第五話 『神社で、狐みたいな先輩に出会いました!』
神社暮らし、今日はちょっともふもふです!
一巻 鐘が鳴る前の夏
第五話 『神社で、狐みたいな先輩に出会いました!』
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朝から白雲神社の空気は、少しだけ慌ただしかった。
祭りの前日のように浮き立った騒がしさではなかった。庭を掃き、水を替え、本殿の前の器を整え、奥の居室の奥の窓を開けて風を通す。そういうことがひとつずつ重なった結果に近かった。人は三人しかいないのに、不思議と手が足りなくならないのは、結と小麻里の動き方に無駄がなかったからだ。月夜はそのあいだをついて回りながら使いをした。朝は乾いた布巾を畳み、昼が近づくころには裏庭で干していた薬草を取り込んだ。
「月夜。」
奥の居室の裏の縁側のほうから、結が呼んだ。振り向くと、小さな木箱をひとつ差し出してくる。箱というには薄く、文箱というには短い、妙に曖昧な大きさだった。
「これ、裏の奉納庫の横の棚に置いてきてくれる?」
「ひとりで行っても大丈夫ですか?」
「道は難しくないよ。」
結が言った。
「小麻里もあとから行くから。」
その言葉を聞いた小麻里は、庭の反対側で箒を立てかけてから、何でもないように言った。
「すぐじゃないけどね。これ終わってから。」
結局、先にひとりで行けという意味だった。月夜は木箱を受け取った。
***
白雲神社の裏手は、前庭よりずっと静かだった。わざわざ声を潜めなくても、自然と話し声が低くなる種類の静けさ。陽は差しているのに、木の影が先に場所を取っていて、空気まで少しひんやりして感じられた。奉納庫は思っていたより小さくて、隣の棚もすぐに見つかった。月夜は木箱を置いて、埃がかからないように布をひとつ掛けておいた。それで終わっていれば、ただの使いだったはずだった。
問題は戻る途中だった。来た道をそのままたどっているつもりだったのに、角をひとつ曲がり損ねた瞬間、見覚えのない細い道が現れた。道といっても、石がいくつかと踏み固められた土が続いているだけだった。もう少し進めば奥の居室の裏庭に繋がりそうでもあり、逆に山のほうへ抜けていきそうでもあった。
「あ。」
月夜はその場で立ち止まった。ここまで来ると、自分でも認めるしかなかった。どうにも道とは相性のよくない人間らしい。まだ真昼だった。陽も高く、風も普通だった。だから月夜は、来たほうへ引き返そうとした。
そのときだった。さく、と草を踏む音がした。
後ろでも横でもなく、上のほうからだった。反射的に顔を上げた月夜は、一瞬だけ息を止めた。先に見えたのは、赤い着物みたいな衣の裾だった。その下に、白く細い脚、草履の緒にかかった足首、そして木陰の下でも鮮やかな金色の瞳。最初に浮かんだ感想は単純だった。きれいだ。二つ目の感想は、少し遅れてやってきた。尻尾だ。それもひとつじゃなかった。少女の後ろで、ふさふさした尻尾が三本、ゆったり揺れていた。陽が掠めるたびに毛先がやわらかく光って、色は髪より少し濃い黄褐色に近かった。月夜は思わず、そこに視線を取られた。
すると、初めて見る少女が片眉を少し上げた。
「何。人の顔見るなり尻尾から入る趣味なの?」
声は思ったより軽かった。お姉ちゃんみたいな余裕があるのに、語尾だけ少し悪戯っぽかった。月夜は遅れて我に返った。
「い、いえ。顔も見ました。」
「言い訳にしては正直すぎるね。」
少女は木の幹に寄りかかっていた姿勢をほどいて、ゆっくり下りてきた。近づくほど、顔立ちがはっきり見えてくる。やわらかい目元、余裕のありそうな口元、それからどこか人間離れしたなめらかな気配。けれど、完全に神秘的というわけでもなかった。頭の上にぴんと出た耳の片方が少し寝ていて、下りる途中で袖が枝に引っかかると、表情がわずかに崩れた。お姉ちゃんっぽいのに、妙に隙があった。
月夜はつい、その耳まで見てしまった。耳、尻尾、赤い衣、金色の目。どう考えても、普通の人間ではなかった。
「今度は何その顔。」
「いえ……本当にいるんだなって思って。」
「本当にいたら駄目なの?」
「駄目っていうわけじゃないですけど、心の準備ってあるじゃないですか。」
少女はくすっと笑った。それから、ふいに少し身を乗り出して聞いた。
「あんたにもつけようか?」
「え?」
「尻尾。あと何本かあるし。」
言い方は軽かったのに、内容はまったく軽くなかった。月夜は一瞬、頭が真っ白になって、それから別の方向に先に思考が転がった。尻尾をつける。どこに。普通、ああいうのは後ろなのでは。後ろということは、位置が。
顔が一気に熱くなった。
「そ、それは位置がちょっとあれじゃないですか。」
口に出してから、ようやくもう遅いと気づいた。少女の目が細くなる。
「へえ。そういうところから考えるんだ。」
「違いますけど。」
「違う顔じゃないけど。」
月夜は唇をきゅっと結んだ。結局、別のところを指摘するように少し顎を上げた。
「それに、そっちの尻尾は本物じゃないですか。」
その言葉に、少女は一度だけ目をぱちりと瞬かせた。かと思うと、急にくるりと背を向けて、自分の三本の尻尾をやけに堂々と見せてきた。
「このうち一本は偽物。」
「え?」
「よく見て。」
そう言った次の瞬間だった。三本の尻尾が同時に揺れた。一本はのんびり、一本は苛立った猫みたいに短く、一本だけ妙に間がずれていた。月夜は思わず真剣に見比べた。
少女は腕を組んだまま待っていた。
「どう。わからないでしょ?」
「……待ってください。真ん中がちょっと怪しいです。」
「なんで。」
「いかにも『私は本物の尻尾です』って感じで揺れてるので。」
その瞬間、少女の耳の先がぴくっと動いた。図星を突かれた顔だった。
「……あんた、変なところで勘がいいね。」
そう言って、少し不服そうに三本のうち一本をひょいと持ち上げた。手に持たれた尻尾は、さっきまであれほど自然に揺れていたのに、今見ると他の尻尾と違って、ついている位置が少し不自然だった。
月夜は呆れてしまった。
「本当に偽物だったんですか?」
「本物三本だと手入れが面倒なんだよ。」
「理由が妙に現実的ですね。」
「でも見た目はそのほうが完成度高いでしょ。」
少女は偽物の尻尾をまた元に戻しながら、何でもないように言った。
「ちなみに結と小麻里はもう知ってる。初見で驚くのは、あんたが最後。」
その言い方が妙に自然だった。まるでずっと前からここにいた存在みたいに、あまりにも当たり前にあの二人の名前を口にしたからだ。
月夜は少し目を見開いた。
「じゃあ、もしかして……」
少女は口元を持ち上げた。
「うん。あんたがまだ会ってなかったほう。」
そう言って、少女はそれで説明は終わりだと言わんばかりに背を向けた。三本の尻尾がいっせいに揺れて、陽の筋を切った。月夜は反射的に彼女のあとを二歩ほど追った。
「ちょっと待ってください。それだけだと余計に怪しいですよ。」
「怪しいのは最初からでしょ。」
「そこまで堂々とされると、逆に言い返せないですね。」
少女は肩越しに月夜を振り返った。金色の目が細くなって、それから少しだけやわらいだ。
「名前くらいは教えてあげる。木乃葉」
「木乃葉……」
初めて聞く名前のはずなのに、口にしたとき、知らないという感覚が長く残らなかった。木乃葉はそんな月夜の表情を読んだように、口元を少しだけ上げた。
「いい顔してる。」
「顔に出てました?」
「すごく。」
木乃葉は軽く石の上に腰を下ろした。人間みたいに見えても、人間とは少し違う重心だった。なのに姿勢はどこか崩れていた。座った拍子に着物の裾が片方へ少し流れて、木乃葉は面倒そうな顔でまずそこを直した。
「また何その顔。」
「余裕ありげなのに、妙に隙があるなって。」
木乃葉は目を瞬かせた。それから、呆れたように笑った。
「第一印象にしては、ずいぶん正確だね。」
「当たってました?」
「当たってるから余計に腹立つ。」
そう言いながら、木乃葉は草履の先で石をひとつ軽く蹴った。足先がちらりと見えては隠れる。足首は細くて、尻尾は何でもないような顔で後ろでゆっくり揺れていた。本物が二本、偽物が一本。そう知ってしまうと、余計に気になった。
月夜は結局、尋ねた。
「でも、なんでわざわざ偽物を一本混ぜるんですか?」
「完成度。」
「そこが完成する部分だったんだ……」
「三本のほうがかわいいでしょ。二本だとちょっと半端だし。」
本当にそれだけの理由みたいに言われて、月夜は返す言葉を失った。木乃葉は手の甲で口元を隠して、少しだけ笑った。
「それに、本物だけで三本あると寝るときちょっと邪魔なんだよね。」
「あ、それはちょっとわかる気がします。」
少しだけ間が空いた。風がひとつ通って、葉の先を裏返していった。さっきまでは道に迷ったことのほうが大きかったのに、今はむしろ妙に安心していた。木乃葉が、あまりにも当然みたいな顔でここにいたからかもしれなかった。
そのとき、そう遠くないところから小麻里の声がした。
「月夜?」
探しに来たらしかった。月夜が反射的に返事をしようとしたとき、木乃葉のほうが先に口を開いた。
「こっち。」
少しして木のあいだから出てきた小麻里は、木乃葉を見るなり顔色ひとつ変えずに言った。
「またそこにいたんだ。」
「またって何。あたしを茸か何かみたいに言わないで。」
遅れて来た結は、木乃葉を見ると小さくため息みたいなものをついた。驚いた様子はなかった。本当に知っていたのだということだった。
「せめて初めて会う日くらい、少しは控えてあげて。」
「結、それは無茶言うよ。」
木乃葉はそう言いながらも、石の上から軽やかに下りてきた。三本の尻尾がふわりと散って、また揃う。それを見ている月夜の視線がまた引っかかると、木乃葉はすぐに気づいた。
「まだ尻尾気になる?」
「だって……ずっと動いてるので。」
「触ってみる?」
今度は月夜も、すぐには乗らなかった。
「また変なこと言わせようとしてません?」
「してない。今度は本当。」
木乃葉はそう言うと、本物の尻尾二本のうち片方を手で少し前へ押し出した。近くで見ると、毛並みがますますやわらかそうだった。月夜は一度だけ結と小麻里のほうを見た。二人とも止めなかった。
結局、月夜はそっと手を伸ばした。
指先に触れた感触は、思っていたよりずっとやわらかかった。あたたかくて、軽くて、生きている体温があった。指先が少しだけ深く埋もれると、尻尾の先がぴくっと揺れた。それと同時に、木乃葉の肩もほんの少し跳ねた。
「あ。」
月夜が目を瞬かせた。木乃葉はひと拍遅れて、わざとらしく咳払いをした。
「いきなりそんな奥まで触らないで。」
「す、すみません。」
「そこ、結構敏感だから。」
その言葉が落ちた瞬間、空気が一瞬止まった。真っ先に反応したのは月夜だった。顔が一気に熱くなる。木乃葉はその反応を見て、目を細めた。
「何想像したの。」
「何もしてませんけど。」
「嘘。顔が全部しゃべってる。」
「木乃葉のほうが先に変な言い方したんじゃないですか。」
「あたしは事実言っただけ。」
横で小麻里が小さくため息をついた。
「二人とも、うるさい。」
そのひと言で、かえって月夜はますます恥ずかしくなった。結は笑いをこらえるみたいに、唇だけ少し押さえた。木乃葉は不満そうに尻尾をひとつ大きく揺らした。
「もういい。紹介は終わり。あんたももう白雲神社側の人間なんだし、形式的なのひとつやっとこう」
「形式的なの?」
「うん。友達になるための形だけのやつ。」
木乃葉は一歩近づくと、手を持ち上げて見せた。中指と薬指と親指をくっつけて、人差し指と小指だけを立てた形だった。たぶん、何か意味のある印なのだろう。木乃葉はそれを月夜のほうへ、すっと差し出した。
月夜はその形を見た瞬間、目を大きくした。
「キツネサイン……!」
「違うけど。」
あまりにも即答だったせいで、月夜は逆に少し悔しくなった。
「いや、どう見てもそれじゃないですか。」
「狐なのはそうだけど、そんな名前つけたことないし。」
「今つけたらいいんじゃないですか?」
「嫌。なんか安っぽい。」
「さっきまで偽物の尻尾に完成度とか言ってた人が言う台詞じゃない気がしますけど。」
木乃葉が口をつぐんだ。ちょうど痛いところを突かれた顔だった。その瞬間、小麻里が横で小さく笑って、結もついに声を出さずに笑ってしまった。
少し間が空いてから、木乃葉は手の形をほどきながら、ぽつりと呟いた。
「……ほんと、初対面から初対面にしては妙に話が合うね。」
その言い方が嫌じゃなくて、月夜も少しだけ笑った。そして今度は自分から手を上げて、さっき木乃葉が見せたあの少し間の抜けた狐みたいな形を真似してみせた。
「じゃあ、とりあえず非公式キツネサインで。」
「だから違うって。」
「でも通じたじゃないですか。」
木乃葉は呆れたみたいに首を振ったけれど、耳の先は少しだけ上がっていた。三本の尻尾も、同じ調子でひと揺れした。その様子を見たとき、月夜は思った。
ああ、この子とは、ちょっと早く仲良くなれるかもしれない。
残響軌跡は本当にどうしたらいいのでしょう……これを完結させてからやるとなると、少なくとも一年後にはなりそうですし、一日に二話ずつやったら、あたしの身体が先に痛くなってしまいそうなのですけど……




