第四話 『神社で、仕事をすることになりました!』
神社暮らし、仕事は思っていたよりずっと難しいのです!
『鐘が鳴る頃 ~ 神社暮らし、はじめました!』
一巻 鐘が鳴る前の夏
第四話 『神社で、仕事をすることになりました!』
——
朝の仕事が終わったからといって、一日がそれで終わるわけではなかった。
むしろ白雲神社の昼は、そこから始まるのだと思えた。日が高く昇ると、庭の砂は陽を含み、井戸端の石は足の裏に触れるのにちょうどいいくらいまで冷えていた。本殿の前は静かだったけれど、静かだからといって仕事がないわけではなかった。さっき拭いたばかりの湯呑みはすぐにまた使われて、畳んでおいた布巾もいつの間にか減っていた。
月夜は濡れた布巾を陽に干しながら、ひとりで頷いた。
「暮らしって、思ったより水と布の戦いなんですね。」
後ろで聞いていた小麻里が、呆れたように言った。
「何か悟ったみたいに言わないで。」
「今ちょうど悟ったんです。」
「その悟りなら、おばあちゃんでも知ってると思うけど。」
そう言いながらも小麻里は、端が曲がっていた布巾をひとつ摘んで、もう一度きれいに伸ばしてくれた。指先が速くて正確だった。月夜はそれを見て、なんとなく尋ねた。
「お姉ちゃんって、もともと整理整頓が好きなんですか?」
「好きっていうより、乱れてるのを置いとくと気になるだけ。」
「結お姉ちゃんの影響?」
「半分。残り半分はもともとそういうの。」
その言い方がなんだか小麻里らしくて、月夜は小さく笑った。
***
午後最初の使いは、本殿の裏の倉庫まで箱を運ぶことだった。箱の中には香と短い蝋燭、それから新しく折った紙が入っていた。重くはなかったけれど、両腕で抱えなければならなくて、前が少し見えにくかった。
「前が見えないなら、ゆっくり行って。」
小麻里が言った。
「転んだら、あんたのぶんまで片づけるの面倒だし。」
「励ましっぽくない励ましですね。」
「励ましてないから。」
月夜は箱を抱えたまま、裏庭のほうへ向かった。昼の神社は夜よりずっと普通だった。なのに時々、その普通さそのものが仮面みたいに思えることがあった。本殿の脇を通るときだけ風がぴたりと止まったり、人がいないのに障子がごくわずかに鳴ったり。怖いというより、誰かが息を潜めて見ているような気配に近かった。
倉庫の戸の前に着いたとき、月夜は箱を下ろしてひと息ついた。後ろからついてきた小麻里が戸を開けた。
「そこ、上の棚じゃなくて下。」
「はい。」
月夜が身をかがめて箱を入れようとしたとき、倉庫の敷居に爪先が引っかかった。大きくよろけたわけではなかったけれど、一瞬重心が崩れた。それより先に、横から手が伸びてきた。小麻里が月夜の腕を掴んで支えた。
「少しは気をつけて。」
手はすぐには離れなかった。完全に体勢を立て直すまで支えてくれて、それからようやくゆっくり離れた。月夜はなんとなくうなじが熱くなるのを感じた。
「さっき言ってましたよね、片づけてくれないって。」
「箱ひっくり返されたら、あたしのほうが面倒だから。」
「その言い方、ちょっと傷つきます。」
「怪我してないならいいでしょ。」
小麻里は何でもないことみたいに言って、先に中へ入っていった。月夜は少しだけ、自分の腕を見下ろした。掴まれていたところが特別痛いわけでもないのに、妙に意識に残った。
倉庫の中は外よりひんやりしていた。木の匂いに紙の匂いが混ざっていて、天井近くには夏の埃が細く漂っていた。小麻里は新しい蝋燭の束を脇へ寄せながら言った。
「これくらいなら、もうひとりでもできるでしょ?」
「大体のことは。まだ祭祀のほうはよくわからないですけど。」
「それはまだわからなくていい。混ぜさえしなければ。」
「生活用と祭祀用、ですよね?」
「うん。それと、本殿の中の物は勝手に触らないこと。」
「神聖だからですか?」
小麻里はすぐには答えなかった。代わりに、手に持っていた紙の束をきちんと揃えてから口を開いた。
「神聖だからっていうのもあるし、あんたがまだここの決まりを全部知らないからっていうのもある。」
それを聞いて、月夜はそれ以上は聞かなかった。倉庫の隅には予備の布と古い木箱がいくつか積まれていて、そのうちのひとつがほんの少しだけ開いていた。
「あれは何ですか?」
「昔のやつ。」
「説明がものすごく雑ですね。」
「丁寧に説明すると長くなるから。」
倉庫の片づけが終わったあとは、裏庭の物干し紐から乾いた布を取り込んだ。よく日に当たった布は温かくて、畳むたびにぱりっとした音がした。月夜は一枚ずつ整えながら、ふと尋ねた。
「小麻里お姉ちゃんって、ここで長く暮らしてるんですか?」
「長い。」
「何年くらい?」
「けっこう。」
「はぐらかし方が露骨すぎません?」
「まだ仲良くなりきってない質問だから。」
言い方はそっけなかったけれど、完全に突き放す感じではなかった。だから月夜は、かえって少しだけ安心した。
そのとき、高いところに掛かっていた布を取ろうとして、月夜は腕をいっぱいに伸ばした。指先がぎりぎり届くか届かないかくらいの高さだった。もう一度つま先立ちした瞬間、隣で小麻里が何も言わずに布の端を掴んで下ろしてくれた。月夜がそちらを向くと、小麻里は布を差し出しながら目を逸らした。
「届かないなら、最初から呼んで。」
「ちょっと切ないんですけど。」
「切ないのはあたしじゃないし。なんでこんなことまで代わりにしなきゃいけないの。」
口ではそう言うのに、手は最後まで布が地面につかないように持っていてくれた。月夜はなんだか笑えてきた。
「お姉ちゃん、意外と優しいですね」
「優しくないけど。」
「今のはかなりそうでしたよ。」
「日差しが強すぎて、あんたが変なもの見ただけ。」
日が少し傾いたころ、結が裏庭へ出てきた。手には湯呑みが三つあった。
「ふたりとも、少し休もう。顔が夏すぎるから。」
顔が夏すぎる、という言い方は初めて聞いた。でも、意味はなんとなくわかった。少し疲れていて、少し火照っていて、それでも気分は悪くない状態。結は縁台の上に湯呑みを置いて、畳んであった団扇をひとつ月夜のほうへ差し出した。
月夜が団扇を広げて顔をあおぐと、向かいに座った小麻里が小さく言った。
「それ、さっき倉庫で見た昔のやつよりずっと新しいから。」
「急に何の自慢なんですか。」
「間違えそうだから言っただけ。」
「私を何だと思ってるんですか。」
「昔のもの見つけると、そのまま抱えて喜びそうなタイプ。」
「それはちょっと否定できないかも……」
横で結が小さく笑った。
その瞬間、裏の森から風がひとつ長く抜けた。葉の擦れ合う音のあいだに、ごく短く、誰かが息を潜めたみたいな気配が混じった。月夜は反射的に目を上げた。けれど見えたのは影だけだった。結は湯呑みを持つ手を止めなかったし、小麻里も一瞬だけ森のほうを見て、何事もなかったみたいにまたお茶を飲んだ。言うべきか、言わないべきか。月夜が迷っているうちに、風はもう過ぎていた。
***
日がさらに傾くと、裏庭の影もゆっくり長くなっていった。
お茶を飲み終えたあとは、夕飯の支度が続いた。結は奥の居室のほうの台所で鍋の様子を見ていて、小麻里は洗っておいた野菜をまな板の上にきれいに並べていた。月夜は最初、何をすればいいのかわからなくて二人のあいだで様子をうかがっていたけれど、少ししてから小麻里が大根をひと切れ差し出してきた。
「まずこれ、切ってみて。」
「もう包丁持っていいんですか?」
「指まで一緒に切らないでよ。」
「それ、許可じゃなくて脅しですよね。」
それでも月夜はおとなしく包丁を受け取った。大根は思っていたより固くて、刃は思っていたよりよく通った。一度力を入れ損ねると、厚さのばらばらな大根になった。小麻里がそれを見下ろして、短く言った。
「性格出てる。」
「なんでですか。」
「せっかちな人の切り方。」
小麻里は小言を言っているみたいでいて、手つきが危なくなるとすぐに包丁を持つ角度を直してくれた。手の甲が一度触れて離れるたび、月夜はなぜか集中しにくくなった。
「またぼうっとしてる。」
「包丁持ってる人には、あんまり気軽に言わないでください。」
「だから今言ってるの。怪我する前に。」
その言い方には、あまり冗談っぽさがなかった。だから月夜も素直に頷いた。
夕飯は華やかではなかったけれど、きちんとしていた。温かいご飯、味噌の匂いがほんのりする汁、簡単なおひたし、少し味のしみた鯖。特別なごちそうではないのに、箸がよく進んだ。三人でひとつの膳を囲んで食べる光景が、もう何年も繰り返してきた場面みたいに自然で、月夜は食べながらふと妙な気持ちになった。自分だけが初めてだった。
食べ終わってから、結が言った。
「明日は午前に倉庫のほうを少し片づけて、午後は使いをひとつお願いするかもしれない」
「外に出るんですか?」
月夜が反射的に尋ねると、小麻里が先に顔を上げた。
「村の下までは行かない。神社の近く。」
「それくらいなら大丈夫ですよね?」
「昼なら。」
昼なら大丈夫で、夜はだめ。この神社には、その決まり以外にもまだいくつか隠れた決まりがある気がした。
食事のあとは、洗い物が残っていた。月夜は水に濡れた器を受け取って、布巾で拭いた。小麻里が洗って、月夜が拭いて、乾いた器を棚に戻していく。言葉が少なくても、不思議と流れが合っていた。
そんな中、結が少し席を外したとき、小麻里が低い声で聞いた。
「今日の昼、森のほう見たでしょ。」
月夜は拭いていた器を見下ろしたまま答えた。
「見たっていうより……何かいる気がしました。」
「いないふりしてるほうが楽。」
「ここって、そういうの多いんですか?」
小麻里はすぐには答えなかった。代わりに、水の中に手を入れたまま少しだけ考えてから、ごく短く言った。
「多いっていうより、たまにある。」
それは説明と呼ぶには全然足りなかったけれど、嘘みたいにも聞こえなかった。
夜が完全に落ちる前、月夜は奥の居室の外の縁側に少しだけ腰かけた。一日じゅう動いていたせいか、足がほどよく重かった。山のほうから来る空気は昼より冷えていて、虫の声はもっとくっきりしていた。
「そこ、外すぎる。」
後ろから小麻里の声がした。月夜が振り向くと、小麻里が柱にもたれて立っていた。
「完全に外ってわけじゃないでしょう?」
「中途半端な場所のほうがよくない。」
「それも何かの決まりみたいですね。」
「ここはもともと、そういうの多いから。」
小麻里はそう言って、月夜の隣まで来た。すぐには座らずに、庭をひと通り見てから、ようやく縁側の端に腰を下ろした。二人のあいだには、もうひとり座れそうなくらいの距離があったのに、それが妙に小麻里らしく思えた。
しばらく沈黙が流れた。
月夜は膝を抱えるように寄せて、軽く顎を乗せた。小麻里は何も言わずに、自分の膝を指先で一度撫でてから、ふいに聞いた。
「怖くない?」
「何がですか。」
「ここ。」
問いの範囲が広すぎて、月夜はかえってすぐには答えられなかった。神社のこと、人のこと、夜のこと、記憶がないこと。そのどれもが、少しずつなら怖くなれるものだった。でもよく考えてみると、今日一日の大半は怖いというより忙しかった。
「全然ってわけじゃないです。」
月夜は言った。
「時々変だなとは思うけど……でも、昨日よりはもうあんまり知らない場所って感じはしないです。」
小麻里はそれを聞いても、すぐには何も言わなかった。ただ、ごく小さく息を吐いた。
「ならいい。」
なのにその言葉のあと、小麻里が少しだけ近くなったような気がした。実際に距離が縮まったわけではなかった。
そのときだった。庭の端、本殿の脇の暗い影のあいだを、何か白いものがすっとかすめたように見えた。ほんの一瞬だった。人が通ったというには軽すぎて、風というには形があった。月夜は反射的に立ち上がりかけた。けれどその前に、小麻里の手が月夜の手首を掴んだ。
「出ないで。」
低く押さえた声だった。短くて、はっきりしていた。
月夜はそのまま止まった。もう一度影のほうを見たときには、何もなかった。ただ夜と木々と風だけがあった。
「今の……」
「わかってる。」
小麻里は手を離さないまま、しばらくそちらを見ていた。それから本当に何もないと確かめてから、ようやくゆっくり手を放した。
「もう入って。」
「ああいうの、よくあるんですか?」
「さっきも言ったでしょ。たまにあるって。」
「たまにで済ませるには、ちょっと怖いんですけど。」
「だから夜は出るなって言うの。」
その通りだった。なのに不思議と月夜は、怯えるより先に、さっき手首を掴まれた感触のほうをはっきり意識していた。小麻里はもう先に立ち上がって、戸のほうへ歩いていた。
月夜はその背中を見ながら、小さく聞いた。
「お姉ちゃん。」
「何。」
「さっき……ありがとうございました。」
小麻里は足を止めないまま答えた。
「そうしないと、あんたがもっと面倒なことになる気がしたから。」
最後までそういう言い方だった。でも今回は、月夜もわざわざ言い返さなかった。その言葉が全部じゃないことくらい、もう少しだけわかる気がしたから。
夜の空気は相変わらずひんやりしていて、虫はずっと鳴いていた。けれど、縁側から立ち上がって部屋へ戻る足取りは、昨日よりたしかに少しだけ軽かった。
昨日までは平気だったのに、朝起きたら足がふるふるしていて、起き上がることもできずにずっと寝転がっていたのです! これはもう、あたしが病弱美少女になる運命ってことな気がするのです!




