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第六話 『神社の下にも、覚えなきゃいけない場所ができました!』

神社暮らし、今度は山の下のことも覚えなきゃいけないみたいです!

一巻 鐘が鳴る前の夏


第六話 『神社の下にも、覚えなきゃいけない場所ができました!』


——


昼の膳には、ひとり増えていた。人って言っていいのかは、少し微妙だったけれど。


木乃葉は最初からそこにいたみたいな顔で、何事もなく箸を取っていた。結は当たり前みたいに味噌汁の椀をひとつ増やしていたし、小麻里も驚いていなかった。納得していないのは月夜だけだった。昨日までは、尻尾が三本ある先輩が神社の裏のどこかに隠れて暮らしているのだと思っていたのに、今日は味噌汁の前で魚の骨を器用に外していたからだ。


「なんでそんなに見るの。」


木乃葉が顔も上げないまま言った。


月夜は反射的に視線を落とした。これでたぶん三回目だった。いや、五回目くらいかもしれない。自分でもわからないうちに、何度も目で追ってしまっていた。耳や尻尾ももちろんそうだったけれど、問題はそれだけじゃなかった。箸を持つ指先とか、ゆるく落ちた髪とか、うつむいたときに見える首筋とか、そういうものまで妙に目を引いた。


「見てませんけど。」


「見てたよ。」


そう言うのと一緒に、木乃葉の尻尾の一本が、ぽん、と揺れた。月夜はまたそっちに意識を持っていかれて、結局小麻里に見つかった。


「そんなに気になるなら、いっそ触れば。」


「違いますけど。」


「ずっとちらちら見てるほうがよっぽど怪しい。」


正論だったからこそ、余計に悔しかった。隣で結が味噌汁をよそいながら言った。


「ゆっくり食べて。今日は午後、下のほうにも使いがあるから。」


「下のほう?」


「神社の下まで少し下りて、荷を受け取ってくるだけ。」


小麻里が答えた。


「本格的に村まで行くわけじゃないし。」


最後のひと言だけが、妙に耳に残った。


***


昼を食べ終えてから、月夜は小麻里と一緒に裏庭へ出た。今日の使いは、山道の途中にある保管場所まで行って、米袋と味噌の壺を受け取ってくることだった。ひとりで運ぶには少し重くて、二人ならすぐ済むくらいの重さだった。


「こういうのも神社の仕事なんですか?」


「生きるのに要るものは、大体神社の仕事。」


「思ったより範囲広いですね。」


「神様は食べなくても、あたしたちは食べるから。」


案の定、後ろをのんびりついてきていた木乃葉がすぐに反応した。


「あたしも食べるけど。」


「わかってるって。」


「今、あたしだけ抜いて言ったでしょ。」


木乃葉は不満そうにぶつぶつ言いながらも、結局そのままついてきた。問題はそこからだった。月夜は、米袋より木乃葉のほうを気にしてしまっている自分に、何度も気づかされることになった。山道を下りるたび、赤い衣の裾が視界の端に引っかかったし、尻尾が揺れるたびにどうしても目が向いた。しまいには一度、木乃葉が高い石の上から軽く飛び下りたとき、少しだけ体勢を崩したところまで見てしまった。


「また見てる。」


今度は木乃葉がはっきり笑った。


月夜は持っていた壺の取っ手を、意味もなく握り直した。


「違いますって。」


「そんなに見てたら穴あくよ。」


「木乃葉が目立ちすぎるからでしょう。」


「どこが?」


どこが、と聞かれると困った。耳と尻尾だと言えばあまりにそのままだし、それ以外を口にしたらもっと怪しくなる。月夜が詰まると、木乃葉がくすっと笑った。


「言えないんだ。」


保管場所は、山道が少しだけなだらかになるあたりに建っている、小さな板小屋だった。戸の脇には、村の共同物資、と書かれた札が下がっている。小麻里は紙を確認してから、米袋を肩に担いだ。


「これでいい。持って帰るのはこれだけ。」


月夜は脇に掛かった古い案内板を見ていて、ふと足を止めた。文字は半分以上消えていたけれど、下のほうの大きな字だけはまだ読めた。


沢良木村(さわらぎ)案内図。


月夜はその文字を一度目でなぞって、それから頭の中でもう一度読んだ。


「沢良木村……」


知らないはずの言葉なのに、妙に長く聞いていたような響きがあった。その感覚が気になって、月夜は案内板の前へもう一歩近づいた。地図は単純だった。川、丘、トンネル、食料品店、共同浴場、学校。そして山の奥のほうに、白雲神社が小さく記されていた。


「これが村の名前だったんですか?」


小麻里は米袋を担ぎ直しながら答えた。


「今さら?」


「誰も教えてくれなかったじゃないですか。」


「あんたが聞かなかっただけでしょ。」


そう言われて、月夜は少しだけ口を閉じた。その横で木乃葉が案内板をのぞき込みながら言った。


「沢良木村。夏は見た目がいいし、雨が降ると道はぬかるむし、冬は思った以上に静か」


「なんだか旅行の感想みたいですね。」


「そうだよ。住んでるのが一番まともな感想書けるし。」


住んでる。という言い方が、なぜか胸に引っかかった。月夜はもう一度、案内板の文字を見た。沢良木村。今初めて名前を知った場所なのに、描かれている道のいくつかは、初めて見るはずなのに妙に見覚えがあった。


「どうしたの。」


小麻里に聞かれて、月夜はゆっくり瞬きをした。


「いえ……初めて見る地図なのに、ちょっと変で。」


「何が。」


「わからないです。ただ、ここ歩いたことあるような気が、一瞬して。」


口にした途端、小麻里の手がほんの少しだけ止まった。でも先に反応したのは木乃葉だった。


「じゃあ都合いいじゃん。明日は本当に下りても、あんまり迷わないかもね。」


冗談っぽい声だった。でも小麻里は笑わなかった。ただ米袋を担ぎ直しただけだった。


「そうだね。明日の朝は山の下まで下りよう。」


「明日ですか?」


「うん。今日はここまで。」


小麻里はあっさり言った。


「名前もわかったし、道も一応見たし、日が落ちる前に戻るから。」


戻る途中、月夜はまた一度だけ木乃葉のほうをちらりと見て、今度はきっちり目が合った。木乃葉は何も言わなかった。ただ尻尾の一本だけ、ゆっくり揺らした。それが笑っているみたいに見えて、月夜は先に視線を逸らした。


明日は山の下へ行く。沢良木村へ。その事実が、妙に少し楽しみだった。


***


翌朝、月夜は目を覚ました瞬間に、今日は下りる日だと思い出した。


不思議と、緊張より浮き立つ気分のほうが強かった。昨日、案内板で初めて名前を知った沢良木村。初めて行く場所のはずなのに、頭のどこかではもう何度か歩いたことのある道みたいな薄い残像が先に揺れていた。そういう感覚はいつも気味が悪かったのに、今日は少し違った。怖いというより、ただ変だった。変なのに、行ってみたかった。


朝の膳はいつもより早く片づいた。結は何も言わず、おにぎりを二つ多めに握って布で包んでくれた。小麻里は水筒と小さな手拭いを用意していた。木乃葉はついてくるつもりがないらしく、奥の居室の前の縁側に寄りかかって座っていた。なのに、いざ出る時間になると、何でもない顔で立ち上がって月夜のほうへ近づいてきた。


「何ですか。」


「何ですかって、見送り。」


そう言いながら、木乃葉は妙に自然な手つきで、月夜の肩についた埃を払った。指先がかすめるように触れて、後ろで尻尾の一本がゆっくり揺れた。朝からどうしてそんなふうに、他人の心臓に悪いことを何でもないみたいにできるのかわからない。月夜はまた反射で目を逸らして、それを木乃葉に全部見られていたことだけはちゃんとわかった。


「また避けた。」


「避けてませんけど。」


横から、小麻里がうんざりした顔で口を挟んだ。


「二人とも朝からうるさい。」


結は笑いをこらえたような顔のまま、おにぎりの包みを月夜に渡した。


「そんなに遠い道じゃないけど、下りたらいろいろ目に入ると思う。無理しそうならすぐ言ってね。」


「はい。」


「それから。」


結は少しだけ間を置いた。


「慣れてるように見えても、初めては初めてだから。あんまり先へ先へ行かなくていいよ。」


山道は昨日よりもっと明るかった。午前の陽はまっすぐで、葉の影はくっきりしていた。小麻里は先を歩きながらも、離れすぎないようにしていた。月夜はその後ろをついていった。しばらくして分かれ道がひとつ現れたとき、月夜の足は先に右へ向いていた。


「なんでそっち?」


小麻里が聞いた。


そのときになって、月夜はようやく立ち止まった。どうしてそっちへ行こうとしたのか、自分でも説明できなかった。ただ、足がそっちへ向いた。


「あ……違いました?」


「違わない。」


その短い返事のあと、沈黙が少し続いた。月夜はなんとなく言い訳みたいに言った。


「日当たりの感じで、なんとなく。」


「それで当てたにしては、迷わなさすぎ。」


その通りだった。月夜は口を閉じた。幸い、小麻里はそれ以上問い詰めてはこなかった。代わりに少し歩幅を落として、並ぶように歩いてくれた。


道はだんだん、人の暮らす場所へ近づいていく気配を帯びていった。石垣が見えて、水路が現れて、遠くから鶏の声らしいものまで聞こえてきた。神社の近くの静けさとは違う、生活の音だった。聞こえなかった音がひとつずつ増えていくたびに、月夜はなぜか緊張より安堵を覚えた。人が暮らしている場所には、こういう音があるものだと、身体のほうが先に覚えているみたいだった。


初めて村の姿が見えたのは、ゆるやかな下り坂の先だった。大きな村ではなかった。道も広くなく、家々は肩を寄せるみたいに並んでいた。古い瓦屋根、色あせた看板、干された洗濯物、戸口の鉢植え。静かだけれど、空っぽではなかった。ついさっきまで誰かがそこを通っていたみたいな空気が残っている村だった。


「ここが沢良木村。」


小麻里が言った。


「やっと実物を見るんだね。」


月夜は返事の代わりに、ぐるりと周りを見回した。初めて見る景色であることは確かだった。でも、完全に初めてだと信じるには、どこか微妙に見覚えがあった。あの角を曲がれば食料品店がありそうで、あの下の道は川へ続いていそうで、雨の日はあの石段が危なそうで。知るはずのないことばかりが、勝手に先に浮かんできた。


「どうしたの。」


「知らないのに、知らないだけじゃない感じがして。」


小麻里はそれを聞いても、あまり驚いた様子を見せなかった。


「じゃあ、余計にゆっくり見て。変に知ってるふりすると本当に迷うから。」


村の中へ入ると、人影が少しずつ見えてきた。戸を開けたまま野菜を刻んでいるおばさん、自転車を押して通り過ぎる学生が二人。みんなこちらをちらりと見はしたけれど、あからさまにひそひそするようなことはなかった。小さな村だからこそ、そういう距離感が残っているのかもしれなかった。


小麻里はまず、小さな店の前で立ち止まった。看板には、かすれた赤い文字で「あかね商店」と書かれていた。


「まずここ覚えて。お菓子、飲み物、洗剤、細かいものはだいたいここ。」


「なんでも屋ですね。」


「村が小さいと大体そうなる。」


月夜は硝子戸の向こうをのぞき込んで、ふと笑いそうになった。入口のあたりに、夏季限定と書かれた炭酸瓶が並んでいて、どうしてか、ああいうのは木乃葉が好きそうだと思うのがあまりにも自然だったからだ。


問題はその次だった。道を渡ろうとして、月夜はまた何気なく後ろを振り返った。もちろん、木乃葉はいなかった。ついてきていないのだから当たり前だった。それなのに一瞬、赤い衣の裾が視界の端をよぎった気がした。何もないと確かめてから、月夜は自分で自分に呆れた。


「何かあった?」


小麻里が聞いた。


「いえ。ただ……」


語尾を濁すと、小麻里が目を細めた。


「まさかもう木乃葉探してるんじゃないよね。」


図星だった。月夜はほとんど反射で否定した。


「違いますけど。」


「そういう顔じゃないけど。」


「なんでみんな、そんなに人の顔で読むんですか。」


「読めるような顔してるからでしょ。」


そこまで言って、小麻里がくすっと笑った。月夜は耳の先が熱くなるのを感じた。


「ただ……さっきまで目の前で尻尾が揺れてたから、ちょっと残ってるだけです。」


「うん。残像にしては長いね。」


明らかにからかわれていた。でも、不思議と嫌じゃなかった。小麻里はそのままあかね商店の戸を開けながら続けた。


「とりあえず入って。明日もまた下りるんだから、今日は顔だけ覚えればいい。」


明日も。その言葉が妙にうれしかった。沢良木村はまだ知らない場所で、名前を覚えたばかりの場所にすぎなかった。それでも、もう次があるとわかっているだけで、今日の見知らなさは少しだけ怖くなくなった。


月夜は小さく息を吸って、小麻里のあとを追って店の中へ入っていった。

昨日も作業していたら、そのまま気づけば朝だったので、更新できなかったのです! なので、ここからまたちゃんと更新していくのです!

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