第三十六話 『眠っただけなのに、三度目の鐘が鳴る前に「忘れないで」と聞こえました!』
神社暮らし、今日は寝ているあいだに遠くまで行ってきたみたいです!
月夜は目を開けた。
最初に分かったのは、坂の途中にいるということだった。
足元には幅の広い石の道があり、ゆるく上へ続いていた。両側には低い石灯籠が並び、その中で橙色の明かりが揺れている。
夜だった。
空気は乾いていた。道の端には細い枯れ草が混じり、どこからか薄い煙の匂いがする。人の姿はないのに、少し前まで大勢が歩いていたような気配だけが残っていた。
どこか、秋祭りの夜を思わせた。
「……ここ、どこ。」
返事はなかった。
月夜は坂の上を見た。
その先に、神社があった。
最初は神社だと分からなかった。あまりにも大きかったからだ。
鳥居だけでも、白雲神社のものとは比べようがなかった。その奥へ続く石段は広く、さらに向こうには長い回廊と、黒い屋根を何重にも重ねたような社殿が見えた。
本殿らしい建物だけで、白雲神社の境内がいくつか入りそうだった。
大きすぎるものは、それだけで別のものに見えた。
石段の手前には、大きな狛犬が一対いた。
左右の石像は、どちらも背に沿って二本の尾を伸ばしていた。
なぜか、その形だけが妙にはっきり目に残った。
そのとき。
――ごぉん。
鐘が鳴った。
月夜の肩が跳ねた。
音は遠いはずなのに、耳で聞いたというより胸の奥へ直接入ってきたようだった。足元の石まで、ごく低く震えた。
公民館の帰りに聞いた言葉が、遅れて頭に浮かんだ。
夜に鐘が三回鳴ったら、外へ出るな。
月夜は足元を見た。
もう、外にいる。
鐘の余韻が消えるより先に、夜の中へ何かが広がった。
誰かが現れたわけではない。
姿もない。
ただ、とてつもなく大きな気配だけが、坂も、石灯籠も、木々の向こうも、まとめて覆った。
月夜がそれを考える暇もなかった。
――ごぉぉん。
二度目の鐘が鳴った。
さっきより、ずっと大きかった。
空気そのものに重さがついたように、肩と背中に一気に圧がかかった。
膝が折れかけた。息を吸おうとしても胸がうまく広がらない。
立っているだけなのに、何かに押し潰されまいとしているようだった。
「なに……これ……。」
声はほとんど音にならなかった。
まだ、三度目は鳴っていない。
それなのに、次が来ると分かった。
空気がさらに深く沈んだ。
三度目。
その音が来る。
そう思った瞬間。
「忘れないで。」
声がした。
***
「……っ!」
月夜は大きく息を吸った。
目の前にあったのは、見慣れた木の天井だった。
窓の外では、朝の蝉が鳴いていた。
胸が速く上下していた。
そして、重かった。
腰より下に何かが乗っている。
何度か瞬きをして、月夜はようやく、自分の上に木乃葉が跨っていることに気づいた。
木乃葉は月夜の腰の両側に膝をつき、体を低くしていた。
顔は月夜の胸元に寄せられ、狐耳が薄い寝間着越しに胸の脇に当たっていた。
月夜は数秒、その光景を見下ろした。
「……木乃葉。」
狐耳が動いた。
「うん。」
「何してるんですか?」
「聞いてる。」
「何をですか?」
「君。」
月夜はもう一度、自分の置かれている状況を確認した。
木乃葉の頭。
自分の胸。
木乃葉の耳。
自分の胸。
「人の音を聞くときって、普通そこに耳を当てるんですか?」
「心臓に近いから。」
「ちょっと横すぎる気がするんですけど。」
「近ければいいでしょ。」
木乃葉はまだ顔を上げなかった。
声にも、いつものようなからかう調子がなかった。
そこで月夜は、木乃葉の三本の尻尾が全部、床に垂れたままなのに気づいた。
一本も動いていなかった。
「何かあったんですか?」
木乃葉はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくり体を起こした。
「急に君の気配が薄くなった。」
「気配ですか?」
「うん。」
「私が静かに寝てたからじゃなくて?」
「そういうのじゃない。」
木乃葉は月夜の額に手を置いた。
「ここにいるのに、ここにいないみたいになった。」
月夜は自分の手を見た。
指も動く。
布団の下のつま先も動いた。
ちゃんとここにいる。
「そんなことまで分かるんですか?」
「分かるよ。」
「どうやって?」
木乃葉はそこでようやく、いつもの顔に戻った。
「この山と、この辺りは私の管轄だから。」
「管轄。」
「うん。」
「急に公務員みたいですね。」
「神にも担当区域はあるんだよ。」
「そう言われると神聖さが減るんですけど。」
「神聖さと苦情対応は別問題だよ。」
月夜は笑った。
木乃葉の耳が一度動いた。
「本当に大丈夫?」
「はい。」
答えてから、月夜はさっきの夜を思い出した。
坂道。
並んだ明かり。
大きすぎる神社。
鐘。
月夜の笑みが引いた。
「……変な夢を見ました。」
木乃葉の表情が変わった。
「どんな?」
「坂道の上に、すごく大きな神社がありました。祭りの夜みたいな感じで……鐘が二回。」
木乃葉の耳が一度動いた。
「それで?」
「三回目が来ると思ったところで、『忘れないで』って聞こえて。そこで起きました。」
「三回目は鳴ってない?」
「はい。」
「そっか。」
木乃葉はそれだけ言って、月夜の額から手を離した。
「声の人は見た?」
「見てません。声だけです。」
木乃葉は月夜を見た。
けれど、それ以上は聞かなかった。
その長い視線のせいで、今度は月夜のほうが別のことを思い出した。
木乃葉はまだ、自分の腰の上に跨ったままだった。
「……ところで。」
「うん?」
「そろそろ降りませんか?」
木乃葉の口元がようやく上がった。
「今さら?」
「今、気づいたんです。」
「どこに耳を当ててたかも?」
月夜が止まった。
数秒遅れて、顔に熱が上がった。
「降りてください。」
「戻ったね。」
「何がですか?」
「月夜が。」
木乃葉は笑って、今度は素直に退いた。
三本の尻尾も、そこでようやく一本ずつ動き始めた。
***
奥の居室へ入ると、味噌汁の匂いがした。
結はもう朝食を並べていて、小麻里は小皿に漬物を移していた。
木乃葉がいつものように真っ先に席につかず、結のそばまで行くと、結が手を止めた。
「何かあった?」
「月夜が一瞬、薄くなった。」
小麻里の箸が止まった。
結はすぐに月夜を見た。
「体は?」
「大丈夫です。」
「めまいとか、吐き気は?」
「ありません。」
結はそこでようやく息を吐いた。
「何を見たの?」
「夢、だと思うんですけど。大きな神社と、鐘です。」
月夜は椀の縁に目を落とした。
「二回鳴って、三回目の前に目が覚めました。その直前に、『忘れないで』って。」
結は一拍置いてから言った。
「分かった。今は無理に思い出さなくていいよ。」
小麻里が茶碗を月夜の前に置いた。
「とりあえず食べて。」
「こういうときでも、ご飯が先なんですね。」
「こういうときだから。」
月夜は味噌汁の椀を持った。
やがて、木乃葉が横から言った。
「食べてる途中でまた薄くなったら、私が捕まえるから。」
「どうやってですか?」
小麻里が先に答えた。
「また上に乗るんじゃない。」
月夜の手が止まった。
木乃葉が笑った。
「胸の音も聞けるしね。」
「それはなしです。」
結も小麻里も一瞬止まった。
月夜は自分で言ってから遅れて気づいた。
「……ご飯食べます。」
「説明は?」
「ご飯が先なんでしょ。」
小麻里が口元を手で隠した。
結は何も言わず、月夜の味噌汁の椀を手元に寄せた。
***
朝食のあとも、一日はいつも通りに回った。
妙な夢を見たからといって、洗濯物が勝手に乾くわけでも、布団が自分から日に当たりに行くわけでもない。
天気がよかったので、奥の居室の布団と座布団を外に干すことになった。
小麻里が庭に布団干し台を広げた。
「日に当てすぎると色褪せるから、昼前まで。」
「はい。」
月夜は自分の布団を両腕に抱えて外へ出た。
思ったより大きくて、前が半分ほど隠れた。
「これくらいなら一人で持てます。」
誰にも何も言われていないのに先回りして言うと、小麻里が返した。
「何も言ってない。」
「顔が言ってました。」
「最近、木乃葉の言い方に似てきたね。」
「それはちょっと心配ですね。」
後ろから木乃葉が、座布団を二枚まとめて抱えて出てきた。
「いい方向じゃない?」
「本人が言うと説得力ないですよ。」
木乃葉の視線は、月夜が庭の端に行くたびについてきた。
一度。
二度。
三度目くらいで、月夜のほうから振り返った。
「木乃葉。」
「うん。」
「私、まだいますよ。」
「分かってる。」
「ずっと確認してるじゃないですか。」
「私の管轄だから。」
「その言葉、便利に使いすぎです。」
木乃葉は笑っていた。
月夜は布団を干し台の上に広げた。
日に当たった布から、すぐに暖かな匂いが立ち上った。
手のひらで皺を伸ばしていると、不意に、夢の中の石道を思い出した。
坂の上。
橙色の明かり。
その先の、あまりにも大きな屋根。
手が一瞬止まった。
「月夜。」
木乃葉がすぐに呼んだ。
「はい。」
「今、ここにいる?」
妙な質問だった。
月夜は足元を見た。
庭の石。
陽射し。
干してある布団。
少し離れたところで座布団を叩いている小麻里。
そして、木乃葉。
「はい。」
月夜は言った。
「ここにいます。」
木乃葉はそこでようやく座布団を払った。
「じゃあ、それでいい。」
***
昼頃になると陽射しが強くなり、月夜たちは布団を取り込んだ。
月夜が温かくなった布団を抱えて奥の居室へ入ると、部屋の中まで外の陽射しの匂いがついてきた。
結は窓辺に蚊取り線香の受け皿を出していた。
「今日から夜はこれ焚こう。」
「もう蚊、多いんですか?」
「昨日、木乃葉が三か所刺されたの。」
木乃葉が後ろから言った。
「神を三回も刺したんだよ。」
小麻里が返した。
「蚊には神格なんて見えないんでしょ。」
「不敬だね。」
「捕まえたの?」
「二匹は。」
月夜が尋ねた。
「もう一匹は?」
木乃葉は黙った。
「今ごろ来世を生きてるんじゃないかな。」
「逃がしたんですね。」
「戦略的撤退。」
「蚊が?」
「私が。」
月夜は笑った。
蚊取り線香の先に火がつき、細い煙がゆっくり昇った。
匂いははっきりしていた。
目にも沁みた。
夢の中の夜より、ずっと現実らしかった。
結が月夜の隣に座った。
「さっき見たもの。」
「はい。」
「今すぐ全部思い出そうとしなくていいよ。」
「どうしてですか?」
「無理に掴もうとすると、別のものまで混ざるかもしれないから。」
月夜は一拍置いた。
「でも、『忘れないで』って言われました。」
結の視線が止まった。
「だから、メモしておこう。」
「メモですか?」
「うん。覚えておこうと頑張らないで、あったことだけ。」
結は小さなメモ用紙と鉛筆を持ってきた。
月夜は紙の上に、短く書いた。
『坂道。』
『祭りみたいな夜。』
『とても大きな神社。』
『狛犬。』
『鐘。二回。』
『三回目の前。』
『忘れないで。』
最後の文字を書き終えると、頭の中が静かになった。
「これくらいでいいですか?」
「うん。」
結は紙を折った。
「どこに置きます?」
「月夜が決めて。」
月夜は部屋を見回した。
引き出しの中にしまうのは嫌だった。
結局、小さな本を一冊選び、その間に紙を挟んだ。
頻繁に読むものではないけれど、どこに置いたかは迷わない一冊だった。
「ここにします。」
「分かった。」
結はそれ以上聞かなかった。
***
日が傾き始める頃、月夜は縁側に座っていた。
朝のことがあったせいか、昼寝をしたい気持ちはあったのに、今日は妙に横になりたくなかった。
木乃葉もすぐ隣の柱にもたれていたが、何も言わなかった。
一本の尻尾だけが縁側の上に長く伸びていた。
やがて、尻尾の先が月夜の足の甲に軽く触れた。
月夜は下を見た。
「何ですか?」
「確認。」
「またですか?」
「うん。」
「手でやればいいじゃないですか。」
「尻尾のほうが楽だから。」
月夜は尻尾を押し退けず、つま先で軽く押さえた。
木乃葉の耳が動いた。
「捕まえたね。」
「逃げるかもしれないので。」
「誰が?」
「尻尾がです。」
木乃葉は笑った。
「じゃあ、ちゃんと捕まえてて。」
月夜はそのまま足を置いておいた。
あの神社がどこなのかは分からなかった。
三回目が鳴っていたら、何が起きたのか。
声の主が誰なのか。
何一つ分からなかった。
けれど今、足元には温かい縁側があった。
隣には木乃葉の尻尾があり、奥の居室のほうからは食器の触れ合う音がした。
遠くで風鈴が鳴った。
月夜はその軽い音を聞き流し、足元の温かさに意識を戻した。
そ、その! 私、連載はするっしゅ! 最近秋になってきたせいか、前より簡単に寝落ちしてまうのです! 前までは朝4時まで作業して、そこから一生懸命おねんねしてたのに! 最近は4時まで起きてることすらできへんのです!




