↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/39

プロローグ

神社暮らし、まもなく始まります!

 白いワンピースを着た少女が、どこまでも白い場所を歩いていた。朝も夕方もなかった。影もない。

 足元には確かに床のようなものがあるのに、一歩踏み出すたび、そこが硬いのか柔らかいのかさえ曖昧になった。

 白とも灰とも呼べない霧が、世界の輪郭を薄く溶かしていた。少女は裸足だった。

 膝の下には乾いた土がついている。銀色の髪は乱れ、頬や首筋に何本か張りついていた。どこから来たのか。どうして歩いているのか。何ひとつ思い出せない。

 名前も。家も。最後に見た顔も。頭の中を探しても、そこにはきれいに抜け落ちた場所ばかりがあった。それでも、立ち止まる気にはならなかった。

 理由はなかった。ただ、止まってはいけない気がした。遅れてはいけない。誰かに会わなければならない。その感覚だけが、記憶より先に残っていた。

 少女は歩いた。足音はしなかった。自分が前へ進んでいるのか、それとも景色のほうが後ろへ流れているのかも分からなかった。そのとき。


「――月夜」


 声がした。少女は足を止めた。霧の向こうを見た。誰もいない。


「……月夜?」


 自分で口にすると、その名前だけが妙に自然だった。初めて聞いたはずなのに、借り物には思えなかった。

 胸の奥に落ちて、最初からそこにあった形にぴたりとはまった。月夜。自分の名前。それだけは、分かった。月夜は胸元に手を当てた。心臓は動いていた。

 ゆっくり。静かに。けれど指先は冷たかった。身体の半分だけが、まだこの白い場所に置き去りになっているみたいだった。


「――月夜」


 もう一度。今度は、少し近い。月夜は顔を上げた。


「誰……?」


 返事はなかった。代わりに、白い世界の端が揺れた。薄い紙に水が染みるように、そこへ色が広がっていった。橙。赤。淡い金色。そして、風。

 月夜の髪が揺れた。次の瞬間、土の匂いがした。


***


 最初に見えたのは竹だった。夕暮れの光を受けた竹林が、細い道の両側に続いていた。さわさわと葉が触れ合う。風が頬に当たる。

 さっきまで音のない場所にいたせいか、その全部がやけに近かった。月夜は裸足のまま土を踏んだ。今度はちゃんと感触があった。

 小石。乾いた葉。少し湿った土。現実だ。そう思った。けれど、安心はできなかった。ここがどこなのかは、やっぱり分からない。


「……山?」


 呟いてみても、それ以上の言葉は出てこなかった。月夜は道の先を見た。不思議だった。知らない場所なのに、どちらへ進めばいいか迷わなかった。

 右へ曲がる場所も。竹が一本だけ斜めに伸びたところも。その先に石段があることも。見える前から、知っている気がした。


「……なんで」


 自分の足が、自分より先に道を覚えている。気味が悪いはずなのに、足は止まらなかった。むしろ少しずつ速くなった。竹林が途切れる。古びた石段が現れた。

 その上に、鳥居が見えた。白く色褪せた鳥居。派手ではない。大きくもない。けれど、月夜はそこで息を止めた。知っている。そう思った。すぐに打ち消した。

 知っているはずがない。記憶がないのだから。それでも胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが広がった。怖いくらい自然な安堵だった。

 鳥居の前まで来たところで、月夜の足が勝手に止まった。一礼。頭を下げてから、自分で驚いた。


「……今、なんで」


 誰かに教わった記憶はない。神社の作法を知っているという自覚もなかった。それなのに身体は迷わなかった。鳥居の真ん中を避けるように端へ寄った。

 それも、考えるより先にできた。月夜は鳥居を見上げた。白く色褪せた木肌の一部に、小さな傷がある。

 そこへ視線が吸い寄せられた瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。ここ。この傷。知っている。そう思ったのに、次の瞬間には何も残らなかった。

 月夜は自分のこめかみを指で押さえた。


「……思い出すなら、もう少し分かりやすくしてほしいんだけど」


 誰に向けた文句なのか、自分でも分からなかった。返事は当然なかった。ただ、竹林の向こうで風が鳴った。月夜は一段目に足を置いた。石は冷たかった。

 二段。三段。上るたびに、夕方の空が少しずつ広くなる。途中で一度、足の裏が痛んだ。月夜は足元を見た。裸足のまま、ここまで来た。

 どうして靴を履いていないのかさえ思い出せない。その事実だけが、急に現実味を帯びた。月夜は一度だけ息を整え、また石段を見上げた。最後の段を越えた。

 境内が見えた。本殿。手水舎。古い狐の石像。軒下には鈴が下がっていた。そして、境内の端に、一人の巫女がいた。長い竹箒を持って、落ち葉を集めている。

 月夜は止まった。巫女はまだこちらに気づいていなかった。夕日が横から差し込み、紅白の装束の端を薄く染めていた。

 髪はゆるくまとめられている。風が吹くたび、耳元からこぼれた数本の髪が首筋に触れた。月夜はなぜか、その姿から目を離せなかった。綺麗だから。

 それだけではなかった。見たことがある。そんな気がした。でも、どこで。何も思い出せない。そのとき、巫女が顔を上げた。目が合った。箒が止まった。

 月夜も動けなかった。巫女の目が、一瞬だけ大きく開いた。知らない人間を見つけた顔ではなかった。月夜の胸が、どくりと鳴った。

 先に動いたのは巫女だった。箒を柱に立てかけ、こちらへ歩いてくる。二歩手前で止まった。近くで見ると、思っていたより小柄だった。

 けれど、不思議と頼りなくは見えなかった。巫女の視線が、月夜の顔から裸足に落ちた。眉が少し寄る。


「……怪我したの?」


 最初の言葉は、それだった。月夜は自分の足を見た。土だらけだった。白いワンピースの裾も汚れている。


「たぶん……してないと思います」


「たぶん?」


「私も、よく分からなくて」


 巫女は少し黙った。それからしゃがみ、月夜の足元を確かめた。触れはしなかった。血が出ていないのを見て、ほんの少し息を吐く。


「ここの石段、欠けてるところがあるから」


 巫女は立ち上がった。


「中に入ろう」


 そう言って、手を差し出した。月夜はその手を見た。白い手。細い指。手の甲に、小さなほくろがひとつあった。それがなぜか目に残った。

 月夜は少しためらってから、その手を取った。温かかった。ただ、それだけだった。なのに。


「……っ」


 息が止まりそうになった。胸の奥が急に痛んだ。悲しいのか、嬉しいのかも分からなかった。

 長く寒い場所にいて、ようやく火の近くへ戻ってきたみたいだった。巫女の指にも、一瞬だけ力が入った。月夜は顔を上げた。巫女も、月夜を見ていた。


「……あの」


「うん?」


 聞かなければいけない気がした。何を、と考える前に口が動いた。


「私のこと、知ってますか?」


 巫女の目が揺れた。ほんの一瞬。けれど、今度は見間違えなかった。


「……どうして?」


「今、そういう顔したから」


 言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。けれど巫女は怒らなかった。答えもしなかった。代わりに、握っていた手を離さないまま尋ねた。


「名前は?」


 月夜は喉の奥で息を整えた。さっき白い場所で聞いた名前。それ以外、自分について言えることは何もない。


「……月夜です」


 巫女の足が止まった。今度こそ、はっきりと。


「……」


 月夜は巫女の顔を見た。驚き。戸惑い。それから、もっと別の何か。すぐに消えたけれど、確かにあった。


「やっぱり」


 月夜が言うと、巫女は小さく息を吐いた。


「何が?」


「私の名前、知ってたみたいな顔してます」


 少しの沈黙。風が境内を抜けた。狐の石像の横で、乾いた葉が一枚転がった。巫女はすぐには否定しなかった。月夜は、その沈黙を否定より重く受け取った。


「……月夜なんだね」


 初めて聞いた名前を確かめる声ではなかった。月夜はその言い方を忘れない気がした。


「あなたは?」


 今度は月夜から聞いた。巫女は一瞬だけ目を伏せた。


「小麻里」


「小麻里……さん?」


「それでいいよ」


「じゃあ、小麻里さん」


 呼んでみる。小麻里の表情が、ほんの少しだけ困ったように見えた。その理由も、月夜には分からなかった。二人は境内を歩き始めた。

 本殿の脇。細い渡り廊下。その奥に、人が暮らしているらしい建物が見えた。戸口まで来たところで、月夜はもう一度振り返った。

 鳥居の向こうに、竹林が見える。さっき通ってきた道のはずだった。なのに、もうずいぶん遠い場所みたいだった。


「小麻里さん」


「何?」


「ここって、何ていう神社ですか?」


 小麻里は戸に手をかけた。


「白雲神社」


 はくうんじんじゃ。その音を聞いた瞬間。月夜の胸の奥で、何かが小さく震えた。知っている。また、そう思った。


「……白雲神社」


 月夜が繰り返した、そのときだった。

 りん――。

 鐘とも鈴ともつかない音が、どこからか響いた。月夜は反射的に振り返った。軒下の鈴は動いていない。風も止まっていた。それなのに、音だけが長く残った。


「今の……」


 隣を見る。小麻里は鳥居ではなく、もっと奥。本殿の向こうを見ていた。さっきまでより、少しだけ顔が硬い。


「小麻里さん?」


 呼ぶと、小麻里はすぐに視線を戻した。


「入って」


「でも、今――」


「日が暮れる前に」


 声は強くなかった。けれど、逆らう気にはなれなかった。戸口の脇には、小さな下駄箱があった。その上に、丸めた手拭いと鍵がひとつ置かれている。

 月夜はなぜか、鍵より先に手拭いを見た。洗って、干して、また畳んだもの。それだけの物なのに、胸の奥が少し緩んだ。神社というより、誰かの家だった。

 誰かが朝起きて。ご飯を食べて。掃除をして。夜になれば眠る。そんな当たり前が、この戸の向こうにはあるらしい。

 自分にも、昨日まではそういう場所があったのだろうか。考えようとすると、また空白にぶつかった。月夜は小さく息を吐いた。


「……私、どこから来たのか分からないんです」


 小麻里はすぐには答えなかった。


「名前以外、ほとんど何も」


 口にした途端、空白が少し重くなった。小麻里は月夜の裸足を一度見て、それから顔を上げた。


「今は中に入って」


「……はい」


「そのあとで、聞くから」


 その約束があれば、少なくとも今すぐ、この場所から追い出されることはない。月夜は、そこでようやく息を吐いた。小麻里が戸を開ける。

 中から、木と畳と、誰かが淹れたお茶の匂いがした。月夜は敷居の前で一度だけ立ち止まった。白雲神社。小麻里。鐘の音。

 思い出せないのに、知らないものばかりではない気がした。それが怖かった。同じくらい。少しだけ、嬉しかった。

 少なくとも今は、もう一人で白い場所を歩かなくていい。それだけで、足元が少し確かになった。敷居を跨ぐとき、月夜の右足がほんの少しだけ先に出た。

 また、身体が知っていた。知らない場所へ入るはずなのに、迷い方だけが妙に下手だった。月夜はそのことを小麻里には言わなかった。

 今はまだ、自分でもうまく言葉にできそうになかったからだ。月夜は一歩、家の中へ入った。その瞬間。

 ずっと歩き続けていた足が、ようやく止まってもいいと言われた気がした。

その……助けてください! 一か月以内に残響軌跡を作り直して戻ってくるつもりだったのですが! 設定集を直すだけでもものすごく時間がかかってしまって、一か月どころか二か月以内に戻れるかも怪しくなってきたので、どうにか一か月以内に戻ろうとして『鐘が鳴る頃』を書いた次第なのです!


ちなみに鐘が鳴る頃は、その十五年くらい前に書いていたUSBの中に、きっちり二〇一三年五月六日付で保存されていた「☆鐘が鳴る頃初期設定版☆!!」をもとに書いているのです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。