端を顎で示した。
「ほら。残ったものもないでしょ?」
「もともとあのくらいなら、ただの埃みたいなものだよ。」
「埃が悲鳴を上げながら突っ込んでくるのは、全然大丈夫じゃないんですけど。」
「でも悪いほうじゃなかったでしょ。」
木乃葉がのんびり言った。
「せいぜい、学校にこびりついた残りかす。」
月夜はその言葉を聞いてから、廊下の端の空席をもう一度見た。さっきまでたしかに何かがいたのに、今は陽の光と埃と古い木の匂いしかなかった。怖かったのかどうか、まだ整理がつかなかった。ただ、ひとつだけは確かだった。
「……木乃葉、思ったより危ないほうなんですね。」
木乃葉が目を細めて笑った。
「今さら?」
「その言葉、嬉しいね。」
雑鬼ひとつがそうしてあっけなく砕けてしまうと、かえって分校の中の空気は前よりも曖昧になった。
本当に危ない場所だったなら、むしろ気持ちは楽だったかもしれない。けれど実際に出てきたものがあの程度なら、今感じている冷たさが全部自分の気のせいみたいにも思えて、怖いというにはあまりにもあっけなく、安心するにはさっき見たものがかなり強烈だった。月夜は廊下の端の空席をもう一度見てから、ようやく息を吐いた。
「……こういうのって、よく出るんですか?」
「このくらいならたまに。」
木乃葉が言った。
「学校とかトンネルとか、人の気配が長く染みついたところにはくっつくことがあるから。」
「じゃあやっぱり怖いところじゃないですか。」
「違う。怖いところっていうより、残っているところに近い。」
今度は小麻里が答えた。
「人が長く使った場所には、人じゃなくても似たようなものが残ることがあるから。」
月夜は古い廊下をもう一度見回した。床に長く横たわる陽の光、空っぽの教室、手垢で擦れた窓枠。ああいうところにまで何かが残るのなら、学校というのは思っていたよりずっと長く人を覚えている場所なのかもしれないと思った。
「それでも、あれは本当に大したことなかったよ。」
木乃葉が付け足した。
「少し強いやつだったら、近づくこともできなかったし。」
「それ、安心できる方向じゃなくて、もっと怖い情報みたいなんですけど。」
木乃葉は肩をすくめた。小麻里はさっき覗いていた箱をもう一度整えて、棚の奥へ押し込んだ。
「とにかく、ここに長くいる必要はなさそうだね。」
「だいたい見るものは見たし。」
その言葉に、月夜は少し意外そうな顔をした。
「こんなにすぐ帰るんですか?」
「じゃあ雑鬼が一匹出たからって、最後まで探し回るのも変でしょ。」
小麻里が言った。
「私たちは肝試しに来たんであって、調査隊じゃないんだから。」
月夜はなんとなく頷いた。そういえば始まりは本当にそのくらいだった、と思った。朝から急に昔の学校の話が出て、そのまま肝試しへ流れていく流れ。けれどいつの間にか本当に学校の奥まで入って、雑鬼がばらばらに砕けるところを見ていると、今この三人の中で誰が一番おかしいのか、わからなくなる気がした。
「どうしてそんな顔してるの。」
木乃葉が尋ねた。
「いえ、ただ……」
月夜は少し迷ってから言った。
「肝試しにしては、ずいぶん本格的だったなと思って。」
「だから昼に来て正解だったでしょ。」
木乃葉が笑った。
「夜だったら、さっきの倍はうるさかったと思うよ。」
「私がですか?」
「廊下で音がしたときも、もうけっこううるさかったけど。」
小麻里が淡々と割り込んだ。
「それは驚いたからですよ。」
「驚いてはいたね。袖までつかんだし。」
「それは……!」
反論しようとして、月夜は結局口を閉じた。さっき影が立っているのを見たとき、自分でも気づかないうちに小麻里の袖をつかんでいたことを、二人ともあまりにも平気な顔で覚えているのが、なんとなく悔しかった。
小麻里はそんな月夜を一度見てから、ほんの少しだけ口元を動かした。
「次は先につかんで。」
「しわになりにくいように。」
「基準、最後までそこなんですか?」
「大事だから。」
その言葉があまりにもおかしくて、月夜は結局笑ってしまった。さっきまで廊下の端で何かが悲鳴を上げながら砕けたのに、その直後に服のしわの話をしているこの流れが、妙にこの人たちらしいと思えた。
三人はまた玄関のほうへゆっくり歩いた。入ってきたときより廊下が短く感じられた。一度奥まで見たあとだからなのか、それとも一番変なものをひとつ見て終わらせた安心感のせいなのかはわからなかった。玄関脇の下駄箱の前を通るとき、月夜は少し歩みを遅くした。
薄い名前札の跡が、まだそのまま残っていた。剥がれた文字の下に、ずっと昔の生徒たちが自分の場所を知っていた痕跡だけが、薄く残っていた。
「またどうしたの。」
木乃葉が後ろから聞いた。
「名前札です。」
月夜が言った。
「こういうものって、なくなったあとに見るほうが、変ですね。」
小麻里が先に視線を移した。
「学校は特にそう。」
「使っていた場所が残るところだから。」
その言葉を聞いて、月夜は下駄箱のひとつに指先で触れようか迷って、やめた。
***
玄関を出ると、外の夏の光が一度に降ってきた。さっきまで中にいたことが嘘みたいに明るくて、あたたかくて、生きている感じがした。運動場の草が風に擦れ、錆びた鉄棒は何もなかったみたいに陽を受けていた。
月夜は建物を振り返った。外から見るとやっぱりただの古い学校で、実際に来てみれば思ったよりまともだと感じるのもわかる気がした。けれど完全に何もない場所と言い切ることも難しかった。その曖昧さのほうが、かえって長く残りそうだった。
「次は夜に来てみる?」
木乃葉があまりにも何でもないように聞いた。
すると月夜はすぐに木乃葉を振り返った。
「来ません。」
「返事早いね。」
「今回は昼だから来たんです。」
「残念。」
木乃葉が笑った。
「夜の学校は、窓がもっときれいなのに。」
少し気にはなったが、今それを認めると妙に負けた気がした。月夜はただ知らないふりをして、建物から視線を外した。小麻里はもう山道のほうへ身体を向けていた。
「そろそろ戻ろう。」
「ここで昼を越えたら、結姉に小言を言われる。」
その名前が出ると、古い学校の中にあった緊張が少しだけ現実のほうへほどけた。下りればまた白雲神社があって、昼食があって、結姉がいて、いつものように縁側と湯呑みと風の音がある。そう考えると、さっきの出来事も、ほんの一瞬だけ学校にくっついていた奇妙な残りかすみたいに思えた。
だからだろうか。山道を下りる直前、月夜は一度だけ振り返った。
教室の窓がひとつ、陽を受けて白く光っていた。その奥はもう見えなかった。ただ古いガラスが夏の光を反射しただけだった。
それが妙に気に入った。今日は本当に、そのくらいで終わるほうがよかった。
月夜は何も言わずに向き直り、小麻里と木乃葉のあとを追って、夏の匂いが濃い山道へ足を踏み出した。
うーん……久しぶりにケロロを見ていたら、漫画版で読んでみようかなと思って読んだんですけど、百合の匂いがちょっとするのです! よきなのです!




