第三十四話 『公民館を手伝っただけなのに、夜に鐘が三回鳴ったら外へ出ちゃいけないそうです!』
神社暮らし、今日は公民館まで夏のお使いに行ってきました!
翌朝、月夜は玄関を通りかかったところで足を止めた。
低い棚の一段。
乾いた布。
その上に置かれた、古い茶色のグローブ。
昨日ここに置いたばかりなのに、不思議なくらいそこに馴染んでいた。靴を履きに出るたびに目に入る場所だから、むしろずっと前からそこにあったように感じるほどだった。
月夜はそちらへ手を伸ばそうとした。
「朝から秘密の確認?」
後ろから木乃葉の声がした。
「確認してたわけじゃないです。」
「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうに見てたの?」
「私、そんなに嬉しそうな顔してました?」
「うん。嫁に行く娘を見る顔。」
「どんな顔なのか全然分からないんですけど。」
木乃葉は笑いながら棚のほうへ近づいた。月夜が何も言わず体で前を塞ぐと、木乃葉の耳がぴくっと動いた。
「見ないよ。」
「昨日もう見たじゃないですか。」
「だから今日は見ない。」
「なんで急に信用できること言うんですか?」
「……普段の私は何だったの?」
「信用する前に、もう一回考えたほうがいい人です。」
「神様なのに?」
「神様だからこそです。」
木乃葉の尻尾が一本、グローブのほうへそっと伸びかけたが、月夜の視線を受けて戻っていった。
そのとき、奥の居室から小麻里が呼んだ。
「月夜。公民館に行く準備して。」
「公民館ですか?」
「今日は防災物資を点検する日なんだって。人手が足りないからって、あかねおばあちゃんが朝から人を捕まえてる。」
「言い方がちょっと怖いんですけど。」
結は食卓の上のメモを折って、月夜に渡した。
「これも持っていって。神社側の緊急連絡先を確認したものだから。」
「固定電話の番号ですか?」
「うん。山のほうは携帯電話が繋がりにくいときもあるから。」
小麻里が付け足した。
「電話線まで無事なら、それが一番確実だし。」
月夜はメモを鞄の内側に入れた。
「誰と行くんですか?」
「私。」
小麻里が答え、木乃葉が手を上げた。
「私も。」
「駄目。」
「なんで?」
「この前、公民館のお菓子が一袋なくなった。」
「証拠ある?」
「口元にお菓子のかけらつけて帰ってきたでしょ。」
「状況証拠だね。」
「自白と変わらないでしょ。」
木乃葉は静かに手を下ろした。
月夜は靴を履きながら、棚の上のグローブをもう一度見た。
「行ってきます。」
「うん。あんまり遅くならないでね。」
結が言った。
***
沢良木公民館は、あかね商店からそれほど遠くなかった。
低い平屋建ての玄関脇には掲示板があった。ごみの収集日、診療所の休診案内、夏場の食中毒注意、村の外へ出るバスの時刻表がびっしり貼られていた。
月夜は一枚の前で止まった。
「バスの最終、思ったより早いですね。」
「乗り遅れても歩いて帰ろうとしないで。」
小麻里が言った。
「じゃあ、どうするんですか?」
「連絡して待つ。」
月夜は口を閉じた。
玄関を開けると、古い扇風機の風が先にやってきた。
「来たねえ。」
あかねおばあちゃんが折り畳み椅子に座ったまま手を上げた。
そしてその隣で箱を抱えていた鈴女が顔を出した。
「月夜!」
「鈴女もいたんだ。」
「朝から捕まりました。」
あかねおばあちゃんが笑った。
「捕まえたなんて人聞きの悪い。若い腰が余ってたから、ちょっと借りただけだよ。」
「その言い方のほうが怖いんですけど。」
月夜が言うと、鈴女もすぐに頷いた。
「私もまったく同じこと言いました。」
公民館の奥にある大きな部屋には、箱がずらりと並んでいた。
懐中電灯、ラジオ、乾電池、蝋燭、マッチ、折り畳み式の水タンク、救急箱。
どれも新品ではなかった。懐中電灯には名前札が貼られ、乾電池の箱には太いマジックで交換日が書かれていた。
小麻里はメモを担当の人に渡し、一覧表を受け取った。
「月夜は乾電池の日付見て。液漏れしてるのは別にして。」
「はい。」
「鈴女は懐中電灯。」
「はい!」
あかねおばあちゃんが言った。
「私は監督。」
鈴女が顔を上げた。
「おばあちゃんが一番楽なんじゃないですか?」
「監督が一番大事なんだよ。」
「手、一つも動いてないじゃないですか。」
「口が動いてるじゃないかい。」
「それは普段から動いてるじゃないですか。」
月夜が笑うと、小麻里が一覧表から目を離さず言った。
「二人とも、口より手。」
「はい。」
「はい!」
返事まで同時だった。
***
点検は思ったより手間がかかった。
乾電池の包装を開けて古いものと新しいものを分け、懐中電灯に入れて実際に点くか確認した。ラジオは乾電池を替えると、ざあざあという雑音のあとに天気予報を流し始めた。
鈴女が周波数のダイヤルに触ると、ほとんど同時に小麻里が言った。
「そこで止めて。」
「野球やってないかなって。」
「この前聞いたでしょ。」
「野球は一回聞いたら終わりじゃないです。」
月夜が日付を読みながら言った。
「鈴女って、ラジオの中に野球が住んでると思ってそう。」
「そこまで好きじゃないですよ。」
「今の声、ちょっと不満そうだったけど。」
公民館の奥の倉庫は、もっと暑かった。
窓は一つもなく、小さな換気口があるだけで、扉を開けた瞬間、乾いた紙と布、古い木の匂いが一度に流れてきた。奥の棚には折り畳み座布団や水タンク、古い横断幕が何段にも積まれていた。
「下の段から出そう。」
小麻里はそう言って、別の棚のほうへ向かった。
月夜は鈴女と同じ棚の前にしゃがみ込んだ。
「この箱?」
「いえ、その隣です。『乾電池予備』って書いてあります。」
鈴女がさらに体を屈め、下の箱の取っ手を掴んだ。
短いズボンの下から太ももがすっかり見えていた。運動が好きな人らしく、膝の上には日焼けの跡が残っていて、動くたびにその境目がわずかに変わった。
月夜は視線を下げてから、一拍遅れて上げた。
鈴女が箱を掴んだまま止まった。
「……月夜。」
「うん?」
「今、どこ見てました?」
「……箱。」
「箱は私の右側ですけど。」
月夜は箱のある場所を確認した。
「じゃあ、少し下を見てたみたい。」
「少し下ってどこですか?」
後ろからあかねおばあちゃんの声が飛んできた。
「太ももまで数えてたんなら一覧に書いときな。左右二本、異常なし。」
「おばあちゃん!」
鈴女は勢いよく立ち上がりかけ、棚に頭をぶつけそうになった。
月夜は口元を押さえたが、笑いが漏れた。
「数えてないですよ。」
「見たことは否定しないんだね。」
月夜は一拍置いた。
「……少しは見たので。」
「なんで認めるんですか?!」
鈴女の顔が一気に赤くなった。
「そこにあったじゃない。」
「あっても普通は適当に知らないふりしません?」
「じゃあ次から知らないふりするね。」
「それはそれで嫌ですけど……。」
鈴女がごく小さく呟いた。
「何が?」
「あ、何でもないです!」
鈴女は箱を抱え、先に出ていってしまった。
あかねおばあちゃんはその後ろ姿を見ながら、ほっほっと笑った。
「夏はいいねえ。」
「急に何の話ですか?」
「薄着してても季節のせいにできるじゃないか。」
月夜はどこまで答えれば安全なのか分からず、口を閉じた。
***
一時間ほどすると、点検表の空欄もほとんどなくなった。
鈴女はさっきのことを忘れたふりをして懐中電灯を片づけていたが、月夜が近づくたびに一度ずつ短パンの裾を無意味に引っ張っていた。
「鈴女。」
「何ですか?」
「ずっとそうしてると、余計に見ちゃうけど。」
「何をですか?!」
「ズボン。」
「じゃあ見ないでください!」
「さっきは知らないふりされるのは嫌だって言ったのに。」
鈴女が口を開くと、月夜は声を立てて笑った。
鈴女は耳まで赤くしながら、どうにか言った。
「……次からは、見たかったら言ってから見てください。」
言い終わった瞬間、鈴女が固まった。
月夜も一度、瞬きをした。
「言えば見ていいの?」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
大きな部屋のほうから、あかねおばあちゃんの笑い声が弾けた。
小麻里は額を押さえた。
「あんたたち二人、倉庫で何を覚えてきたの。」
「防災です。」
月夜が答えた。
「どこが。」
「危ない言葉は先に確認しないといけないって学びました。」
鈴女は両手で顔を覆った。
***
すべての点検が終わったのは、陽が傾き始めた頃だった。
公民館の前の影は長くなり、昼間は熱かった土道も次第に色を失っていた。
月夜が玄関で靴を履いていると、屋根のほうにあるスピーカーから短い雑音がした。
やがて、聞き慣れないメロディが村の上へ広がった。
夕方を知らせるチャイムだった。
大きな音ではないのに、不思議なくらい遠くまで届いた。田んぼのほうからも、低い家々のあいだからも、同じ音が薄く重なって返ってきた。
「これ、毎日鳴るの?」
鈴女が運動靴をつぶすように履きながら言った。
「だいたいこの時間に鳴りますよ。昔は外で遊んでる子たちに帰れって意味もあったし。」
公民館の前にいた年配のおじいさんが言った。
「あれは何回鳴っても大丈夫だ。」
月夜はそちらを見た。
「え?」
「村の放送のことだ。」
おじいさんは何でもないように帽子を直した。
「山で夜の鐘が三回鳴りさえしなけりゃな。」
鈴女の表情も止まった。
「それ、何ですか?」
「昔話だよ。」
おじいさんは笑い、それ以上説明せず自転車を押して行った。
月夜は小麻里を見た。
「知ってる話ですか?」
「村には昔話が多いから。」
それだけだった。
***
神社へ戻る途中、三人は遠回りして、つばさ湯の前を通った。
青い看板の下で、つばさおじいちゃんが水を撒いたあと、箒で入口の前を掃いていた。
「お疲れさん。公民館行ってきたのか。」
「はい。乾電池を一生分見てきました。」
「それくらいじゃ一生分には足りん。」
隣で鈴女が笑った。
月夜は迷ってから尋ねた。
「おじいちゃん。夜の鐘が三回鳴ったら駄目だって話、知ってますか?」
箒が地面を掃く音が止まった。
「誰から聞いた。」
「公民館で。」
「そうか。」
「本当にそういうのがあるんですか?」
つばさおじいちゃんは箒を壁に立てかけた。
「夜に鐘が三回鳴ったら、外へ出るな。」
鈴女の笑顔が固くなった。
「どうしてですか?」
「出なきゃいい。」
「それ、理由になってないじゃないですか。」
「昔の禁忌は、理由まで付けると長くなる。」
つばさおじいちゃんは椅子を中へ運び入れた。
月夜が一歩ついていきながら尋ねた。
「その鐘、誰が鳴らすんですか?」
今度は、すぐに答えが返ってこなかった。
つばさおじいちゃんは敷居の内側から、月夜を一度見た。
「だから外へ出るなってことだ。」
それきり、本当に何も言わなかった。
***
白雲神社へ戻ったときには、夕飯の匂いが先に漂ってきた。
結は味噌汁の鍋を見ていて、木乃葉は食卓の横から胡瓜の漬物を一つ取ろうとして、月夜と目が合った。
「手。」
「まだ食べてないよ。」
「食べようとしてたじゃないですか。」
「未来の罪まで罰しちゃ駄目でしょ。」
「指に胡瓜ついてますけど。」
木乃葉が自分の手を見ると、本当に小さな欠片がついていた。
「証拠が出るの早いね。」
鈴女はつばさ湯の前で二人と別れて家へ帰り、小麻里は点検表の写しを結に渡した。
食事が進んだころ、結が尋ねた。
「公民館はどうだった?」
「暑かったです。それから、乾電池がいっぱいありました。」
木乃葉が目を細めた。
「それだけ?」
月夜は一度、箸を止めた。
鈴女の太ももの話は胸の内にしまって、口を開いた。
「夜の鐘の話を聞きました。」
小麻里の箸の動きが一瞬遅れた。
木乃葉も胡瓜を取ろうとしていた手を止め、結は月夜を見た。
「誰から?」
「公民館で一回。つばさおじいちゃんからも。夜に鐘が三回鳴ったら、外に出るなって。」
食卓が静かになり、誰も笑わなかった。
木乃葉なら「四回目なら大丈夫みたいだね」くらいは言うと思っていた。
「本当なんですか?」
結はすぐには答えず、代わりに月夜の水のコップを手元に寄せた。
「夜に変な鐘の音が聞こえたら、まず中に入って。」
「もう神社の中にいたら?」
「外へ出ないで。」
「どうしてですか?」
「その日は、そうしたほうがいいから。」
月夜は小麻里を見たが、小麻里も黙ったまま、ご飯を口に運んだだけだった。
最後に木乃葉を見ると、木乃葉はごく小さく肩をすくめた。
「昔の禁忌は、長く説明すると味がなくなるんだよ。」
「つばさおじいちゃんと同じこと言いますね。」
「歳が近いから。」
「近くないじゃないですか。」
「私のほうが少し多いね。」
「少しじゃないですよね。」
結が小さく笑った。
それでようやく、食卓の空気が緩んだ。
木乃葉は何事もなかったように、また胡瓜の漬物を狙い、小麻里が箸で手の甲をこつんと叩いた。
「自分の食べて。」
「神様に厳しすぎるよ。」
「さっき盗み食いしたでしょ。」
「未来の罪だって。」
「指に証拠ついてたって言ってたじゃないですか。」
月夜が言うと、木乃葉は口を閉じた。
食卓はまた、いつも通りに戻っていった。
***
夜になると、神社は昼よりずっと静かになった。
月夜は自分の部屋へ戻る前に、玄関の前を通った。
低い棚には、茶色いグローブがそのまま置かれていた。木乃葉が触った跡もなかったが、月夜はわざわざ中を開いて見たりはしなかった。
名前が二つあることを知っているから。
外では虫の声が続き、遠くの森のほうから風が抜けていく音がした。
軒先の風鈴が一度鳴った。
澄んだ、軽い音だった。
月夜は何気なく耳を澄まして待ったが、次の音は聞こえなかった。
それから部屋へ入ろうとして、さっき聞いた言葉を思い出した。
夜に鐘が三回鳴ったら、外へ出るな。
月夜は閉じた玄関の向こうを一度見つめた。
風鈴はもう揺れていなかった。
月夜は戸口を一度確かめてから、自分の部屋へ戻った。
私! 休載したかったわけやなくて……その……言い訳になるようなことも何もないのです! 真面目に連載するっしゅ!




