第四話 『神社で、仕事をすることになりました!』
神社暮らし、仕事は思っていたよりずっと難しいのです!
翌日の昼。月夜は本殿の裏を、両腕で大きな箱を抱えて歩いていた。前が見えない。正確には、箱の右端から少しだけ見える。
「小麻里お姉ちゃん」
「何」
後ろから返事が来る。
「これ、もう一回り小さい箱なかったんですか?」
「中身が入らない」
「じゃあ半分ずつ運ぶという賢い方法は」
「今思いついたの?」
「はい」
「遅い」
その通りだった。箱の中には香と短い蝋燭、それから折った紙が入っている。重くはない。ただ、大きい。
「前、ちゃんと見て」
「見えてません」
「じゃあ止まって」
「命令が現実的」
月夜は素直に止まった。小麻里が横へ回り、箱を少し持ち上げる。視界が開いた。
「最初から手伝ってくれてもよかったんですよ」
「一人で持てるって言ったの、あんた」
「過去の私を信用しないでください」
「五分前だけど」
二人で箱を持って、本殿の裏の小さな倉庫まで運ぶ。月夜は昨日場所を覚えたばかりだった。今日は迷わなかった。それだけで少し嬉しい。戸を開ける。
中はひんやりしていた。
「下の棚」
「覚えてます」
月夜はしゃがんだ。箱を入れる。その瞬間。敷居に爪先が引っかかった。
「あ」
身体が前へ傾く。倒れ込む前に、横から腕が伸びた。小麻里が月夜の二の腕を掴んだ。強く引く。
月夜の肩が小麻里の胸元近くにぶつかりそうになって、ぎりぎりで止まった。箱も無事だった。
「……危な」
小麻里が低く言った。月夜は数秒、そのまま動けなかった。近い。顔も。肩も。掴まれている腕も。
「月夜」
「はい」
「立てる?」
「たぶん」
「昨日からそれ好きだね」
「今はちょっと別の理由で」
小麻里が眉を寄せる。月夜はすぐに立ち直った。
「大丈夫です」
腕が離れる。そこだけ、少し涼しくなった気がした。小麻里は箱を見た。
「中身、平気?」
「私より先に箱ですか?」
「あんたは喋ってるから平気」
「合理的すぎる」
でも、掴まれた腕は痛くなかった。むしろ、守られた感触だけが妙に残った。
***
倉庫の中を少し整理する。小麻里が蝋燭を数えているあいだ、月夜は古い木箱を見つけた。端が少し開いている。
「これ、何ですか?」
「昔のもの」
「昨日もその説明聞きました」
「便利でしょ」
「説明を放棄するには」
月夜は箱へ手を伸ばさなかった。昨日、小麻里に言われた。まだ分からないものは勝手に触らない。
「開けないんだ」
「成長しました」
「一日で?」
「一日でも」
小麻里は少し笑った。月夜はその顔を見てから、箱に視線を戻した。古い紙が一枚、隙間から見えている。文字までは読めない。でも、胸の奥が少しだけざわついた。理由は分からない。月夜は手を伸ばしかけて、やめた。
「偉い」
後ろから言われた。
「見てたんですか」
「見てた」
「信用ないですね」
「今作ってる途中」
その言い方が、少しだけ嬉しかった。
***
倉庫を出ると、陽射しが強かった。裏庭では洗った布が風に揺れている。月夜は背伸びをして、一番高いところの布へ手を伸ばした。届かない。もう少し。
つま先立ち。まだ少し。
「……」
隣から小麻里の手が伸びた。簡単に取る。
「はい」
「切ない」
「何が」
「身長差が」
「知らない」
「そこは少しくらい慰めてください」
「さっき、足元見ないで転びかけた人が高いところまで見ようとしなくていい」
月夜は布を受け取った。
「小麻里お姉ちゃん、意外と優しいですよね」
「意外、いらない」
「じゃあ、かなり優しい」
「もっといらない」
月夜は笑った。布を畳む。今度は端を揃える。小麻里が確認する。何も言わない。合格らしい。その頃、結が湯呑みを三つ持って出てきた。
「休もう」
「賛成です」
月夜は一番に縁台に座った。結が団扇を渡してくれる。月夜は顔をあおいだ。
「生き返ります」
「さっき死にかけてた?」
小麻里が言う。
「倉庫で一回」
「大げさ」
結が笑う。三人で麦茶を飲む。風が一つ、森のほうから抜けた。月夜は団扇を止めた。葉の音。蝉。その奥に、さっ。誰かが草を踏んだような音が混じった。
月夜は森を見る。影しかない。小麻里も同じ方向を見た。結は湯呑みを置いた。
「聞こえました?」
月夜が尋ねる。
「うん」
結が答えた。昨日までなら、たぶん少し誤魔化された。今日は違った。
「人ですか?」
「分からない」
「また分からない」
「分からないものを、知ってるふりはできないから」
月夜は少しだけ笑った。
「それ、結構好きです」
「何が?」
「分からないって言ってくれるの」
結の目が少しだけ動いた。小麻里は何も言わず、麦茶を飲んだ。月夜はもう一度森を見る。怖さはある。でも、前より、ひとりで怖がっている感じはしなかった。休憩のあと、月夜は井戸から水を運ぶことになった。今度は桶を半分だけ。
「満杯じゃないんですね」
「昨日の歩き方見てたから」
小麻里が言う。
「信用がない」
「安全がある」
「言い方だけ格好いい」
月夜は桶を持ち上げた。重い。でも持てる。水面が揺れるたび、歩幅を小さくする。一歩。二歩。小麻里は少し後ろを歩いていた。手は出さない。でも、転びそうになれば届く距離。月夜はそれに気づいて、何も言わなかった。無事に台所まで運ぶ。桶を置いた。一滴もこぼしてはいない。
「できました」
「うん」
「もう少し褒めても」
「水が床にない。偉い」
「幼児みたい」
「じゃあ次は満杯?」
月夜は桶を見た。
「半分でお願いします」
「素直」
二往復目は、一往復目より少し速かった。三往復目。小麻里はもう後ろについてこなかった。台所の前で野菜を洗っている。月夜はそれに気づいて、少しだけ嬉しくなった。信用は、たぶんこういうところから増える。月夜は空になった桶を見下ろした。一昨日は、誰かに迎え入れてもらう側だった。
今日は、自分の足で水を運んでいる。それだけの違いなのに、少しだけ胸を張りたくなった。
こういう小さなことなら、明日も一つずつ増やしていけそうだった。月夜は空の桶を持ち上げて、今度は自分から井戸のほうへ戻った。
***
夕飯の支度をする頃には、陽がかなり傾いていた。月夜は大根を切っていた。厚い。薄い。少し厚い。並べると、性格の違う兄弟みたいになった。
小麻里が横から覗く。
「ばらばら」
「個性です」
「煮える時間ずれる」
「料理は個性に厳しい」
「当たり前」
小麻里が包丁の角度を直す。手の甲に指が触れる。月夜の視線がそちらへ行く。
「包丁」
「はい」
「こっち見て」
「はい」
「返事だけいい」
結は鍋の向こうで笑っていた。
「二人とも、息合ってきたね」
「どこがですか」
月夜と小麻里の声が重なった。今度は結がはっきり笑った。夕飯のあと、月夜は自分で使った器を洗った。小麻里が横から一度だけ手を出した。
「そこ、泡残ってる」
「厳しい」
「口に入るものだから」
月夜は洗い直した。結は拭き終わった器を棚に戻している。その手つきを見ながら、月夜は思った。昨日までは、自分だけが、この家の動きから半歩遅れていた。今日は、まだ遅いけれど、何をすればいいか、聞く前に分かる瞬間が少し増えた。それが、記憶が戻ることとは違っても、暮らしを取り戻すことには近い気がした。
***
夜。食事と片づけが終わったあと、月夜は奥の居室の外の縁側に座っていた。完全な外ではない。でも、完全な中でもない。
昨日なら何となく座っていた場所だった。今日は、自分で少し考えてから座った。
「そこ、外すぎる」
後ろから小麻里の声。月夜は振り返る。
「来ると思ってました」
「なら最初から中にいれば」
「ちょっと風に当たりたくて」
小麻里は庭を見る。それから、月夜の隣に来た。すぐには座らない。一度、暗い境内を確認する。そのあと、少し離れたところに腰を下ろした。
二人の間には、一人分くらい空いている。月夜は膝を抱えた。
「小麻里お姉ちゃん」
「何」
「ここ、怖くないんですか?」
小麻里は少し考えた。
「慣れてる」
「怖くないとは言わないんですね」
「怖くないふりする意味ないし」
その答えは、意外だった。月夜は庭を見る。本殿。石段。木の影。昼と同じ場所なのに、夜になると距離が変わって見える。
「私は、ちょっと怖いです」
「うん」
「でも」
月夜は足元を見る。
「前よりは、帰る場所が分かるので」
小麻里が月夜を見る。
「帰る場所?」
「部屋です。あと、食卓」
「小さいね」
「今はそれくらいで十分です」
小麻里は何も言わなかった。でも、その沈黙は嫌ではなかった。そのときだった。本殿の脇。暗い影の間を、白いものが、すっと横切った。月夜は息を止めた。
人。そう思うには軽すぎる。布。そう思うには形がある。反射的に立ち上がりかけた。その前に、手首を掴まれた。
「出ないで」
小麻里の声が低くなる。月夜は止まった。白いものは消えた。もう一度見ても、何もいない。虫の声だけ。小麻里の手はまだ離れない。
「……今の」
「見えた」
月夜は小麻里を見る。
「見間違いじゃない?」
「たぶん、違う」
初めてだった。小麻里が、そこまで言ったのは。月夜の背中が少し冷えた。でも、同時に、妙な安心もあった。
「じゃあ、あれ何ですか?」
「分からない」
「またそれ」
「でも、追わないで」
小麻里は月夜の手首を少し強く握った。
「見えても、呼ばれても、夜は境内の外まで追わない」
月夜はその言葉を聞いた。呼ばれても、そこだけが引っかかった。
「呼ばれることもあるんですか?」
小麻里の目が少し動く。
「……たまに」
月夜はしばらく黙った。まだ掴まれている手首に、一度だけ目を落とした。あれは見間違いではない。夜の神社には、二人にも分からないものがいる。そして、追ってはいけない。
「分かりました」
月夜は言った。
「追いません」
小麻里の手が、ようやく離れた。
「素直」
「命に関わりそうなところでは、素直です」
「そこだけ?」
「普段は検討します」
小麻里が短く笑った。二人で立ち上がる。月夜は戸口へ向かってから、一度だけ振り返った。白いものはもういない。でも、いなかったことにはならない。
それでいい。知らないものがあるなら、知らないと認めて、必要なところまで近づけばいい。その距離を、少しずつ覚えていけばいい。
「月夜」
「はい」
「置いてくよ」
「今行きます」
月夜はすぐに追いついた。今夜は、暗い庭より、小麻里の背中を見て歩くほうを選んだ。
昨日までは平気だったのに、朝起きたら足がふるふるしていて、起き上がることもできずにずっと寝転がっていたのです! これはもう、あたしが病弱美少女になる運命ってことな気がするのです!




