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第八話 『真夜中に、かなり困った感じで起こされました!』

神社暮らし、真夜中はいろいろと困るのです!

一巻 鐘が鳴る前の夏


第八話 『真夜中に、かなり困った感じで起こされました!』


——


目が覚めたとき、月夜はしばらく、どうして自分が起きたのかわからなかった。


部屋の中は暗かった。真っ暗というほどではない。閉めた障子の向こうから月の光がごく淡く滲んでいて、そのかすかな明るさが、部屋の輪郭だけをどうにか撫でていた。虫の声は遠く、風の音は妙に近かった。どうにも、神社全体が眠っているのではなく、静かに息を潜めて耳を澄ませているように感じられた。


そしてすぐに、月夜は身体がうまく動かない理由に気づいた。重いわけではなかった。押さえつけられているというより、やわらかな体温が近すぎる、というほうが近かった。胸のあたりから腰にかけて、誰かのぬくもりが薄く重なっていた。息を吸うと、知らない匂いではなく、もう慣れた匂いがした。日向に温められた布の匂い、ほんの少し甘いおやつみたいな匂い、それから夜の空気と混ざるともっとはっきりする、獣の毛みたいな匂い。


月夜は何度か瞬きをした。


「……え?」


我ながら間の抜けた声が出た。木乃葉が、月夜の上に覆いかぶさるみたいに寄りかかっていた。赤い衣の裾が布団の上へ半分ほど流れ落ちていて、ほどけた髪が何筋か、月夜のうなじや鎖骨のあたりをくすぐっていた。近かった。近すぎて、驚くべきなのに先に息が止まりそうになった。狐耳が触れそうなくらいの距離で小さく動いていて、尻尾の一本が布団の端でゆっくり揺れているのが見えた。


月夜が身体をこわばらせると、木乃葉が見つかった猫みたいな顔で、目だけを持ち上げた。


「……ちっ。」


木乃葉が小さく舌打ちした。


「今、ちってしましたよね?」


「したよ。」


「なんでそんな堂々としてるんですか。」


木乃葉は答える代わりに、ほんの一瞬だけ鼻先を月夜の首もとへ近づけた。触れてはいなかった。ただ、温かい息だけがかすめた。それだけなのに、なぜか背中のほうが先にびくっとした。月夜は反射的に肩をすくめた。


「久しぶりに味見したくなったから。」


「何をですか?」


「君。」


あまりにも即答だったせいで、月夜は逆に言葉を失った。


木乃葉は片腕で身体を支えたまま、相変わらず近い距離で月夜を見下ろしていた。からかっているようにも見えるし、でも完全にからかいだけでもないようにも見えた。金色の目は笑うみたいに細まっていたのに、耳の先はほんの少しだけ立っていた。


月夜は一拍遅れて、顔が熱くなっていくのを感じた。


「そ、そういう言い方すると変に聞こえるじゃないですか。」


「変に聞いたのは君のほうでしょ。」


「普通、この体勢でそういうこと言ったら、だいたい変です。」


そう言ってから、今の二人の格好がどれほどひどいのかを、あらためて自覚した。木乃葉がほとんど上からのしかかるみたいに寄りかかっていて、自分は布団の中でろくに動けなくて、月の光はやたらと曖昧に白くて、髪は首に触れていた。


木乃葉がくすっと笑った。


「またそういうほうに考えるんだ。」


「木乃葉が先にそういう空気にしてきたんじゃないですか。」


「そういう空気にしたのは君だよ。」


月夜は目を逸らそうとして、失敗した。近すぎて、そもそも逃げ場がなかった。どうでもいいはずの木乃葉の顎の線とか、首の下に落ちた髪の影とか、そういうものばかりが目に入った。そのとき、木乃葉の尻尾が布団の上で一度大きく揺れた。毛先が月夜の腰の脇をかすめて、身体がぴくっと動いた。


「……尻尾、当たりました。」


「当たるでしょ。近いんだから。」


「なんでそんな平然としてるんですか……」


木乃葉はそこでようやく、ほんの少しだけ身体を後ろへ引いた。とはいえ近いことには変わりなかったけれど、少なくとも月夜が少しは息をしやすくなるくらいの距離にはなった。その代わり、今度は表情が少し変わっていた。からかう気配がごく薄く引いて、鼻先が風を裂くみたいにもう一度だけ低く動いた。


「……変だな。」


「何がですか?」


木乃葉は答えず、少しだけ耳を立てた。部屋の中は静かだった。けれどじっと聞いていると、風の音が昨日よりもっと内側まで入り込んできている気がした。窓の外をかすめる程度じゃなく、神社の廊下の下や軒の下をなぞりながら、何かを探しているみたいな音だった。


木乃葉が低く言った。


「昼に嗅いだあの匂いが、まだ残ってる。」


その言葉と同時に、月夜は昼間、掲示板の前でかすめた気配を思い出した。山のほうから先に下りてきた風。誰かが今しがた身を隠したみたいだった路地。そして、小麻里がたしかに「見た」と言った、あの短い瞬間。


月夜は思わず、自分も声を潜めた。


「じゃあさっき……私から嗅いでたのって、それですか?」


「少しだけ。」


木乃葉が言った。


「君の身体にくっついて入ってきた。だから確かめようとしたんだけど。」


「確かめ方がなんでこうなるんですか。」


「起こしたらうるさくするでしょ。」


「起こさないでそうやって覆いかぶさるほうが、もっと騒がしくなるんですけど。」


今度は木乃葉もすぐには言い返さなかった。代わりに口元だけが、ほんの少しだけ動いた。月夜は布団の端を手でぎゅっと掴んだ。さっきより心臓が速く打っているのが、近かったせいなのか、部屋の空気が本当におかしいからなのか、自分でもよくわからなかった。


そのときだった。


部屋の外のどこかで、とても軽く、こつ、と木が鳴る音がした。


二人とも同時に戸のほうを見た。木乃葉はごくゆっくりと身体を起こした。部屋の中はまたひんやりして、月夜はなんとなく布団の端をもっと引き寄せた。気まずいのは気まずいし、空気がおかしいのもまた別におかしかった。


木乃葉が耳を立てた。さっきまでの、からかうような顔ではなかった。尻尾もだらりとは揺れず、先だけがかすかに震えていた。


「外ですか?」


月夜が囁くように聞くと、木乃葉が口元に指を立てた。


「しっ。」


戸の向こうは妙に静かだった。虫の声も、風の音も、廊下の軋む音も、ひとつぶん遠くなったみたいだった。少しして、廊下のほうから足音が聞こえた。聞き慣れた歩幅だった。


木乃葉が小さく呟いた。


「小麻里。」


戸の前で気配が止まった。そして、するり、と戸が開いた。


小麻里は半分ほど開いた戸の隙間から、部屋の中をのぞき込んだ。数秒のあいだ、何も言わなかった。月明かりの差す布団は少し乱れていて、月夜は半分起き上がったままで、木乃葉はそのすぐ上にいた。


小麻里の視線が月夜を見て、木乃葉を見て、最後にもう一度布団のほうへ落ちた。そして何も言わないまま、


するり。


戸を閉め直しはじめた。


「ああ、ちょっと待ってください!!」


月夜が慌てて手を伸ばした。


「行かないでください!」


廊下の空気が止まった気がした。木乃葉がすぐ上で肩を震わせた。笑いをこらえているのが、あまりにもわかりやすかった。小麻里は戸を半分閉めたまま、ごくゆっくり目を伏せて、それからまた上げた。


「……今、あたしが入っていってもいい感じなの?」


「そ、そういう意味じゃなくて。」


「じゃあどういう意味。」


「説明したらもっと変になりそうなんですけど。」


「もう十分変。」


それはまったくその通りで、月夜は黙り込んだ。木乃葉がとうとう低く笑った。


「はは。これはちょっと面白いね。」


「面白くないです。」


「あたしは面白いけど。」


小麻里は目だけを動かして木乃葉を見た。


「なんであんたが人の部屋でこんなことしてるの。」


「人の部屋って言うには、ちょっと曖昧じゃない?」


「曖昧じゃない。夜中に起こすなら、まず戸を叩いて。」


「正式な手順が厳しいね。」


「当たり前でしょ。」


月夜は顔を隠したくなった。状況はおかしいのに、完全に間違っているわけでもないせいで、余計に困った。結局、先に口を開いたのは月夜だった。


「木乃葉が急に入ってきたのは本当なんですけど、変なほうではなくて。」


「その言い方からして、もう変なほうの人の言い訳なんだけど。」


小麻里が淡々と言った。


「匂いのせい。」


今度は木乃葉のほうが先に割って入った。からかう気配はもうほとんどなかった。小麻里の目つきも、ほんの少しだけ変わった。


「昼に嗅いだって言ってたやつ?」


「うん。もっと濃くなってた。君に少しついた程度じゃなくて、神社の中までついてきてる。」


小麻里は戸を完全には閉めないまま、少しだけそこに立っていた。それから、そのまま部屋の中へ入ってきた。今度は本当に、そういう話を聞きに来た顔だった。月夜はそこでようやく、身体をまた布団へ戻した。


「廊下にもいましたか?」


「いた。」


小麻里が短く答えた。


「でも、ここらへんがいちばん濃かった。」


その言い方に、月夜は背中のあたりがひやりとするのを感じた。外で何かを連れてきたうえに、それが夜になってもっと近くまで来ている、そういう意味に聞こえたからだった。


木乃葉が顎で月夜のほうを示した。


「さっき確かめてたのは、それが理由。」


「確かめ方が悪かったって話は、まだ終わってませんけど。」


「でも速かったでしょ。」


「速ければ何でもいいんですか?」


「少なくとも、小麻里みたいに戸閉めて逃げたりはしなかったよ。」


「逃げたわけじゃない。」


小麻里が即答した。


「わざわざ入らないほうが、全員にとって平和そうに見えただけ。」


「その判断のほうがちょっと意地悪です。」


思わず飛び出した言葉だったのに、小麻里の口元がほんの少しだけ動いた。


部屋の中はまた静かになった。風は相変わらず妙だった。窓の外を通り過ぎるだけじゃなく、床下や軒の下を探るように、匂いを追って動いていた。


小麻里が低く聞いた。


「昼に路地のほうで見たの、覚えてる?」


「はい。掲示板の前で。」


「たぶんあれと同じ類。」


「類?」


月夜が聞き返すと、木乃葉が代わりに答えた。


「形より先に気配だけ来るほう。」


そして、ごく小さく付け加えた。


「匂いを残して、風に紛れて、隙があれば中まで入ってくる。」


すぐに理解できる説明ではなかった。けれど、まったくわからない話でもなかった。月夜は膝を抱えるように引き寄せた。


「じゃあ、私のせいで入ってきたんですか?」


短い沈黙のあとで、小麻里が言った。


「まだ、そうと決めつけるには早い。」


否定ではなかったからこそ、余計に慎重な答えだった。木乃葉は布団の端に腰をかけた。今度はからかうように寄りかかる姿勢ではなくて、すぐ動けるように力を抜いた座り方だった。


「今夜は、君をひとりにしないほうがいいかもね。」


「すごく普通の顔で怖いこと言いますね。」


「怖がらせるために言ってるんだけど。」


小麻里は戸の脇にもたれたまま、ため息みたいに言った。


「じゃあ、あたしが外にいる。」


月夜はその瞬間、ぱっと顔を上げた。


「さっきは入っちゃいけないみたいな顔してたのに。」


「それはそれ。これはこれ。」


「なんかずるいのに、ちょっと安心します。」


「さっき行かないでって掴んだの、君でしょ。」


図星だった。月夜はまた布団の端を指先でいじった。木乃葉が横で笑いを飲み込んだ。


そのとき、風がもう一度だけ通り過ぎた。


今度は、ずっと遠くのほうから、聞こえたと言うには曖昧なくらい細い金属音が混じっていた。鈴の音にも似ていたけれど、まだそう呼ぶには早い、曖昧な音だった。

完全復活!! ……と言いたいところなのですが、相変わらずまだ体調はあんまりよくないのです! それから、今回は久しぶりに本屋さんへ行って、紙の本でオーバーロードを買ったのですが、やっぱり今でもすごく面白いのです!

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