第二話 『どういうわけか雑用係になりました!』
神社暮らし、お客さんはここまでみたいです!
月夜が案内された部屋は、小さかった。でも、嫌ではなかった。畳。低い箪笥。衣紋掛け。窓がひとつ。壁際には、畳んだ布団が置かれている。
「今夜はここ」
小麻里が灯りを置いた。
「狭くない?」
「むしろ落ち着きます」
「ならいい」
結は窓を少し開けて外を見たあと、すぐに閉めた。草むらの虫の声が、ふっと遠のいた。
「夜は冷えるから、その服のまま寝ないほうがいい」
小麻里が箪笥を開けた。淡い色の寝間着と、乾いた手拭いが出てくる。
「着替えられる?」
「たぶん」
小麻里が月夜を見る。
「また?」
「今日は、たぶんで生きてます」
「前後だけ間違えなければ大丈夫」
「その説明で急に不安になりました」
結の口元が少し動いた。月夜はそれを見た。笑った。たぶん。また『たぶん』だ。そう気づいて、少し可笑しくなった。
二人が部屋を出ようとしたところで、小麻里が足を止めた。部屋の隅を指す。小さな鈴が置いてあった。
「何かあったら、それ鳴らして」
「呼び鈴ですか?」
「そう思っていい」
「強く鳴らしたら?」
「結お姉ちゃんが来る」
「その次は?」
「あたし」
「すごい安心感ですね」
「だから鳴らさないで済むなら、そのほうがいい」
月夜は頷いた。小麻里は戸に手をかけた。そこで、もうひとこと。
「あと、夜は外に出ないで」
月夜が顔を上げる。
「どうしてですか?」
「昼と違うから」
「何が?」
「道」
小麻里はそれ以上言わなかった。月夜は昼間の竹林を思い出した。知らないはずなのに、迷わなかった道。
「……夜になると、道が変わるんですか?」
小麻里の指が戸の縁で止まった。結が代わりに答えた。
「少なくとも、今の月夜が一人で歩くのはやめたほうがいい」
否定ではなかった。月夜は鈴を見た。
「分かりました」
今夜は聞くだけにしておこう。そう思った。でも、忘れる気はなかった。
***
ひとりになると、部屋は静かだった。月夜は寝間着に着替えた。ちゃんと着られた。
「……勝った」
誰に勝ったのかは分からない。足を洗い、布団を敷く。横になると、天井が近かった。それに少し安心した。白い場所には、天井も壁もなかった。
どこまで歩いても終わりがなかった。ここには端がある。窓。戸。壁。布団。全部、触ればそこにある。月夜は目を閉じた。沢良木村。白雲神社。小麻里。結。
今日覚えた名前を、ひとつずつ頭の中で並べる。最後に自分。月夜。
「……よし」
何がよしなのかは分からない。でも、四つとも消えなかった。眠りに落ちる直前。遠くで、金属の鳴るような音がした。
りん。
月夜は目を開けた。部屋は暗い。鈴は動いていない。もう一度は鳴らなかった。月夜は起き上がろうとして、小麻里の言葉を思い出した。夜は外に出ないで。
月夜は布団へ戻った。
「……明日、聞こう」
今度はそれを、ちゃんと覚えたまま眠った。
***
朝。目を開ける。見慣れない天井。一秒。二秒。
「……白雲神社」
昨日より早く思い出せた。月夜は少しだけ嬉しくなった。戸を開ける。朝の空気が入ってきた。境内では箒の音。井戸のほうでは水の音。
夜の神社とは別の場所みたいだった。
「起きたんだ」
廊下の先に小麻里がいた。今日は巫女装束ではない。半袖のシャツ。動きやすそうなスカート。袖を少し捲っていて、腕に水の跡が残っている。
「おはようございます」
「おはよう」
普通に返ってきた。月夜は少し安心した。朝の挨拶まで特殊だったら、どうしようかと思っていた。
「よく眠れた?」
「はい。途中で音がしましたけど」
小麻里の動きが止まる。
「音?」
「金属みたいな。りんって」
「外、出た?」
「出てません」
即答した。少しだけ胸を張る。
「言いつけ守りました」
「……そこ褒めてほしいの?」
「少しくらい」
小麻里は小さく息を吐いた。
「えらいえらい」
「雑ですね」
でも、音のことを否定しなかった。月夜はそこを覚えておくことにした。朝食は、ご飯と味噌汁、卵焼き、鯖だった。
月夜は席につくと、昨日より迷わず箸を持った。結が味噌汁を置く。
「眠れた?」
「はい」
「よかった」
「でも夜に音がしました」
今度は結へ直接言った。小麻里が月夜を見る。月夜も見る。
「明日聞くって決めてたので」
「律儀」
結は少し考えた。
「今朝はもう聞こえない?」
「はい」
「なら、今は大丈夫」
月夜は箸を止めた。
「今は?」
結が味噌汁を一口飲む。
「月夜」
「はい」
「その話も、今日村から戻ったらする」
また後で。でも今回は、いつかではなかった。今日。月夜は頷いた。
「分かりました。忘れないでくださいね」
「うん」
約束になった。それだけで前より納得できた。食事を終える。月夜は自分の茶碗を持った。小麻里が見る。
「置いといていいよ」
「泊めてもらったので、これくらいはします」
「客なんだから」
「記憶がないだけで、手も足もあります」
言ってから、月夜は昨日、裸足でここへ来たことを思い出した。
「……靴はないですけど」
小麻里が吹き出した。結も笑った。結局、月夜は自分の分だけ台所まで運んだ。小さなことだった。
けれど、誰かに言われる前に自分でやった最初のことだった。
***
朝のうちに、村へ下りることになった。昨日と同じ白いワンピースは、小麻里が軽く汚れを落としてくれていた。神社にあった古い草履を借りて履いていた。
「サイズ、ちょっと大きいですね」
「裸足よりいいでしょ」
「昨日の私に言ってあげたいです」
石段を下りる。途中まで、小麻里が一緒だった。竹林を抜けて、道が二つに分かれるところで止まる。
「ここから先はほぼ一本道」
小麻里が下を指した。
「沢良木村まで行ける」
「小麻里さんは?」
「朝の仕事残ってるから戻る」
月夜は道の先を見る。昨日より明るい。普通の山道に見える。
「何も分からなかったら、昼前には戻ってきて」
「はい」
「変なことあったら、すぐ戻る」
「はい」
「知らない人についていかない」
「子どもじゃないです」
「記憶ない人」
「……それ言われると弱いですね」
小麻里が少しだけ笑った。月夜は一歩、下り道へ進んだ。それから振り返る。
「小麻里さん」
「何?」
「昨日、私がここに来たことあるみたいな顔しましたよね」
小麻里の顔から笑いが消えた。月夜は続ける。
「帰ったら、聞きますから」
「……分かった」
逃げなかった。月夜はそれで満足した。今度こそ村へ向かう。
***
朝の山道は、思ったより普通だった。木漏れ日。虫の声。道端の草。遠くから、洗濯物をはたくような音まで聞こえる。
もう少し行けば、本当に村があるらしい。月夜は歩いた。五分。十分。そこで気づいた。
「……あれ?」
右手に石垣。さっきも見た。似ているだけかと思った。進む。また。苔の形まで同じ石垣が出てくる。月夜は止まった。振り返る。来た道はある。
でも、妙に遠い。前の道は、逆に薄く見えた。
「昨日より分かりやすく変ですね」
誰もいないので、自分で言った。風が吹いた。下から上へ。草がいっせいに同じ方向へ倒れる。その瞬間。泣き声が聞こえた。小さな子どもの声。
月夜はそちらを見た。石垣の下。草が途切れた場所に、小さな女の子が座っていた。五歳くらい。片方のサンダルが脱げている。目は真っ赤だった。
月夜は近づいた。
「大丈夫?」
女の子が顔を上げる。
「マ……ママが……いない……」
「迷子?」
こくり。月夜はしゃがんだ。サンダルを拾う。
「とりあえず履こうか」
女の子の足に触れた。冷たい。その瞬間。背中まで冷えた。月夜は手を止めた。風がまた下から吹く。道の向こうが、ほんの一瞬だけ歪んだ。道なのに、道ではない。昨日の白い場所ほどではない。でも、同じだった。輪郭だけが少し薄い。ここから先へ行ったら、戻る場所が分からなくなる。理由はない。
それでも、そう思った。女の子が月夜の袖を掴んだ。
「おねえちゃん」
「うん」
「あっち、やだ」
女の子も同じ方向を見ていた。月夜は迷わなかった。
「じゃあ、行かない」
サンダルを履かせる。手を取る。
「上に戻ろう」
「ママ、下……」
「先に大人を呼ぶ」
自分も昨日までは拾われた側だった。それなのに今日は、誰かの手を引いている。少しおかしかった。でも、今はそれでいい。二人で来た道を戻る。風が吹く。
月夜は振り返らなかった。
「おねえちゃん」
「うん?」
「手、つよい」
「あ、ごめん」
少し緩める。女の子は首を振った。
「そのまま」
月夜は握り直した。今度は離さなかった。石段が見えたとき、ようやくまともに息ができた。
***
神社の下では、すでに人が探していた。女の子のお母さんが姿を見つける。
「いた!」
女の子の手が離れた。走っていく。抱きつく。泣く。月夜は少し離れたところで、それを見た。よかった。ちゃんと、戻れた。結がお母さんと話している。
小麻里は月夜の横に来た。
「村は?」
「着いてません」
「早い」
「迷子を拾いました」
「……」
「物みたいに言うなって、今自分で思いました」
小麻里がため息をつく。
「どこにいた?」
月夜が場所を説明する。小麻里の顔が少し変わった。
「下まで行かなかった?」
「行ってません」
「どうして?」
月夜は考えた。
「行っちゃいけない気がしたから」
小麻里は黙った。
「あと、その子も嫌だって」
結が戻ってくる。話を聞く。そして月夜を見る。
「……月夜」
「はい」
「村へ一人で下りるの、しばらくやめようか」
「私もそう思います」
即答した。二人が少し驚く。
「さすがに二日連続で道に負けたくないので」
「昨日は負けたの?」
「裸足でここまで来た時点で、たぶん負けてます」
小麻里の口元が上がった。結も少し笑う。月夜は続けた。
「でも、何もしないでここにいるのも嫌です」
二人を見る。
「泊めてもらって、ご飯まで食べてるので、私にできること、ありますか?」
今度は、誰かに決められる前に、自分から聞いた。結が小麻里を見る。小麻里は少し考えた。
「掃除」
「できます」
「水汲み」
「たぶん」
「また、たぶん」
「重さをまだ知らないので」
「じゃあ軽いのから」
結が言った。
「使いを頼むこともあるかも」
「はい」
「道は一人で行かせない」
小麻里が付け加える。
「はい」
月夜は頷いた。少し考える。
「つまり」
「何?」
「私、見習いみたいなものですか?」
小麻里がすぐに答えた。
「雑用係」
「急に夢がなくなりました」
「神社の生活って、だいたいそういうもの」
「もっと神秘的な仕事ないんですか?」
「まず雑巾をちゃんと絞れるようになってから」
「段階が現実的すぎます」
結が声を立てずに笑った。月夜も笑った。昨日は、一晩だけの客だった。今日からは、少なくとも、朝起きたらやることがある。それが少し嬉しかった。
境内の端で、風が吹いた。軒下の鈴は鳴らなかった。月夜はそちらを一度だけ見た。夜に聞いた音のこと。小麻里が隠したこと。結が今日話すと言ったこと。
まだ残っている。でも、今は先に。月夜は袖をまくった。
「じゃあ、何からやります?」
小麻里が箒を一本、月夜へ差し出した。
「まず境内」
月夜は受け取った。思ったより重い。
「……神秘、遠いですね」
「すぐそこにあるから心配しなくていいよ」
小麻里が言った。月夜は箒を持ったまま顔を上げた。今のは、ただの冗談だったのか。そうでないのか。小麻里はもう背を向けていた。聞く前に、月夜は少し笑って、箒を握り直した。
その! 昨日は起きたら午後四時だったので、更新できなかったのです! 身体が深夜に耐えきれなかったのです!
あ、そういえば神社のことをもうちょっと勉強しようと思って、明日はあそこ、どこでしたっけ、伏見稲荷神社でしたっけ、行ってこようと思っているのです! もし明日更新がなかったら、あっ、力尽きて寝込んだな、くらいに思ってもらえると助かるのです! 体力がびっくりするほどないのです!




