第二十話 『神社に戻ってからは、ただ普通にお腹が空いていました!』
神社暮らし、今日は西瓜と風の音だけでも十分でした!
白雲神社の石段が見えた瞬間、月夜の口から真っ先に出たのは、空腹を訴える声だった。
「……お腹空いた」
小麻里が振り返る。木乃葉も。月夜は自分で言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
「いや」
「うん」
「さっきまで雑鬼とか見てたのに」
「うん」
「最初に出る感想がこれでいいのかなって」
木乃葉が笑う。
「生きてる感じしていいんじゃない」
小麻里も続けた。
「朝から歩いてるんだから普通」
その普通という言葉が、月夜には少し嬉しかった。怖いものを見たあとでも、お腹は空く。神社へ帰れば昼ご飯がある。
月夜は、その事実に急かされるように石段を上った。
***
鳥居をくぐる。境内の砂。本殿。縁側。見慣れたもの。たった数日しかいないのに、古い分校から戻ってくると、全部が少し近く感じた。
奥の居室から結が出てくる。
「おかえり」
その一言で、月夜の肩から残っていた力が少し抜けた。
「ただいま」
口から自然に出た。月夜自身が一瞬だけ止まる。結も。ほんの少しだけ目を細めた。でも、誰もそこを大げさにはしなかった。小麻里も普通に靴を揃える。
木乃葉は先に縁側に上がる。
「何かあった?」
結が聞く。木乃葉が答えた。
「雑鬼が一匹」
「高葉山分校の中で?」
「うん」
「月夜は?」
結がすぐこちらを見る。
「びっくりしました」
月夜は正直に言った。
「小麻里お姉ちゃんの袖もつかみました」
「自分から言うんだ」
小麻里が言う。
「先に言われると悔しいので」
木乃葉が笑った。結は月夜の顔を見て、怪我がないことを確かめたのか、最後に手元に目を落とした。
「何も持って帰ってないね」
月夜は一瞬、入口で言われた三つ目のルールを思い出した。
「はい」
「そこにあったものも」
「見ただけです」
結が頷く。
「それならいいよ」
「木乃葉が消したものも、残ってない」
小麻里が付け足す。月夜はそこで、もう一つだけ確かめた。
「結お姉ちゃん。雑鬼って、人の幽霊とは違うんですよね」
「うん。木乃葉から聞いた?」
「はい。子どもの姿をしていても、子どもの霊とは限らないって」
結は頷いた。
「それなら大丈夫。ちゃんと区別できてるよ」
横から木乃葉が口を挟む。
「説明料は?」
「昨日のお菓子で払いました」
「安い」
「十分です」
今度は結まで笑った。
***
手を洗う。井戸の水は冷たかった。指の間。手首。月夜は最後に、手の甲にもう一度水を流した。分校の廊下。小麻里の袖。影。木乃葉の前で消えた黒い形。
水が落ちるたびに、出来事まで消えるわけではない。でも、今いる場所へ戻ってくる感じはした。隣で、小麻里も手を洗っている。月夜はその袖を見る。
少しだけ、しわが残っている。
「……ほんとにしわになってる」
「だから言ったでしょ」
「ごめんなさい」
「別に」
小麻里は水を止める。月夜は少しだけ迷った。
「小麻里お姉ちゃん」
「何」
「さっき」
「うん」
「掴んでも、離せって言わなかったですね」
小麻里が月夜を見る。何を今さら、という顔。
「怖かったんでしょ」
「はい」
「ならいいよ」
それだけ。月夜は、少しだけ笑った。
「次は袖以外にします」
「次がある前提なんだ」
「ないほうがいいです」
「なら、それで」
小麻里が先に歩く。月夜も続く。次に怖いものが出たら、何をつかむのか。そこまでは考えないことにした。
***
昼食は、思っていたよりすぐ出てきた。ご飯。味噌汁。卵焼き。胡瓜の和え物。派手ではない。でも、今はそれが一番よかった。
木乃葉はもう自分の席に座っている。月夜も迷わず自分の座布団に座った。結が味噌汁を置く。
「いただきます」
四人の声。月夜は最初の一口を食べた。
「……おいしい」
思わず出た。木乃葉が見る。
「そんなに」
「分校で食べなかったから」
「肝試しに弁当持っていけばよかった?」
「学校で雑鬼見ながら食べるの嫌です」
「景色いい教室あったのに」
「そこじゃない」
小麻里が卵焼きを取る。
「木乃葉は本当に食べそう」
「食べられるよ」
「私は嫌です」
月夜は味噌汁をもう一口飲んだ。温かい。さっきまでの廊下が、少しずつ昔の出来事みたいに遠くなる。まだ数十分しか経っていないのに。結が聞く。
「分校、どうだった?」
月夜は箸を止める。怪異ではなく、場所の話だ。少し考えた。
「思ってたより」
「うん」
「普通の学校でした」
結が頷く。
「それで」
月夜は続ける。
「今の沢良木小学校と同じで、知ってる感じはしなかったです」
「そっか」
「でも」
下駄箱。机。子どもの絵。
「誰もいないのに、いた人の感じがすごく残ってました」
木乃葉が月夜を見る。月夜はご飯に視線を落とした。
「だから怖かったのかも」
「雑鬼より?」
「雑鬼は」
月夜は木乃葉を見る。
「木乃葉の前で一瞬だったので」
「褒めてる?」
「たぶん」
「そこ、たぶんなんだ」
月夜は少し笑った。
***
食後。月夜は結にもらった簡単な地図を持ってきた。何度も開いているので、折り目が少し柔らかくなっている。白雲神社。沢良木村。
結が最初に描いてくれた線。そこに書き足そうと、月夜は鉛筆を持った。
「何してるの」
木乃葉が横から覗く。
「増やします」
山側。今日歩いた道を思い出す。分かれ道。木の多い坂。そして、小さな四角。『高葉山分校』と書く。少し考えて、その横に、『昼』と小さく書いた。
木乃葉が笑う。
「夜は?」
「行きません」
「即答」
「大事なので書きました」
小麻里も覗く。
「道、そこ少し違う」
「どこですか」
小麻里が鉛筆を借りる。線を一つ。少しだけ右へ直す。
「ここ、もう少し曲がる」
「なるほど」
月夜は地図を受け取る。自分で書いた線。小麻里が直した線。結が最初に描いた線。一枚の紙に、少しずつ増えている。
「これ」
月夜は地図を見ながら言う。
「そのうち、ちゃんと村全部入りますかね」
「紙足りなくなるんじゃない?」
木乃葉が言う。
「じゃあ裏」
「発想が雑」
「地図は広ければいいってものじゃないよ」
小麻里が言う。月夜は少し考えた。
「じゃあ、私が行ったところだけ」
「それがいいかもね」
結が答えた。行った場所。帰ってきた場所。これから行く場所。それなら、今の自分でも増やせる。月夜は鉛筆を置いた。高葉山分校。今日から、知らない場所ではなくなった。
***
午後。白雲神社には、本当に何も起きなかった。それが、ありがたかった。結が西瓜を切る。小麻里が団扇であおぐ。木乃葉は縁側に寝転がる。
月夜は自分の湯呑みに麦茶を入れた。
「今日の掃除は?」
月夜が聞く。
「しなくていい」
小麻里が答える。
「本殿も?」
「明日」
「本当に休み?」
「洗い物はした」
「それはもう終わりました」
「じゃあ休み」
月夜は縁側に座った。木乃葉が寝転がったまま言う。
「夏は何もしない時間が大事だよ」
「木乃葉は一年中言いそう」
「春も大事」
「ほら」
「秋も」
「働く季節ないじゃないですか」
「冬は寒い」
月夜は笑った。
***
西瓜。冷たい。甘い。月夜が一口食べると、木乃葉がこちらを見る。
「何ですか」
先に聞いた。
「別に」
「顔の話なら禁止です」
「今日は言ってない」
「言おうとした」
「読めるようになったね」
「みんなのせいです」
小麻里が種を一か所に集める。
「そこだけ成長早い」
「褒められてない」
結は隣で、西瓜の種が少ないところを月夜の皿に置いた。
「食べやすいほう」
「ありがとうございます」
「甘い?」
「はい」
「よかった」
普通。本当に。普通の午後。月夜は、それが少し不思議だった。午前中。影が走ってきた。悲鳴みたいな音を立てて消えた。でも、今は西瓜の種をどこに置くかで迷っている。どちらかが偽物ではない。両方。今日の出来事。
「木乃葉」
「何」
「雑鬼って」
木乃葉が少しだけ顔を上げる。
「うん」
「いなくなった場所にも出るんですよね」
「人がいなくなった場所にも、ね」
「じゃあ」
月夜は自分の湯呑みを見る。
「人がいる場所には、何が残るんですか」
木乃葉は、少しだけ黙った。結も。小麻里も。聞いている。月夜は自分で聞いてから、少し変な質問だったと思った。木乃葉が、やがて言う。
「人がいるなら」
「はい」
「まだ残りものじゃなくて、今じゃない?」
月夜は顔を上げた。木乃葉は西瓜を一口食べる。
「残るかどうかは、あとで決まる」
軽い声。でも、月夜には、妙に残った。今。結がいる。小麻里がいる。木乃葉がいる。自分もいる。湯呑み。西瓜。団扇。まだ。何かの痕になる前の時間。
月夜は、少しだけ笑った。
「何」
木乃葉が聞く。
「今の、ちょっと神様っぽかったです」
木乃葉が嫌そうな顔をする。
「褒めてる?」
「たぶん」
「また」
小麻里が小さく笑う。結も。月夜は西瓜をもう一口食べた。
***
陽が傾くころ、月夜は自分の部屋へ戻った。引き出しを開ける。服。手拭い。折った御札。その横に、地図を入れる。少し厚くなった。今日、新しい場所が一つ増えたからだ。引き出しを閉める。ことん。廊下へ出ると、木乃葉が柱にもたれていた。
「地図しまった?」
「はい」
「夜の分校って書いた?」
「書いてません」
「残念」
「行きません」
「一人ではね」
月夜は木乃葉を見る。
「三人でも」
木乃葉が笑う。
「じゃあ、そのうち」
「聞いてました?」
「聞いた」
月夜も少し笑った。怖い場所が一つ増えた。でも、同時に、帰ってきた場所も。前より少しはっきりした。月夜は奥の居室へ向かう。夕飯の匂いがする。
小麻里が何かを刻む音。結が鍋の蓋を動かす音。木乃葉の足音が後ろからついてくる。今日、分校で見たものが何だったのか。全部分かったわけではない。
でも、人の霊ではなかった。場所に残ったものにつく雑鬼だった。木乃葉には近づけなかった。そして、怖ければ、小麻里の袖くらいはつかんでもいい。
月夜は、そのしわを思い出して少し笑った。
「月夜」
前から小麻里。
「醤油、近いうち買いに行くから」
「急に現実ですね」
「なくなるから」
「はい」
怪異より先に、次の買い物が決まる。白雲神社では、怪異より先に醤油が切れるらしい。月夜は笑ったまま、いつもの席へ向かった。
その……ええと……私が冨樫先生になったわけではないんです! 起きたら午後四時でして……寝坊助問題なのです!




