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第一話 『神社で一晩、お世話になることになりました!』

神社でお世話になることになりました!

 するり、と障子が開いた。小麻里に続いて部屋へ入ると、最初にお茶の匂いがした。

 木。畳。乾いた草。それから、夕飯の支度をしたあとのような淡い出汁の匂い。神社の中なのに、思っていたよりずっと家だった。

 戸の脇には靴が何足か並んでいる。低い棚には野の花を挿したガラス瓶。壁には暦と、何枚かの紙。『井戸』『夕方』『祭具』といった短い言葉が鉛筆で書かれていた。

 誰かがここで起きて、働いて、ご飯を食べている。それが分かっただけで、月夜は少し安心した。


「そこ」


 小麻里が座布団を指した。月夜はおとなしく座った。膝を揃えたところで、自分の足がかなり汚れていることにあらためて気づいた。


「……すみません。畳、汚れませんか?」


「今さら?」


「今さらなんですか?」


「石段を裸足で上がってきた人にしては、気にするの遅いでしょ」


 言われてみればそうだった。月夜が黙ると、小麻里は部屋の隅から小さな箱と濡らした手拭いを持ってきた。月夜の前にしゃがむ。


「足、見せて」


「はい」


 差し出してから、少し恥ずかしくなった。足の甲にも指のあいだにも土がついている。小麻里は気にした様子もなく、手拭いで爪先から拭っていった。

 冷たい布。そのあとに、指先の温度。


「痛いところは?」


「たぶん、ないです」


「また、たぶん」


「自分の身体なのに、今日はあんまり信用できなくて」


 小麻里の手が一瞬だけ止まった。けれど何も聞かず、足首のあたりまで確かめる。


「血は出てない」


「じゃあ、元気です」


「それだけで元気判定するの?」


「今のところ、ほかに基準がなくて」


 小麻里は少しだけ口元を緩めた。月夜はそれを見て、なんとなく安心した。怖い人ではないらしい。少なくとも、裸足の人を拾って足を拭いてくれる程度には。

 小麻里が立ち上がる。


「お茶、持ってくる」


「ありがとうございます」


「熱いの平気?」


 月夜は少し考えた。


「……分かりません」


「そこも?」


「熱いものが危ないのは分かります。でも猫舌だったかは思い出せなくて」


 小麻里は月夜を見た。


「記憶、ほんとにないんだ」


「名前以外は、かなり」


 境内でも伝えたはずなのに、あらためて口にすると、記憶がないという事実が重く感じられた。月夜は膝の上で指を組んだ。小麻里は驚かなかった。

 ただ、少しだけ目を細めた。


「じゃあ、冷ましてくる」


「……はい」


 小麻里が部屋を出る。月夜はその後ろ姿を見送った。ひとりになると、急に静かだった。でも白い場所の静けさとは違う。隣の部屋で誰かが歩く音がする。

 廊下の向こうで器が触れ合う。遠くで水を汲む音もした。人がいる。それが分かる静けさだった。月夜は息を吐いた。名前は分かった。月夜。ここは白雲神社。

 小麻里という人がいる。今分かっているのは、それくらいだった。


「……少ないなあ」


 思わず口に出した。そのとき、廊下の向こうから声がした。小麻里の声。もうひとつ、少し低くて落ち着いた女の人の声。内容までは聞き取れなかった。ただ、名前だけは聞こえた。


「……月夜?」


 その名前だけが聞こえた。月夜は顔を上げた。廊下が静かになる。すぐに足音が近づいてきた。戸が開く。小麻里が盆を持って入ってきた。

 その後ろに、もう一人いた。最初に思ったのは、お姉さんみたいな人だ、ということだった。背が特別高いわけではない。派手でもない。

 長い黒髪をきちんとまとめて、静かな顔をしている。それなのに、その人が部屋へ入ると空気が少し整ったように見えた。女の人は月夜を見た。ほんの一瞬。

 その目が止まった。


「傷は?」


 小麻里に尋ねる。


「ない。土だけ」


「そう」


 そのあとに、小さな息が落ちた。月夜はそれを聞き逃さなかった。女の人の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。小麻里が湯呑みを置く。


「冷ましてある」


「ありがとうございます」


 月夜が湯呑みを両手で包むと、女の人も正面に座った。


「私は結」


「結さん」


「それで、こっちが小麻里」


「もう知ってます」


「そうだった」


 結が少し笑った。月夜は二人を交互に見た。さっきから気になっている。小麻里も。結も。自分を初めて見た人の顔ではない瞬間がある。

 聞かないままにするのは、もう無理だった。


「……あの」


「うん」


「二人とも、私のこと知ってますか?」


 小麻里の視線が結へ向いた。結はすぐには答えなかった。月夜は続けた。


「境内で名前を言ったとき、小麻里さんがすごく驚いたんです」


「すごくは驚いてない」


「かなり驚いてました」


「……」


「それに、さっき廊下で私の名前、言いましたよね?」


 今度は結がほんの少し目を伏せた。誤魔化せないと思ったのかもしれない。


「その名前を聞いて、驚いたのは本当」


 結が言った。月夜は湯呑みを持つ指に力を入れた。少なくとも、見間違いではなかった。


「私の名前を、前から知ってたんですか?」


 結は少しだけ黙った。


「……今は、そこまで」


「そこまでって、だいたい答えてません?」


 小麻里が横から言う。


「今日は休んだほうがいい」


「小麻里さん」


「記憶がない状態で山を歩いてきたんでしょ。いきなり全部聞いても、余計に混乱する」


「でも、私の話ですよ」


 言葉が思ったより強く出た。月夜自身が少し驚いた。けれど引っ込めなかった。


「私だけ何も知らないの、ちょっと嫌です」


 部屋が静かになった。結は月夜を見た。責めるような目ではなかった。


「そうだね」


 その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。結は続けた。


「でも、本当に今すぐ話せないこともある」


「どうしてですか?」


「確かめたいことがあるから」


 今度は小麻里も止めなかった。月夜はその言葉を頭の中で繰り返した。確かめたいこと。少なくとも、ただ隠しているだけではないらしい。


「じゃあ、一つだけ」


 月夜は言った。


「私は、ここに来たことがありますか?」


 結と小麻里のあいだに、また短い沈黙が落ちた。月夜は二人の顔を見た。結は答えなかった。けれど、小麻里の指が、膝の上でほんの少しだけ動いた。

 それだけで、月夜には十分だった。


「……あるんですね」


「月夜」


 結が名前を呼んだ。止めるような声ではなかった。むしろ、困ったような声だった。月夜はそれ以上追わなかった。今日だけで、ひとつは分かった。

 自分はこの場所と無関係ではない。それだけでも、さっきまでの空白とは違った。その瞬間。ぐう。月夜のお腹が鳴った。かなりはっきり。

 さっきまでの空気が、一度で壊れた。小麻里が月夜を見る。結も見る。月夜は湯呑みを持ったまま動けなかった。


「……今のは、聞かなかったことに」


「無理」


 小麻里が即答した。結は口元を押さえた。


「お腹、空いてる?」


「この流れで聞きます?」


「大事なことだから」


「大事ですけど」


 月夜は観念して頷いた。


「空いてます」


「やっぱり」


「何がやっぱりなんですか」


「お腹空いてない人の顔じゃなかった」


「そんな顔あります?」


「今見た」


 小麻里が立ち上がった。さっきまで少し張りつめていた部屋が、急に普通の家みたいになった。その変化が月夜にはありがたかった。


***


 少しして、簡単な夕飯が並んだ。温かいご飯。味噌汁。焼いた魚。漬物。月夜は箸を持ったところで止まった。


「箸の使い方は覚えてます」


「それはよかったね」


 小麻里が言った。


「ほんとによかったです」


 冗談ではなかった。一口食べる。ちゃんとおいしい。そのことに、なぜか泣きそうになった。味を知っている。おいしい、という感覚も残っている。

 自分の中には、消えていないものもある。月夜はゆっくり食べた。結はそれを急かさなかった。小麻里も、途中から何も言わなくなった。

 食事が半分ほど終わったころ、結が言った。


「今日はここで休んで」


 月夜は顔を上げた。


「もう日も落ちるし、山を下りるのは危ないから」


「泊まっていいんですか?」


「空いてる部屋がある」


「知らない人なのに」


 小麻里がすぐ返した。


「知らない人が裸足で山に帰ろうとするほうが困る」


「それもそうですね」


 月夜は少し考えた。行く場所はない。住所も分からない。誰を訪ねればいいかも分からない。断る理由のほうが見つからなかった。


「じゃあ……一晩だけ、お世話になります」


 結は壁際の棚に置かれた電話に一度目を向けた。古い受話器と、紐でまとめられた電話帳。


「明日になったら村へ下りよう」


「村?」


「沢良木村。ここから山を少し下りたところ」


 初めて、神社の外に名前がついた。沢良木村。月夜は頭の中で繰り返した。何も浮かばない。結が続ける。


「そこで心当たりを探して、それでも分からなかったら駐在にも相談する」


「……ちゃんと、そういう方法もあるんですね」


「どういう意味?」


「この神社、何でも神秘で解決するのかと思ってました」


 小麻里が呆れた顔をした。


「記憶喪失を御札で治せたら苦労しないよ」


「ちょっと期待してました」


「しないで」


 結が小さく笑った。月夜も少し笑った。明日やることが一つできた。それだけで、今日の終わりが少し見えた。結が頷いた。

 小麻里は食べ終わった器を重ね始めた。その動きがあまりにも自然で、月夜は少し笑った。


「何?」


「いえ」


「笑ったでしょ」


「なんか、普通だなって」


 小麻里が眉を寄せる。


「何が」


「もっと神社って、ずっと静かで、神秘的なことばっかりしてるのかと思ってました」


「皿も洗うし、布団も干すよ」


「神秘が減りました」


「現実が増えただけ」


 結が小さく笑った。月夜も笑った。そのとき、外で風が吹いた。障子がかすかに鳴る。月夜の手が止まった。鐘の音はしなかった。

 けれど結と小麻里が、ほとんど同時に外を見た。月夜はそれも見た。


「……今、何かありました?」


「風」


 小麻里が言う。


「二人とも同じ方向見ましたけど」


「風がそっちから来たから」


「便利ですね、風」


 小麻里が少しだけ目を逸らした。結は立ち上がる。


「部屋、案内するね」


 また全部は教えてくれない。でも、月夜はもう、何も分からないままではなかった。自分の名前を聞いて、二人が驚いたのは勘違いではない。

 自分はたぶん、ここへ来たことがある。そしてこの神社には、二人がまだ話したくない何かがある。三つ。さっきより増えた。

 それなら今日は十分だと思うことにした。月夜は湯呑みを置いて立ち上がった。


「歩ける?」


 結が尋ねる。


「はい」


 一歩目で少しふらついた。小麻里がすぐ手を出しかけて、途中で止める。月夜は自分で立ち直った。


「……今のは見なかったことに」


「それも無理」


「小麻里さん、意外と厳しいですね」


「普通」


 三人で廊下へ出る。夜の空気は少し冷たかった。知らない家。知らない部屋。知らない人たち。それでも月夜は、さっきより足元を見ずに歩けた。今夜だけは、ここで迷っても、誰かに見つけてもらえる気がした。

その! 正直に言うと、子供までは毎年のように行ってはいたのですが……巫女のバイトをしていたとか、そういうことがあったわけでもなくて、ただお賽銭を投げに行っていただけなので、そこまで専門的な知識があるわけではないのです!

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