第三十五話 『神社に長く住んでいただけなのに、私も尻尾をつけなきゃいけないそうです!』
神社暮らし、今日は尻尾が生えそうになりました!
夜は何事もなく過ぎた。
正確に言えば、夜の禁忌を思い出すような鐘の音は、結局最後まで聞こえなかった。
朝になると、白雲神社は昨日の公民館のことも、夜の鐘の禁忌のことも知らない顔で夏の陽射しを浴びていた。境内では箒の音がしていて、奥の居室では結が味噌汁の鍋の蓋を開けていた。
月夜は縁側の端に座り、髪を結んでいた。
紐を一度巻き、二度目を巻こうとした瞬間――
「月夜。」
すぐ隣から木乃葉が月夜を呼んだ。
「はい?」
「考えてみたんだけどさ。」
木乃葉が妙に真剣な雰囲気で話を切り出したので、月夜は髪紐を口にくわえたまま、意外そうに木乃葉を見た。
「何をですか?」
「君ももう、白雲神社にけっこう長くいるでしょ。」
「けっこうがどのくらいなのかは分かりませんけど、最初よりは長くいますね。」
「ご飯も一緒に食べて。」
「はい。」
「掃除もして。」
「はい。」
「私のおやつもこっそり守ってくれて。」
「それは木乃葉が二つ食べようとしたから止めたんです。」
「そういう細かい違いは今は重要じゃないよ。」
木乃葉は縁側の下へ垂らしていた三本の尻尾を一度揺らした。
朝の陽射しを受けた毛が、のんびりと広がってからまた集まった。
「これくらいになったら、君にも尻尾が一本くらいあったほうがいいんじゃない?」
月夜は口から髪紐を外した。
「なんでですか?」
「所属感。」
「所属感ってそこから出るんですか?」
「形は心についてくるものだから。」
「それっぽいことを言って変な結論を出さないでください。」
木乃葉は予想していたように頷いた。
「最初はみんなそう言うんだよ。」
「『みんな』って誰ですか?」
「今のところ君。」
「一人じゃないですか。」
月夜はまた髪を結び始めたが、木乃葉は引き下がらなかった。むしろぐっと隣へ寄ってきて、自分の尻尾を一本、月夜の腰の後ろに重ねてみた。
「ほら。似合うでしょ。」
「今、私の体に当ててみただけで判断したんですか?」
「銀髪には白い尻尾が似合いそうだね。耳もあったらもっといい。」
「どうして自然にセットが増えるんですか?」
「統一感。」
「人間のままで統一したら駄目なんですか?」
月夜が言った。
「それに、私は狐神でもないし、狐でもないじゃないですか。」
「白雲神社に住んでるのは本当でしょ。」
「その理屈なら小麻里お姉ちゃんにも尻尾が必要ですよ。」
境内を掃いていた小麻里が、遠くからすぐに言った。
「いらない。」
「まだ勧めてもないのに。」
「勧めないで。結お姉ちゃんにも。」
月夜は心強くなって言った。
「ほら。」
「二人は長く耐えすぎて、頑固になったんだよ。」
「神社暮らしの副作用みたいに言わないでください。」
木乃葉は頬杖をつくと、月夜を上から下までゆっくり眺めた。
月夜は反射的にスカートの裾を押さえた。
「なんでそんなふうに見るんですか?」
「装着位置を考えてた。」
「まずその単語の選び方を変えてください。」
「尻尾は、尻尾が生えるところにつけないといけないから。」
月夜の手が止まった。
木乃葉は笑っていなかった。
「……どこから生えるんですか?」
「背中の下。」
「広すぎます。」
「腰より下。」
「絞られるほど、むしろ不安になるんですけど。」
木乃葉の口元が上がった。
月夜はそこでようやく、からかわれていたことに気づいた。
「今、わざとやってますよね。」
「何を?」
「私に変な想像させようとして。」
「変な想像したの?」
「してません。」
「返事が早い。」
「最近みんなそればっかり言いますね。」
木乃葉は笑いながら立ち上がった。
「よし。じゃあ実際にやってみよう。」
「何をですか?」
「尻尾。」
「やりません。」
「まだどうやってつけるのかも見せてないのに?」
「だから余計にやりません。」
「臆病者。」
「常識人です。」
「白雲神社で常識人の座を狙うのは競争が激しいよ。」
「誰と競争するんですか?」
木乃葉は首を傾げた。
「小麻里?」
遠くで箒の音が止まった。
「私を巻き込まないで。」
今度は声が低かった。
木乃葉は素直に口を閉じたが、どうやら手まで止める気はなさそうだった。
もちろん、月夜がそのことに気づいたときには、もう遅かった。
***
「ん……うぅっ……。」
しばらくして。
月夜は畳の上に両手と両膝をついていた。
人の自尊心というものは、姿勢ひとつでわりと簡単に小さくなるらしい。
「木乃葉……。」
「うん。」
「これ、なんで必要なんですか……。」
「尻尾の気持ちを理解するには、重心を低くしないと。」
「尻尾に気持ちがあるんですか?」
「私のはあるよ。」
「それ、木乃葉の尻尾じゃないですか……。」
腰の後ろで何かがふわふわと動いていた。
月夜は反射的に振り返ろうとして姿勢を崩しかけ、慌ててまた前を向いた。
スカートの後ろ、腰の下あたりから伸びた尻尾が一本、左右へゆっくり揺れていた。
最初に木乃葉が持ってきたときに見えたのは、長くてふさふさした毛と、手のひらで隠されて最後まで見せてもらえなかった根元だけだった。
「説明はあとで。」
そこまで聞いた時点で逃げるべきだったのに、どうして逃げなかったのだろう。
たぶん木乃葉が「本当に嫌ならやらなくてもいいよ」と、あまりにも平然と言ったからだった。
その言葉を聞いたせいで、逆に一度くらいならやってみてもいいのかもしれないと思ってしまったのが問題だった。
結果として、月夜は四つん這いに近い姿勢で部屋の中を一周していた。
「腰伸ばして。」
「この姿勢で、ですか?」
「尻尾が死んじゃうでしょ。」
「もともと生きてないじゃないですか。」
「気持ちの問題だよ。」
木乃葉が尻尾の先を指で軽く持ち上げた。
その瞬間、月夜の腰まで一緒に引っ張られた。
「へぅっ……!」
変な声が出て、月夜はそのまま固まった。
木乃葉も固まった。
短い沈黙が落ちた。
「……今のは腰が引っ張られたからです。」
「何も言ってないけど。」
「顔が言ってました。」
「私の顔、そんなにエロい?」
「朝から何言ってるんですか!」
木乃葉はとうとう笑い出した。
月夜が体を起こそうとすると、木乃葉が肩を押さえて言った。
「まだ一周残ってるよ。」
「何の修行なんですか、これ。」
「白雲神社式・狐体験。」
「初めて聞きましたけど。」
「今日できたから。」
「私が最初の被害者じゃないですか!」
そのとき、部屋の前を小麻里が通りかかった。
片腕には乾いた手拭いが何枚も載っていて、小麻里は開いた戸の中を一度見た。
両手と両膝を床についた月夜。
その後ろに座り、尻尾を持ち上げている木乃葉。
視線が一度止まった。
「……何してるの?」
月夜が口を開くより先に、木乃葉が答えた。
「神社適応訓練。」
「そう。」
小麻里はそのまま通り過ぎた。
「ちょっと待ってください……!」
月夜が顔を上げた。
「なんでそのまま行くんですか?!」
廊下の先から返事が飛んできた。
「いつも通りでしょ。」
「何がですか?!」
「木乃葉があんたをからかうの。」
木乃葉が満足そうに頷いた。
「これもすっかり日常になったね。」
「そっちで感動しないでください。」
けれど月夜は、吹き出してしまった。
「よし。」
木乃葉が急に立ち上がった。
「じゃあ次の段階。」
「まだあるんですか?」
「バランスは覚えたし、装備を増やさないと。」
木乃葉は部屋の隅に隠してあった風呂敷を開いた。
その中から、もう一本の尻尾が出てきた。
月夜の顔から笑みが消えた。
「なんで二本あるんですか?」
「二本のほうが狐っぽいから。」
「木乃葉も生まれつきの尻尾は二本ですけど……。」
言いかけて、月夜は止まった。
木乃葉がもう片方の手で何かを持ち上げたからだった。
尖った狐耳のついたカチューシャだった。
「じゃーん。」
「いつ用意したんですか?」
「朝、君が髪を結んでたとき。」
「その時点でもう結論出てたじゃないですか!」
木乃葉は尻尾と狐耳のカチューシャを持ったまま笑いながら近づいてきた。
あまりにも楽しそうで、逆に嫌な予感しかしなかった。
月夜は四つん這いのまま、無様に後ずさった。
「ちょっと、木乃葉。」
「うん。」
「二本目はどこにつけるんですか?」
「一本目の隣?」
「隣?!」
その瞬間、小麻里がまた部屋の前に現れた。
今度は手ぶらだった。
たぶん月夜の声が大きすぎたのだろう。
小麻里は木乃葉の手にある二本目の尻尾を見て、月夜の後ろを見て、もう一度木乃葉を見た。
「一つの穴に二本は入らないよ。」
月夜の時間が止まった。
木乃葉は瞬き一つしなかった。
「いや、二本でも入るには入るよ。」
「木乃葉!」
月夜はほとんど悲鳴を上げた。
小麻里の眉が動いた。
「……本当に?」
「何が?」
「ちょっとどいて。」
小麻里が部屋の中へ入ってきた。
月夜は嫌な予感がして体を起こそうとしたが、小麻里はもうスカートの後ろの裾を掴んでいた。
「ちょ、ちょっと待ってください、小麻里お姉ちゃん!」
布が軽く持ち上がった。
夏の空気が太ももの後ろを撫で、月夜はそのまま固まった。小麻里も一瞬止まった。
朝には確かに身につけていた布が一枚、今はなかった。
小麻里の視線が止まった。
「……なんで下着まで脱がせたの。」
木乃葉は一拍だけ考えた。
「サービスシーン。」
「何の。」
「……下着のゴムとベルトが重なると、尻尾がずれるから。」
「最初からそう言って。」
小麻里の視線が上へ動いた。
そして尻尾の根元で止まった。
「……ベルトだね。」
月夜は顔を床に埋めたくなった。
スカートの下、腰のあたりには細いベルトが巻かれていて、尻尾はその後ろの輪に結びつけられていた。
最初から、それだけだった。
小麻里はスカートを元に戻した。
「ならいい。」
「何がいいんですか……。」
「怪我はしなさそう。」
「私の心は?」
「それはもう遅いし。」
木乃葉は隣で笑いをこらえきれず肩を震わせ、小麻里はそんな木乃葉を一度見て言った。
「二本目もベルトにつけて。」
「うん。」
「変なことしないで。」
「変なことの基準が広いんだけど。」
「結お姉ちゃんに言おうか?」
木乃葉の笑みが引いた。
「それは脅しでしょ。」
「効いてるね。」
小麻里は背を向け、部屋を出ていった。
敷居を越える直前、月夜が呼んだ。
「小麻里お姉ちゃん。」
「何。」
「私、今……変じゃないですか?」
小麻里が振り返った。
尻尾一本と、乱れた銀髪と、赤くなった顔を順番に見てから言った。
「いつもより少し。」
「どのくらい少しなんですか?」
「耳までつけたら、もっといいと思う。」
小麻里はかすかに口元を上げ、そのまま悠々と部屋を出ていった。
「小麻里お姉ちゃんまで……。」
月夜は裏切られたような顔で戸口を見た。
木乃葉が狐耳のカチューシャをひらひらと揺らした。
「許可も出たね。」
「そういう許可じゃないです。」
「ほら。」
「嫌です。」
「本当に?」
月夜はカチューシャを見た。
正直に言えば、少し気になっていた。
「……耳だけ。」
「うん?」
「耳だけつけて、それで終わりです。」
木乃葉の目が細くなった。
「月夜。」
「何ですか。」
「君、だいぶ染まってきたね。」
「……誰のせいだと思ってるんですか。」
***
午後になると、問題は思ったより大きくなった。
結局、尻尾を二本までつけることはなかった。
それが最後の自尊心だったから。
けれど耳は、思ったより長く頭に残っていた。
鏡を見ると、まったく似合わないわけでもなかったし、銀髪のあいだから尖った耳が出ていると、いつもよりいたずらっぽく見えた。
木乃葉は満足して、月夜を自分の隣へ座らせた。
「これでやっと神社に統一感が出たね。」
「結お姉ちゃんと小麻里お姉ちゃんはそのままですけど。」
「二人は背景。」
「本人たちに言ってみてくださいよ。」
「嫌。」
「なんで急に賢くなるんですか?」
尻尾はもう、ベルトごと外して隣に置かれていた。
外した時点で下着も身につけ直すつもりだったのに、狐耳のことで木乃葉とやり合っているうちに、すっかり忘れていた。
それなのに月夜は、座るたびに一度ずつ後ろを確認してしまった。一時間もつけていなかったのに、外した後のほうが妙に落ち着かなかった。
木乃葉はそれを見逃さなかった。
「名残惜しい?」
「いいえ。」
「もう三回も後ろ見たけど。」
「確認してるんです。」
「何を?」
「私がちゃんと人間に戻ってるか。」
「耳つけたまま言ってるから説得力が弱いね。」
月夜は頭の上へ手をやり、カチューシャを外そうとしたが、木乃葉が慌てて手首を掴んだ。
「もう少しだけ。」
「なんでですか?」
「可愛いから。」
予想よりあまりにも普通に言われて、むしろ月夜のほうが返事を失った。
木乃葉の本物の耳が、ゆっくり一度動いた。
月夜は手を下ろした。
「……少しだけですよ。」
「うん。」
そのとき、奥の居室のほうの引き戸が開いた。
結が小さな盥を持って出てきた。
「二人とも、ここにいたんだね。」
「はい。」
月夜はいつも通り答えた。
結もいつも通り頷こうとしたが、視線が月夜の頭の上で止まった。
狐耳。
視線が横へ動いた。
隣に置かれた尻尾とベルト。
もう一度、月夜。
最後に木乃葉。
「……木乃葉。」
木乃葉がとてもゆっくり立ち上がった。
「うん、結。」
「説明して。」
「神社適応教育。」
「もう一回。」
「生活文化体験。」
「もう一回。」
「……私がふざけた。」
結は盥を置いた。
声は相変わらず柔らかかった。
「月夜はどうだった?」
その言葉を聞いて、木乃葉が月夜を見た。
月夜も木乃葉を見た。
最初は確かに嫌だと言ったが、途中からは自分で狐耳のカチューシャを選んだ記憶もあった。
「最初は嫌だとは言ったんですけど……。」
月夜が言うと、結の目が細くなった。
木乃葉が慌てて付け足した。
「でも、本当に嫌ならやらなくていいって言ったよ。」
「それで?」
「……ちょっと説得した。」
「どのくらい?」
月夜は答える代わりに視線を下げた。
縁側の脇に、朝は身につけていた下着が、とてもきれいに畳まれていた。
誰が畳んだのかは、わざわざ言わなくてもよさそうだった。
結も、木乃葉もそれを見た。
数秒、風だけが通り過ぎた。
「木乃葉。」
二度目は、もっと低かった。
「いや、これは下着のゴムとベルトが重なると、尻尾がずれるから。」
「木乃葉。」
「うん。」
「こっち来て。」
「話し合いで解決できない?」
「今、話し合ってるよ。」
「距離を調整したほうがよさそうな話し合いなんだけど。」
木乃葉が一歩後ろへ下がると、結は木乃葉のほうへ一歩近づいた。
木乃葉の三本の尻尾が、同時に緊張したようにぴんと立った。
月夜はその姿を見て、とうとう笑いをこらえられなかった。
「……月夜。」
木乃葉が不満そうな顔で見た。
「なんで笑うの。」
「いつも通りだからです。」
「誰が普段から怒られてるの。」
「木乃葉が。」
「君まで?」
結が木乃葉の肩を掴んだ。
「行こう。」
「どこへ?」
「話しに。」
「ここで話せばいいじゃない。」
「月夜の前で?」
木乃葉は口を閉じた。
「……それはちょっと恥ずかしいね。」
「じゃあ行こう。」
木乃葉は引かれるように奥の居室へ入っていった。
三本の尻尾が戸の向こうへ消える直前、最後の一本が月夜のほうへ小さく揺れた。
助けてほしいという意味なのかは分からなかった。
月夜は手を振ってやった。
「行ってらっしゃい。」
「裏切り者。」
戸が閉まった。
***
奥からは、結の低い声と木乃葉の言い訳が交互に聞こえてきた。
『ベルト』、『ふざけるにも限度』、『その前に服から』。
そのくらいだけ、途切れ途切れに聞こえた。月夜はそれ以上聞かないことにした。
代わりに、縁側に残された尻尾を持ち上げてみた。
思ったより軽く、根元にはさっき見た革の輪と紐がついていた。
最初から、これだけだった。
月夜は指で毛を一度撫でた。
柔らかかった。
「……でも二本はやりません。」
誰もいない縁側へ、小さく言った。
やがて、小麻里が通りかかって月夜を見た。
「耳、まだつけてるんだ。」
月夜の手が頭の上へ上がった。
完全に忘れていた。
「外します?」
「なんで私に聞くの。」
「さっき、つけたほうがいいって言ったじゃないですか。」
小麻里は月夜を見つめた。
「そのままでいいよ。」
「似合います?」
「少し。」
「少しってどのくらいですか?」
「木乃葉が喜ぶくらい。」
月夜は奥の居室のほうを見た。
ちょうどそのとき、木乃葉の声が聞こえた。
「結、これからは先に聞くよ。」
「何を?」
「下着を脱がせてもいいかどうか。」
「そこからじゃない。」
月夜はそのまま両手で顔を覆った。
小麻里は静かに通り過ぎていった。
肩がかすかに揺れていて、口元は上がっていた。
夏の午後の白雲神社は、夜の鐘よりずっとくだらないことで騒がしかった。
それでも月夜は、すぐにはカチューシャを外さなかった。
縁側の端に置かれた毛の尻尾が、風に一度揺れた。
本物の尻尾ではなかったけれど、不思議と今日一日くらいはこのままでもいいような気がした。
最近また休載を繰り返してて、このままやともうすぐ冨樫先生になってまいそうなんですけど! 今回はちゃんと準備してるものがあるのです! 期待しててもええっしゅ!




