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第三話 『神社で、少しずつやることを覚えるようになりました!』

神社暮らし、思っていたより覚えることが多いのです!

一巻 鐘が鳴る前の夏


第三話 『神社で、少しずつやることを覚えるようになりました!』


——


昼食を終えたあと、神社はまた静かになった。


朝の慌ただしさがひと通り過ぎたあとだからなのか、陽射しさえどこかのんびりして見えた。軒先にかかる影は短くくっきりとしていて、庭の砂地には掃きたての跡がきれいに残っていた。風は暑くも冷たくもなかった。夏がすっかり熟しきる、その少し手前の空気だった。


月夜は本殿の脇の日陰に立って、庭を見回した。昨日はただ見知らぬだけで大きく見えた場所が、昼に見ると意外と造りがはっきりしていた。本殿、奥の部屋、社務所、小さな倉庫、井戸、そして裏手へ続く細い道。誰がどこで何をしているのかまではまだわからないけれど、少なくとも『暮らしている場所』なのだということはわかる気がした。


「ぼうっとしてないで、こっち来て。」


小麻里が箒を肩に担いだまま手招きした。月夜が近づくと、小麻里は庭を顎で示した。


「あんたがこれから見ることになる場所から、先に覚えて。いきなりあれこれやらせても、どうせ混乱するだけだし。」


「もう最初から、私が仕事できない前提なんですね。」


「記憶ない子に完璧を期待するほうがたち悪い。」


間違ってはいなかった。だから月夜は、おとなしく口をつぐんだ。


小麻里はまず井戸を見せてくれた。朝に顔を洗った場所だったけれど、昼に見ると少し印象が違った。水を汲む桶、濡れた石の床、脇に置かれた盥がいくつか。生活用の水と祭祀に使う水は混ぜないこと。日暮れどきには一人で来ないこと。雨の翌日は石が滑るから走らないこと。説明は短かったのに、不思議と頭によく入ってきた。


次は倉庫だった。戸を開けると、乾いた薪の匂いと紙の匂いが混ざって流れてきた。中には掃除道具、予備の蝋燭、香、祭具、客用の湯呑みなんかがきちんと収められていた。月夜は心の中で少し感心した。見た目は静かな神社なのに、内側は思っていたよりずっと生活の場所だった。


「こういうの、全部お姉ちゃんが管理してるんですか?」


「だいたいは。」


「だいたいで済ませるには、すごくきっちりしてますけど。」


「きっちりしてないと、あとで結お姉ちゃんが怖くなるから。」


その言葉に、月夜は思わず頷いた。結は声を荒げることもないし、性格がきつそうにも見えないのに、そういう一面もあるのかとでもいうように。


倉庫を出て裏庭に回ると、狭いけれど整えられた空間が広がっていた。陽を浴びる物干し紐、薬草を干すためのざる、そして古い木の下に置かれた低い縁台。小麻里はざるの上の葉を一度裏返してみてから言った。


「神社の仕事っていっても、大げさなことばっかりじゃないから。掃除、使い、水汲み、洗濯、祭具磨き、お客さんが来たらお茶出し。そういうほうがずっと多い。」


「聞いてると、神社っていうより下宿みたいですね。」


「実際そんなもん。手のかかる下宿で、たまに変なのがくっついてくるくらい。」


最後のひと言は軽く投げたようだったのに、月夜はなぜか聞き返せなかった。代わりに視線を移す。縁台の上には、畳んだ白い布と赤い紐が見えていた。


「それは何ですか?」


「礼装の紐。まだあんたが着るものじゃないけど。」


「まだ、って言うってことは、いつかは着るかもしれないってことですよね?」


「雑用をもうちょっとまともにこなせるようになったらね。」


月夜はなんとなく自分の肩をひとつ撫でた。巫女服を着た自分の姿は、うまく想像できなかった。似合いそうな気もするし、変な気もした。けれど、それを想像している自分を嫌だとは思わなかった。


裏手の道を少し上ると、小さな石柱がひとつ目に入った。刻まれた文字には苔が少しかかっていたけれど、まだ読めた。小麻里が何でもないことみたいに言った。


「あ、言ってなかったね。」


彼女は石柱を指先で軽く叩いた。


「ここ、白雲神社はくうんじんじゃ。白い雲って書く。」


月夜はその文字を一度、音としてもう一度、胸の中でなぞった。


「はくうん。」


不思議なことだった。初めて聞く名前のはずなのに、口の中で転がしたとき、知らないという感覚は長く続かなかった。馴染んでいるわけではなかった。けれど、まるきり他人のものみたいな響きでもなかった。


小麻里がそんな月夜を横目で見た。


「また、どこかで聞いたことありそうな顔してる。」


「聞いた覚えはないですけど。」


「ないのに、知ってるみたいな顔するじゃん。」


言い返せなくて、月夜は口を閉じた。


午後は思っていたより早く過ぎていった。小麻里に言われるまま乾いた布巾を畳み、湯呑みをいくつか拭き、裏庭に干してあった布を取り込んだ。大したことではないのに、不思議と集中できた。手を動かしていると、余計なことを考えずに済むからかもしれなかった。


そうして日が少しずつ傾きはじめたころだった。本殿前の石段に腰を下ろして少し休んでいた月夜は、自分の爪先を見下ろした。まだ裸足には少し慣れなかったけれど、昨日ほど見知らぬ感じはしなかった。足首の上に夕焼けの光が薄くかかる。小麻里が隣に立って、一度空を見上げた。


「仕事は明日から。」


月夜が顔を上げた。


「え? 私、もう仕事してませんでした?」


「してない。神社の仕事は明日から。」


「なんで明日からなんですか?」


小麻里はすぐには答えなかった。代わりに、ほとんど沈みかけた陽を少しだけ眺めてから、何でもないように言った。


「まあ、今日からやりたいなら夜の仕事にでも使ってあげるけど。」


一瞬、言葉が止まった。


意味はたぶん単純なのだろう。けれど、その言い方が月夜の頭の中に残ってしまったのが問題だった。夜の仕事。しかも小麻里があんなに無表情で言うものだから、月夜の顔はかっと熱くなった。


「そ、その言い方はちょっと……変に聞こえますって。」


小麻里が目を瞬かせた。本当に意識していなかった顔をして、それからひと拍遅れて意味に気づいたみたいに眉を寄せた。


「……あんたの頭の中がおかしいんじゃない?」


「違いますよ。普通そんな言い方しませんし。」


「じゃあ何て言えばいいの。」


「私もわかりませんけど、とにかくそれは違うでしょう。」


言ってからますます顔が熱くなった。小麻里はしばらく月夜を見ていたが、信じられないとでも言いたげにため息をついた。けれど背を向ける直前、口元が少しゆるんだのは確かに見えた。


「ほんと、そういうどうでもいいとこだけ早い。」


「お姉ちゃんのほうが鈍いんです。」


「はいはい。じゃあその妙に回る頭で、使いのやり方でも先に覚えれば。」


***


翌朝、月夜は障子を開ける手つきからして、昨日より少しだけぎこちなさが減っていた。


朝の空気は夜よりずっと正直だった。草葉に残った水気の匂い、温めた水が冷めていく匂い、遠くから聞こえる鳥の声まで、ひとつひとつがはっきりしていた。白雲神社は、日が出ているあいだは意外なほど普通の顔をしていた。古い木材と石段、整えられた庭、井戸端に置かれた桶。ただ、人が長く生きてきた場所のように見えた。


月夜が顔を洗い終えて庭に出ると、小麻里はもう箒を持って立っていた。今日はシャツの袖を片方だけ捲った格好だった。動きやすそうで、そのぶん年相応にも見えた。なのに、その顔にはもう働く人の表情がのっていた。


「何その目。」


「いえ、今日もちゃんと仕事する顔なんだなって思って。」


「冗談言う元気あるなら平気だね。じゃあ今日は死ななそう。」


その言い方があまりにも何でもない感じだったので、月夜は少し笑ってしまった。小麻里は箒の柄をもう一本差し出した。


「ほら。」


「これでどこまで掃けばいいんですか?」


「最初から完璧にやろうとしないで。砂埃立てない、砂の筋崩さない、落ち葉と草くずだけ取る。まずはそのくらい。」


言うのは簡単だったけれど、実際にやってみると難しかった。箒の先が砂を擦るたび、力が入りすぎたり、逆に弱すぎて落ち葉がそのまま残ったりする。二回ほど空振りみたいになったところで、小麻里が横へ来て箒の柄を少し押さえた。


「手首じゃなくて、腕全体で。そんなに強く押さない。」


「言うのは簡単ですけど。」


「みんな最初はそんなもん。」


小麻里の手が、箒を握っている月夜の手の甲のすぐ上に重なった。ただ持ち方を直しているだけなのに、急に距離が近くなって、月夜はなんとなく一度息を呑んだ。手の甲に触れる体温もそうだし、説明するために身体を傾けた小麻里の肩の線が思ったより近いのも、そうだった。


「集中してない?」


「してますよ。」


「目は違うとこ行ってるけど。」


図星だった。月夜は慌てて視線を箒の先へ落とした。小麻里はそれ以上何も言わなかったけれど、口元がほんの少しゆるんだ気がした。それがまた恥ずかしかった。


何度かやっているうちに、少しだけ感覚がわかってきた。落ち葉が片側へ寄っていき、砂の表面も必要以上に乱れず筋が残る。大したことでもないのに、妙に達成感があった。月夜が少し得意になっていると、小麻里が短く言った。


「うん。やっと人の住んでる場所っぽくなった。」


「さっきまでは廃墟だったってことですか?」


「あんたの腕前基準だと、ほぼ。」


言い合っているあいだに、結が社務所のほうから出てきた。今日も巫女服姿だった。朝の光を背にして歩いてくるだけなのに、その周りの空気だけ整うみたいだった。結は庭をひと通り見回してから、月夜が集めた落ち葉の山を見て小さく頷いた。


「初めてにしては、ちゃんとできてるね。」


「褒められてるのかどうか、ちょっと迷います。」


「頑張ったって意味だよ。」


それはちゃんと褒め言葉に聞こえた。月夜が箒を立てかけると、結は社務所のほうを手で示した。


「次は中のほう、少し手伝ってくれる?」


中の仕事は、外の掃除よりもっと細かかった。湯呑みを拭くこと、布巾を畳むこと、昨日使った盥を乾かすこと、小さな箱に香を補充すること。小麻里は物の置き場所を短く示し、結は祭祀の道具と生活の道具を混ぜないことだけをもう一度言った。


「こんなに手がかかるとは思ってませんでした。」


「放っておくと、もっと散らかるから。」


小麻里が言った。


「神様より、埃のほうが働き者だしね。」


結がそう続けた。その言葉に、月夜は思わず笑ってしまった。結がそんな冗談を言うとは思っていなかった。


棚を拭いていた月夜は、ふと尋ねた。


「でも私、ここで正確には何なんでしょう。」


結の手が止まった。小麻里はすぐには答えなかった。


「昨日、小麻里お姉ちゃんが雑用係って言ってましたけど、それもなんだか正式名称っぽくなくて。」


「正式名称なわけないでしょ。」


小麻里が言った。


「ただ手伝ってるだけ。」


「厄介になる代わりに、仕事を分け合ってるっていうほうが近いかな。」


結の返事はやわらかかった。その言葉を聞いた瞬間、月夜は不思議と安心した。


「じゃあ本当に、見習いでもないんですね。」


「見習いは、もっと何かを習う側に近いから。」


結が言った。


「月夜は今、暮らしていくやり方そのものを、もう一度つかみ直してる途中なんだと思う。」


その言葉は、不思議なくらい静かに胸へ入ってきた。暮らしていくやり方。ずいぶん大げさなのに、同時にとても正しかった。月夜は今、自分の名前以外ほとんど何も確かなものを持っていない。けれど、朝に顔を洗って、ご飯を食べて、庭を掃いて、湯呑みを拭くことなら、たしかに手の中に残った。


そのとき、社務所の奥のどこかで、がたん、と小さな音がした。月夜が顔を向ける。


「あれ、何ですか?」


小麻里と結の視線も同時にそちらへ向いた。ほんの一瞬だった。先に口を開いたのは小麻里だった。


「風。」


「部屋の中なのに?」


「古い家って、そういうこともあるから。」


答えは早かった。だから余計に怪しかった。けれど結は何も付け足さなかった。その代わり、空の湯呑みをひとつ月夜のほうへ寄せた。


「これ、拭いてくれる?」


話を逸らすやり方があまりにも露骨で、むしろ笑えてきそうだったけれど、月夜はあえてそれ以上聞かなかった。知らないまま、もう少しここにいたい気持ちもあったからだ。


湯呑みを拭きながら、月夜はほんの一瞬だけ奥のほうを盗み見た。閉じた戸の隙間から、細い陽射しが差し込んでいた。何も見えなかった。なのに、向こうから一度くらい覗かれたような気配だけは、なかなか胸の底に沈んでくれなかった。


結が言った。


「午前はここまで。よくできたね。」


小麻里は湯呑みを受け取って片づけながら頷いた。


「思ったより割らないじゃん。」


「最初、私のこと何だと思ってたんですか?」


「歩いててもそのうち転びそうな子。」


「それは否定できないですね。」


認めると、小麻里が短く笑った。ほんの一瞬だったけれど、今度はちゃんと笑ったのがわかった。月夜はそれを見て、ようやく自分もつられて笑った。


白雲神社の朝は、そんなふうに少しずつ、自分の場所を作っていった。

その! 伏見稲荷神社のほうではなくて、大社っぽいところなのですが、とりあえずあそこは人が多すぎそうで行けなかったのです! なので、ほどよく大原野神社のほうへ行ってきたのですが、これ、久しぶりに行ったらむしろ怖かったのです! なんだか落ち着く感じはあるのに! 怖かったのです! どうして怖いのかはわからないのですが、なんだか怖かったのです!

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