第三話 『神社で、少しずつやることを覚えるようになりました!』
神社暮らし、思っていたより覚えることが多いのです!
昼食が終わると、白雲神社は急に静かになった。さっきまで器の触れ合う音がしていたのに、今は蝉と風の音のほうが近い。
月夜は縁側に座ったまま、庭を見た。朝、自分で掃いたところだけ、砂の筋が少し不揃いだった。
「……私のところだけ下手ですね」
「最初から上手だったら、それはそれで怖い」
小麻里が空いた膳を重ねながら言った。月夜は少し考えた。
「じゃあ、午後は何します?」
「休んでてもいいけど」
「嫌です」
返事が早すぎたのか、小麻里が顔を上げた。
「暇だと余計なこと考えるので」
「自覚あるんだ」
「昨日から、考えても答えが出ないことばっかりですから」
月夜は立ち上がった。
「それより、ここで使う場所を覚えたいです」
小麻里はしばらく月夜を見た。それから、持っていた膳を結へ渡した。
「じゃあ来て」
「はい」
「一回で全部覚えようとしないで」
「善処します」
「それ、覚えない人が言うやつ」
月夜は何も言い返せなかった。
***
最初は井戸だった。朝にも使った場所だけれど、仕事として見ると少し違った。桶が二つ。盥が三つ。柄杓。乾いた布。奥には小さな木蓋のついた容器。
「こっちは生活用」
小麻里が手前の桶を叩く。
「こっちは本殿で使うもの」
「混ぜない」
「そう」
「夕方以降は一人で来ない」
小麻里が月夜を見る。
「それも覚えてるんだ」
「昨日から三回くらい言われてます」
「なら四回目はいらないね」
「五回目くらいまでは聞くと思います」
月夜が笑うと、小麻里は小さく息を吐いた。井戸の横を抜ける。次は本殿の裏だった。小さな倉庫がひとつある。
戸を開けると、乾いた薪と紙の匂いが混ざって流れてきた。掃除道具。予備の蝋燭。香。客用の湯呑み。折り畳まれた布。
「神社って、もっと神聖な物だけ入ってるのかと思ってました」
「箒も神社には必要」
「急に現実的ですね」
「神様が掃除してくれるなら楽だけど」
「してくれないんですか?」
「少なくとも、うちは」
小麻里はそう言って棚の下を指した。
「乾いた布はそこ」
月夜は頷いた。棚へ手を伸ばす。その途中で、指が止まった。小麻里が示した場所ではない。一段下。端から二番目。そこへ、手が自然に向いていた。
月夜は自分の手を見た。
「……あれ」
「何」
「今、私、どこにあるか知ってた気がします」
小麻里の顔から、少しだけ表情が消えた。
「昨日見たんじゃない?」
「昨日、ここ入りましたっけ」
「入口までは」
「棚の中まで?」
小麻里は答えなかった。月夜は布を持ったまま、もう一度棚を見る。端から二番目。そこだけ、少し空いている。乾いた布を置くなら確かにちょうどいい。
ただ、それだけかもしれない。
「偶然ですかね」
「……そうかも」
返事が一拍遅かった。月夜はそれ以上聞かなかった。でも、覚えておくことにした。倉庫を出る前、小麻里が棚の上から細長い木箱を一つ降ろした。
「これは触らない」
「触る前に言われました」
「月夜、気になると顔近づけるから」
「そんな癖あります?」
「ある」
木箱には細い紐が巻かれていた。月夜は近づかずに見る。
「中、何ですか?」
「祭具」
「そこまでは予想できます」
「じゃあ十分」
「説明が省エネ」
小麻里は木箱を元に戻した。月夜はその手元を見ていた。棚の上。右から三番目。不思議なことに、そこも妙に見覚えがある気がした。
でも今度は口にしなかった。一つ目は偶然かもしれない。二つ目まで言えば、本当に何かになってしまいそうだった。小麻里が振り返る。
「何」
「いえ」
月夜は首を振った。
「ちゃんと覚えようと思って」
「ならいい」
小麻里は先へ歩いた。月夜はもう一度だけ、右から三番目の棚を見た。今日覚えた場所として、そういうことにしておいた。名前だけではない。
道だけでもない。自分の手まで、この神社のことを少し知っている。
***
裏庭には、物干し紐と薬草を干すざるが並んでいた。陽射しの下で、白い布が揺れている。小麻里はざるの葉をひとつ裏返した。
「これは触っていい」
「こっちは?」
「まだ」
「これは?」
「それもまだ」
「私、触っていい物のほうが少なくないですか?」
「今日で二日目の人だから」
「正論が強い」
月夜は洗った手拭いを取り込んだ。一枚。二枚。三枚目を畳んだところで、小麻里が言った。
「端、ずれてる」
「これくらいなら同じじゃないですか」
「棚に入れたら崩れる」
「細かい」
「あとで困るの自分」
小麻里が一枚取り、さっと畳み直した。月夜はその手元を見た。速い。迷わない。
「小麻里お姉ちゃんって、こういうのずっとやってるんですか?」
言ってから、月夜は止まった。小麻里も止まった。
「……今」
「はい」
「お姉ちゃんって言った?」
月夜は自分の口元を押さえた。
「言いました?」
「言った」
「なんで」
「こっちが聞きたい」
数秒。風だけが布を揺らした。月夜は妙に恥ずかしくなった。
「嫌なら戻します」
「別に」
小麻里はすぐに答えた。
「呼びやすいなら、それでいい」
「じゃあ……小麻里お姉ちゃん」
「わざわざもう一回言わなくていい」
耳が少し赤かった。月夜は見なかったことにして、次の手拭いを畳んだ。今度は端をきれいに揃えた。
***
しばらくして、結が裏庭へ出てきた。盆の上には三つの湯呑み。それと、小さく切った羊羹があった。
「休憩」
「神社にも休憩ってあるんですね」
「休まないと、小麻里が倒れるまでやるから」
「結お姉ちゃん」
小麻里が少しだけ嫌そうな顔をした。月夜もつられて、「結お姉ちゃん」と小さく繰り返した。今度は、さっきほど驚かなかった。
「いつの間に、お二人とも私のお姉ちゃんになったんでしょう」
結が湯呑みを置く。
「嫌?」
「いえ。むしろ、しっくりきます」
答えたあと、胸の奥が少しだけざわついた。しっくりくる。どうして。昨日会ったばかりなのに。月夜が黙っていると、結が羊羹を一つ月夜のほうへ寄せた。
「考えすぎない」
「顔に出てました?」
「少し」
「この家、顔を読む人多すぎません?」
「月夜が読みやすいんじゃない?」
小麻里まで同じことを言う。
「二対一は卑怯です」
月夜は羊羹を食べた。甘かった。それだけで、少しどうでもよくなった。しばらく三人で風に当たる。
月夜は湯呑みを持ちながら、午前から気になっていたことを思い出した。
「結お姉ちゃん」
「うん」
「朝、村から戻ったら話すって言いましたよね」
結の手が止まった。小麻里も月夜を見る。
「夜に聞こえた音のことです」
忘れていない。その意思だけは、きちんと見せたかった。結は湯呑みを置いた。
「全部は話せないけど、一つだけ」
月夜は姿勢を少し正した。
「はい」
「聞こえたこと自体は、月夜の勘違いじゃない」
風が一度、物干しの布を膨らませた。月夜は瞬きをした。
「……じゃあ、二人にも聞こえるんですか?」
「聞こえることはある」
「何の音なんですか?」
そこで、結はすぐに答えなかった。
「それはまだ」
月夜は頬を少し膨らませた。
「一個答えて、一個増えました」
「ごめん」
「でも」
月夜は湯呑みを見た。
「勘違いじゃないって分かっただけ、昨日よりましです」
結の目が少し細くなった。小麻里は何も言わなかった。けれど、月夜の湯呑みが空いたのを見て、麦茶を少し足してくれた。休憩のあと、結は月夜に、小さな盆を渡した。湯呑みが二つ載っている。
「これ、社務所の前までお願い」
「お客さんですか?」
「近所の人。書類を置きに来ただけ」
月夜は盆を受け取った。歩く。こぼさないように。いつもより少しだけ背筋が伸びる。社務所の前には、年配の女性がひとり座っていた。
月夜を見ると、少し驚いた顔をする。
「新しい子かい?」
月夜は一瞬だけ詰まった。新しい子。自分は、そう見えるらしい。
「……今のところ、雑用係です」
後ろで小麻里が咳き込んだ。女性は笑った。
「そうかい。頑張りな」
「はい」
月夜は湯呑みを置いた。それだけ。名前も聞かれなかった。どこから来たのかも。そのことに少しだけ救われた。戻る途中、小麻里が言う。
「雑用係って自分で名乗る人、初めて見た」
「今日そう決まりました」
「決めた覚えない」
「でも否定しませんでしたよね」
「今してる」
「遅いです」
結が廊下の向こうで笑っていた。ほんの数分。それでも、ただ神社の中にいるだけではなく、神社の側から誰かにお茶を出した。
月夜にはそれが少しだけ嬉しかった。
***
午後は社務所の中を手伝った。湯呑みを拭く。布巾を畳む。香を補充する。月夜は一度説明された場所に、今度は迷わず物を戻した。
そのたび、少しだけ嬉しかった。自分の記憶が戻ったわけではない。でも、今日覚えたことなら、明日へ持っていける。それは思っていたより大きかった。
棚の上にあった箱を降ろそうとしたとき、奥の戸の向こうで、がたん、と音がした。月夜の手が止まる。結と小麻里も同時にそちらを見た。
三人とも、何も言わない。月夜は少し待った。もう一度は鳴らない。
「……風ですか?」
先に聞いた。小麻里が口を開きかける。その前に、結が言った。
「分からない」
月夜は結を見る。
「分からないんですか?」
「うん」
「でも、何かいるかもしれない?」
「かもしれない」
それは今までで一番、正直な返事に聞こえた。月夜は戸を見る。怖くないと言えば嘘になる。でも、誰も「何もない」とは言わなかった。
「じゃあ、開けます?」
「開けない」
小麻里が即答した。
「そこは迷わないんですね」
「今開ける必要ないから」
「なるほど」
月夜は素直に引いた。好奇心だけで全部開けるほど、自分は勇敢ではないらしい。それも一つ分かった。結が空の湯呑みを月夜へ渡した。
「これ、お願い」
「はい」
月夜は受け取った。今度は話を逸らされたとは思わなかった。必要がないから開けない。分からないものは、分からないまま置いておく。
この神社では、それも暮らし方の一つなのかもしれない。湯呑みを拭く。棚に戻す。端から二番目。手は迷わなかった。月夜は一度だけ、自分の指先を見た。
今日覚えた場所なのか。もっと前から知っていた場所なのか。まだ分からない。でも、明日もここにいるなら、また一つずつ確かめればいい。
「月夜」
小麻里が箒を差し出した。
「最後、廊下」
月夜は受け取った。
「はい、小麻里お姉ちゃん」
今度は意識して呼んだ。小麻里は何も言わなかった。ただ、少しだけ顔を横に向けた。それで十分だった。月夜は箒を持って、廊下へ向かった。
昨日までは拾われた人だった。今日は少しだけ、ここで暮らす側に近づいた気がした。
その! 伏見稲荷神社のほうではなくて、大社っぽいところなのですが、とりあえずあそこは人が多すぎそうで行けなかったのです! なので、ほどよく大原野神社のほうへ行ってきたのですが、これ、久しぶりに行ったらむしろ怖かったのです! なんだか落ち着く感じはあるのに! 怖かったのです! どうして怖いのかはわからないのですが、なんだか怖かったのです!




